野茂
野茂投手が引退を表明した。
で、昨日来、テレビのスポーツコーナーは、このニュースを思い切りセンチメンタルなBGM付きで伝えている。
違和感を感じるな。
挑戦者の栄光と悲哀?
マッチとポンプじゃないのか? キミらの。
どうして野茂が日本の球界に復帰しなかったのか、不思議に思っているファンがいるかもしれない。若い人たちは特に。
確かに、ここ数年の状況だけを見れば、日本プロ野球復帰は考え得る選択肢だった。実際、日本の球団からいくつかオファーはあったようだし、その中には、億という年俸を保障する話もあったと聞く。
でも、当時のいきさつをおぼえている人間なら容易に理解できることだが、野茂の側には、帰って来たいと思える理由はなかった。たとえ何億積まれたのだとしても。
なぜなら 彼は、石もて追われる形で日本球界を去った選手で、その時のことを忘れているはずがないからだ。
恨んでいるとか、そういうことではない。
野茂はスジを通すタイプの人間だということだ。
スジを通すオトコは、自分を「裏切り者」と呼んだ人間のオファーにはこたえない。
また、信義を重んじる人間は、結果次第で手のひらを返す組織の言葉を信用しない。
だから、野茂英雄は、彼を飼い殺しにしようとして失敗したかつての飼い主と、同じテーブルを囲むことはしなかった。極めて当然の成り行きである。
野茂がアメリカに渡る意向を漏らした当初、スポーツ新聞は、異口同音にその決断を非難した。
無責任、恩知らず、掟破り、世間知らず、思い上がり、身勝手……と、記事のトーンはあくまでも冷ややかだった。
その冷たい論調の背景には、当時、圧倒的な力を持っていた日本プロ野球機構が、野茂を一種の「足抜け女郎」扱いにしていたという事情がある。
記者たちの中には、内心、野茂を応援する気持ちを持っていた者もいたと思う。でも、当時のスポーツ新聞は、今以上に球界の御用機関だった。とすれば、野茂擁護の記事は書けなかった。機構や球団に弓を引く形のテキストは、ワープロが曲がっても打てない。だって、しょせんはドメスティックな業界紙なわけだから。なさけない話だが。
無論、読者の中にも、流出に反対する声はあった。野球協約を絶対視するタイプのファンもヤマほど残っていた。が、野茂の挑戦をワクワクしながら見守っていたファンもまた、少なからず存在していたのだ。少なくとも、私は断然メジャー行きを支持していた。だって、面白そうだったから。ファンというのはそういうものだ。安全策を選ぶ選手よりは、リスクを取りに行くアスリートを応援する。勝負しないピッチャーなんて見たくないから。
テレビは、黙殺していた。遠巻きに見物。っていうか、奥歯に張本勲がはさまっている感じの対応。あるいは、ネクタイを首輪と心得ている勤め人の身のこなしといったところか。飼い犬の遠吠え。ワンワン。天晴れっぽいけど喝喝喝!ぐらい。
それが、ドジャースに入団が決定したあたりから徐々に風向きが変わって、キャンプ時点から、露骨な横並びカルガモ報道体制が敷かれるようになった。
で、初勝利以降は、手のひらを返してヒーロー扱い、だ。
いずれにしても、野茂が勝ち馬であることがはっきりするまでは、日本のマスメディアは、彼のサイドには立とうとしなかった。このことははっきりと明記しておかねばならない。
この件については、野茂自身が、著書(「僕のトルネード戦記」:集英社:1995年)の中でこう書いている。
それに、今頃になって、「取材させてほしい」とか「取材に応じる義務がある」とか言いますが、僕からしてみれば、あまりにも都合がよすぎます。
人間、足を踏んだほうはそのことを忘れていても、踏まれたほうはその痛みを、決して忘れないものなんですよ。
わずか数ヶ月前、ほとんどのマスコミは僕をどう扱いましたか?
