2021/11/13

ジョークの暴力性について

 ツイッターのタイムラインで冗談の話題が出ていたので、久しぶりにブログを更新してみる。

 ご紹介するのは、2015年の1月に「日経ビジネスオンライン」(←当時)の連載コラムのために書いたテキストだ。
 さきほど検索してみたところ、あらまあびっくり、消えている。
 どうやら、あの媒体は、古い記事を削除する方針を貫いている。悲しい。
 あんまり悲しいので、ブロクにテキストをアップすることにした。
 細かい部分は、掲載当時の記述と食い違っているかもしれない。でもまあ、私が編集部に送った原稿はこのバージョンだった。

 どういうタイトルがついていたのか、記憶が曖昧なのだが、以下、仮のタイトルを付してご紹介する。乞ご笑覧。

 オダジマは、6年半も前から「笑い」を過剰に高く評価する風潮に敵意を抱いていたののだね。それも、真顔で。
 というわけで、いつも真顔でいることの大切さをニコリともせずに真顔で訴えたマジメな原稿です。

 

 ユーモアは暴力である

 あけましておめでとうございます。
 新年第一回目の更新分は、インフルエンザのためお休みしました。
 無理のきかない年齢になってまいりました。いろいろなことがあります。
 待ち焦がれた読者を想定して休載を詫びてみせるのも、かえって傲慢な感じがいたしますので、なんとなくぬるーっとはじめることにしましょう。

 フランスでこの7日と9日に連続して起きたテロ事件は、17人の死者を出す惨事になった。
 一週間を経てあらためて振り返ってみると、この事件が、これまでにない多様な問題を投げかける出来事だったことがわかる。
 表現の自由と宗教の尊厳の問題、宗教への冒涜とヘイトスピーチの関係、テロ警備と市民生活、多文化主義と移民の問題など、数え上げれば切りがない。
 どれもこれも簡単に結論の出せる問題ではない。
 それ以前に、半端な知識や安易な観察で踏み込んで良い話題ではないのだろう。
 なので、事件の核心部分については意気地無く黙ることにする。
 
 ここでは、「ユーモア」の話をする。
 あえてユーモアを主題に持ってきたのは、14日の朝日新聞に載った
《「犯人はユーモア失っていた」 仏紙風刺漫画家が会見》
http://digital.asahi.com/articles/ASH1G01DPH1FUHBI03J.html?iref=com_rnavi_srank 

 という記事に、考えさせられたからだ。
 会見の中で、風刺漫画家のラウド・ルジエさん(43)は、ユーモアについて以下のように語っている。
《最後に、報道陣から「この絵を描いたことで心配はないか」と質問が出ると、「ユーモアの知性を信じている。犯人はユーモアを失っていただけだ」と言い切った。》

 正直な話をすると、私は、ルジエ氏が何を言いたいのか、何を言っているのか、まったく了解することができないでいる。
 犯人がシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった点については、ルジエ氏が指摘している通りなのだと思う。
 でも、だとしても、ユーモアについての理解の有無とテロリズムは別の次元の話だ。
 新聞の出版にたずさっている人間であれば、どうしてこの程度のことがわからないのだろうか。

 私自身の話をすれば、検索してたどりついたシャルリ・エブドの風刺マンガからは、ほとんどまったくユーモアのエッセンスを感じ取ることができなかった。
 フランス語が読めるわけではないので、文字に関しては英訳してあるサイトのものを捜したり、ウェブ上の辞書の世話になったりした。
 で、かなりの数のネタをサルベージした次第なのだが、どれもこれも、ひとつとして笑えない。いや、大げさに言っているのではない。「charlie hebdo」で画像検索をしてみれば、一目瞭然だ。これで笑う日本人が果たして何人いるのだろうか。
 私は、単に不快だった。
 つまり、ユーモアの理解度からすれば、私は、テロの犯人とそんなに違わなかったわけだ。

 とはいえ、もちろん、ポンチ絵を見てムカついたからといって、私は編集部にカチコミをかけたりしない。
 世界中のほとんどすべての新聞読者と同じく、笑えないネタに対しては黙殺を決め込む。それだけの話だ。
 
 ユーモアは、伝わりにくいものだ。
 仮に出来の良いユーモアってなものがあったのだとして、笑ってくれるのは読者のうちの2割に過ぎない。半数の人間は無反応だろうし、残りの3割は気分を害している。笑いというのはおおよそそうしたものだ。とすれば、ユーモアを発信している側の人間が、受け手の無理解を責める態度は、傲慢以外のナニモノでもない。
 客が笑わないのは客の側の責任ではない。笑わせることができなかった制作側の人間(芸人ないしは文筆家)の責任だ。

 犯人は、なるほどシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった。
 だが、問題はそこではない。
 唯一の問題は、犯人が暴力に訴えたことだ。
 マシンガンを乱射して、編集部の人間を殺害し、警察官を殺害したことだ。
 どんな理由があろうとも、殺人は、100パーセント、いかなる方向からも擁護できない。
 彼らが敬虔なムスリムで、シャルリ・エブドの涜神的なポンチ絵に怒りを感じていたのだとしても、そんなことは犯行を免罪する理由にはならない。

