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2021/11/13

ジョークの暴力性について

 ツイッターのタイムラインで冗談の話題が出ていたので、久しぶりにブログを更新してみる。

 ご紹介するのは、2015年の1月に「日経ビジネスオンライン」(←当時)の連載コラムのために書いたテキストだ。
 さきほど検索してみたところ、あらまあびっくり、消えている。
 どうやら、あの媒体は、古い記事を削除する方針を貫いている。悲しい。
 あんまり悲しいので、ブロクにテキストをアップすることにした。
 細かい部分は、掲載当時の記述と食い違っているかもしれない。でもまあ、私が編集部に送った原稿はこのバージョンだった。

 どういうタイトルがついていたのか、記憶が曖昧なのだが、以下、仮のタイトルを付してご紹介する。乞ご笑覧。

 オダジマは、6年半も前から「笑い」を過剰に高く評価する風潮に敵意を抱いていたののだね。それも、真顔で。
 というわけで、いつも真顔でいることの大切さをニコリともせずに真顔で訴えたマジメな原稿です。

 

 ユーモアは暴力である

 あけましておめでとうございます。
 新年第一回目の更新分は、インフルエンザのためお休みしました。
 無理のきかない年齢になってまいりました。いろいろなことがあります。
 待ち焦がれた読者を想定して休載を詫びてみせるのも、かえって傲慢な感じがいたしますので、なんとなくぬるーっとはじめることにしましょう。

 フランスでこの7日と9日に連続して起きたテロ事件は、17人の死者を出す惨事になった。
 一週間を経てあらためて振り返ってみると、この事件が、これまでにない多様な問題を投げかける出来事だったことがわかる。
 表現の自由と宗教の尊厳の問題、宗教への冒涜とヘイトスピーチの関係、テロ警備と市民生活、多文化主義と移民の問題など、数え上げれば切りがない。
 どれもこれも簡単に結論の出せる問題ではない。
 それ以前に、半端な知識や安易な観察で踏み込んで良い話題ではないのだろう。
 なので、事件の核心部分については意気地無く黙ることにする。
 
 ここでは、「ユーモア」の話をする。
 あえてユーモアを主題に持ってきたのは、14日の朝日新聞に載った
《「犯人はユーモア失っていた」 仏紙風刺漫画家が会見》
http://digital.asahi.com/articles/ASH1G01DPH1FUHBI03J.html?iref=com_rnavi_srank 

 という記事に、考えさせられたからだ。
 会見の中で、風刺漫画家のラウド・ルジエさん(43)は、ユーモアについて以下のように語っている。
《最後に、報道陣から「この絵を描いたことで心配はないか」と質問が出ると、「ユーモアの知性を信じている。犯人はユーモアを失っていただけだ」と言い切った。》

 正直な話をすると、私は、ルジエ氏が何を言いたいのか、何を言っているのか、まったく了解することができないでいる。
 犯人がシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった点については、ルジエ氏が指摘している通りなのだと思う。
 でも、だとしても、ユーモアについての理解の有無とテロリズムは別の次元の話だ。
 新聞の出版にたずさっている人間であれば、どうしてこの程度のことがわからないのだろうか。

 私自身の話をすれば、検索してたどりついたシャルリ・エブドの風刺マンガからは、ほとんどまったくユーモアのエッセンスを感じ取ることができなかった。
 フランス語が読めるわけではないので、文字に関しては英訳してあるサイトのものを捜したり、ウェブ上の辞書の世話になったりした。
 で、かなりの数のネタをサルベージした次第なのだが、どれもこれも、ひとつとして笑えない。いや、大げさに言っているのではない。「charlie hebdo」で画像検索をしてみれば、一目瞭然だ。これで笑う日本人が果たして何人いるのだろうか。
 私は、単に不快だった。
 つまり、ユーモアの理解度からすれば、私は、テロの犯人とそんなに違わなかったわけだ。

 とはいえ、もちろん、ポンチ絵を見てムカついたからといって、私は編集部にカチコミをかけたりしない。
 世界中のほとんどすべての新聞読者と同じく、笑えないネタに対しては黙殺を決め込む。それだけの話だ。
 
 ユーモアは、伝わりにくいものだ。
 仮に出来の良いユーモアってなものがあったのだとして、笑ってくれるのは読者のうちの2割に過ぎない。半数の人間は無反応だろうし、残りの3割は気分を害している。笑いというのはおおよそそうしたものだ。とすれば、ユーモアを発信している側の人間が、受け手の無理解を責める態度は、傲慢以外のナニモノでもない。
 客が笑わないのは客の側の責任ではない。笑わせることができなかった制作側の人間(芸人ないしは文筆家)の責任だ。

 犯人は、なるほどシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった。
 だが、問題はそこではない。
 唯一の問題は、犯人が暴力に訴えたことだ。
 マシンガンを乱射して、編集部の人間を殺害し、警察官を殺害したことだ。
 どんな理由があろうとも、殺人は、100パーセント、いかなる方向からも擁護できない。
 彼らが敬虔なムスリムで、シャルリ・エブドの涜神的なポンチ絵に怒りを感じていたのだとしても、そんなことは犯行を免罪する理由にはならない。

