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2019/07/29

松本人志二題

松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。

いずれも、コアマガジン社が刊行しております「実話BUNKAタブー」という月刊誌に、オダジマが連載している「電波品評会」という1ページコラムのコーナーに掲載したテキストです。

1本目の、「たけしvs松本」が2017年10月号、2本目の「松本vs太田」が2019年7月号の掲載だったはずです。

 

【北野武 vs 松本人志】

 

北野武 vs 松本人志
  北野武 松本人志
言語能力 ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
批評性 ☆☆☆☆ ☆☆
教養 ☆☆☆☆ ☆☆
ヤンキー度 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 

 上原多香子問題へのフジテレビからの圧力を示唆したツイートや、日野皓正の体罰へのコメントなど、ここしばらく、松本人志の発言が炎上するケースが目立っている。原因は、ひとことで言えば、本人がご意見番のつもりで述べたコメントや、批評的だと思って発信しているツイートが、いちいち凡庸だからだ。
 本稿では、どうしてこんなことになってしまったのかを検証するべく、比較対象として、ご本人のロールモデルと思われる北野武を配した上で考えてみる。
 まず「言語能力」は、両人とも非常に優秀だ。ただ、たけしの言葉が散文的であるのに対して、松本の繰り出す言葉はあくまでも口語的だ。にもかかわらず、「空気読む」「上から目線」「ドヤ顔」といった、現代社会への根源的な批評を含んだ新語は、むしろ松本の口から出てきている。まあ、天才なのだろう。
 とはいえ「批評性」は、たけしの圧勝だ。時事、社会、政治、文化、芸術、歴史など、あらゆる分野に関して、独自の視点を持っているたけしと比べると、反射神経だけでものを言っている松本の言葉はひたすらに浅薄だ。この批評という作業への自覚の欠如が、映画監督としての作品の優劣として如実に露呈している。ステージという一回性の魔法の中で揮発的な言葉のやりとりを繰り返すお笑いの世界では、本人の存在感が批評性を放射する奇跡も起こり得るわけだが、ひとつひとつのカットを意識的に積み上げることでしか創作の質を確保できない映画の世界では、粘り強い思考力と一貫した批評的知性を持たない人間は何も残すことができない。
 三番目の「教養」もたけしと松本では比較にすらならない。口では無頼なことを言いながらも、いたましいまでの勉強家であるたけしとは対照的に、松本は、文字通りの天才として、かれこれ30年以上、自分の才能の上にあぐらをかき続けている。それを可能ならしめた才能の巨大さは、たしかに稀有なものだが、結果としてもたらされている人間としての内容の希薄さは、もはや相方ですらカバーできない。
その点、一定の基礎学力を備えているたけしは、自分に何が欠けているのかを自覚している点で、教養人の条件を満たしている。ほとんど何も知らないがために無駄な全能感を抱くに至っている松本の惨状に、たけしのような人間は簡単には転落しないだろう。
 最後の「ヤンキー度」だが、これは二人とも満点だ。
 多少現れ方は違っているが、二人がヤンキー美学を信奉する人間であり、彼らの持ち前の笑いのセンスが、ホモソーシャルの内部で痙攣的に繰り返される暴力衝動に根ざしたものである点は、みごとなばかりに共通している。腕と度胸と現場感覚を信頼していること、仲間内の信義を最上位に置いていること、肉体性を持たない言葉を信用しないこと、権力勾配のある場所でしか笑いを生み出せないことなどなど、彼らの世界観ならびに人間観は、どれもこれも任侠の世界の男たちの地口軽口から一歩も外に出ていない。
 もっとも、たけしも松本も、お笑いの世界にいたことでヤンキー化したわけではない。むしろヤンキーだったからこそ笑いの世界でチャンピオンになれたのであって、つまりこれは、元来、お笑いはヤンキーのものだったというお話に過ぎない。マッチョでない笑いは二丁目でしか受けない。私は善し悪しを言っているのではない。これは仕方のないことだ。
 近年、深夜帯のテレビで、オネエの皆さんやゲイ的な笑いが存在感を増しているのは、東西のお笑いのキングが、いずれもあまりにもマッチョであることへの反動なのだね。きっと。
(2017年9月9日執筆)

 

【松本人志 vs 太田光】

 

