« 2020年3月 | トップページ

2020/06/13

チコちゃんに叱られろ!

 Twitterのタイムラインで話題になっている(っていうか、オダジマが無理やり話題にしているわですが)「男の部屋に上がりこんだ女性の処遇」について、昔原稿を書いたことを思い出したので、アップしておくことにします。
「日経ビジネスオンライン」で連載中の「ア・ピース・オブ警句」のコーナーのために、2010年の7月に書いた原稿です。
 残念なことに、「ア・ピース・オブ警句」では、2015年以前に書いたコラムは、リンク切れになっていて、アクセスできません。
 なので、こうしてブログにでもアップするほかに読者の皆さんに読んでいただく方法がないのですね。悲しいことです。
 なお、掲載時には「千原J」「K兄」と表記していた個人名を、「千原ジュニア」「キム兄こと木村祐一」と、モロな形に書き改めました。
  タイトルは、さっき思いついたものに付け替えました。腐れヤンキー芸人の皆さんには、「もう少しボーっと生きてみろよ」と言うメッセージをお伝えしたいと思っています。
 それでは、ごらんください。

 

 サッカー日本代表は、決勝トーナメントに駒を進めた。
 よく頑張ったと思う。
 対パラグアイ戦は、延長を闘ってスコアレスドロー。PK戦で敗退した。
 残念な結果だ。
 退屈なゲームだったという声もある。今大会最大の凡戦であると。
 たしかに、傍観者には退屈な試合であったことだろう。少なくとも、スペクタクルな展開ではなかった。
 でも、私は、退屈しなかった。
 当事者だからだ。
 私の内部にはずっと見守ってきた4年間の蓄積がある。退屈している余裕なんかない。ボールがペナルティーエリアに近づくだけで心は千々に乱れた。あたりまえじゃないか。
「おい」
 私はほとんど叫んでいた。
「リスクをおそれるなあ」
 と。
 それゆえ、試合が終わってみると、体中が硬直していた。
 翌日は、節々が痛んだ。
 でも、選手を責める気持ちにはなれない。甘いという人もあるだろうが、ファンはコーチではない。教師でも軍曹でもない。われわれは選手の祖母だ。心配して、応援して、勝てば有頂天になる。もちろん、負けるとがっかりする。でも、選手を責めたりはしない。万が一非行化したのだとしても、それは悪い友達のせいだと考える。
 3連敗の予想を掲げたことについて、あらためて陳謝したい。
 原稿を書く人間も、いくぶんかはリスクを負わないといけない。
 選手や監督にリスクを冒すことを求めておいて、自分がノーリスクでものを書いていてはいけない。
 無論、サムライでないわれわれは、腹を切ることはできない。
 でも、せめて農民らしく、土下座をしよう。カム土下座、ライトナウ、オーバーミー。
 

 今回は、リスクについて考えてみたい。
 発言のリスク。ツイッターのリスク。ブログのリスク。
 21世紀は、リスクの世紀だ。ブロードバンド化したリスク。ユビキタスなリスク。双方向なリスク。誰も無事なままではいられない。
 あらゆる情報が磁気記録され、電波発信され、光ケーブルを通じて全世界に頒布されるようになって以来、ちょっとした不規則発言が墓穴を掘る可能性は爆発的に高まった。一家に一台戦車が備えられている世界は、大変に心強い世界でもあるが、同時に非常にリスキーな世界でもある。

 われわれライターも、インターネット以前は、気楽な立場にいた。
 あっちの週刊誌に書いた原稿とこっちの月刊誌に書いた記事の間に矛盾があっても、気がつく読者は少なかった。
 気づいたとしても、その鋭敏な読者は、発言する媒体を持っておらず、それゆえ大事に至ることもなかった。
「オダジマは先月号とまったく逆のことを書いてるぞ」
 と、編集部にハガキを送ってくる読者もいなかったわけではないが、そういうハガキが誌面で紹介されることはまず無かった。よほど編集部に嫌われていない限りは。
「こんなハガキが来てましたよ」
 と、あえて知らせてくれる親切(なのか?)な編集者もいたが、多くの場合、賢明な読者の声は静かに黙殺された。
 平和な時代だった。

