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2019/01/29

革命的半ズボン主義の栄光とその東アジア的停滞について

ついでなので、橋本治さん関連のテキストを採録しておくことにします。

テキストファイルに付記されている記録によれば、当稿は、2011年の6月のはじめに、日経ビジネスオンラインの連載のために書かれた文章です。
内容は、橋本治氏の 「革命的半ズボン主義宣言」を下敷きに、当時話題になっていた「スーパークールビズ」と呼ばれるオフィスでの軽装を推奨する運動について論評したものです。
なんだかとっちらかった文章で、大威張りで再掲載するようなものではないとも思ったのですが、今年の1月から、「日経ビジネスオンライン」のサイトがリニューアルされて、「日経ビジネス電子版」に看板を掛けかえたことにともなって、2015年以前の連載記事には(あくまでも「いまのところ」ということですが)リンクが張られていない状態になっています。なので、読者は、古いエントリーを読むことができません。
個人的には、このこと(旧「日経ビジネスオンライン」の2015年以前の記事や文章や資料がアクセス不能になっていること)を残念に思っています。
なので、若干の抗議の意味もこめて、以下、古い原稿をアップしておきます。



『スーパークールビズと革命的半ズボン主義の間』
 

「スーパークールビズ」について、私の周辺にいる同世代の男たちは、異口同音に反対の意を表明している。
「くだらねえ」
「ポロシャツとか、何の罰ゲームだよ」
 意外だ。
 就業経験の乏しい私には、どうしてポロシャツが罰ゲームなのか、そこのところの機微がよくわからない。
「どうしてダメなんだ?」
 彼らは説明する。
「あり得ないんだよ。単純な話」
「ポロシャツで会社行くくらいなら、いっそフーテンの寅で行く方がまだマシだってことだよ」
「でも、お前だって普段着からネクタイってわけじゃないだろ?」
「だからさ。たとえば、お前がどこかの編集者と打ち合わせをするとして、パジャマで出てこいって言われたら、その通りにするか? しないだろ?」
「……話が違わないか?」
「いや、違わない。オフィスでポロシャツを着るってことは、自由業者の生活経験に換算すれば、パジャマでスターバックスに行くぐらいに、赤面なミッションだと、そういうことだよ」
 私はまだ納得がいかない。
「そうかなあ。アロハにサンダルで出社したい社員だっていると思うぞ」
「お前は何もわかってないんだよ。プー生活が長かったから」
「アロハだのサンダルだので出社したいと思ってるのは、出社拒否症予備軍の能無しだよ」
「でなきゃ、じきにやめるつもりでいる半端者。窓際のトッド・ラングレン」
「釣りバカ日誌の浜ちゃんとかはどうだ?」
「お前な。ありゃファンタジーだぞ。不思議の国のアリスと同じジャンルのパラレルワールドのお伽話。それぐらいわかれよ」
「ハマサキはともかく、社長があんなヤツと仲良しだったりする会社は2年で倒産するな」
 なるほど。了解した。
 スーパークールビズは定着しないだろう。若手社員の中には歓迎する組の人間もいるのだろうが、オヤジ連中は黙殺する。とすれば、このプランはおシャカだ。というのも、ビジネスはオヤジのフィールドだからだ。オヤジに嫌われた商品が成功することはそんなに珍しくない。が、オヤジの歓心を買わないビジネスマナーが標準化することはどうあってもあり得ない。
 クールビズ問題は、ファッションの問題ではない。体感温度の問題でもない。エアコン設定温度の高低でもなければ、省エネルギーの是非でもない。オフィスにおけるあらまほしき服装をめぐる問題は、職場のヘゲモニーの物語であり、地位とディグニティーと男のプライドを賭けたパワーゲームであり、結局のところオヤジがオヤジであるためのマインドセッティングの問題だ。
 ということであれば、ファッション業界の人間に意見を求めたところで、何の役にも立たない。諮問委員に学者を招いても無駄だ。ましてや、官僚なんかに、意味のある仕事ができるはずもない。
 肝要なのは、自分たちが背広を着ている理由について、そもそもの源流にさかのぼって、根本から問い直すことだ。そうしないと、正しい答えにたどりつくことはできない。
 わたくしども日本のビジネスマンは、なにゆえに背広を羽織り、革靴を履き、なぜ、ネクタイを締め、テカテカの顔のアブラを150円のハンカチで拭っているのか。そしてまた、どうしてオレらは、その顔のアブラを右手経由でマウスの表面に塗りたくりながらでないと、執務を続行することができないのか。そういったあたりの諸々について、よろしく考えを深めなければならない。
 答えは、「革命的半ズボン主義宣言」という本の中に書いてある。私はこの本を、20代の頃に読んだ。著者は橋本治。初刷の発行は、1984年。1991年には河出書房新社から文庫版が出ているが、いずれも既に絶版になっている。Amazonを当たってみると、版元にも在庫がない。名著なのに。
 というわけで、手元に実物が無いので、詳細ははっきりしないのだが、私の記憶しているところでは、本書は、「日本の男はどうして背広を着るのか」ということについて、まるまる一冊かけて考察した、とてつもない書物だった。以下、要約する。
1. 日本のオフィスでは、「我慢をしている男が偉い」ということになっている。
2. 熱帯モンスーン気候の蒸し暑い夏を持つこの国の男たちが、職場の平服として、北海道より緯度の高い国の正装である西洋式の背広を選択したのは、「我慢」が社会参加への唯一の道筋である旨を確信しているからだ。
3. 我慢をするのが大人、半ズボンで涼しそうにしているヤツは子供、と、うちの国の社会はそういう基準で動いている。
4. だから、日本の大人の男たちは、無駄な我慢をする。しかもその無駄な我慢を崇高な達成だと思っている。暑苦しいだけなのに。
5. 実はこの「やせ我慢」の文化は、はるか昔の武家の時代から連綿と続いている社会的な伝統であり、民族的なオブセッションでもある。城勤めのサムライは、何の役にも立たない、重くて邪魔なだけの日本刀という形骸化した武器様の工芸品を、大小二本、腰に差してして出仕することを「武士のたしなみ」としていた。なんという事大主義。なんというやせ我慢。
