2005/11/10

チルドレン

 夕刻、原稿の想を練りつつ(←ここ重要)テレビ朝日「スーパーJチャンネル」を軽視聴。
「チルドレン官邸へ」
 というテロップを出してニュースをやっている。
 自民党の新人議員が首相官邸を訪れたというお話なのだが、なぜ普通に「新人議員」と言わないのだろう。
 なんとかして「小泉チルドレン」という言葉を使いたい、ということなのか?
 「チルドレン」以外にも、「マドンナ」、「シスターズ」、「劇場」、「サプライズ」……と、21世紀のニュース原稿は常套句の嵐。まったく。

 個人的には、「小泉チルドレン」という言い方は、好きになれない。

  • もともと、この言い方は、'70年代の音楽雑誌でしきりに使われていた「ディランズチルドレン」のパクリだと思う。初出はたぶん、ローリングストーン誌あたり。
  • いや、パクルのはかまわない。でも、なんだかパクリっぷりが不愉快なのだよ。リスペクトがない、というのか。
  • 「ディランズチルドレン」における「チルドレン」は、「ディランの影響下にある」「ディランのスタイルを継承している」「ボブ・ディランへの尊敬を表明している」という感じのニュアンス。だから、チルドレンたちは徒党を組んだりはしない。
  • それが、「小泉チルドレン」の場合、モロに「子分」という意味合いで使われている。
  • 第一、パクるにしても「小泉チルドレン」と、きちんと「ズ」をつけるのが礼儀なんじゃないのか? ディラン、および英文法への。
  • 小泉ズが、ヘンな日本語だというのはわかる。でも、それを言うなら、小泉チルドレンだって十分にヘンなわけなんだし、そもそもこういう場面で安易に横文字に頼ることをやめればこんな奇妙な言葉は生まれていない。
  • 小泉組、小泉軍団、小泉派……という、日本語のキャッチフレーズがどれもピッタリ来ないというのは、まあわかる。
  • 「非派閥的で、集団としてまとまってはいないんだけど、なんとなくわらわらと寄り集まっている感じ」を表現するには、どうしても「チルドレン」みたいな軽薄なニュアンスの英語が必要だった、と、そういうことなのだろうな。
  • 百歩譲って、小泉チルドレンは許すとして、こいつをまた無批判に応用するのはどうなんだろう。原チルドレン、野村チルドレン、星野チルドレン……少なくともオレは気持ち悪いぞ
  • いや、わかった。原チルドレンその他も認めてやる。でも、「ボビーチルドレン」だけは勘弁してあげてほしい。だって主体であるボビーが外人さんなわけだから、せめてボビーズチルドレンと呼んでやってくれ。たのむ。

  さあ、仕事仕事(棒読み)

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2005/10/17

九段の上

 午前中、テレビをつけると、テレビ東京以外の全局(NHK総合、民放4局)が小泉首相の靖国参拝を生中継している。
  放っておけばいいのに。
  あえて報道することは、わが国にとっても近隣の国々にとっても、建設的な結果には結びつかないと思う。
  どう伝えたところで、不快な波紋を招くだけだ。

 靖国は、基本的には過ぎ去った感傷に過ぎない。
  そのくせ、このひからびた感傷の背後には、死者の骨を利用せんとする勢力が手ぐすねを引いている。しかも、左右の両陣営に、だ。
  バカな話だ。
 
  小泉さんが、特定アジア諸国の反発をかえりみずに、靖国参拝を強行し続けてきた理由について、私は、ずっとその真意をはかりかねていたのだが、もしかしたら、この人は、「近隣のアジア諸国の反発を買うことが、自らの支持率の向上につながっている」といったあたりの機微を、本能的に把握しているのかもしれない。
  だとすると、たいしたセンスだ。
  隣町の臥煙の親玉に啖呵を切ってみせる鳶の親分みたいな人気。
  なるほどね。
  近所の嫌われ者に限って、身内には頼りにされているという微妙な力関係、と。
  でも、あぶないぞ。
 

