バウバウの蔓延について
ツイッターで、「両手を叩く笑い方について昔、コラムを書いたことがある」というお話をしたので、クラウド上の旧原稿埋葬フォルダをサルベージしてみたところ、「読売ウィークリー」のために書いた原稿(タイムスタンプは2006年4月になっています)が出てきました。
ご参考までにブログに採録することにしました。閲覧者の皆様のアイダーコロナライフの充実に寄与できれば、野良コラムニストとして、これ以上の幸せはございません。
改変期特番の肥大化傾向は、時間枠、改変期間の延長にとどまらず、どうやら、出演者の人数を野放図に増加させる傾向で進行しつつある。
これは、局が、番組制作よりも、その宣伝により大きな力を傾注してきていることの結果だろうか。それとも、単にプロダクションと制作部の持たれ合いから派生したノーギャラ出演者の増加ということに過ぎないのだろうか。
いずれにしても、出演者たちは、はじめから最後まで両手を叩いて笑ってばかりいるわけで、その、数十人が一斉に歯をむき出している絵は、音声をミュートした状態でテレビを見ている私の目には、ほとんどホラーにしか見えない。
ん? なんで音を消してテレビを見るのかって? うん。ヘンだよな。
でも、わかってくれ。これは、テレビ批評(←という病気)をかかえている原稿書きの「症状」なのだ。
コラムニストたるオダジマは、テレビを視聴せざるを得ない。その一方で、私はテレビに耐えられなくなってきている。で、そのダブルバインドの妥協点が、「音の無いテレビ」というわけだ。
でも、無音のテレビを一日眺めていると、色々なことがわかる。たとえば、テレビの正体が「作り笑い」であることだとかが。というのも、音の無い笑顔は、ウソをつくことができないからだ。
……うん。この話も以前書いた。
1.ここ数年の間に、バラエティー番組の出演者のほぼ全員が、笑う時に両手を叩く仕草をするようになった
2.その昔、この笑い方をしたのは高田文夫師匠ただ一人で、なればこそこの仕草には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村のネタになっていた。
3.「バウ笑い」の蔓延は、結果として、全出演者への笑いの強要を促している。
といったあたりが、その原稿の主旨だった。で、いつの間にか、笑いの提供者とその受け手が打ち揃って「バウバウ」を決めることがスタジオの作法として定立され、結果、笑いは「自由」から「強制」へと、180度ポジションを変えたわけだ。さよう。21世紀の笑いは、解放の契機ではない。むしろ、笑わない人間(すなわち、場の空気に同調しない人間)を排除するための「踏み絵」として、均質的な人間が集うあらゆる場所で「執行」されている。
単にテレビの中の人々がオーバーアクションになっているということなら、それはそれでかまわない。どうせ彼らは、そういう種類の人間だから。
でも、テレビ出演者の大げさな身振りが、日本人のスタンダードになっているのだとしたら、これは非常に悲しいことだと言わねばならない。
かつて谷崎潤一郎は、「陰翳礼賛」の中で、アメリカ人が珍重するきれいで真っ白な粒の揃った歯を「便所のタイル」になぞらえている。その心は、彼の国の人々のあくまでも明朗で大仰な笑い方と、日本人の地味で湿った感触のそれとを比較して、後者により高い文化的価値を見出すところにあった。
すなわち、谷崎は、敗戦国として自信を喪失しつつあった日本人が、自分たちの欠点と考えていたシャイネス(内気さ、陰翳)を、文字通り「礼賛」してみせたのである。
素晴らしい。
その、シャイネスが、テレビによって滅ぼされようとしている——というのはいかにも大げさかもしれない。でも、さんまだとか、マチャミだとか、ロンブーの敦みたいな、あらかじめ歯をむき出した構えで笑いを強要している人々が跋扈している液晶画面を見ていると、私はミュートボタンに指を置かずにはおれないのだよ。この国に残されたなけなしの陰影を防衛するために。
以上です。おそまつさまでした。コラム内で言及している「テレビの本質が作り笑いである」旨のコラムは発見できませんでした。残念。
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