6. 以上の状況から、半ズボンで楽をしている大人は公式のビジネス社会に参加できない。竹光(竹製の偽刀)帯刀の武士が城内で蔑みの視線を浴びるみたいに。なんとなれば、わが国において「有能さ」とは、「衆に抜きん出ること」ではなくて、むしろ逆の、「周囲に同調する能力=突出しない能力」を意味しているからだ。
 以上は、記憶から再構成したダイジェストなので、細かい点で多少異動があるかもしれない。話の順序もこの通りではなかった可能性がある。でもまあ、大筋、こんな内容だった。
 橋本氏の見解に、反発を抱く人もいることだろう。極論だ、とか。自虐史観だとか。しょせんは局外者の偏見じゃないかとかなんとか。
 でも、私は鵜呑みにしたのだな。なんと素晴らしい着眼であろうか、と、敬服脱帽いたしましたよ。ええ。
 だから、一読以来、私の考えは、こと背広については、橋本仮説から容易に離れることができない。
 そういう目で見てみると、スーパークールビズは、興味深い試みだ。
 もしかすると、これは日本のビジネスの世界を根底から変えるかもしれない。
 「革命的半ズボン主義宣言」の最終的な結論は、タイトルが暗示している通り、「半ズボン姿で世間に対峙できる人間だけが本物の人間」である旨を宣言するところにある。
 ということはつまり、スーパークールビズが額面通りにオフィスを席巻して、日本中の男たちがカジュアルウェアで働くことになるのだとしたら、わが国のビジネスシーンは、それこそ「革命的」な次元で変貌するはずなのだ。
 さてしかし、平成の背広は、「やせ我慢」の象徴であるのとは別の意味を獲得しつつある。
 というのも、少なくとも21世紀にはいってからこっち、オフィスのエアコンディショナーは、明治大正昭和のそれよりはずっと涼しい、オヤジオリエンテッドな温度に設定されているからだ。
 実際、ネクタイ慣れしたオヤジにとって、オフィスはそんなに暑苦しくい場所ではない。逆に、半袖ブラウスにスカート姿のOLさんたちが寒い思いをしている。で、寒がりの女性たちはロッカーにサマーセーターやカーディガンを常備していたりする。
 両者の間には隠れた暗闘が絶えない。
「暑い暑い」
 と、これ見よがし(←オヤジの真意は「オレらが暑い外回りをして稼いでいるおかげで、君たち内勤の人間はエアコンの効いた室内で養われているのだぞ」といったあたりの事情を強調するところにある)に汗を拭きながら、部屋にはいるなり事務所のエアコンの設定温度を一気に5度も下げるトップセールスの横暴について、冷え性のOLさんたちは、呪いに似た感情を抱いている。
「うわっ、汗ダルマが帰ってきた」
「ってか、汗臭観音じゃね?」
「浅草なら、仁王でしょ」
「ははは。ちからもないのに におうぞう」
「あーあ、エアコンの前にニオウダチだよ」
 と、彼女たちがどんなに陰口を叩いたところで、温度設定権は、職場権力のしからしむるところに帰することになっている。暑がりのデブのオヤジの信じられない漏エネセッティングに、だ。
 背広は権力だ。
 同時にそれは、権威の表象でもある。
 だから、オヤジはそれを簡単に脱ぐわけにはいかない。
 脱いだらさいご、魔法がとけてしまうからだ。王子様がヒキガエルに戻るみたいに。
 職場の服装は、地位を象徴している。逆に言えば、地位を表現しない服装は、働く者の身構えとして不適格だということになる。
 料理人が帽子の高さで序列を表現し、相撲取りの世界が番付に応じた細かい服装規定を引き継いでいるのは、気まぐれや偶然の結果ではない。彼らの世界は、そういうふうにして成員の力関係を確認していないと正しく機能しない。そういうふうにできているのだ。板場の見習いがシェフに向かってタメ口をきくようなレストランは信用できない。そういう調理場で作られるメニューは料理に不可欠な精妙な統一を実現することができない。地位はそのまま指揮系統であらねばならず、指揮系統は完璧なレシピを実現するためのシステムとして、常に正確に機能しなければならない。
 料理人や相撲取りの世界に限らず、どこであれ、階級社会は、一目見て誰にでも分かる地位標識を必要としている。軍服は紀章の星の数で端的に階級の上下を内外に宣告している。ヤクザもまた、独自のルールでチンピラと大物の装束を厳しく峻別している。
 ずっと以前、飯干晃一(だったと思う)が書いていたことだが、戦後、東映のヤクザ映画がロードショーされるようになって以来、ヤクザの服装から地域差が消滅したのだという。理由は、日本中のヤクザが映画の中のヤクザの服装を模倣するようになったからだ。
 「この人はヤクザだぞ」ということが、万人(やくざ仲間にもカタギの衆にも)に対して明らかでないと、彼らの稼業(威圧)は、成立しない。その意味で、映画の普及は、地域によってまちまちだったヤクザの記号(雪駄、ダボシャツ、白スーツ。黒スーツ。先のとんがったコンビの靴。襟のデカいシャツなどなど)を、標準化する効果を持っていたのである。
 オフィスのスーツも、軍服ほど露骨ではないものの、階級に沿って標準化されている。ビジネスの世界に生きる人間は、スーツを見ただけで、それを着ている人間の地位と、趣味性と、人格のありようを瞬時に看取できなければなければならない。それがビジネスのセンスというものだ。
 地位は視覚化される。
 新入社員は、独身の若者らしい寝ぐせを帯びて出社し、課長は課長にふさわしいネクタイを選ぶ。もちろん執行役員は一目でそれとわかる仕立てのスーツで朝礼に現れる。そういう部分で行き違いがあったのでは職場の秩序は維持できない。
 かくして、血肉化されたサル山構造は、美意識に昇華する。
 とあるメガバンクの支店に勤務する入社3年目の行員・山田某25歳は、自分が選ぶべき背広の材質と値段と色について、もはや迷わない。それは、あまりにも一目瞭然だからだ。支店長に連れられて行くキャバクラでおしぼりを受け取る順番を間違えないようになり、ボックス席に座る席順を自然に選べるようになった頃から、彼は、ビジネスの勘所を理解するようになったのだ。スーツの選び方は、そうしたあまたあるビジネスマナーのうちのひとつに過ぎない。
 ところが、クールビズには、スタンダードがない。無論、美意識も備えていない。
 と、山田は何を着ていいのかわからない。課長がポロシャツだとして、オレがポロシャツでかまわないのか、そこのところの判断がつかない。とても困る。
 