いたづらに 九段の坂をのぼり来し
 大殿の身に 銃弾の雨

 
  みたいな展開だってあるぞ。
 
秋深し 九段の杜は 銃弾の下

  いずれにしても、コイズミさんは気をつけた方が良い。
  近隣諸国の跳ね上がりだけではない。
  むしろ敵は身近にいる。

英霊に 取り付くダニや えせ国士


ははは。東シナ海の天然ガスが、見かけ倒しであることを祈ろう。日中両国のために。

灘のガス 匂うばかりで火はつかず

 と(笑)。

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2005/10/11

民青遊泳化

 風呂から出て「ニュース23」を見ていたら、たったいま、筑紫キャスターが猛烈に批評的な発言をしたので記録しておきます。
 筑紫さんは、
「民青遊泳……あ、郵政民営化」
 と言いました。すごい。
「郵政民営化を言い間違えただけじゃないのか?」
 と、おっしゃる向きもあるでしょうが、筑紫さんを甘くみてはいけません。彼は一流のジャーナリストです。
 とすれば、彼のような経験豊富なジャーナリストの発言に対しては、われわれ視聴者としても、当然、裏を読んでかかるべきです。
 でないと、筑紫さんが、「噛んでばかりいる困ったじいさん」ということになってしまいます。
 思うに、筑紫さんは、郵政の民営化が全逓の弱体化を促し、それらの複合的な影響力が民青の遊泳化を招来し、さらにそれが最終的には共産党の解体に結びつくという、悪夢のような近未来を示唆しています。
 「遊泳化」は、耳慣れない言葉ですが、おそらく、「中央からの指令系統が途絶えて、独立独歩の身勝手な組織として動き出す」という一流ジャーナリストならではの、映像喚起力に満ちた、素晴らしい造語だと思われます。
 とすると、民主青年同盟の末路は……セクト化→分派→内部抗争→内ゲバ→共食いの末消滅、というでしょうか。
 うーん。炯眼

tikusi

 ※↑あんまり似てないけど(23:51追加)
 ※イラスト、差し替えました。似てなかったんで。(2005/10/12 12:41:50)

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2005/10/05

ボールパイソン

東京・新宿区で逃走したヘビ、飼い主の元に戻る

 朝のうちテレビ(←どの番組だかは忘れた。5秒ごとにザッピングしてるんで)を見ていたら、このボールパイソン発見のニュースが紹介されていた。
 ちょっと驚いたのは、飼い主の映像。
 同区内に住むアルバイト男性(41)ということだが……
 顔出しは無し。胸から腰のあたりとポケット周辺のアップのみ。プライバシー保護ということもあったのだろうが、なにより
「これは、全国ネットで配信して良い人間ではない」
 というカメラマンの直感が、顔出し映像をストップさせたのであろう。
 だって、とにかく汚いから。
 着ているモノから判断すれば、ホームレスと判断するのが普通だと思う。
 手の汚さも異様。
 で、警察から返還されたヘビ君を、なんとポケットに入れて持ち歩いている。
 おい、警察は、保管用(ないしは運搬用)の袋なりケージを持参して来る程度の常識さえ持っていないレベルの飼い主に、あっさりヘビを返しちゃうのか? 厄介払いできればそれでオッケーということか?
 まあ、警察にしたって、拾得物を返還するにあたって、所有者の適格性みたいなことをいちいち判定するヒマもなかろうし、そうする権利も持っちゃいないんだろうが、それにしても……
 と思う間もなく、飼い主氏は、インタビューの最中にポケットからヘビを出していじくりまわしている。
「家にいると窮屈そうだったから」
 窮屈って……
 同じ爬虫類キーパーとして、ちょっと悲しい気持ちになった。
 なんとなれば、この飼い主は、
「ヘビとかを飼ってるちょっとヘンなヒト」
 という世間の偏見を補強するために、あまりにもドンピシャリな存在だったから。
 スタジオは、コメントなし。
 うん。当然だよな。
 こういうヒトについてうかつなことを言うと問題になりかねないからね。
 っていうか、この人物のたたずまい見て
「おっと、うっかり率直な感想を述べると差別問題が立ち上がってきそうだぞ」
 と、咄嗟にそう判断できるようでないと、テレビ人はつとまらないわけだな。
 