 ところが、インターネットが粘着質の一般人に発言の場を提供するようになると、ライターの偽予言や批評家の変節は、見逃されにくくなった。
「あいつも終わりだな」
「うん。完全に賞味期限が切れてる」
「むしろ冷蔵庫のニオイがする」
 と、匿名巨大掲示板には今日も無慈悲なコメントが並んでいる。これはもうどうしようもない。

 テレビも無事では済まない。
 なにしろYouTubeがある。ニコニコ動画もある。
 と、生放送中のちょっとした問題発言は、昔みたいに、忘れてもらいにくくなる。
 何度もリピートされ、リツイートされ、再アップされ、炎上し、火は時に番組を焼き尽くす。

 つい先日も、思わぬものを見た。とあるテレビ番組内で、某タレントが述べていた奇態な発言だ。

 といっても、私は、その番組をナマで視聴していたわけではない。あるブログで触れられているのを見て、気になってYouTubeで内容を確認したカタチだ。最近は、こういう経緯でテレビを見ることが多い。見たと言えるのかどうか。

 昔なら、知らないままで過ぎ去っていたはずだ。
 視聴習慣の外にある番組だからだ。
 でなくても、ただでさえW杯のせいで目玉が疲れている今日この頃だ。サッカー以外の番組のために眼球を酷使したくない。

 発言の内容は、ざっとこんな感じ。ディテールが気になる人は、YouTubeを当たってみてほしい。消されていなければまだ残っているはず。炎上して燃え尽きていなければ。

・番組はフジテレビ系列で6月26日に放送された「人志松本のすべらない話」。そこで紹介されたエピソードのひとつ。
・話し手は千原ジュニアという吉本興行所属の芸人(以下単に「J」と表記)。
・話題は先輩芸人であるキム兄こと木村祐一(以下、単に「K」と表記)の行状。
・Jは「もう十数年前の話」「時効みたいなこと」と、事前に「時効」である旨を強調。
・ある夜、KとJは女性を含めて食事をしていた。
・一行は、「ええ感じになって」Kが当時一人暮らしをしていたマンションに行くことになった。
・「お互い大人ですから」「深夜の一時二時に部屋にあがるワケですから」と、JおよびKはそう判断していた。
・ところが、いざとなると女性は「そんなつもりで来たんじゃない」と言い出す。
・「それ以外何があるんですか?」と、Jはスタジオの人々に向けて訴える。笑いが起こる。
・「これは、K兄切れるでぇ」と思って見ていると、果たしてKは「鬼の形相を通り越して素の顔になって」冷凍庫から何かを取り出している。
・取り出したのは「カッチカチに凍った鶏肉のカタマリ」。
・Kは「これはいらんトリニクやから捨てるだけやで」と言いながら、玄関でハイヒールを履こうとしている女の子の足元に向かって冷凍肉を投げつける。
・肉は、玄関で「コココココーン」と跳ね返る。女の子は焦ってなかなかハイヒールを履けない。ここで、スタジオは爆笑。芸人仲間も、ゲストの女優さんたちも。
・やっとのことでハイヒールを履いた女。エレベーターホールでエレベーターを待つ。Kは追いかけてさらに鶏肉を投げる。カンカンカーンと、エレベーターホールを肉が走る。スタジオ爆笑。
・エレベーターを諦めた女はおびえきって階段を降りる。が、そこにも鶏肉が投じられる。コココーン。コーンコーン。鶏肉がハイヒールを追いかける。スタジオはさらに大爆笑。芸人仲間は両手を大きく叩きながら大笑い。女優さんはハンカチで涙を拭きつつ笑う。