僕が大リーグ行きを表明した時、それこそ「永久追放」だとか「協約破り」だとかいってバッシングをしてたでしょう。それなのに、今になって急に手のひらを返して「いや、野茂の活躍は日本人に勇気を与えた」なんて平気で言う。
言論でメシを食っている人は、自分の言論に対して責任を持ってもらいたいです。僕のとった行為が違法なら、無視し続ければいいじゃないですか。「いや、会社の方針が変わったので、またヨロシク」と言われても、僕には関係のないことです。
新聞は売れればいいんですか? テレビは視聴率を取れればいいんですか? そのためには平気で主張を曲げるのですか? 僕には考えられないことが多すぎます。》(第五章「ベースボールと野球の違い」p155~156より引用)
いや辛辣。
これ以上、私のような立場の者が付け加えるべき言葉はひとつもない。
どこかのテレビ局のインタビューに答えて清原が言っていた感想がちょっと面白かった。
「(野茂は)フォークを投げればこっちが三振するとわかっている時でも、真っ直ぐで勝負してくるピッチャーだった」
「アメリカに行ってからも、強打者に向かって、真っ向勝負をしている姿をテレビで見て、『ああ、やっとるな』と思った」
「自分のタマで勝負できる、たぶん、最後のピッチャーだったと思う」
もしかして、キヨハラは、全球ストレート勝負をするのがピッチャーたる者の本来の姿で、変化球を投げるのは「逃げ」なのだ、と、本気でそう考えているのだろうか?
いや、オールスターゲームみたいな花相撲の場では、そういう興業っぽい力比べ対決があっても良いと思うよ。
楽しいしね。
でも、投手と打者の「勝負」は、持ち球すべて(もちろんボール球も)を含んだ上でのものだ。
清原は、釣りダマや、ハズしてくるボールや、緩急や、内外角の投げ分けみたいな「配球」と呼ばれるストラテジーを「卑怯」「逃げ」ぐらいに思って、打席に立っているフシがある。
だから、いつだったか500号本塁打のかかった打席で、タイガースの藤川に変化球を投げられて三振した時、清原は、「チ○コついとんのか」と、藤川投手を罵倒したりした。
彼のアタマの中では、観客が盛り上がっている「勝負」の瞬間、投手は直球勝負をするべきなのであって、それが「オトコ」だ、と、どうやらそういうことになっている。
まあ、そういうふうに、相手投手を「男と男の直球勝負」みたいなプロットに引きずり込むというのが、打者・清原の「駆け引き」だったという可能性はある。
でも、誰も引っかからないと思うな。いまどき。
血気にはやって振り回してくるバッターを、落ちるタマで料理するのも、立派な「勝負」なわけだし。
でもまあ、伊良部だとか野茂だとかは、打者清原との「名勝負」を、あえて引き受けていたようにも思える。
なぜなんだろう。やっぱり男・キヨハラのアジテーションにひっかかっていたんだろうか。直球オンリーの勝負なんて、投手の側が損なだけなのに。
- オレら昭和の男たちは、「オトコ」というプロットに弱い。
- 伝統があるしなあ、マッチョ思想は。一朝一夕の出来物じゃないからね、これは。
- なにしろ、マッチョ思想と闘うために何より必要なのが「侠気」だったりするわけだから。根が深いよね、この道ばかりは。
- プロ野球衰退の理由のうち、もしかして一番大きいのは、「オトコ」という物語の衰退であるのかもしれない。
- 清原の扱い方が、ある種戯画化されつつある(←つまり、オトコ・清原が、マジな物語としてではなく、「ネタ」として処理されている)こと自体、既に、野球が「オトコ」の世界のスポーツでなくなってきていることのあらわれなのであろう。うむ。
とにかく、清原のような野球観の持ち主に監督(←既に、来年のオリックス監督に内定しているという噂がある)がつとまるようには思えない。
客が呼べれば良いとか?
呼べるとも思えないんだけどなあ。いまどき。
あるいは、オレらのような素人の推理を寄せ付けない、深遠な深謀遠慮が介在しているとか、そういうことなのであろうか。
大打者をK1に行かせないための球界をあげての防衛策だとか?
食い扶持を与えておかないと、何やらかすか分からないから。引退したからって、放し飼いは危険。サーカスのクマと同じ。
ってことは、監督稼業は座敷牢なのか?
話がバラけてきた。
寝よう。
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