 

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2005/10/04

シャイロック

PCからiPodへのコピーをできなくすれば問題は解決する--法制小委第8回審議

 ↑ ちょっと面倒な記事ですが、ぜひ読んでみてください。
 リンク切れ時のために、一部を以下にコピペしておきます。

また、音楽のネット配信について、iPodなどを補償金の対象とする場合、「補償金の二重取りになるのではないか」という意見があるが、その一方で、JASRAC関係者は「配信事業者がJASRACに支払っているのはあくまでPCへダウンロードするまでの利用料」との主張を貫いており、同関係者からは「極端な話だが、PCを通じた音楽のコピーをできないようにすれば(iPod課金に関する問題は)解決する」といった発言もなされた。

 工エエ(´Д`)エエ工
 PCからiPodへのコピーをできなくすれば、って……
  つまり、オレのiPodは、ブロック崩しゲーム専用機みたいなことになるわけだけど、いったい誰がそんなものに何万円も使うんだ?
  要するに、これ、iPodツブしだよね?
  で、仮にまんまと黒船iPodを撃退できたとして、だ。
 そうすると、結局、音楽そのものがツブれることになると思うんだが、そこのところはどうなんだろう。
 自分たちのメシのタネをツブしつつあることに気づいてないんdなろうか?
 というよりも、こんなこと(iPod排除)をしたら、音楽配信のみならず、世界中のAVビジネスから置いていかれることになるはずなんだが、彼らは、それで良いと思っているんだろうか?
 鎖国? 検地刀狩り禁教令渡航禁止ですか?

 だって、この発想って、
「国道への車両の進入を不許可にすれば交通事故の問題は解決できる」
 というのと、基本的に同じだよ。
 ブラックユーモアにさえなっちゃいない。
 たぶん、JASRACの皆さんは、万引き防止のために足の速いお客さんの入店を制限するとかなんとか、そういう種類の対応をこれからも繰り返して行くのであろう。
 あわれな老人たち。
 あるいは、病気というふうに考えた方が適切なのかもしれない。
 利権病。
 おそらく、JASRACは、文部科学省にとっては貴重な天下り利権団体なのでありましょう。
 貧乏官庁の文科省は、ほかには、法科大学院とか、大学入試センターとか、そんなものぐらいしか持ってないわけだから。
  まあ、私立学校&塾産業も広い意味で言えば、文科省の天下り団体ではあるのかもしれないが。
  とすると、公教育を荒廃させているのは、彼らの深謀遠慮……
 さあ、陰謀論なんか吹いてないで仕事仕事、と。

追伸:よい子のみんな。ジャスラックについて言及する時には、「シャイロック……じゃなかった、ジャスラック」と、必ずお約束の言い間違いを挿入した後に話しはじめるようにしような。約束だぞ。

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2005/09/24

モリゾー

 愛知万博がようやく閉幕する。
 開幕当初は不調だった観客動員も、最終的には、つくば万博の入場者を上回って、2000万人の大台を超えることになるのだそうだ。
 集客成功の要因について、昨日放映された民放のイブニングニュース番組は、万博協会の対応の機敏さ(弁当持ち込み禁止の撤回。人気館への集中を緩和する各種の措置などなど)を第一に挙げていたが、本当だろうか。っていうか、本気か?
 単に、全マスコミ相乗りの洗脳報道の成果じゃないのか?
 だって、電通をはじめ、朝日、読売およびNHKが軒並み協賛企業に名を連ねているんだぜ。

 下のurlは、電通による愛知万博報告。全メディア相乗りの大本営体制がシレっと描写されている。
http://www.dentsu.co.jp/books/dhou/2005/h4469-050101/index2.html