 とはいえ、犯罪とは別に、犯人がユーモアを解さなかった(「ユーモアを失っていた」と、ルジエ氏は言ったが)ことそのものは、特段に責められるべきことがらではない。
 彼らがユーモアを解さなかったことと、テロにうったえたことはまったく別の問題だ。
 ユーモアのわかる人間ならテロリストにならないわけではないし、犯人がユーモアを理解していれば、テロに訴えなかったはずだみたいな甘ったるいお話でもない。

 ルジエ氏の言い方だと、犯人は、ユーモアの知性を理解しない人間であるがゆえに、犯行に及んだように聞こえてしまう。
 そうでなくても、彼のものの言い方は、ユーモアを解さない人間をテロリストと同じ集合に分類してしまっている。

 とすると、私も犯人と同じ側の人間だってなことになってしまう。
 違うぞ。
 私は、シャルリ風の高飛車なユーモアを解さないという意味では、犯人と同じだ。しかしながら、私は非暴力を貫いている点で、自らの主義主張を暴力という手段で実現しようとした犯人とは正反対の人間だ。
 一緒にされては困る。
 ユーモアみたいな粗雑なもので私を分類しないでほしい。

 ルジエ氏の立場に立って考えてみれば、彼のあの日の会見での発言は、普段の彼の言葉とは違う、感情的な反応だったのだろう。
 当日、彼は、自分の同僚を何人も殺された直後の状態で会見に臨んでいた。
 感情的にならない方がむしろ不自然だったと言っても良い。
 ルジエ氏は、自分自身もまかり間違えば殺されたかもしれない立場だった。
 そう思えば、犯人を貶めたかった気持ちは十分に理解できる。

 興味深いのは、ルジエ氏が犯人を「ユーモアを失っていた」という言い方で非難しようとしたことだ。
 非難の言葉にはその人間の信念が露呈する。
 ルジエ氏は、おそらくユーモアを持たない人間を、人として低級な人間であると考えている。
 だからこそ、テロリストに対してその言葉をぶつけた。
 ということは、彼自身は、ユーモアを使いこなし、ユーモアを理解し、ユーモアを通じて他人と交流できるつもりでいる。
 それで、漫画家という職業を選んだのろう。
 悲しいのは、そこまでユーモアに高い価値を置いているルジエ氏のユーモアが、私にほとんど伝わってこないことだ。
 ユーモアは、むずかしいものだ。
 住んでいる国や使っている言葉が違えば、それだけで、ユーモアのかなりの部分は無効化してしまう。あるタイプのネタは、聴いている音楽が違うだけでまったく理解されなくなる。
 
「犯人はユーモアを失っていた」と言った時、ルジエ氏は、暴力とユーモアを正反対の概念だと思ってそう言ったのだろう。
 しかし、私は、「暴力」と「ユーモア」は、正反対どころか、兄弟に近いものだと思っている。
 暴力とユーモアは、コインの裏表みたいに、お互いを補完しあっている。同じ現象の別の側面と言っても良い。
 実際、ユーモアの名において発動されているいじめは山ほど存在しているし、セクハラやパワハラも、多くの場合、ユーモアの仮面をかぶっている。
 ユーモアは、いやがらせにも、あてこすりにも、皮肉にも、揶揄にも使われる。
 どれもこれも言葉を介した暴力の一変形であり、もっと悪い場合、集団から個人に向けたリンチに適用される。

 ルジエ氏が犯人たちを「ユーモアを失った人間」と定義したのは、世界を「ユーモアを解する高級な人間」と「ユーモアを解さない低級な人間」に分けて考えたかったからなのだろう。
 しかしながら、世界はそういうふうにはできていない。
 われわれは、自分と異質な人間を見ると、その人間をユーモアを解さない人間であるというふうに決めつけたくなる。
 たしかに、異質な人間同士の間では、ユーモアは通い合わない。
 だが、たとえば、異教徒と接すると時には能面みたいに無表情で対峙するカルト教団の信者だって、同じ教団の信徒同士で会話を交わす時には、ずっと柔らかい表情を浮かべている。時には冗談だって言う。
 はっきりしているのはユーモアを解さない人間とユーモアを解する人間がいるのではなくて、ユーモアが通い合わない関係と、ユーモアを理解し合える人間関係があるということだ。要するに、ユーモアの有効さは、能力やセンスよりも、単にそれを発する人間と受け止める人間の間にある関係性に依存しているのだ。

