番記者よ奮起せよ。
Yahooニュースに掲載された拙稿(月刊誌「GQ」3月号のために書いた記事)が、オリジナルの原稿と違った形(同じ記述を2回繰り返して途中で切れています)の記事になっていました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00010000-gqjapan-bus_all
いずれ訂正したバージョンを掲載してくれるとは思うのですが、心配なので、私が書いた元々の原稿をそのままアップしておくことにします。
『番記者よ奮起せよ』
麻生財務大臣兼副総理の会見でのマナーが炎上を招いたのは、すでに昨年の話題だ。なるほど、政府が重要な政治日程を年明けに設定しがちなのは、野党やメディアとの間で日々勃発する軋轢や摩擦を「去年の話題」として自動処理するための悪知恵なのであろう。実際、私が当稿の中で、いまさら麻生氏の会見マナーをつつき回したところで、
「このライターさんは、去年の問題をいつまで蒸し返し続けるつもりなのだろう」
という印象を与えるだけなのかもしれない。
そんなわけで、例の桜を見る会の問題も、
「去年の花見の話をまだ引っ張るのか?」
てなことになりつつある。事実、花見関連の闇を追求するあれこれは、新年の話題としては、もはや古くさい。テレビのような旬にこだわるメディアは、敬遠するはずだ。
例の東北での大震災をくぐり抜けてからこっち、政治向きの話題のニュースバリューは、目に見えてその劣化速度を増している。
森友&加計の問題も、謎の解明が進んでいないどころか、むしろ問題発覚当時に比べて疑惑が深まっているにもかかわらず、メディアが扱うニュースとしてのバリュー(価値)は、「古い」「飽きた」「またその話ですか?」と、まるでトウの立ったアイドルの離婚スキャンダルみたいに鮮度を喪失している。
本来、ニュースの価値は、必ずしも新鮮さや面白さにあるわけではない。価値は、事件そのものの影響力の大きさに求められるはずのものだ。ところが、震災でダメージを受けたわれらメディア享受者たちの好奇心は、絵ヅラとしてセンセーショナルな外形を整えた話題にしか反応しなくなっている。
さてしかし、冒頭で触れた麻生副総理の会見マナー(←番記者を「返事はどうした?」と言い方で恫喝した件)の話題は、年をまたいで、政権の中枢に波及している。というよりも、麻生さんの横柄さや失礼さは、麻生太郎氏個人の資質であるよりも、より深く、政権の体質に根ざした、第二次安倍政権の対人感覚の発露であったということだ。
菅官房長官は、年明けの最初の仕事として、1月6日放送の「プライムニュース」(BSフジ系)という番組に出演した。長官は、番組の中で、緊張が高まっている中東地域への自衛隊派遣について問われると「(心配は)していない」と、あっさりと言ってのけている。
心配していない? マジか?
いや、マジなのだ。自衛隊は予定通り派遣する。この人は本当に心配していないのだ。
トランプ大統領によるスレイマニ司令官暗殺をどう評価するのかという質問に対しての回答は、さらにものすごい。菅官房長官は、
「詳細について存じ上げていない」
と言っている。すごい。あまりにもすごい。
要するにこの人は、昨年の年末に、例の花見の会前夜の夕食会について「承知していない」という事実上の回答拒否を5回(数えようによっては8回)連発して、それがまんまとまかり通ったことに味をしめたのだな。
さて、以上の状況から判明しているのは、麻生さんの横柄さが、実は菅さんの傲慢さと通底する政権の体質そのものであったということなのだが、それ以上に、われわれが直視せねばならないのは、政権中枢の人間たちによるナメた答弁を、えへらえへらと許容してしまっている番記者の弱腰こそが、現今の状況を招いているという事実なのである。
安倍総理は1月6日の年頭所感会見の中で、
「(憲法改正は)必ず私の手で成し遂げる」
と、断言している。憲法遵守義務を帯びた国家公務員である内閣総理大臣が、その肩書を背負った会見で、憲法改正の決意を語るのは、端的に憲法違反であり、たとえて言うなら、野球選手が試合中にルールブックの書き換えをしたに等しい暴挙だ。
しかも、私たちの記者諸君は、この発言を許してしまっている。だとすれば、まず、最初に手をつけるべきなのは、腰抜けの番記者たちの粛清なのであろうな、と、私は半ば本気でそう考えている。
以上です。お目汚しでした。
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