「いじめ自慢」という病理
ツイッターで小学生の集団の粗暴さに言及したところ、早速
「幼少期に壮絶ないじめ体験でもあるのかw」
「小田嶋はいじめられっこだったのだなw」
という主旨の嘲笑のリプがやってきた。
なるほど。
この国のネット社会の基調低音は永遠に変わらない。
日本のホモソーシャルでは、他人のいじめ被害体験を「恥辱」「黒歴史」として揶揄嘲笑のネタにする一方で、いじめ加害体験については「武勇伝」(←スクールカースト上位者であったことの証明としてやんわりと自慢する文脈で語られるということ)として開陳されることになっている。
実にうんざりさせられる展開だ。
この件(いじめ被害が「恥」であり、いじめ加害が「勲章」である日本のクソガキ社会の永続性)については、以前「日経ビジネスオンライン」の連載(ア・ピース・オブ警句)の中でわりと詳しい原稿を書いた。
で、自分の中では、一応の結論を提示したつもりでいる。
ところが、残念なことに、当該の文章はすでにリンク切れになっている。
とても残念だ。ちなみに、執筆日時は、タイムスタンプによれば、2015年の8月6日ということになっている。たぶん、その翌日ぐらいに掲載されたものと思われる。
ともあれ、dropbox内の旧原稿フォルダに残っていたをそのまま掲載する。
細かい表記など、連載コラムコーナーに掲載した分とは多少違っているかもしない。
どうか、細かい点は気にせずに、うんざりしながら読んでいただきたい。
いじめ自慢
いじめの話題は扱いにくい。このことは、原稿を書いて読み返す度に、いつも思い知らされる。
理由は「いじめ」という単語にやっかいな多義性が宿っているからだと思う。
いじめは、辞書的な意味では、「自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること」(大辞林)ぐらいになる。
私たちが「いじめ」という言葉に抱くイメージは、もう少し複雑だ。
というよりも、いじめ被害者(またはその経験者)と、いじめ加害者(および傍観者)では、同じ言葉を通して思い浮かべる景色がかなり違っている。だから、この言葉を痛みを伴った感情とともに思い浮かべる人々と、そうでない人々の間では、話が噛み合わない。
実例を見てみよう。
紹介するのは、自民党選出の参議委員議員中川雅治氏の公式ホームページに掲載されていた文章だ。
「掲載されていた」と、過去形を使ったのは、当該のホームページが既に消滅しているからだ。
ホームページの中の「教育鼎談」と題されたコンテンツがネット上で話題になって、批判が集中した結果、議員はホームページを削除した。そういう経緯だ。
以下に引用するのは、私が個人的に自分のEvernoteにクリップした(←「これは消すだろうな」と思ったので保存しておきました)部分からコピペしたものだ。
全文を読みたい人は、「中川雅治 教育鼎談 魚拓」ぐらいのキーワードで検索をかけると、ウェブ上のキャッシュ保存サービスのURLにたどり着くかもしれない。もごもご。「教育鼎談」は、当該ホームページの管理者である中川雅治参議院議員(東京都選挙区選出)と、義家弘介衆議院議員(神奈川16区選出)ならびに橋本聖子参議院議員(比例区選出)の3人が、「いじめ問題」を中心に、それぞれその思うところを語ったコーナーだ。
ちなみに義家弘介氏は、第一次安倍内閣で教育再生会議委員をつとめたほか、第二次安倍内閣では文部科学省政務次官を歴任し、いじめや非行問題に取り組む政治家として名高い。橋本聖子も文教科学委員会に所属し、財団法人日本スケート連盟会長および財団法人日本自転車競技連盟会長を兼任している。いずれも教育には一家言を持っていると見なされている政治家である。まず、中川議員が
《■中川 私の中学時代は男子校でしたが、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、ちょっと小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました。脱がされた子は素っ裸で走って服を取りに行くんです。当時、テレビでベンケーシーという外科医のドラマがはやっていました。ベンケーシーごっこと称して、同級生を脱がして、皆でお腹やおちんちんに赤いマジックで落書きしたりしました。やられた方は怒っていましたが、回りはこれをいじめだと思っていませんでしたね。今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。いじめられている方も弱くなっているという側面はありませんか。》
と、自分の体験談を語り出す。
一読して、その内容の残酷さに驚愕させられるわけなのだが、ご本人はどうやら、自分の過去の行状を、さして深刻な加害行為であるとは認識しておられない。
「やられた方は怒っていましたが、回りはこれをいじめだとは思っていませんでした」
という部分も見ても、「いじめ」の自覚の希薄さは明らかなのだが、なにより、国会議員たるものが、選挙区の有権者はもとより日本中の国民が閲覧可能な本人名の公式ホームページの中で堂々といじめ加害体験を開陳していることが、罪の意識の欠如を物語っている。
しかも、言うに言うに事欠いて
「今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。いじめられている方も弱くなっているという側面はありませんか。」