 ……いったいこの話のどこが面白くて彼らはあんなに笑っていたのだろうか。
 それがわからない。

1. 「そんなつもりで来たのではない」という女性に非があるのだとすれば、あまりにも無警戒だったところだろう。軽率だったかもしれないし、世間知らずでもあった。若い女性が、深夜に男が一人住まいをしている家に上がり込むということには、たしかにそれなりの意味がある。慎重に考えなければならない。
2. とはいえ、上がりこんだ判断が軽率であったにしても、意に染まぬ行為を拒否する権利は当然、女性の側には残されている。どんな場合であれ。夫婦の間であってさえ。
3. 第一、男二人に女一人という状況で、どういう行為が想定できたというのだ?
4. 百歩譲って、男が感情を害した点は理解してさしあげるとして、だ。
5. でも、だからって、女性はコールドターキーをスローイングされるにふさわしい暴挙を働いたというのか?

 私は道徳の話をしているのではない。
 そもそも芸人がテレビで話している話だ。
 誇張があるのかもしれないし、まったくのつくり話であった可能性だってある。
 もっともつくり話なのだとしたらだとしたらそれはそれで別の問題が持ち上がるわけだが。
 ともかく、私がここで言いたいのは、「K兄」の行動の是非についてではない。
 ぜひ問いただしたいのは、この話がゴールデンでイケると考えた判断の根拠だ。
 これが「笑える」と考えたセンスも、大いに疑問だ。
 だって、普通の視聴者が普通に聞いて、単に不快なだけのエピソードだからだ。

 おそらく、笑いのポイントは、件の女性が「あわてふためいて、うまくハイヒールがはけなくなっている様子」の描写と、乾いた床を滑る硬い冷凍肉の擬音なのであろう。

 でも笑えないな。
 毛ほども。
 つまり、この話で笑っていたゲストの女優さんたちの感覚もやはりどうかしていたということだ。
 彼女たちは、笑わざるを得なかったのだろうか。
 それほど、スタジオの空気には強圧的な何かがあったということなのか?
 あるいは、女優さんの笑いは、ほかの場所での笑いを編集で挿入した形の映像だったのだろうか。
 だとしたら、それもまた別の意味で問題ではある。真相はわからないが。

 一番不思議なのは、この話を「オンエア可能」とした放送局の人間の判断だ。
 こんなものがOKだと、本当にテレビの中の人はそう考えたのだろうか?
 だって、時効ではあっても、レイプまがいの、傷害未遂ですぜ。それを武勇伝みたいに話して、おまけにそのムゴい話で笑いを取ろうとしている。こんなものをゴールデンで流して無事で済むと、彼らは本当にそう思っていたのだろうか。

 関西の芸人集団の中には、お笑いが色物興行であった時代から脈々と受け継がれてきた粗野なマッチョイズムがある。語り口には露悪が含まれてもいる。それゆえ、その彼らの武勇伝を額面通りに受け止めるのは賢明な態度ではない。
 やんちゃ、ハチャメチャ、奇行、泥酔、暴力……芸人の世界には、そうした典型的な逸脱を、「男の甲斐性」「芸の肥やし」として美化する風土がある。しかも、彼らの中では、「女をモノとして扱う」ことが「男らしさ」のひとつの証明になっていたりする。ミソジニー。女性嫌悪。あるいは単なるセックス自慢だろうか。ま、幼稚なヤンキー趣味ですよ。どっちみち。

 芸人同士が仲間内の楽屋話として笑い合っている限りにおいて、それがどんなに鬼畜なエピソードであっても、私はあえて問題視しようとは思わない。
 芸人でなくても男同士の内輪話には、粗暴さを強調する傾向が抜きがたく存在している。
 そこいらへんのスナックで語られている「面白い話」には、猥談要素が少なからぬ度合いで含まれているものだし、「高校の時に隣のクラスにいたあきれた乱暴者の話」や、「ラグビー部の連中が合宿所の周辺で酔った挙句にやらかした愚行の数々」みたいな挿話に至っては、ほとんど犯罪自慢でさえある。誇張があるにしても。