 もちろんテロリストもジョークを言う。人殺しだって笑うし、半グレのチンピラ連中はほとんど一日中笑っている。
 結局のところ、われわれがいけ好かない人間たちを「ジョークを解さない」人々として分類したがっているだけで、実際には、誰であれ、気の合う者同士の間では、ユーモアを交わし合っているのである。
 もちろん、他人に伝わらないユーモアもある。
 卑劣なユーモアもあるし、唾棄すべきユーモアだって珍しくない。
 たとえば、酒鬼薔薇聖斗のあれだって、当人としてはユーモアのつもりだったのかもしれない。
 してみると、ユーモアだから高級だとか、ユーモアだから知的だと考えるのは早計である以上に愚かな態度であると申し上げなければならない。
 多くのユーモアは低級だし、多数派の間でやりとりされているユーモアは、常に短絡的で暴力的でなおかつ動物敵なものなのだ。
 つまり、ユーモアの大半はクズだということだ。
 だからこそ、せめて、数をこなさないといけない。
 おたがいにがんばろうではありませんか。

 

 以上です。おそまつさまでした。またいずれおお会いしましょう。

 

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2013/09/15

朝モヤッ!

みのもんた司会者の去就が話題になっている折も折ですので、2007年の8月に「Yomiuriウィークリー誌」のために書いたコラムを再録します。

 テレビの中の人々にとって、夏休みはひとつの危機だ。裏方にとっては貴重な休息でも、看板を張っているキャスターやタレントにしてみれば、たった一週間でも画面から消えることは、巨大な忘却リスクを伴う空白だからだ。
 「あの人は今……」的な企画に登場するかつての有名人が、必ずやしなびて見えるのは、単なる老化による作用ではない。むしろ、わたくしども視聴者の側がそのタレントに対して抱いていた幻想が消滅したことによる影響の方が大きい。
 出ずっぱりでテレビに出演しているタレントは、実物以上の存在感を獲得する。視聴者の側から言うと、毎日見ている顔には、依存性が生じる。「オーラ」というのはそういうことだ。逆に、ほんの二年でも画面から消えたタレントは、オーラを喪失する。と、実際には二年分しかトシをとっていないのに、印象としては五年分ぐらい老け込んだことになってしまう。おそろしことだ。
 で、たとえば、みのが夏休みをとっていた間の「朝ズバッ!」は、まったくもってズバズバしていなかった。
 朝っぱらからどうにも微温的だった。
 仕方がないよね。だって代役として画面のはじっこに立っているのが、誠実一本槍の、芸もケレンもなんにもありゃしない、好人物を絵に描いたような柴田秀一アナだったんだから。そう、みのが彼を代役に選んだ(のだと思うよ)のは、柴田アナが、休んでいる間に職場を奪いそうにない、最も安全なアナウンサーに見えたからなのだと思う。
 でも、みのよ。キミは勘違いをしているぞ。確かに、私とて、最初は、「柴ズバッ!」のヌルさに唖然とした。おい、この地方局な雰囲気はなんだ? と。
 しかし、二日目、三日目と目が慣れるにつれて、私はみののいない朝ズバッが、なんとも気持ちの良い番組であることに気づかされていったのだよ。そう。番組は、ビールのCMとは違う。印象が鮮烈ならそれで良いというものでもないのだ。
 ズバズバ斬り込んだり、ゴリゴリ押しまくったり、バシバシ決めつけたりするような、そういうった濁点だらけの手法が目を引くのは確かだが、毎日見ている視聴者にとってはキツい。田原総一朗が政治家を叱りつけてるみたいなタイプの番組も、だ。やかましいし、うさんくさいし、なにより品がないから。
 とすれば、もやもや考えこんだり、もたもた逡巡したり、もごもご口ごもったりするタイプの、スローライフな情報番組があっても良いわけで、特に起き抜けから出勤前の時間帯に流しておく背景画像として、より微温的な番組にチャンネルを合わせる視聴者だって、決して少数ではないはずなのだ。
 というわけで、「柴田秀一の朝モヤッ!」はどうだろう? キャスターが局アナなら予算もかからないし、最初の一ヶ月を乗り切れば、きっとイケるぞ。
 実際、みのが居ない間の一週間、「朝ズバッ!」は、大健闘だった。Qシートは万事遺漏なく進行していたし、なにより、出演者スタッフ一同がリラックスして、スタジオの空気が和んでいた。柴田アナの人徳、あるいは、みのの逆人徳がもたらした好循環だと思う。少なくとも私は朝っぱらからピリピリした人たちの顔なんか見たくない。
 でも、実現不可能なんだよな。どうせ。だって、このテの帯番組というのは、業界にとっての公共事業みたいなもので、各方面に予算をバラまくことが最も大切な機能だったりするから。そう。田舎の空港と駅を結ぶ高速道路とおんなじ。よって「朝ズバッ!」は、今後も、廃止リスクのデカさで持ちこたえる……って、社保庁かよ。
 
ちなみに、告白しておきますと、柴田秀一アナは個人的な知り合いでして、なんというのか、はるか二十数年前、同じバンドで楽器をいじっていた古い仲間です。
とはいえ、こういうテキストを公開することで「朝モヤッ!」のコメンテーターにおさまろうとしているわけではありません。
っていうか、まっぴらごめんです。
 

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2013/04/04

鼻歌

ツイッターで話題が出たのでAsahiパソコン2007年(たぶん)エイプリルフール号のための嘘ニュース原稿をアップします。以前、一度アップしていますが、不完全なカタチだったので。