松本人志 vs 太田光
  松本人志 太田光
教養 ☆☆ ☆☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆ ☆☆☆
共感能力 ☆☆ ☆☆☆☆☆
人脈形成力 ☆☆☆☆ ☆☆

 

 川崎での無差別殺人事件に際しての、ダウンタウン松本人志のコメントと、爆笑問題太田光のコメントが対照的だったことが話題になっている。松本が「凶悪犯は不良品」という端的な犯人罵倒のコメントを発したのに対して、大田は「そういう思いにかられることは誰しもあって、自分がそういう状態から立ち直ったのは、ピカソの絵に感動したからだった」という自らの体験談を披露している。
 それぞれの言葉への賛否は措いて、この二人が対照的な立ち位置の芸人であることは万人の認めるところだろう。
 まず「教養」だが、これは文句なしに太田の勝ちだ。松本には日本のマトモな大人としての基礎教養が欠けている。一方、太田は勉強家で、日々様々な分野の情報収集を怠っていない。結果として、20代の頃まではたいして目につかなかった両者の教養の差は、50代を迎えて、取り返しのつかない格差となって表面化している。
 次の「独創性」は、松本に軍配があがる。この男の場合、なまじの教養が身についていないことが、かえって余人の追随を許さない独自の発想を生む土壌になっている。一方、太田のネタは、見事ではあっても先人の業績を踏まえたアイディアで、その点で独創性には乏しい。
 三番目の「共感能力」は、他人の気持ちを汲み取ることができるかということなのだが、この点において太田の能力は突出して高い。彼は、金持ちや貧乏人というありがちな設定だけでなく、いじめられっ子や自殺志願者、ブスといった虐げられた人々や、美人、権力者、スターなどなど、あらゆるタイプの人間の内面をかなり正確に自分の中に取り込む能力を備えていて、そのことが彼の不思議な芸域の広さを支えている。一方、松本は他人の気持ちがわからない。わかろうともしていない。もっとも、その松本の一種狷介不屈な決めつけの独特さが、彼の生み出すシュールな芸に生きていることは認めなければならない。練り上げたコントや漫才のアドリブの中で松本が繰り出すどうにも素っ頓狂なキャラクターの面白さは、「決して他人を理解しない」その絶対的に孤立した人間の魂から生まれた鬼っ子のようなものだ。おそらく太田には、これほどまでに規格外れのお笑いキャラを創造することはできない。
 最後の「人脈形成力」は、芸人にとって両刃の剣となる資質だ。自分の周りに支持者や応援団を集めておかないと、演芸の世界で継続的な影響力を維持することは不可能だし、かといって、他人と安易に同調していたら肝心の芸の切っ先が鈍ってしまう。
 両者を比べてみると、50歳を過ぎていまだにオタク気分の抜けない太田は、たいした人脈を築くことはできない。若い連中の面倒を見る度量はないし、誰かの子分になる柔軟さはさらに持っていない。松本は、他人にアタマを下げることのできない男だが、自分より下の立場の芸人のためにひと肌脱ぐことは厭わない。それ以上に、彼の芸風は、仲間とツルむというヤンキーの所作の中からしか導き出されないコール&レスポンスそのもので、その意味で、人脈(あるいは「子分」)こそが、彼の生命線でもある。
 さて、普通に考えて、蓄積や教養を持たない松本の未来は暗いはずなのだが、現状を見るに案外そんなこともない。
 というのも、お笑いファンのコア層が、松本とともに順次老いて行く令和の時代のお笑いコンテンツは、老いたるヤンキーの繰り言あたりに落ち着くはずで、とすれば、松本はやはりメインストリームであり続けるだろうからだ。
 太田は老いない。
 早めに引退すると思う。
(2019年6月6日執筆)

 

以上です。おそまつさまでした。
なにぶん、dropboxからサルベージしたテキストなので、誤字・脱字などはご容赦ください。

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2019/07/19

投票日当日に新聞各紙に掲載されるかもしれない巨大な書籍広告について

 今は亡き「新潮45」2017年12月号に寄稿した拙文を再録します。

 と申しますのも、この度の参院選で、自民党が、例によって、書籍広告(電車の中吊り広告や新聞への出稿)の形で、大々的に広告を打っているという情報を得たからです。

 「新潮45」に掲載した原稿では、2017年10月中に「新潟日本」に載った広告をすべてチェックした上で、各党の戦略を見比べています。

 この時も、やはり自民党の突出は際立っていました。

 なお、以下に採録するテキストは、私の個人所有のハードディスク(←dropboxですが)に残っていた最終稿がネタ元とするコピペなので、校閲を通っていません。
 なので、いくつか間違いがあるかもしれません。その点については、よろしく、ご了承お願いいたします。