 課長も苦慮している。選ぶも選ばないも。オッサンに似合うカジュアルなんてものは、そもそも原理的にあり得ないからだ。なんとなれば、オッサンは、それ自体として公的な存在で、地位であり役職であり、それ以上でも以下でもない職場の果実だからだ。
 オヤジには私生活がない。だからカジュアルファッションも存在しない。極めてロジカルなりゆきだ。
 もちろん、日曜日がある以上、課長にだって休日の服装はある。でも、日曜日の課長は課長ではない。少なくとも人前に出して良い姿の人間ではない。
 でなくても、40過ぎの腹の出たオッサンであるオレが、ポロシャツなんか着たらどういうことになる? オレだって自分が見えてないわけじゃない。最悪な結果になる。そんなことは、はじめからわかっている。ポロシャツにチノパンみたいなだらしない格好をして見栄えがするのは、若いヤツらだけだ。どうせ、山田あたりは5割増しぐらいに輝いて見えるんだろうし、それに比べたらオレなんか話にも何にもなりゃしない。一緒に並んだら映画俳優と付き人みたいな絵柄になる。冗談じゃない。
 オフィスにおいて、職責にかかわるすべての要素は、地位に沿ってソーティングされることになっている。逆に言えば、地位と矛盾する要素は、オフィスから排除される。
 たとえば、職場のスポーツとしてゴルフが好適なのは、ゴルフの力量が、おおむねキャリアと資金力と道具の善し悪しに比例するからで、ということはつまり、若いヤツらより部課長の方がスコアが良いからだ。
 その点、野球はダメだ。野球部のエースだった副部長の速球を、二年目のバカが右中間に弾き返したりする事故を、野球の神は防ぐことができない。そんな競技を総務部が主催することはできない。
 サッカーは論外。昨日まで学生だった新入社員がエースストライカーになって、10年目より上の会社を支えている一番重要な社員たちが補欠になってしまう。そんな暴挙が許されて良いはずがないではないか。
 ここまで話をすればおわかりだろう。クールビズがダメなのは、地位を表現していないからだ。
 表現しないどころか、無神経なカジュアルは地位を逆転させる。
 Tシャツやアロハみたいなシンプルな衣服は、素材感や高級感よりも、より率直に、着ている人間の体型をありのままに描写する。と、若い社員ほど魅力的に映る結果になる。こんなものを会社が公認するわけにはいかない。スラっとしていて無駄な肉がついてなくて、機敏でセクシーでしなやかな部下に対して、だぶだぶのぶよぶよでよたよたした鈍物のオレが何を命令できるというのだ? できっこないじゃないか。
 