である。明らかな暴力行為でありセクシャルハラスメントであり集団暴行であるご自身の行為の責任を、被害者の弱さに帰着させてしまうこの魔法のような論理は、いったい議員の大脳のどの部分から発想されたものなのであろうか。
さて、この発言を受けた鼎談相手のお二人は、いともあっさりと議員のエピソードをスルーしてしまう。《■橋本 いや、今のいじめはもっと陰湿だと思いますよ。いくつかの実例を私も知っていますが。
■義家 その通りです。「死ね死ね死ね…」と100回も来たメールを生徒に見せられたことがありますが、背筋が寒くなりました。しかも相手が特定できません。あまりにも陰湿なのです。教育がここまで来ちゃったのか、という感じです。
いじめられた子どもは、良い子ほど親には言えません。心配をかけたくないと最後まで我慢します。》無論、死ね死ねメールもまた、残酷ないじめの典型例ではある。
でも、死ね死ねメールが「陰湿」で、「おちんちんに落書き」が「陰湿でない」ということにはならないと思う。
いずれがより悪質であるのかを判定するのは簡単なことではないが、とにかく、双方のケースが、ともに極めて凶悪な蛮行であることは誰の目にも明らかだ。注目してほしいのは、鼎談の中で繰り返されている「陰湿」というキーワードだ。
子供の世界で繰り広げられるいじめが話題になる度に、必ずと言って良いほどこの「陰湿」という形容辞が登場する。
実際、「陰湿」と「いじめ」という二つの言葉は、事実上、ひとつのセットになっている。
なので、メディアに登場する「陰湿ないじめ」という決まり文句を見続けているうちに、いつしか私は
「もしかして、『陰湿ないじめ』の対偶として『おおらかないじめ』みたいなものが想定されているわけなのか?」
と思うようになった。
で、どうやら、それ(←おおらかで明るい健康的ないじめ)は、想定されている。「陰湿ないじめ」というひとまとまりの用語は、あるタイプの論者が「体罰」について語る時に使う「行き過ぎた体罰」というのと似ている。
この鼎談の中にの登場する義家議員は、以前、体罰について、
「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」
というコメントを漏らしたことがある。この件については、以前当欄でも触れている。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130117/242405/
義家氏は、大阪の県立高校で起きた顧問教諭による体罰事件について
「体罰ではなく暴力」
と論評し、さらに
「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」
と述べている。
つまり、この人の認識の中では、「適正にコントロールされた体罰は暴力ではなく、懲戒という教育行為」 なのである。いじめについても同様で、おそらく、義家議員の判断の中では、「陰湿ないじめ」は、なんとしても阻止しなければならないし、全力をあげて根絶せねばならない。が、「おおらかないじめ」や「邪気のないいじめ」については、子供たちの伸び伸びとした成長を妨げないためにも、寛大な対応が求められる、ぐらいに思っている。たぶん。
あるタイプのいじめ根絶論者が、「いじめ」という言葉に、必ず「陰湿」という但し書きをつけたがるのは、彼が、いじめそのものを裁いたり排除したり根絶しようとしているのではなくて、「陰湿ないじめ」という、いじめの中の、特別に悪質な一部分を問題視することで、一般のいじめを免罪しようとしているからだ。
もっといえば、一部の「陰湿ないじめ」根絶論者の脳内には
「おおらかで明るい腕白でやんちゃな成長期の男児の、旺盛な生命力の発露としてのいじめは、一種の成長痛として大目に見るべきで、そういう、あり得べき粗暴さを抑圧するのはむしろ男の子からたくましさを奪うことになるぞ」
ぐらいなマッチョ思想が息づいている。実際、私が、当件について、
《この人たちは、いじめる側の子供たちが、明るく開放的な気持ちでいじめている限りにおいてそれは「陰湿ないじめ」ではない、というふうに考えているようですね。 http://www.nakagawa-masaharu.jp/education/education03.html …》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628765592439296001
《いじめは、いじめる側の人間にとっては、ストレスの発散であり絆の確認であり娯楽だ。さらにはユーモアの表現でもあれば創造性の発露ですらある。決して「陰湿」な行為ではない。動機において陰湿ないじめはむしろ珍しい。そういう意味で「陰湿ないじめはダメ」という言い方は歯止めにならない。》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628768874339524608
《個人に対する集団の優越ないしは少数者に対する多数者の優越を端的に模式化したゲームである「いじめ」が蔓延する学校という空間の中で、常にいじめる側に立つことのできる能力がおそらく政治力と呼ばれているものの正体なわけで、だとすれば、政治家がいじめを自慢するのは当然のなりゆきですね。》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628777969268293632と、いくつかの感想ツイートを投稿したところ、