 

『越後のDNA』(仮題)

 今回は新潟日報を掘り下げてみることにした。
 理由は二つある。ひとつは、先の総選挙で、長らく保守王国と言われていたこの地域で、自民党候補が続々と落選したからだ。どうしてこんなことが起こったのか、地方紙の紙面を通して解明できる部分があるのなら、私はそれを知りたいと思っている。それが第一の理由だ。
 第二の理由は、新潟が原発の再稼働をめぐって揺れている場所だからだ。
 これまでにも、東北、九州、四国の各地方の地方紙を見てきた実感から、私は、原発に関しては、賛否はともかく、それぞれの県の地方紙のほうが、全国紙に比べて、より切実な情報を伝えている印象を抱いている。
 どういうことなのかというと、原発が立地している地域には、原発による電気に依存している地域とは別の声があるということだ。というよりも、より端的な言い方をするなら、原発の周辺には、その電気で暮らしている東京の人間があえて耳を塞ごうとしている声が渦巻いているのであって、われわれは、その声に耳を傾けなければならないはずなのだ。
 新潟は、福井県や福島県とともに、原発の存在感がことのほか大きい地域だ。とすれば、再稼働の是非についても、全国紙が拾いきれていない地元の声を、より多く伝えているはずだと考えた。
 もっとも、この二つの理由は、最終的に、ひとつにつながって行くものでもある。というのも、原発再稼働への賛否と自民党への支持/不支持は、この地方の産業経済のみならず、人情風俗政治にも大きな影響を与えてきた、いわば歴史に属する話題だからだ。
 10月の衆議院議員選挙では、全国的に自民党の優勢が伝えられる中、新潟県内は、6選挙区のうち、自民党の2勝、野党側の4勝という結果に終わった。
 23日の「新潟日報」は、23面の社会面に、『本県自民逆風強く』という見出しを掲げて、かつて保守王国と呼ばれた新潟県の各小選挙区で、自民党候補が苦戦を強いられた背景を伝えている。
 振り分けられた議席数だけを見れば、たしかに、自民党の惨敗に見える。
 とはいえ、各選挙区の得票数を仔細に見比べてみると、いずれも接戦だったことがわかる。
 たとえば、4区の金子恵美議員の場合は、公用車で保育園に送迎していた件を報道され、さらに夫である宮崎謙介議員(辞職済み)の「ゲス不倫」問題でも騒がれていただけに、敗因はもっぱら個人的な問題に帰せられる。
 新潟日報は、『野党共闘の効果証明』と題された県内の小選挙区の結果を総括する記事で、
《野党が健闘した背景には、分裂した民進党から出る予定だった候補全員が「希望の党」からの出馬を選択せず、共闘が実現したことが大きな原因だ。希望から出れば、対立候補を立てるとした共産党は新潟2区を覗いて擁立を見送り、2区でも前回候補を立てた社民党が擁立せず、民進系と連携し、各句で自民党に対抗した。−−略−−》
 という分析をしている。
 同じ日の『県内有識者に聞く』とする見出しの記事では、新潟県立大学の田口一博准教授の寄稿を仰いで、
《−−略−− 野党側が4議席を獲得したのは政党や政策への支持というよりは、候補者本人を支持しての得票のように思う。当選回数の少ない自民党議員は「自民党」としての票は集められるかもしれないが、候補者個人としての支持は得られていないといえるだろう。−−略−−》
 という見方を紹介している。
 話を整理すると、新潟での自民党の敗北は、安倍政権に対する不信というよりは、この地域独自の事情を反映した結果だと見た方が良さそうだということだ。
 県内の投票率は、山形県に次いで全国2位の62.56%を記録している。前回の52.71%を9.58ポイント上回っていることからもうかがえる通り、有権者の関心は高かったといえる。
 投票率の高さの理由として第一に考えられるのは、当然、原発の再稼働問題への関心だと思うのだが、新潟日報は『原発政策 ぼやける争点』という18日の記事の中で、必ずしも原発問題が争点になっていないという見方を示唆している。
 この記事は、小見出しで
『自民候補「脱原発」、野党候補「原発ゼロ」 似通う主張 論戦は低調』