 JARASC、鼻歌に課金へ

 JARASC(遮断法人日本音楽著作犬協会)は、このほど管理部総会を開き、平成20年度をめどに鼻歌への全面課金を実施する決議を採択した。これにともなって、同協会では、具体的な課金方法、金額、徴収方法等について研究をすすめるべく、鼻歌対策作業部会を設置するとともに、より幅広い訴訟作戦の検討にはいった。
 JARASC広報部によると、鼻歌は一般に広く脳内再生されており、時には、不特定多数の聴衆に聴かせるメロディーとして演奏されている伝統的な歌唱形態だが、問題は、それが、長期間にわたって無料で再生、演奏、想起されてきた経緯であり、その利用形態の「気楽さ」にあるという。
 もっとも、鼻歌が、独立した作品として再生、利用されることは稀で、もっぱら、「楽しげな雰囲気」や「気楽なムード」を演出するためのツールとして利用される場合が多い。
 現在、論議を呼んでいるのは、「鼻歌まじりにおいでませ」をキャッチフレーズに、全国展開している「お気楽寿司」(本社京都市)の例だ。
 JARASC広報によれば、お気楽寿司では、鼻歌が「無断かつ大々的に」利用されており、しかも、板前たちによる鼻歌まじりの包丁さばきが、ひとつの営業の目玉になっている。
 そこで、JARASCでは、先月、同寿司チェーンに対して、管理著作物を繰り返し無断利用した件などで、鼻歌利用の差し止めと総額62万円余の損害賠償支払いを請求する訴訟を起こしている。
 
 なお、JARASCによれば、私的な鼻歌については「当該の著作権物が営利的に利用されていない限りにおいて」(同法務部)、これまで通り、無償で提供されるという。また、鼻歌の歌詞に関しては、発語が不明瞭である場合が多いため、当面、課金を見送る方針だという。
※鼻歌を守る市民の会代表六本木ひろし氏の話:「鼻歌は極めて個人的な歌だが、歌である以上『他人に聴かせないために』歌うものではない。JARASCはメロディーに名前が書いてあるというつもりなのだろうか」


楽しい雑誌だったんだけどなあ(遠い目)
 

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インパク始末

 「クールジャパン推進会議」の動きがなんとも気持ち悪いので、古い原稿をハードディスクの古層から召喚してくることにしました。2000年3月に今は亡き「噂の真相」誌のために書いた原稿(連載コーナー名は「無資本主義商品論」でした)です。
 「クールジャパン」をめぐる人脈と利権の不明朗さは、このコラムの中で取り上げた「インパク」の周辺にうごめいていた様々な利権のありようと、なんだかとてもよく似ている気がします。

 インパク:価格不明

 最初にクイズをひとつ。
 「インパク」とは何でしょう?
①一九七二年公開の東宝映画「淫乱パクパク芸者」の通称
②医療関係者の間で使われている符牒で、徹夜勤務を意味する「院内宿泊」の略
③淫行条例違反でパクられること
④二〇〇一年に政府が開催する「インターネット博覧会:楽網楽座」の略称
⑤経済用語。インフレーション下における消費者の舶来品崇拝傾向
⑥インターフェロンがらみの先物取引詐欺
⑦テレビ業界用語で仲間内でのネタパクリ。
 正解は4。いや、確かに正解としてはあまりにダサ過ぎるけど、事実は事実だから。
「政府がインターネット博覧会っていうのをやるらしいですよ」
 と、3月の半ばに業界の知り合いからこの話を聞かされた時、私は冗談だと思った。
「いや、それが冗談でもないんで、告知のためのページもできてるんですよ」
 というそのホームページを見てみても、まだ信じられなかった。
 だってあんまりひどいデキだったからね。
①ホームページのトップは、一画面まるまる堺屋太一とオブチさんの写真だけ
②堺屋大臣は「インパク」という四文字がデカデカと表示されたノートパソコンを持ってニコニコ顔で立っている
③隣のオブチさんは、そのノートパソコンの文字を指差してニコニコ(←「平成です」の自己パロディーだろうか?)
④で、この国辱的トップページの下には、アイディア募集の告知とアイディア例(←あんまりショボくて写す気にもなれない)が列挙してあってそれでおしまい。質のショボさもさることながら、量的にも文字数にして原稿用紙三枚程度に過ぎない。
 って、おい、こんなものを本気にできるか? 仮にも政府の名において発表され、国民の血税を使って作られたページ(それもインターネットのアイディアを募集するページだよ)がこんな程度のものだなんてことを鵜呑みにすることができますか?
 でも、本気だったのである。
 数日後にそのホームページ(http://www.inpaku.go.jp)を覗いてみると、おっと内容が増えて(といっても、文字数にして原稿用紙十枚程度)いるではないか。
 そう、彼らは、本気なのだ。今後、この腐ったホームページをずるずるとふくらませて、そういうことで博覧会をひとつデッチ上げるつもりでいるのだ。
 推進するのは総理府の内閣総理大臣官房および新千年紀記念行事担当大臣堺屋太一。なるほど、ついにイベント屋の本性を出してきたわけだ。で、「新千年紀記念行事推進懇話会」のメンバーを見ると、案の定過ぎて笑えてくるのだが、電通、NTT、日テレ、京セラ、ソフトバンクといった情報関連産業の社長さんたちに、文化人(浅利慶太、俵万智、三枝成彰)の先生方だ。
 まあ、名古屋万博(これも堺屋太一がらみ)と違って、土建屋が関係してないことだけが救いといえば救いということになるのだろうが、考えてみれば、土建屋が儲からないのだとすると、このテのイベントがもたらす百害に対する一利である経済波及効果すら期待できないわけだ。
 だって、どうせ政府のサーバに屁みたいなホームページを作って、それを「パビリオン」とか呼ぶだけの話なんだし。
 それとも、こんなセコいイベントから何か利権が発生する余地があるんだろうか?
 イノセさん、取材してみませんか?
 というわけで、冒頭のクイズの正解は
⑧インパクトを欠いたアイディア
 に訂正ね。
以上です。ではまた。