 てなわけで、批判的な報道は、雑誌(文春とか)の誌面にいくつか散見していたのみで、残りはすべて、広告まがいのパブリシティー(←参照:「王様のブランチ」のディズニー情報コーナー)情報の提供に終始していた。
 私自身は、ふたつの新聞系の雑誌で、万博関連の原稿を書いた。いずれの場合も、担当編集者に要らぬ緊張を強いる結果になった。気の毒なことをした。でも、やっぱり個人名のコラムで、万博を後押しすることは不可能です。だって、ショボいものはショボいんだから。
 実際、愛知万博に足を運んだ知り合いで「最悪最低」という評価をしなかった人間を、私は一人も知らない。
 行列。不手際。営利第一主義。役人根性。民芸品売り場……
 にもかかわらず、テレビ新聞の報道は、集客を煽る方向で一貫していた。特にNHKのマンセーぶりは突出していた。
 国策ということになると、ここまで露骨なヨイショ報道がまかり通ってしまうわけだ。
 偏向報道は、第一義的には、国家権力側の圧力によって引き起こされるものではなくて、むしろメディア自身の欲心が、偏向をドライブするのだと思う。

 モリゾーよ。
 地球を守るためには、まず人類を駆除すべきだというキミの直感は、おそらく正しい。
 うんこは、便所を浄化できない。
 同様にして、人類は地球を救えない。
 キミの言う通りだ。

 モリゾーよ。キミは目つきが悪い。
 オレは心がけがなっていない。
 オレたちは友だちじゃない。
 キミとオレは共倒れだ。
 自然と人間が友だちになるためには、その前にまず、共倒れを経験せねばならない。
 険しい目つきで、森に入る人間を監視しているキミは、いつか山火事で灰になるだろう。
 
 モリゾーよ。キミも知っている通り、与作は木を切る。
 女房はハタを織っている。
 そして、与作は反省をせず、女房もまたそれをたしなめない。
 オレたちは、救われない。 
 愛・地球・吐く、とキミは言った。
 愛とは地面に向けて吐き出されるもの、すなわちゲロだ、と、そういうことだね?
 とてもキミらしい見解だ。
 ゲロだけが人間と地球の間に有機物の連鎖を作る、と。
 オレの見方はちょっと違う。
 本命は死体だ。
 地球は、オレらの死体を食って生きている。
 というよりも、地球は、死そのものなのだ。
 食物連鎖だなどと、おためごかしを言うのはよしてくれ。大地は、太古からの死体で覆われていると、はっきりそう言おうじゃないか。
 キッコロ?
 キッコロ=キック+殺す=キッ殺す=蹴り殺す、ということか?
 モリゾーよ。オレの返事を言おう。
 ヌッコロ。

 そう。決裂だ。もう話し合いの余地はない。
 お前の正体が森喜朗であることにオレが気づいていないとでも思っているのか?
 

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2005/09/14

小泉劇場

 選挙の結果が出て以来、「小泉劇場」という言葉の使用頻度が飛躍的に高まっている感じがする。
 まあ、そんなに出来の悪い造語だとは思わない。
 小泉首相の政治手法を一言で評するフレーズとして、一定の妥当性を持っているとも思う。
 実際に小泉さんが繰り出してくる施策は、単純かつ断片的であり、その施策を説明する手法も、理論よりもキャッチフレーズに終始するテの、大道芸人ライクな手口だからだ。
 しかし、「小泉劇場」という、この五文字4文字(9/14訂正)を連呼する芸風は、ちょっとやっかいな副作用を含んでいる。

 現在、ワイドショーに出てくるコメンテーター諸氏の間では、このたびの自民圧勝の勝因を小泉劇場(つまり、小泉による劇場型の選挙戦術)の手柄に帰する一方で、政策論議の貧困を嘆く手順が流行しているわけなのだが、どっこいこの流れは、語り手が小泉批判を展開しているつもりでも、最終的には有権者攻撃に着地してしまう。
 つまり、「小泉劇場」というこの言葉を使っている論者の矛先は
「見え見えの田舎芝居にひっかかったバカな観客たち」
 に向かわざるを得ないわけだ。
 ……で、行間に愚民愚民の大合唱が響き渡っていることに気づいたキャスター氏があわてて話をまとめにかかる。
「とにかく、先行きを注目しないといけませんね」