「昔はガキ大将がいました」
「最近の子のいじめは……」
というタイプの反論が早速いくつか寄せられた。
なんというのか、その種の、「昔の」「男らしい」「無邪気な」「他愛の無い」いじめを擁護しようとする人たちは、
「昔のガキ大将のいじめは、粗暴ではあったけど、限度を知っていたし、なにより悪意がなかった」
「オレらの頃のいじめはもっと良い意味で子供っぽかったよなあ」
「男の子なんだし、そりゃ多少ぶつかることもあるし、勢いあまってタンコブができるぐらいのことは日常茶飯事だけど。昭和の子供はさっぱりしてたからなあ」
ってな調子のファンタジーをなんとかして防衛したいと願っている。
というのも、彼らにとっての少年時代は「徒党」や「友情」や「近所の子供との縄張り争い」や、「探検隊」や「ガキ大将」とともにある、半ば伝説化した冒険物語であり、そうした架空のスーパー少年を主人公として思い出される「悪行」や「秘密の誓い」や「共通の思い出としての愚行」には、「いじめ」(もちろん加害だが)のエピソードが不可欠だからだ。中山議員のいじめ加害カミングアウト鼎談ページが話題になってすぐ、同じ自民党の熊田裕通議員という衆議院議員(愛知1区選出)が、自身の公式サイトの中で展開しているいじめ告白が炎上した。
これも既に削除されている。
なので、私の個人所有のEvernote(秒速保存しました)から引用する。
いじめ告白が掲載されていたのは、「議員への道」と題されたご自身の経歴紹介ページで、その中の《超元気! 悪ガキ「ガクラン」時代》と小見出しの付けられた高校時代の生活を紹介した部分だ。《今では想像もつかない(?)と思いますが、中学・高校の時は決していい子じゃない、というかやんちゃな悪ガキでした。母は何度も学校に呼び出され、時には涙を流していました。「お宅はどういう教育をしとるんだ」と、担任に厳しく言われていたそうです。
先生とイタチゴッコをするのが楽しみで、グループでいつもワアワアやってました。そう、こんなことがありました。ある時、産休補助でみえた若い女性教師が生意気だということになって、いつかギャフンと言わせようと仲間とチャンスをうかがっていたんです。
放課後、先生がトイレ掃除の点検にやってきました。好機到来です。中に入ったところで外からドアを押さえて閉じ込めたんです。そして、天窓を開け、用意していた爆竹を次々に投げ込んだんですよ。はじめは「開けなさい」と命令していた先生も、そのうち「開けてください」とお願い調になり、最後は涙声で「開けて〜」と絶叫調に変わってきた。「やった〜」と快感でしたね。》まるっきり「武勇伝」の文脈である。
中山議員の場合と同様、ご本人に罪の意識は無い。
むしろ、「男の子なら、これぐらい元気があって当然だよね」と、共感を求める気分が横溢している。
ごらんのとおり、「いじめ」は、加害者にとっては「武勇伝」であり「良き思い出」なのであって、多少は反省しているにしても「やんちゃなオレ少年の腕白脱線エピソード(テヘペロ)」ぐらいの路線から外に出ることは無い。のみならず、行間には、
「ねえねえ反省してるオレをほめて」
「正直に告白してるオレの無邪気さってどう?」
みたいな、どうにも甘ったれた幼児退行が漏れ出してしまっている。当然のことながら、いじめ告白を開陳している彼らは、「いじめた子供」である自分たちの方が「いじめられていた子供」である無名の脇役(誰だっけ? ぐらいにしか思っていない)より、はるかに優秀で、友だちが多くて、強くて、要領が良くて、魅力的であることを疑っていない。
だから、いじめられたことは「恥」でも、いじめたことは「恥」だとは思っていない。むしろ、「勲章」ぐらいに思っている。だって、いじめる側に回っているってことは、スクールカースト上位者だったということの証明であって、すなわちそれは、社会的強者ってことだろ?……と、そういう意識の人たちが、教育行政にたずさわり、いじめ対策を考え、教育現場に口出しをしているわけだ。
参考までに、2008年に書いた「やんちゃ」ということについての原稿をブログに転載したのでリンクを張っておく。
http://takoashi.air-nifty.com/diary/2015/08/post-4124.html
「やんちゃ」という言葉と「ドS」という言葉がテレビで使われはじめた頃の原稿で、私は、もう7年も前になるその当時、テレビの中で展開されているいじめが、画面の外に流出することに対して、イヤな予感のようなものを感じている。結局、あの時のいやな予感は的中していたようで、2015年の日本の少なくとも永田町界隈は「いじめ告白」が「勝利宣言」として流通するデスロードじみた場所に変貌してしまっている。
現在の永田町の姿は、かなり高い確率で、10年後の子供たちの教室の姿にコピペされることになる。
おそらく、この先、事実上の「いじめ対策」は、「自分の子供がいじめられないためのライフハック」みたいなせちがらい地点に落着していくことになる。
私も、そろそろ、その種の原稿の書き方について勉強をはじめるべきなのかもしれない。
以上です。おそまつさまでした。
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