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2011/11/06

MHK....

 ツイッターのタイムラインで松本人志のコント番組(「MHK」@NHK総合10月5日11時30分)が話題になっている。
 で、一言感想を述べておこうと思ったのだが、長くなりそうなので、ツイッターでなくブログに書くことにして、それで、久しぶりにここに来ている。
 ところが、念のためにGoogleのデスクトップ検索で過去の原稿をあたってみたところ、書こうと思っていたことはおおむね書いてある。
 なので、その過去記事を再録して今回の感想に代える。
 私の見解は、基本的に変わっていない。
 MHKは、最近の松本の仕事としては、かなりマシな方だとは思う。でもやっぱり面白くない。20年前の、奇跡みたいに面白かった頃と比べることはできない。

●映画『大日本人』および松本人志の魔法について

 6月第一週のテレビは、「松本ウィーク」だった。ふだん、自分の番組以外には顔を出さないダウンタウンの松本人志が、「さんまのまんま」や「笑っていいとも」をはじめとする、各局の番組に軒並みゲスト出演を果たしたのだ。
 映画「大日本人」のプロモーションなのだろうと思うが、逆効果だったのではなかろうかと心配している。だって、スベってたし。それに、この度の大量露出を通じて、松本の必死さが視聴者に伝わったことは、必ずしもプラスにならないと思う。というのも、松本の芸風は、良い意味でも悪い意味でも「傲慢さ」の上に成立しているテのもので、その意味で、プロモがらみのテレビ出演みたいな「腰の低い」「余裕の無い」「ものほしげな」芸能活動には、決して従事しないことが彼の生命線であったはずだからだ。実際、松本は、デビュー当時から「わからんヤツは笑わんでもエエで」といった感じの、媚びない笑いを提示してきた芸人だった。で、その、視聴者のみならず、局にも、共演者にも、先輩芸人にも絶対に迎合しない、ある種やぶれかぶれな姿勢が、一部ファンの熱狂的な支持の理由になっていた。
 その松本が、先輩芸人の冠番組にゲスト出演し、真っ昼間のプロモ丸出しのトークコーナーに顔を出し、プライムタイムの番組でロングインタビューに応じている……無残なものを見た気持ちになったのは私だけではあるまい。
 松本人志は、ゲストのトークをオウム返しにするだけで笑いの取れる、稀有な芸人だった。「それは、どういうことですか?」みたいな凡庸なセリフでも、松本が言うと、なぜか、笑わずにおれない、不思議な空気が生まれるからだ。
 なぜ、そんな奇跡が可能だったのかというと、その昔、ダウンタウンがやっていたシュールな笑いが、われわれのアタマの中に根を張っていたからで、つまり何というのか、「速球」がアタマにあるから何の変哲もないチェンジアップで空振りが取れるみたいな、そういう構造が画面を支配していたわけなのだ。
 しかしながら、そのチェンジアップが、実は渾身の力をこめて投げられたタマであることが打者にわかってしまったら、その時点で魔法は解ける。と、松本の一拍ハズしたボケは、ただの、工夫の無いゆるいタマに化けてしまう。
 これまで、当欄で、「お笑いブームはもう終わりだ」ということを、何度か述べた気がするのだが、今度こそ確信した。お笑いブームは、完全に終わりへの道を歩みはじめている。芸人の冠番組が数字を獲れなくなってきている理由について、お笑いの地位が不当に高くなり過ぎたことに対する、調整局面としての下げだというふうに分析していたのだが、どうやら、本当の恐慌がはじまっている。この先少なくとも10年ほど、お笑いの世界には氷河期がやってくるだろう。合掌。
 その昔、私が子供だった頃、町には「国民歌謡」が流れていた。小学生からジジババに至るまでのあらゆる世代の日本人が同じ種類の音楽を聴き、全員が美空ひばりを口ずさんでいた。それが、いつしか、若者向けのポップスと、オヤジ仕様の演歌の間には、超えられない溝が刻まれるようになり、昨今では、同世代の人間であっても、育ち方次第で全く違う音楽を聴くようになっている。
 同じことが、お笑いでも起こる。欽ちゃんやドリフみたいな国民的なお笑いが成立しないことは当然として、いまや、中学生と高校生の間でさえ、笑いのツボが違ってきている。もちろん、オヤジのツボもまったく別なところにある。
 互いに共通点の無い、無数の小日本人。
 さびしいなあ。
(2006年6月「読売ウィークリー」誌掲載)