 ん? 説教か?
 ニートはすかさずムカつく。どうしておまえらみたいなテレビ屋にオレが説教をされるんだ? と。

 なぜ小泉が勝ったのか。
 ジュンイチローは説教をしないからだよ。
 郵政民営化のワンフレーズが小泉を勝たせた、と先生方は言っている。
 違うね。
 ワンフレーズはワンフレーズでも、小泉のお手柄は
「ぶっ壊す」
 だよ。
「自民党をぶっ壊してでも……」
 素晴らしい。
 ……の先は聞いてません。ぶっ壊すだなんて、ああ、首相の口からこんな素敵なフレーズが聞こえてくるなんて。

 ところで言っとくけど、私は小泉劇場のファンではないよ。
 ジュンイチローパンクオペラはちょっと好きだけど(笑)

 ジュンイチローが政界を引退したら、フィリップ・トルシエと組ませて何か文化的な仕事をさせたいな。
 来年の9月になって、職が解けたら、とにかくオレに電話してくれ。
 悪いようにはしないから。
 な。

 

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2005/09/12

自民圧勝

 単独過半数ですか。いや、びっくり。
 自民党が勝つだろうとは思っていたが、正直、ここまでの結果は予想していなかった。
 テレビに出てくる先生方も同じみたいだ。やはり専門家にとっても想定外の大勝利だった、と。

 民放の選挙特集には、なかなか面白い共通項がある。
 選挙結果の分析が、いつしか視聴者に対する説教の色彩を帯び始めるのだ。
「有権者も成熟しなければ」
「冷静な判断というより、あれかこれかという決断に追い込まれて……」
「簡単なスローガンが奏功し」
「テレビ選挙のこわさが……」
「シンプルに徹した選挙手法が」
 といったご発言が、昨夜来何百回繰り返されたことだろう。
 アレか?
 要するに「愚民選挙」と、それが言いたいのかな?
 言えばいいのに。
 どうせ、誰も
「オレのことを言ってる」
 とは思わないんだから。

教訓:愚民は、愚民批判が大好き

 負け惜しみなんだろうか?
 どうして、民放は民主党寄りなのだろう。あるいは、彼らのうちに、野党寄りのポーズを取っておく方が報道マンっぽくてかっこいいぞ、みたいな、子供っぽいヒロイズム(子供っぽくないヒロイズムは存在しないが)があるってことか?
 不思議だ。
 いま見ているTBSの夕方のニュースも
「女性票が結果を分けた」
 ということをしきりと強調している。
 その根拠として、JNNの出口調査を引用。
 女性の自民党支持率の上昇をパネルにして見せているわけなのだが、男性票との比較は省いている。っていうか、男性票についてはデータを開示していない。なんだこりゃ。
 これじゃ、何の証明にもならないと思うんだが。
「女性が勝たせた」
 と、どうしても、そういう結論に持って行きたいんだろうか?
 でもって、
「そこには、セールなど、女性の好きなキーワードが」
 とかなんとかナレーションをカブせながら、ある商店街が展開した「投票済み証明書の提示で割引をするセール」の取り組みを紹介したりしている。
 そして街録。
「っていうか、あのヒトが好きだからぁー」
「なんていうのかぁー、郵政に反対する理由がわからないっていうのかー」
 という感じの、いかにも「情緒に流されやすいバカな女」に見える女性たちのインタビュー映像。