 だから問題は、鶏肉が滑った話の真偽や内容ではない。
 この話をゴールデンのテレビで流したことの影響だ。 

 こういう話をすると、
「いい人ぶっている」
「いよっ! 聖人君子」
「笑いのわからないやつ」
 みたいな反応をする人々が必ず出てくる。
 あるいは
「お前は、人のことを言えるのか? これまで生きてきた中で、法律に違反したことが一度もないのか?」 
 といった言い方で、問い詰めてくる向きもあるはずだ。

 一応、マジレスをしておく。
 私は聖人君子ではない。
 常に間違いなく制限速度以内で国道を走っているかどうかについて、私は明言しない。
 メディアを通して発言する立場の人間にとって大切なのは、何をしたかではない。何を言ったかだ。
「関越で180キロ出したぞ」
 と、ブログに書くのは、愚かであるのみならず、反社会的な行為になる。
 テレビでそれを言うに至っては、言語道断。蛮行と申し上げて良い。

 この番組が醸していた違和感のポイントは、視聴者の側から見て、「部屋にあげた女は、好きなようにして良いんだぜ」という話者の立場を、スタジオの全員が是認しているように見えたところにある。
 致命的な空気だと思う。
「女の子が男の部屋に上がるってことは、私を自由にしてくださいちゅうことやで」
 という、このどうにもヤンキーな判断は、あるいは、彼ら関西の芸人の世界では常識であるのかもしれない。
 しかしながら、平日のゴールデンタイムの全国ネットにおいては、その限りではない。
 
 その意味で、当日、スタジオに集まっていた芸人は、皆、異常だったと申し上げねばならない。
 ああいうもので笑えてしまうほどに彼らは狂っていた。。
 結局、お笑いブームが行き着いた到達点のひとつが、この日のこの武勇伝だったということだ。
 誰かを「笑いもの」にすることで生じる笑い。生身の人間があわてていたり、おびえていたり、悲鳴をあげている様子を観察して、それを笑いに転化する手続きを「芸」と呼ぶことでまわっている異様な世界。
 不愉快な話だ。
 誰かをひどい目に遭わせること。おびえさせること。あわてさせ、悲鳴をあげさせ、挙動不審に陥らせること——こういう状況を招来する力を、彼らは「笑いの能力」であるというふうに認定している。
 つまり、暴力の周辺に生じる奇妙な人間の姿を彼らは笑っているわけだ。

 笑いは、権力に対抗する有力な手段だと、大学の教室ではいまだにそういうお話がまかり通っているのだろうか。
 もちろん、そういう場合もあるだろう。
 巨大な権力に圧倒されていた古い時代の民衆は、表立った抵抗を断念する代わりに、笑いで抗議の意を昇華していたのかもしれない。

 でも、笑いが権力に対抗できるのは、それ自体が権力だからだ。
 というよりも、笑いは、多くの場合、権力を媒介している。そういうものなのだ。
 われわれが笑う時、その笑顔は力を持っている者に向けられている。営業部長が何かを言うと営業部の全員が笑う。得意先の重役が軽口を叩くと、テーブルのこっち側にいるわが社のすべての人間が大きな声をあげて笑う。そういふうに、笑いは、強い者から弱い者に向けて強要され、目下の者から目上の者に向けて奏上されている。
 だから、そういう権力の通り道で誰かが本当のジョークを言うと、全員の顔がこわばる。
 本当に面白い話を聞いた時、権力的な場所にいる人間の表情はむしろ固まる。なぜなら、そこで笑うと、反抗の意図が明らかになってしまうからだ。