 

●「松本見聞録」(TBS)の漂流について

 書評を書く場合、私は、基本的には好きな本しか取り上げない。本についての好き嫌いは、しょせん偏見だと思っているからだ。であれば、わざわざ誌面に引っ張り出しておいて、欠点をあげつらったりするのは、著者に対して失礼だ。読者に向けた情報としても、ダメな本を腐すよりは、おすすめの本を紹介する記事の方が有用だと思う。その意味では、本欄も「こういう面白い番組があったよ」ぐらいでやっていければそれが一番良いのであろう。でも、そうはならない。毎週文句ばかり。読み返してみると自分の口の悪さにちょっとびっくりする。
 ま、それだけダメな番組が多いわけだ。別の言い方をするなら、毎月何万点という新刊が出版される書籍の世界では、クズの山の中から宝物を探し出す仕事である書評という試みが成立するのに対して、相手がテレビだと、それができないということだ。テレビには、選択の余地が無い(NHK+民放5局だけ)。だから、誰もが見ているクズについて、私は今日も苦情を述べねばならない。つらい稼業だ。
 松本人志には、デビューから5年ぐらいの間に一生分笑わせて貰ったと思っている。だから、多少つまらなくても、責める気になれない。むしろ、必死になって細かい笑いを拾いに行かないところがこの人の持ち味なのだと、つまらなさを評価する気持ちさえ抱いている。
 でも、それでも「松本見聞録」(TBS系火曜深夜11時55分)はあんまりひどい。
 松本が町(初回は中野界隈と恵比寿周辺だった)を歩いて町の中にある「変なモノ」にツッコミを入れる企画……と、ここまで書くと「おお、面白くなりそうじゃないか」と思う読者もいると思う。私もそう思った。が、結果は悲惨だった。松本自身が歩くパートが少ない(せいぜい全体の3分の1)こともさることながら、何よりネタ選びと編集が死んでいる。うん。TBSの限界。芸人殺し。松本は早めに逃げてほしい。でないと命取りになる。
 そもそも「町の変なモノ」企画は、伝説の面白本「トマソン」や、奇跡のカルト雑誌「宝島」の看板コーナー「VOW」の時代から脈々と続く王道のニッチ企画(←というのも変な言い方だが)だ。
 テレビの世界にも類似企画は山ほどある。いや、パクリはパクリで良いのだ。類似ネタもパクリ進行もそれはそれで、それぞれに面白かったから。このテの番組は、ネタが新鮮でツッコミ役にセンスがあれば必ず面白くなる。みうらじゅんがMEGMIとやっていた町歩きのコーナーも秀逸だったし、タモリ倶楽部でたまにやる探訪企画も毎回楽しい。OKだ。
 が、「松本見聞録」は、唖然とするほどつまらない。これだったら「ちい散歩」の方が数倍面白い。ちなみにここで言っている「ちい散歩」の「面白さ」は、必ずしも「笑える」という意味ではない。情報として有用で、画面として心温まるということ。というのも、地井武男ならびにスタッフの視線が、町や人々や店や路地に対して優しいからだ。
 ひるがえって「松本見聞録」のカメラは町をあざ笑っている。人々の生活のつましさや、開発から取り残された街路の狭隘さや、お年寄りが一人で店番をやっている商店の寂れたたたずまいを、「松本見聞録」のカメラは見世物のネタにしている。しかも半笑いの上から目線で。
 このテの脱力系のお笑いは、脱力系であるからこそ真剣に作られねばならない。「えーかげん」な企画だからこそ、必死で選別しないとネタが死んでしまうのだ。作っている側が、テキトーに、片手間で内輪受けのお追従笑いで作っている限り、決して面白くならない。
 松本よ。旅は終わりだ。テントを畳め。黄金の国なんて幻だぞ。
(2008年4月「読売ウィークリー」誌掲載)

 以上引用終わり。

 今回の番組で評価できる点があるのだとしたら、この10年以上、松本の番組に付き物だった「スタッフのお追従笑い」がカットされていたところだろう。おかげで、笑えなかった視聴者も多いとは思うが。

 とはいえ、メイキングの映像(BSでやってました)では、番組の打ち合わせが仲間内のお追従笑いの渦の中で進行している様子がみごとに描写されていた。なんだか悲しくなった。
 NHKはもしかして、松本が裸の王様になっている事態をドキュメンタリーとして伝えようとしているんだろうか。
 