 結論を述べる。
 スーパークールビズを成功させるためには、なんとかして序列を持ちこまなければならない。
 たとえば、ダンヒルのアロハだとかバーバリーの短パンだとかを大々的に流通させる。カジュアルのブランド化。文春の広告特集とかがやっているアレだ。ヴィトンのスニーカー6万5000円だとか。悪い冗談みたいに見えるが、あれはあれで案外現実的なのかもしれない。
 役員クラスには、上下で40万円ぐらいする超高級リゾートウェアを着てもらう。
 ここにおいて、ようやくエレガンスが発生する。男のエレガンスは、シェイプやカラーには宿らない。あくまでも値段と肩書き。そこにしかエレガンスの拠り所はない。
 と、40代の課長で、5万円のアロハに3万5000円の革サンダルぐらいな見当になる。ボタンは白蝶貝に金の縁取り。そういうところに抜け目なくカネをかけて、しかるべきディグニティーを憑依させる。
 三年目の山田はユニクロ。ポロシャツの左胸にはケチャップの食べこぼしをあしらい、単パンは、あえてサイズ違いの一品を選ぶ。それぐらいのことはしないと上司のご機嫌を取り結ぶことはできない。
 とはいえ、道のりは遠い。
 「このアロハから見て、この人は課長クラスだな」という審美眼ないしは鑑識眼が、内外に共有されるようになるまでには、どう短く見積もっても五年やそこらはかかる。
 短パンみたいなブツを通して取締役の威厳を感じ取るに至る社畜な感受性が、若い世代のビジネスパースンの裡に果たして本当に育つのかどうか、先行きははなはだ心もとない。心配だ。
 
 スーパークールビズのニュースを伝えるキャスターが、どこの局のどのニュースを見ても、やっぱりネクタイをしている一点を見ても、この運動が、お役所のイクスキューズ(彼らはいつもあらかじめの弁解を用意している)に過ぎないことは明らかだ。
 これではダメだ。
 本当なら、ニュースキャスターみたいな人たちが率先して、短パンでニュースを伝えないといけない。
 そして、半ズボン経由のニュースを、われら視聴者は、嘲笑せずに受け止めなければならない。私たちにそれができるだろうか。
 