 お笑いブームが行き着いた到達点も結局は権力の誇示だった。
 コネクションと強要と上下関係と立場。それらを円滑化するためのベトベトした潤滑油みたいな不潔な笑い。
 芸による笑いは、生産性が低い。だから、現場では忌避される。手間がかかる割に、成果があがりにくいから。
 かくして笑いの現場は、笑い者生産事業にシフトして行く。笑い者にされる笑われ者の悲喜劇。笑わせる人間よりも笑われる人間を重用するスタジオの生産管理思想。いや、これは笑い事ではない。
 大物芸人の名前が冠としてタイトルに付加されている番組では、特にその傾向が強い。
 誰もが紳助の顔色をうかがっている。
 出演者の全員が、松本に向けてしゃべっている。
 そして、ボスが何かを言うと、全員が笑う。まるでワンマン企業の哀れな下っ端社員みたいに。たいして面白くもないのに。シンバルを叩く猿のおもちゃみたいに誰もが同じリズムで両手を叩きながら笑うのだ。
 だから私は、この手の番組を見ない。
 出演者が視聴者の方を向いていないからだ。
 誰かが誰かにおべっかを使う姿を見て時間をつぶさなければならないほど、オレが寂しい暮らしをしていると思うのか?
 冗談じゃない。
 お追従笑いがいやで会社をやめたのに、どうしてテレビでそれを見なければならんのだ?
 
 テレビの中の人たちが、笑う時に一斉に両手で手拍子を打つようになったのは、21世紀にはいってからのことだ。
 私は、このことについて、2003年の6月に「読売weekly」という雑誌の中で以下のような話を書いている。
1. その昔、笑う時に大げさに両手を叩く仕草は、高田文夫師匠の専売特許だった。なればこそ、その独特な笑い方には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村邦洋のモノマネのネタになっていた。
2. 「バウバウ」の本来の意味は、「タケちゃん、それ最高。もう絶対に笑えるよ」という、放送作家らしいヨイショにあった。現場の盛り上げ役。一人大観衆パフォーマンス。
3. ところが「バウバウ」は、さんまをはじめとするお笑い界のオピニオンリーダーが追随するにおよんで、ある時期から「ここが笑いどころだよ」というディレクティングを含むようになる。
4. さらに、21世紀に入ると、「バウバウ」に対して「バウバウ」を返すという、コール&レスポンスの関係が取り結ばれる。意味は、「な、面白いだろ? この話→」「←はい、もう最高ッス」という一種の強要関係。ヤバイぞ。

 で、この記事を書いてから3年後、2006年の4月に、続報を書いている。事態がより悪化していたからだ。

5. 「バウバウ」は、もはやNHKをはじめとするあらゆるスタジオを席巻している。
6. 意味は、強要を超えて「同調圧力」に昇格している。「はい、私乗り遅れてませんから」という意味を込めて、人々は必死でバウリングを励行している。
7. ついでに申し上げるなら「バウバウ」は、空気に乗れていない人間をあぶり出す「踏み絵」の役割りを担うようにさえなっているかに見える。
8. ここにおいて、笑いは解放の契機であることをやめて、明らかな強制となってわれわれの上にのしかかってきている。なんという窮屈さ。
9. しかも「バウバウ」は、スタジオから飛び出して、オレら一般人の仕草の中にも蔓延しはじめている。午後のファミレスを覗いてみろよ。バウバウやってる主婦だらけだぞ。

 芸人は原点に帰るべき時期にきている。
 北野たけし登場以前の、色物として蔑まれ、半端者として疎んじられ、賤業として爪弾きにされていた時代の、芸能人から能を除けた存在としての芸人の原点に立ち返れば、彼らの勘違いも多少は改まるはずだ。
 そのためには、まず、客が上に立たないと行けない。
 良い芸には、ご褒美を投げる。
 たとえばチキン・ナゲットとかを。
 滑った芸には?
 凍った鶏肉(コールド・ターキー)がふさわしいと思う。
 

以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。
ではまたいつか。

 

 

| | コメント (0)