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2011/09/19

パパ・ホーボー

渋谷のセンター街が「バスケットボール・ストリート」(通称:バスケ通り)に改名するというお話が出たので、記念にお気に入りの歌を翻訳して紹介します。

ポール・サイモンの「パパ・ホーボー」という歌です。1972年発売の「ポール・サイモン」というアルバムの中に収録されています。

ホーボーというのは、「放浪者」「路上生活者」を意味する言葉で、古いフォークソングでは、わりと一般的な主題です。
怒りのぶどう、ケルアックの「路上」、ウディ・ガスリーや、ミスター・ボージャングルズ、アメリカの60~70年代の人たちはホーボーが大好きでした。まあベトナム戦争がおこなわれていた時代には、それだけ閉塞感があったということなのかもしれません。

この歌を取り上げる理由は、歌詞の中に「バスケットボール・タウン」という言葉が出てくるからです。

地味な佳曲です。
ほかにも、「ウェザーマン」「ゲータレード」「ゲッタウェイ」など、懐かしい単語が並んでいます。

  • ウェザーマン:70年代のアメリカで活躍した極左テロ組織
  • ゲータレードは、フロリダ大学のフットボールチーム、ゲイターズ(ゲイター:アリゲーター=ワニのこと)の協力のもとに開発された世界初のスポーツ飲料。直訳は「ワニの果汁」。
  • ゲッタウェイ:1972年公開のアクション映画:主演はスティーブ・マックイーンとアリ・マッグロー


「パパ・ホーボー」

それは一酸化炭素
懐かしのデトロイト香水
朝のうちからハイウェイを漂い
正午までには君を打ち倒してしまう
おお パパ・ホーボー

見ての通り、ぼくはスクールボーイみたいな姿をしているけれど
心は道化師だぜ
わかるだろ?
それが、このバスケットボール・タウンで身に付けた
自然なリアクションってやつなんだ

一枚残らず
すっからかんになるまで、虎の子のチップをまきあげられて
ワニの果汁で命をつなぎながら
個人的な脱走劇を計画する
デトロイトデトロイト
ホッケーチームにかけられた呪い
オートモビルの夢にサインさせるいかがわしい手口
おお、パパ、パパ・ホーボー
ぼくをどこかに連れていってくれ
朝食後には路上に立っている
ウェザーマンがウソをついたから

英語の歌詞も載せたいところなのですが、ゲシュタポ…いや、シャイロック、じゃなかったジャスラックがすっ飛んでくると面倒なので、リンクを紹介するだけにしておきます。

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2011/08/01

Twitterはじめました。

ツイッターをはじめました。
アカウントは tako_ashi  です。
今日はそれだけを言いにきました。
ブログの再開はどうなるかわかりません。
久しぶりにコメント欄をざっと確認してみてうんざりしました。
再開することがあるにしても、コメント欄は閉じることになる気がします。
コメントは、ツイッターのアカウント宛に送っていただくのがいいのかもしれませんね。

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2010/11/12

帰還

 一昨年の10月に物故したイギー氏の剥製が帰宅したので、報告がてら更新をば。

 制作は文京区にある剥製屋さん。
 先方が、猛烈に忙しくて完成が遅れた。
 なんでも、上野の国立科学博物館で開催された「大哺乳類展」などのイベントにかかわっていたとのこと。
「お待たせしてすみまん」
 ということで、チケットをたくさん貰ったりした。

 完成の旨、連絡がはいったのは、今年の6月。
 ところが今度はこっちが忙しくて(というよりも、催促がないと動き出せない性質なので)、引取りに行かぬまま約半年が経過。
 で、昨日、せめて誕生日(←今日だよ)の前にということで、身請けに赴いた次第。

Iggy1111

 あらためて見ると、実に立派。感動的にデカい。っていうか、見るたびに驚く。しばらく会っていなかったので。
 現在は、暫定的に玄関の下駄箱の上に単純に置いている。
 より素敵な展示方法を考えねばならないだろう。
  
 さて。
 色々とお待たせしている関係もあって、更新をためらう気持ちはあるのだが、
「もしかして、この二年ほどの不活発状態は、ブログを投げ出していたことに由来するのではなかろうか」
 と考えてみることにした。
 オダジマが自縄自縛に陥っているところのものを待っていらっしゃる皆さんには、
「ブログも動き出したことだし、いよいよ……」
 というふうに受け止めていただけるとありがたい。

 ブログの更新をやめていたから無気力になっていたのではない。無気力の結果がブログ放棄になっていたのだ、と、理詰めで考える人は、そう言うはずだ。
 
 でも、ものは考えようだ。
 それに、私は理詰めで動く人間ではない。
 地道に更新していれば、あるいは天からやる気が降ってくるかもしれない、と、そう考えてみることにしよう。
 大丈夫。自己暗示は得意分野だ。