 というよりも、真に重要なのは、仮にスーパークールビズが成功したとして、そのコロニアルな見かけの職場が、きちんとしたクオリティーを保てるのかどうかだ。
 山下清ライクな立ち姿で働きながら、それでもなお世界に冠たるホスピタリティを達成できたのだとすれば、その時にこそ、日本のQCは世界を席巻することになるだろう。頑張れニッポン。

 「日経ビジネスオンライン」の古い原稿については、このほかの記事についても、読者のみなさんが読めるカタチでどこかにアップしておく方法があれば良いのだがと思っています。
「そんなことをしたら書籍版を買う読者がいなくなるじゃないか?」
 と?
 それはまあそうなんですが、要は、ネット上にアップされているテキストが活字版の購入を促す出来栄えであれば良いわけですよね?
 実際にどう転ぶのかはわかりませんが、ともあれ、色々と検討してみるつもりです。
 
 
 

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橋本治さんの訃報に寄せて

橋本治さんが亡くなりました。

https://this.kiji.is/462906163407635553

悲しい知らせです。

橋本治さんは、ごく若かった時期から、ずっと変わらずに敬愛してきた文筆家でした。

追悼と感謝の意味をこめて、2015年の10月に書いた原稿をハードディスクから召喚してみなさんのお目にかけることにします。

 内容は、橋本治さんが書き下ろした新作義太夫(「源氏物語 玉鬘」旅路の段より長谷寺の段)をご紹介するための文章で、2015年10月11日「花やぐらの会」《鶴沢寛也(女流義太夫三味線)さん主催の女流義太夫のイベント(@紀尾井小ホール)》のパンフレットに掲載されたものです。


 芝居を観るのはうじうじした人間で、自分は、竹を割ったような性格なのだから、そういうものとは無縁なのだと、ごく若い頃から、ずっと、そう思っていた。

 本当は違う。私は、雨が降ると、いつまでも窓の外を眺めている。そういう男だ。人一倍湿っぽいものに惹かれる。だからこそ、自分を湿らせるものを避けているのだと思う。

 当然、義太夫とも無縁だった。心中の筋立てや、愁嘆場や、激情的な人物造形などなど、受け入れがたい要素ばかりが目についたからだ。まるで自分の苦手なものを捏ねて固めたみたいな演芸ではないか。

 何年か前、はじめて女流義太夫の観客席に座ったのは、鶴澤寛也さんにご招待をいただいたからだ。義太夫節を聴きたかったのではない。三味線を聴きたかったのでもない。声をかけもらった嬉しさに舞い上がって、お断りする選択肢が頭に浮かばなかったのだ。

 それが、語りが始まり、三味線が鳴り出すと、いつしか、私は夢中になっていた。畳み掛ける台詞回しの心地よさと、言葉の隙間を縫うようにうごめき、ときに、糸の破裂音で物語の展開に句読点を穿つ三味線の色気に、時の流れを忘れていた。

 思えば、私を魅了するものは、いつも、私が嫌っているもののすぐ隣にあった。大仰でこれ見よがしな三島由紀夫の作風と、取ってつけたような日本趣味に抵抗をおぼえつつ、その一方で、彼の絢爛綺羅な言語魔術にはやはり脱帽せざるを得なかった。太宰治についても同様だ。あのわざとらしさ。度し難い自己憐憫。女々しさ。上目遣い。どれもこれも好きになれなかった。が、作品の素晴らしさには抵抗できない。大好きだ。

 そして、その彼らが紡ぐ言葉の奥には義太夫がある。というよりも、生きた韻律を奏でる日本語は、その背景に、必ずや語りの伝統を踏まえているものなのだ。

 聞けば、今回の義太夫は「新作」で、橋本治の手になる作品だという。なんという天の配剤だろうか。橋本治は、現存する日本人の中で、私が誰よりも深くその文体に敬意を抱いている文筆家であり、ほんのちょっとした短文の中にでも、常に「語り」のリズムを感じさせる当代随一の書き手だ。この人を措いて、義太夫の「新作」は、不可能だろう。