バウの起源

さきほど公開した「バウバウの蔓延について」という2006年執筆/公開のテキストの中で「昔書いた原稿」として言及していたテキストが発掘されたので、ついでのことに公開しておきます。タイムスタンプは2003年6月3日なのですが、どの媒体に書いた原稿であったのかは、定かではありません。

 

 バラエティー番組の出演者たちが、笑う時に、目の前で「バンバン」と、両手を合わせる仕草をするようになったのは、いつの頃からだろう。しかも、全員打ち揃って、誰もが同じリズムで。
 いや、この仕草が昔からあったことは知っている。たけしと一緒にテレビに出る時の高田文男がこの笑い方をすることを、松村邦洋がネタ(「バウバウ」と呼んでいた)にしていたことも承知している。しかし、ということはつまりこの高田文男師匠の「バウバウ笑い」は、少なくとも五年前には、松村がネタにしたぐらいに独特な所作だったということだ。
 それが、いつしかお笑いの人々の間に伝播し、そうこうするうちに、日々、普及、拡大、蔓延、変質して現在に至っているわけだ。ふむ。
 とはいえ、当初、本番中にバウバウ笑いを実演する人間は限られていた。というのも、テレビの画面の中で発動されるバウバウは、一種「仕切り」を含む動作であって、その意味で、高田文男なり、さんまなりといった、自他共に認める「笑いのオピニオンリーダー」だけに許された特権だったからだ。
 発生当時のバウバウには、「ほら、ここ、笑うところだぞ」と、スタジオ内の人間に笑いのツボをディレクティングする意味が含まれていた。フロアディレクターが手に持った台本を回す仕草にも共通したコンダクターの意図のようなものが、だ。
 ところが、しばらくすると、バウバウの受け手が、バウバウを返すようになる。具体的に言うと、司会者の「バウバウ」(→な、面白いだろ? この話)を受けた出演者たちが、「バウバウ」(→はははは、もう最高っ!)と言った感じで大げさに笑うようになったわけだ。
 なるほど、バウバウは業界をひとまわりするうちに、発明者の高田文男が使っていた幇間芸として意味(「たけちゃん、最高。それメッチャ笑えるよ」)を取り戻したわけだ。が、それはそれで良い。問題は、テレビ画面上で展開される同時多発バウバウの絵ヅラが、どうにも脅迫的だというその一点にある。
 歌番組でも、トーク番組でも、スタジオの中で3人ぐらいが同時にバウバウを始めたが最後、その場の空気はバウバウに席巻される。非お笑い系の出演者も、アガっていて雰囲気に溶け込めないタレントさんも、とにかく周囲に合わせてバウバウをやるようになる……と、ここにおいてバウバウは、さらに新しい、そして最終的な、しかもどうにも島国的な意味——「私、乗り遅れてませんから、はい」という、追随、服従、横並び、後追い、右へ倣え、長い物には巻かれろ、の意味——を獲得するに至る。
 もちろん、屈従のバウバウは、別の角度から見れば、権力側から発せられた「村八分がイヤなら笑えよ」という、脅迫的バウリングの結果でもある。
 ともあれ、バウバウが始まった瞬間に、無批判なお追従笑いと付和雷同の空気の中で、トークは死ぬ。
 たとえばの話、久本雅美みたいなダミ声の折伏パーソナリティーに、真横でバウバウを決められたら、普通の日本人は、追随せざるを得ない。それほどに、この国の人民は気が弱い。たぶん、じきに
「きっかけはーぁああ、タンッタンッ、フジテレビぃー」
 に合わせて踊る人々が主流を占めるようになる。事実、昼過ぎのファミレスに入ると、ほら、近所の主婦が雁首をそろえてバウバウをやっている。
 いやだなあ。

以上です。おそまつさまでございました。

| | コメント (1)

バウバウの蔓延について

 ツイッターで、「両手を叩く笑い方について昔、コラムを書いたことがある」というお話をしたので、クラウド上の旧原稿埋葬フォルダをサルベージしてみたところ、「読売ウィークリー」のために書いた原稿(タイムスタンプは2006年4月になっています)が出てきました。
 ご参考までにブログに採録することにしました。閲覧者の皆様のアイダーコロナライフの充実に寄与できれば、野良コラムニストとして、これ以上の幸せはございません。