 TBSってマジに街録が好きだな。
 愚民を教導してるつもりなんだろうか。

 でも、どっこい、その街録を見て愚民は笑っているわけだ。
「おい、いくらなんでも狙いが見え過ぎだぜ」
 とか。

 かわいそうな豚六。

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2005/09/02

脱記者クラブ

 二つ下の項目「表現者の王国」にコメントをくださった、六月五月さんのお言葉への答えです。長くなったので、新項目で書きます。

 えーと、記者クラブ制の弊害については、田中康夫の主張にも一理あると思っています。

 簡単に言えば
・取材チャンネルの固定化による取材活動の利権化
・既存の商業マスコミによる情報の独占とその恣意的な利用
・取材者と被取材者の間に生じる癒着
 ということですよね。
 ええ、困ったことです。

 でも、対公権力(国や地方公共団体、各省庁、政治家)に話を限れば、記者クラブが睨みをきかせているという面もないわけではない。
 実際問題、不祥事があった際など、行政側も、記者クラブの取材要請をそうそう無視することはできないわけですから。
 このほか、定例的な取材活動の省力化と、パパラッチの排除といった、実務的な御利益もあります。
 で、それらの御利益の副作用として、ぶら下がり記者の廊下トンビ化。番記者の自己肥大。政治記者のナベツネ化が……と、色々と論点はありますが……まあ、一長一短、と。

 さて、田中県政における、脱記者クラブは、一見、全面的な門戸開放であるように見えますが、実際には、そんな単純な話ではありませぬ。
 というのも、すべての取材要請に対して平等かつ包括的な取材許可証を発行するなんてことは、事実上、不可能だし、無意味ですから。
 となると、取材を受けるか否か、会見要求に応じるか否かは、県側の(つまり田中康夫氏の)恣意ということになる。
 とすると、これは、取材チャンネルの許認可業者化ないしは、茶坊主化ですから、取材チャンネルの機械的制限である記者クラブ制よりさらにタチの悪いことになる。

 無制限の取材が不可能である以上、どこかで制限を設けなければならない。
 現状の記者クラブは、それに対する(はなはだ不完全かつ問題の多い)答えのひとつだと思います。
 田中康夫の脱記者クラブは、答えにさえなっていません。
 記者クラブを廃止するなら、それに代わる有効な代案を出さないとダメです。
 「表現者」などという曖昧な述語に逃げ込むのではなく、もっと形として明確なシステムを提示すべきでしょう……と、ちょっとえらそうでしたね。ええ。ということで、お待たせしている方の原稿に戻ります。

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2005/09/01

表現者の王国

 朝日記者の取材メモ捏造事件に関する報道を見ていて、私がなにより違和感を感じたのは、一方の当事者である田中康夫知事が発した、以下のコメントだ。

田中康夫・長野県知事は29日夜「若い表現者の情熱が、取材メモ作成の過程で勇み足となってしまったのか。か弱き人々に優しい目線を常に抱き、仕事熱心だった彼(西山記者)とは日ごろの取材を通じて信頼関係を築けていただけに、複雑な思いだ」とするコメントを発表した。(←以上、毎日新聞より)

 皮肉だろうか?
 
 ふつうの日本人の言語感覚からすると、一新聞記者に対して「表現者」という言葉を使うのは奇妙だ。
 新聞記者は、ジャーナリストであり、報道人であり、真実を追究する者ではあるかもしれないが、「表現者」というのとは、ちょっとニュアンスが違う。
 表現者は、作家、詩人、画家、映画監督、作曲家、俳優、という感じの、言ってみれば「芸術家」に対して使われる言葉だ。
 その意味で、新聞記者に「表現者」という言葉を当てはめるのはおかしい。
 記者の書く記事も自己表現の一形態なのだという見方も可能ではある。が、新聞記者の書く文章は、そもそも出発点からして、小説家や詩人の書く自己表現の文章とは違うものだし、当然、出来上がりもまったく別の性質を持つものになる。
 ジャーナリストの文章は、芸術家の書く文章と比べると、もっと自己を滅却したところにあるものだ。ずっと対象寄りの、あるいは、主観的な自己省察よりは、客観的な事実に重きを置いたものであるはずだ。
 ……という、以上の事情を踏まえてなお、田中康夫があえて記者を「表現者」と呼ぶ狙いは何なのだろう。
 私には、田中康夫が、「表現者」という述語を通じて、こう言っているように聞こえる。
「おい、表現者としては、オレの方が格上だぞ」
「同じ文章で身を立てる者として、オレの方がより高級な立場なんだぞ」
 つまり、本来、自分の専門分野である小説とは畑違いであるはずの新聞記者の仕事を「表現」という言葉で、ひとくくりにすることによって、新聞記者を、「作家より一段下の文章書き」「小説家になりそこなった会社付きの勤め人文章人」というふうに貶めることが、田中先生の狙いであるわけだ。
 でなければ、「表現道場」(田中知事が案出した、記者クラブの代替物。県の広報みたいなものでしょうか?)などという高飛車な発想は出てこない。