 と、多くの議員が、演説の中で原発問題への明確な言及を避けている現状を紹介し、記事本文では
《−−略−− 新潟日報社が、各候補に柏崎刈羽原発の再稼働問題や、原発の将来的な位置付けについて聞くと、与野党の主張の違いが見えにくい実情が浮かび上がった。 −−略−−》
 として、選挙戦の実情を以下のように伝えている。
《−−略−− 野党候補は、東電福島第一原発事故や避難計画などに対して県が進めている検証作業を尊重する考えを示している。そのうえで、再稼働を「容認できない」「阻止する」とし、再稼働路線を進める自民との違いを強調している。しかし自民候補の多くも県の検証を尊重する立場だ。党公約には「原子力規制委員会の基準に適合すると認められた場合、再稼働を進める」とあるが、規制委の事実上合格が出た現時点でも「再稼働に反対」と話す議員がいる。 −−略−−》
 思い出すのは、はるか30数年前、新潟出身の友人が、
「うちのあたりじゃ自民党と社会党の選挙演説はまったく同じだよ」
 と言い切っていたことだ。
 与党であれ野党であれ、東京にある党本部がどんな方針を打ち出していたところで、いざ選挙になれば田舎の候補は、田舎の選挙民の気に入ることしか言わない、と、彼が力説していたのは、そういう主旨の話だったわけなのだが、状況は、どうやら現在でも変わっていない。
 たしかに、有権者の関心は高い。
 でも、争点はぼやけている。
 そして、候補者は有権者の聞きたいことを言う。
 それだけの話なのだ。
 原発問題への関心が高いことは、新潟日報の紙面を見れば即座にわかる。
 ただ、その「関心」の中身は、私のような県外の部外者が抱く予断とはかなりかけ離れている。
 たとえば、新潟5区で自民党から立候補した泉田裕彦候補は、つい1年ほど前まで、新潟県知事だった人物だ。
 その泉田氏が、県知事時代、柏崎刈羽原発の再稼働を進めようとする中央政府ならびに東京電力に対して、ことあるごとに反発していたことは新潟県民であれば誰もが知っているところだ。が、その泉田氏は、今回の選挙で、なぜか原発再稼働を目指す自民党から立候補して、しかも当選している。
 23日の新潟日報は、
《知事時代は東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に慎重と見られており、再稼働を目指す自民党からの出馬を疑問視する有権者も多かった。支援者らに「原子力政策の)欠陥を与党の中から直すという約束を果たす」と声を張り上げた。》
 と、若干の皮肉をこめた書き方で、泉田氏の言い分を紹介している。
 まあ、こういう書き方をするほかにしかたがなかったのであろう。
 というのも、もともと、泉田氏と新潟日報社の間には、遺恨めいたいきさつがあるからだ。
 両者の行き違いは、2016年の新潟県知事選で、出馬の意思を表明していた現職の泉田氏が、選挙を一ヶ月後に控えた8月末に、突如、日本海横断航路のフェリー購入問題をめぐる新潟日報の批判的な報道を理由に立候補の撤回を言い出した時点にさかのぼることができる。
 この出馬撤回について、新潟日報のウェブ版、「新潟日報モア」は、「選挙態勢整わず 本紙に責任転嫁」という見出しで記事を書いている。
 で、この記事に対して、当然、泉田氏は、あるメディアのインタビューで正面からの反論を試みている。
 県知事選の不出馬に関して、どちらの言い分がより真相に近いのか、いまとなってはよくわからない。が、ともあれ、県民から見て、泉田氏の原発への態度がわかりくいことはたしかだろう。
 一方、その2016年の県知事選に急遽立候補・当選して、現在、新潟県知事の職にある米山隆一氏は、もともと、2012年の衆院選、2013年の参院選に、いずれも日本維新の会から立候補して落選している人物だ。
 彼は、国政選挙の選挙戦では、いずれも原発の再稼働を訴えていた。ところが、県知事選の選挙では、「東京電力福島第一原発事故の検証なしに、柏崎刈羽原子力発電所の再稼働の議論はできない」と主張し、「泉田路線」の継承を掲げて当選を果たしている。
 現在、米山知事は、安倍政権のさまざまな施策に批判的なツイートを連発する、反政権側勢力の有力な論客として、一定の地位を築いていたりもする。