 

 改変期特番の肥大化傾向は、時間枠、改変期間の延長にとどまらず、どうやら、出演者の人数を野放図に増加させる傾向で進行しつつある。
 これは、局が、番組制作よりも、その宣伝により大きな力を傾注してきていることの結果だろうか。それとも、単にプロダクションと制作部の持たれ合いから派生したノーギャラ出演者の増加ということに過ぎないのだろうか。
 いずれにしても、出演者たちは、はじめから最後まで両手を叩いて笑ってばかりいるわけで、その、数十人が一斉に歯をむき出している絵は、音声をミュートした状態でテレビを見ている私の目には、ほとんどホラーにしか見えない。
 ん? なんで音を消してテレビを見るのかって? うん。ヘンだよな。
 でも、わかってくれ。これは、テレビ批評(←という病気)をかかえている原稿書きの「症状」なのだ。
 コラムニストたるオダジマは、テレビを視聴せざるを得ない。その一方で、私はテレビに耐えられなくなってきている。で、そのダブルバインドの妥協点が、「音の無いテレビ」というわけだ。
 でも、無音のテレビを一日眺めていると、色々なことがわかる。たとえば、テレビの正体が「作り笑い」であることだとかが。というのも、音の無い笑顔は、ウソをつくことができないからだ。
 ……うん。この話も以前書いた。
1.ここ数年の間に、バラエティー番組の出演者のほぼ全員が、笑う時に両手を叩く仕草をするようになった
2.その昔、この笑い方をしたのは高田文夫師匠ただ一人で、なればこそこの仕草には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村のネタになっていた。
3.「バウ笑い」の蔓延は、結果として、全出演者への笑いの強要を促している。
 といったあたりが、その原稿の主旨だった。で、いつの間にか、笑いの提供者とその受け手が打ち揃って「バウバウ」を決めることがスタジオの作法として定立され、結果、笑いは「自由」から「強制」へと、180度ポジションを変えたわけだ。さよう。21世紀の笑いは、解放の契機ではない。むしろ、笑わない人間(すなわち、場の空気に同調しない人間)を排除するための「踏み絵」として、均質的な人間が集うあらゆる場所で「執行」されている。
 単にテレビの中の人々がオーバーアクションになっているということなら、それはそれでかまわない。どうせ彼らは、そういう種類の人間だから。
 でも、テレビ出演者の大げさな身振りが、日本人のスタンダードになっているのだとしたら、これは非常に悲しいことだと言わねばならない。
 かつて谷崎潤一郎は、「陰翳礼賛」の中で、アメリカ人が珍重するきれいで真っ白な粒の揃った歯を「便所のタイル」になぞらえている。その心は、彼の国の人々のあくまでも明朗で大仰な笑い方と、日本人の地味で湿った感触のそれとを比較して、後者により高い文化的価値を見出すところにあった。
 すなわち、谷崎は、敗戦国として自信を喪失しつつあった日本人が、自分たちの欠点と考えていたシャイネス(内気さ、陰翳)を、文字通り「礼賛」してみせたのである。
 素晴らしい。
 その、シャイネスが、テレビによって滅ぼされようとしている——というのはいかにも大げさかもしれない。でも、さんまだとか、マチャミだとか、ロンブーの敦みたいな、あらかじめ歯をむき出した構えで笑いを強要している人々が跋扈している液晶画面を見ていると、私はミュートボタンに指を置かずにはおれないのだよ。この国に残されたなけなしの陰影を防衛するために。

 

 以上です。おそまつさまでした。コラム内で言及している「テレビの本質が作り笑いである」旨のコラムは発見できませんでした。残念。

| | コメント (0)

« 2020年3月 | トップページ