 いまからうきうきしてくる。

 ん? 義太夫なんかを聴くのは、うじうじした人間じゃないのかって?  何を言うんだ。うじうじする時間があるからこそ、うきうきできるんじゃないか。

 それに、ついでに言えばだけど、うじうじしない人間は、人間じゃないぞ。

 公演当日、舞台がはねた後、憧れの橋本治さんと歓談する時間を持てたことは、私の一生の財産になりました。

 心からご冥福をお祈りいたします。    

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2019/01/19

泣く子も黙る「地頭」の真実

 ツイッター上で、松本人志の「地頭」(じあたま)について意見を述べたところ、「地頭」という用語にいくつか反応がありました。

https://twitter.com/tako_ashi/status/1085924879944146949
https://twitter.com/tako_ashi/status/1085925292567191552
 たしかに「地頭」は、辞書に載っている言葉ではありません。
 で、解説が必要かなと思っていたわけなのですが、ふと、ずっと昔に、この言葉をテーマに原稿を書いたことを思い出しました。で、 ハードディスクからサルベージして採録することにしました。
 2009年の2月に書いたテキストです。その頃に発売された「SIGHT」という雑誌に掲載されたはずです。
 以下。ご笑覧ください。


インターネット上で「地頭」という言葉を見かけるようになったのはこの3年ほどのことだ。ちなみに「地頭」は「じあたま」と読む。「泣く子と地頭には勝たれぬ」に出てくるローカル権力者の「じとう」とは違う。

 意味は、「ナマの頭の良さ」「勉強していない状態での学力」「潜在能力としての脳の底力」ぐらい。おそらくは「地肩」(特別なピッチング訓練をしていない状態の、生まれつきの能力としての遠投能力)からの派生であろう。で、その「地頭」は、他人の学歴や特定の学校の偏差値にケチを付けたい向きが使うことの多い言葉で、たとえば、
「○学とかの附属アガリは学力的には底辺だけど、地頭で言えばガリ勉して早慶に入って来る田舎県立出よりはずっと上だよ」
「つーか私立文系とか、地頭クソだし」
「駅弁国立は地頭最低。予習復習マシンみたいな田舎の優等生を一括処理してるだけ」
 といった調子。イヤな言葉だ。というのも「地頭」は「努力」や「勉強」(の結果としての「偏差値」)よりも「血統」や「DNA」や「家柄」みたいな、生まれつきの資質を重視する人々が連発する言葉で、実態として、貧民の向上心を嗤い、低学歴の親から生まれた勉強家を揶揄し、成り上がりの金持ちを軽蔑する、ある意味貴族主義的な概念だからだ。
 で、私はこの言葉を使う人間をなんとなく敵視してきた(こう見えても努力の人だからね)わけなのだが、気がついてみると書店の店頭には「地頭」を大書した本がズラリと並んでいる。おい、地頭はブームなのか? もしかして、偏差値教育への反動は、こういうイヤらしい方向に展開しているのか?
 と思っていくつか最新の「地頭」本を読んでみた。と、なんだか話が違う。出版界でブームになっているのは「地頭力」(じあたまりょく)で、ネット上の「地頭」とは別の概念であるようだ。定義は、本によって微妙に違うが、ざっくり言えば「包括的な思考力」ぐらい。ちなみに「いま、すぐはじめる地頭力」(大和書房:細谷巧著)では『地頭力とは、仕事や人生の問題をスピーディーに解決し、さらには新しいものを創造することができる「考える力」です』と言っている。このほか、本書では、「地頭力」定義を、様々な方向から何度も塗り重ねている。たとえば、「地頭力は、フレームワーク思考力を含んでいます」「地頭力のアップには抽象化思考力の向上が有効」といった調子。
 要するに「ペーパーテスト向けの課題処理能力であるに過ぎない偏差値や、ググれば誰にでも分かる平板な情報の集積でしかない知識力や、あくまでも机上の思考能力から外に出ない知能指数とは別の、真に有効で、現実の世の中で起こるビジネス上の問題に対処する能力として機能する本当の頭の良さ」であるところの「地頭力」をアップしようではありませんか、という話だ。
 額面通りなら、魅力的な申し出だ。
 でも、本当に頭の良い人は、こんな話にはひっかからないと思う。水平思考だの、逆転の発想だの、EQだのなんだのと、昔から、「別枠の能力指標」には、常に一定の需要があったというそれだけの話だから。
 自分の頭の良さを、世間に流通している俗っぽい(っていうか、オレを「馬鹿」に分類している)物差しとは別の、新機軸の尺度で測定し直したい、と思っている人々は、たぶんアタマが良くない。
 本当に頭の良い人は、自分の能力を測ったり誇示したりしないし、増量をはかったり偽装しようとも思わない……というのが今回の結論。うん。天頭力(笑)と名付けよう。



以上です。本年もよろしくお願いいたします。
 

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