 自分の置かれている立場次第で、主張の内容を変えるものの言い方を「ポジショントーク」と呼ぶ。私の目には、泉田、米山両氏の現在の主張は、いずれもポジショントークの典型に見える。
 泉田氏と米山氏は、ともに、非常な能弁家だ。知事時代の泉田氏が、東電の詭弁を丁寧に論破していく手腕には、毎度感心させられたものだし、知事就任以来の米山氏が、安倍政権の国会運営をたしなめるカタチで連発しているツイートの論旨の鮮やかさにも毎度唸らされている。
 その意味では、私は、この二人の政治家の力量を高く評価している。
 が、その、二人の、いずれ劣らぬディベート上手な政治家が、ともにポジショントークの達人であることを、われわれはどう受けとめるべきなのだろうか。
 もしかすると、新潟というのは、演説の達人を育む土地柄で、だからこそ、彼の地の政治風土は、常に論争的たらざるを得ないということなのだろうか。
 はるか昭和の時代を振り返ると、新潟には、田中角栄という不世出の弁舌家がいた。この人の演説は、内容の面白さもさることながら、語り口の自在さ、声のトーンの渋さ、抑揚と遅速が醸すリズム感の魅力など、どこをどう切り取っても常に第一級の話芸だった。
 新潟の雪を、東京の電気を生む資源だとする(←雪解け水が水力発言の動力源になるから)角栄氏独自の理屈は、よくよく考えてみれば詭弁以外のナニモノでもないのだが、その発想の大胆さと不思議なユーモアで、多くの人を魅了し、最終的には納得させたものだった。また、彼は、地方の政治家が地元に利益誘導をすることを、「列島改造」というスケールのデカい風呂敷を広げてみせることで、正当化してしまう手品を発明した人物でもあった。
 おそらく、こんなことのできる政治家は二度と現れないだろう。
 かつて、新潟が保守王国と呼ばれていた時代に、新潟の政治風土が保守的であったのだとすると、現在の、全国でも最も与党側の敗北が目立つ新潟の現状は、リベラル的なのだ、と、理屈の上では、そういうことになる。
 が、私は、その種の分析を信じない。
 田中角栄が健在だった時代、新潟の人々は、保守だとか革新だとか、あるいは進歩的だとか反動的だとかいうこととは関係なく、単純に、田中角栄のビジョンに乗っかったのだと思う。
 その田中角栄の掲げたビジョンとは、都市からの利益誘導であり、新幹線の延伸であり高速道路の建設であり、原子力発電所の誘致と、それらのもたらす巨大な経済効果による地域経済の活性化という物語だった。
 で、それらは、ほんの20年ほど前までは、うまく回転しているように見えた。
 ところが、その物語のエンジンであるはずの原発には、震災以来大きな疑問符がつくことになった。
 となると、保守だとかリベラルだとかといった理念上理屈とは別に、原発それ自体が、ダイレクトな争点になる。
 原発をかかえた土地の政治は、だから、政党の理屈とは無縁な、オールオアナッシングの選択で動くことになる。
 ところが、例によって、政治家はポジショントークしかしない。
 しかも、弁の立つ政治家ほど、その場に合わせた「うまいこと」しか言わない。
 新潟の人々は「うまいこと」を言う政治家が好きなのだというと、バカにした言い方に聞こえるかもしれないが、私は、耳の肥えた有権者である新潟県民は、政治家の演説の内容を信じていないからこそ、その弁舌のテクニックに拘泥する、と、半分ぐらいはそう考えている。
 いずれにせよ、新潟の政治家は雄弁だ。
 10月18日の朝刊で、新潟日報は、柏崎刈羽原発についての世論調査の結果を掲載している。
 それによると、再稼働について、「反対」「どちらかといえば反対」という否定的な回答の割合は、58.6%で、「賛成」「どちらかといえば賛成」の計22.3%の約2.6倍にのぼっている。
 面白いのは、原発が立地する柏崎市を中心としたエリアで、再稼働に否定的な回答が52.6%と比較的低く、むしろ肯定的な回答の割合が29.2%と、県内全体よりも7ポイントも高かったことだ。
 さらに記事は、