 とはいえ、犯罪とは別に、犯人がユーモアを解さなかった(「ユーモアを失っていた」と、ルジエ氏は言ったが)ことそのものは、特段に責められるべきことがらではない。
 彼らがユーモアを解さなかったことと、テロにうったえたことはまったく別の問題だ。
 ユーモアのわかる人間ならテロリストにならないわけではないし、犯人がユーモアを理解していれば、テロに訴えなかったはずだみたいな甘ったるいお話でもない。

 ルジエ氏の言い方だと、犯人は、ユーモアの知性を理解しない人間であるがゆえに、犯行に及んだように聞こえてしまう。
 そうでなくても、彼のものの言い方は、ユーモアを解さない人間をテロリストと同じ集合に分類してしまっている。

 とすると、私も犯人と同じ側の人間だってなことになってしまう。
 違うぞ。
 私は、シャルリ風の高飛車なユーモアを解さないという意味では、犯人と同じだ。しかしながら、私は非暴力を貫いている点で、自らの主義主張を暴力という手段で実現しようとした犯人とは正反対の人間だ。
 一緒にされては困る。
 ユーモアみたいな粗雑なもので私を分類しないでほしい。

 ルジエ氏の立場に立って考えてみれば、彼のあの日の会見での発言は、普段の彼の言葉とは違う、感情的な反応だったのだろう。
 当日、彼は、自分の同僚を何人も殺された直後の状態で会見に臨んでいた。
 感情的にならない方がむしろ不自然だったと言っても良い。
 ルジエ氏は、自分自身もまかり間違えば殺されたかもしれない立場だった。
 そう思えば、犯人を貶めたかった気持ちは十分に理解できる。

 興味深いのは、ルジエ氏が犯人を「ユーモアを失っていた」という言い方で非難しようとしたことだ。
 非難の言葉にはその人間の信念が露呈する。
 ルジエ氏は、おそらくユーモアを持たない人間を、人として低級な人間であると考えている。
 だからこそ、テロリストに対してその言葉をぶつけた。
 ということは、彼自身は、ユーモアを使いこなし、ユーモアを理解し、ユーモアを通じて他人と交流できるつもりでいる。
 それで、漫画家という職業を選んだのろう。
 悲しいのは、そこまでユーモアに高い価値を置いているルジエ氏のユーモアが、私にほとんど伝わってこないことだ。
 ユーモアは、むずかしいものだ。
 住んでいる国や使っている言葉が違えば、それだけで、ユーモアのかなりの部分は無効化してしまう。あるタイプのネタは、聴いている音楽が違うだけでまったく理解されなくなる。
 
「犯人はユーモアを失っていた」と言った時、ルジエ氏は、暴力とユーモアを正反対の概念だと思ってそう言ったのだろう。
 しかし、私は、「暴力」と「ユーモア」は、正反対どころか、兄弟に近いものだと思っている。
 暴力とユーモアは、コインの裏表みたいに、お互いを補完しあっている。同じ現象の別の側面と言っても良い。
 実際、ユーモアの名において発動されているいじめは山ほど存在しているし、セクハラやパワハラも、多くの場合、ユーモアの仮面をかぶっている。
 ユーモアは、いやがらせにも、あてこすりにも、皮肉にも、揶揄にも使われる。
 どれもこれも言葉を介した暴力の一変形であり、もっと悪い場合、集団から個人に向けたリンチに適用される。

 ルジエ氏が犯人たちを「ユーモアを失った人間」と定義したのは、世界を「ユーモアを解する高級な人間」と「ユーモアを解さない低級な人間」に分けて考えたかったからなのだろう。
 しかしながら、世界はそういうふうにはできていない。
 われわれは、自分と異質な人間を見ると、その人間をユーモアを解さない人間であるというふうに決めつけたくなる。
 たしかに、異質な人間同士の間では、ユーモアは通い合わない。
 だが、たとえば、異教徒と接すると時には能面みたいに無表情で対峙するカルト教団の信者だって、同じ教団の信徒同士で会話を交わす時には、ずっと柔らかい表情を浮かべている。時には冗談だって言う。
 はっきりしているのはユーモアを解さない人間とユーモアを解する人間がいるのではなくて、ユーモアが通い合わない関係と、ユーモアを理解し合える人間関係があるということだ。要するに、ユーモアの有効さは、能力やセンスよりも、単にそれを発する人間と受け止める人間の間にある関係性に依存しているのだ。

 もちろんテロリストもジョークを言う。人殺しだって笑うし、半グレのチンピラ連中はほとんど一日中笑っている。
 結局のところ、われわれがいけ好かない人間たちを「ジョークを解さない」人々として分類したがっているだけで、実際には、誰であれ、気の合う者同士の間では、ユーモアを交わし合っているのである。
 もちろん、他人に伝わらないユーモアもある。
 卑劣なユーモアもあるし、唾棄すべきユーモアだって珍しくない。
 たとえば、酒鬼薔薇聖斗のあれだって、当人としてはユーモアのつもりだったのかもしれない。
 してみると、ユーモアだから高級だとか、ユーモアだから知的だと考えるのは早計である以上に愚かな態度であると申し上げなければならない。
 多くのユーモアは低級だし、多数派の間でやりとりされているユーモアは、常に短絡的で暴力的でなおかつ動物敵なものなのだ。
 つまり、ユーモアの大半はクズだということだ。
 だからこそ、せめて、数をこなさないといけない。
 おたがいにがんばろうではありませんか。

 

 以上です。おそまつさまでした。またいずれおお会いしましょう。

 

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