 ということで、今日のところはここまで。
 力まないのが長続きのコツだよ。
 って、オレが言うことじゃないなw

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2009/07/05

お知らせ

ごぶさたです。

トラックバックを閉鎖しました。

ほとんどまったく業者のエロ&宣伝トラバしか来ないことが判明いたしましたので。

これまでは、公開を保留するかたちでトラックバックを受け付けていたのですが、公開するかどうか判断するのも面倒くさいぐらい、とんでもない量の宣伝トラバが来ています。

ばかばかしいので、トラックバック自体、受け付けないことにしました。

ブログは、そろそろ再開しようと思っています。

ミシマ社の連載も。ははは。

ではまた。近いうちに。

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2009/03/24

落語会の手帖

 談笑師匠が律儀にもコメント欄に顔を出してくださったので、私も、感想を述べておくことにします。律儀者のコダクローム。

 午後7時より、西新宿にて落語観賞。
 先日、平川さんからチケットをいただき、「今回はぜひ」と、強力に薦められておりましたので。
 ええ、プレッシャーを感じました。
 これまで、3回ほどチケットをいただきながら、いずれも落語会の当日までに期日を失念していて、貴重な切符を結局無駄にしてましたから。なんという罰当たり。不義理。KY。

 で、午後五時半に、自転車で赤羽を出発。
 徐々に暗くなる山手通りをひたすら西に向かって走る。
 途中、突然の空腹。
 東中野近辺のコンビニにて牛乳とサンドウィッチを購入。
 で、駐車場の車輪止めに座っていま買ったばかりのサンドウィッチをかじる。暗がりで。黙って。たった一人で。BGMも無しに。
 異様な姿ですね。
 オレが駐車場の地主だったら通報してますね。

 開演15分前に西新宿のホールに到着。
 と、おお、入り口の前で、平川さんが談笑師匠と談笑している。
 軽く会釈をすると、師匠を紹介してくださる。
 年甲斐もなく緊張して「どうもどうもどうもどうも」と意味のわからない挨拶をして、そそくさと会場に逃げ込む。Why am I so shy? というフレーズがルー先生の歌にありました。

 演目は、立川談笑「天災」
 聞いたことのある噺だった。
 立川談志のMP3ファイルを持っているので。入手経路は内緒だが。
 基本的な話の流れは談志師匠がやっていたのと同じ。でもディテールは違う。
 八五郎の性格描写は同じ。
 でも、ディテールはやっぱり違う。その違いが興味深い。同じハナシでも、語り手の声質や演出の如何で、印象がまるで違って聞こえる。面白い。

 八五郎が道学者の話を崩して語る時の崩しっぷりも独特。ほとんど原型をとどめないぐちゃぐちゃな崩しようが見事。
 とても面白かった。

 この後、米粒写経という早稲田の落研出身だという漫才の人たちが、30分ほどネタをやる。
 これも面白かった。
 しゃべりのテンポが良くて、私は好きだ。
 関西の匂いがしないのも良い。
 でも、内容がハイブローなので、テレビには乗りにくいかもしれない。
 まあ、無理矢理に乗ることもないわけだが。

 再度談笑師匠が登場。
 途中で、
「あれ、これって、もしかして芝浜か?」
 と、気付く。
 3ヶ月(あるいは半年ぐらいたっているかもしれない)ほど前、NHKのBSで立川談志特集をやった時に、このハナシがクローズアップされていたのを覚えていたから。
 でも、設定はまるで違う。
 談志バージョンでは、江戸時代の大工だった男が、談笑版では、現代のトラック運転手になっている。
 無理筋といえば無理筋。
 でも、強引にハナシにしてしまう。見事。
 で、時代とキャラをいじった以上、当然、設定はなにからなにまで総取っ替えになる。
 酒浸り→シャブ中
 小判→ジュラルミンケース入りの現金
 で、主人公は暴走族の特攻隊長あがりということになっていて、女房も元をたどればレディースの総長。
 ちからづくのちからわざ。見事。
 さらに、これは談志バージョンにはなかったサブストーリーだと思うのだが、女房が援交で稼いだカネでシャブを買うみたいな展開もあったりする。
 シャブを打つ場面の描写(血管を叩いて浮き出させるあたりの演技があまりにもリアル)や、途中のアドリブなど、到底テレビにはかけられないだろう。
 その他、宗教や企業や民族ネタのアドリブもほぼ全面的にカットでありましょう。
 とにかく面白かった。
 落語は基本的には大好き(なにしろ生まれて初めて買ったレコードが「笑点音頭」で、憧れのスターが王でも長嶋でもなく、立川談志である、そういう小学生だったわけですから)なのだが、寄席に行こうというふうに思ったことはこれまで一度もなかった。
 どうしてなのだろう。

 大学を出てからこっちの30年間、私は、映画館にも寄席にもほとんどまったく足を運ばなかった。演劇もほぼ知らない。
 これは、考えようによっては、お手柄だ。
 どうせ、この先、本はあんまり読めなくなるからだ。老眼も進むし、根気も無くなってくるわけだからして。
 とすれば、未見の名画と、未知の落語をヤマほど持っていることは、こりゃひと財産ですぜ。パチパチパチ。

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