《対照的に、原発から半径30キロ圏の周辺地域では、原発に否定的な回答の割合が高く、立地地域との温度差が際立った。30キロ圏の見附市を含むエリアで66.1%、妻べしを含むエリアで66.8%、十日町市を含むエリアで59.3%が再稼働に否定的だった。−−略−−》
 と、細かい数字を紹介している。
 思うに、原発については、立地地域の地域の住民と電力の供給を受けている都会の人間が、ともにある意味ポジショントークを繰り返しているだけでなく、立地地域の住民の内部にも、原発の従業員や関連産業に従事する当事者と、そうでない人々の間に、立場の違いがある。早い話、被害想定地域にも距離や条件によるグラデーションがあって、それに応じた賛否があるということなのだと思う。
 そんなわけで投票日前日の10月21日の新潟日報の紙面には、
『どうする? 再稼働』
 という巨大な活字を掲げた、「さようなら原発1000万人アクションin新潟」「新潟県原爆被害者の会」「緑の森を育てる女性の会」「なくそう原発・新潟女性の会」の連名による全面広告(朝刊14面)が、大々的に掲載されている。
 これは、直接には選挙のための広告ではないが、広告を出稿した側の人々は、十分に選挙を意識している。
 地方紙の広告欄には、そういう狙いの明らかな、あるいは、ターゲットを絞ったものが載ることがある。
 新潟の場合、拉致被害者の話と原発の話が異彩を放つ。
 拉致の問題は、日本海側の新聞を見るといまだに風化していないことがわかる。
 というよりも、東京のメディアが風化させている問題を当地の新聞は粘り強く訴えていると言った方が適切なのかもしれない。
 今回は、主に選挙期間中の新聞をあたっただけなのだが、その間にも、「拉致 40年目の真実」という一面の半分以上を使った連載記事が一週間以上にわたって
掲載されていたし、11月18日に開催される「忘れるな拉致県民集会」という新潟日報社、新潟県、新潟市の共同主催によるイベントの広告も出稿されている。
 当然、政党の広告も出ている。
 投票日前日の10月21日には、自民(36面)、共産(35)、幸福(11)、立憲民主(39)、社民(29)の各党が、それぞれ広告を掲載している。
 投票日当日の22日には、自民党の広告だけが出稿されている。
 ま、資金力の差ということなのだろう。
 印象深かったのは、投票日当日の22日に、2つの大きな書籍広告が掲載されていたことだ。
 ひとつは、飛鳥新社から発売された『「森本・加計」徹底検証』という書籍(小川榮太郎著)の4段抜きの広告で、広告スペースの中には、
「スクープはこうして捏造された」
「本当は何が問題だったのか?−−−−明かされる真相」
「朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」
「安倍総理は「白さも白し富士の白雪だ!!」前愛媛県知事 加戸守行」
「発売たちまち大増刷!!」
「別々の問題をまったく同じ手法で事件化する「虚報の連鎖」」
 という活字が踊っている。
 もうひとつは、『ついにあなたの賃金上昇が始まる!』(高橋洋一著・悟空出版の広告だ。この広告には、
「アベノミクス継続で日本経済は必ず大復活する」
 という惹句とともに、
「フェイク報道にだまされるな!」
 として、
? 安倍首相の疑惑隠し解散
◎ 北朝鮮本格的危機到来で解散は今しかなかった
? 企業が儲けても国民は苦しい
◎ 来年から本格的な賃金上昇局面になる
?「森友・加計」は安倍のおごり
◎森友は財務省のチョンボ、加計は三流官庁文科省の完敗
 といった「?」=「フェイク報道」と「◎」=「?橋教授の検」証結果」の対照項目が、7つ列挙されている。
 いくらなんでも露骨な選挙運動に見えなくもないのだが、おそらく法律的には、広告の枠内の話で、掲載が投票日当日であっても大丈夫だという判断なのだろう。
 まあ、大丈夫ではあるのだろうが、これはみっともないと思う。
 われわれは、うまいことを言ってくれる政治家を待望している。
 ポジショントークであっても、だ。
 

 以上です。おそまつさまでした。

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