道場? つまりアレか? オレのところで修行して行けと? オレが稽古をつけてやる、か?

 もっとも、田中知事は、「脱記者クラブ宣言」の中で、「生きている人間はすべてが表現者だ」ということを繰り返し述べている。
 なるほど。
 そう言って言えないことはないだろう。
 誰もが言葉を使ってしゃべっているわけだし、言葉を除けたとしても、歩くことも、走ることも、あるいは女を口説くことだって、広い意味からすれば表現だからだ。さよう。あらゆる人間の行動は、すべからく自己表現である。その通り。
 しかし、そうは言っても、誰もが表現ということを人生の主目的に置いて生きているわけではないし、まして、表現を生業として暮らしている人間はほんの一握りだ。
 その意味で、「すべての人間は表現者だ」という言い方は、一面の真実を含んではいても、なお極論に過ぎない。「すべての人間はアスリートである」「人はみな旅人である」「生きとし生ける者は、誰もが病人である」「男は誰も渡り鳥さ」といった、似たような宣言と選ぶところはない。与太に過ぎない。
 とすれば、われわれは、田中康夫が「表現者」というものの枠を無闇矢鱈と広げてかかりたがっている裏には、何かたくらみがあるはずだ、と考えねばならない。
 面倒なので、いきなり答えを言おう。
 
 田中康夫は、どうしてあらゆる人間を表現者という枠内にはめこみたがっているのか。
 狙いは、おそらくふたつある。
 一つは、
「新聞記者を特別扱いにはしないぞ」
 と言う宣言。
 そう。田中康夫は、自分の公私の立場と県政に関わるあらゆる情報を、すべて田中の意のもとに一元管理したいと願っている。だから、記者は邪魔、とそういうこと。
 もう一つは、
「人間にとって一番高級な作業は表現であり、その表現という分野で成功した人間である田中康夫は、あらゆる人間の中で最も上質な人間なんだぞ」
 という宣言だ。
 つまり、「すべての人間は表現者である」という大前提は、次に来る隠れた小前提(「表現では田中康夫がチャンピオン」)に導かれて、黄金の結論「すべての人間の中で最高最上なのは田中康夫」に到達するわけだ。康夫式三段論法。すばらしい。

 たとえば、松坂大輔が、
「すべての人間は投手である」
 と言ったのだとしたら、その意味するところは、
「オレがナンバーワンだぞ」
 ということです。
陸上の末續選手あたりが、「すべての人間はランナーである」と言った場合も同じ。
どうしたって、 「おい、日本じゃオレより上等な男はいないぞ」になる。
 結局、田中康夫は、「表現者」という言葉を通して、長野県民をおだてているわけでもなければ、人間一般を崇高な存在と見なしてその「表現」を愛でているのでもない。
 田中は、表現という自分が一番(←だと本人は思っている)な分野で、あらゆる人間を判断しているだけなのだ。
 もしかしたら、松坂大輔君あたりは、人間の優劣を投げるタマの速さで判断しているかもしれない……いや、いくら松坂君とて、そこまで自己肥大してはいないだろう。
 でも、表現王田中康夫は、こう思っている。
「おい、表現ならオレが世界一だぞ」
 厭な野郎だなあ。

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