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2014/05/14

「女性差別広告」への抗議騒動史

 熱で眠れないので。
 先日来、フェミニズム運動にかかわっておられると思しき女性から、当方のツイッター上で、質問を受けました。
 何人かの方に自分の発言を説明し、質問に回答するなど、私なりに対応をしたのですが、依然として、誤解は解けていません。
 もっとも「誤解」と言っているのは私の側からの言い方で、先方は、
「誤解もなにも、オダジマが、バックラッシュ活動に励むアンチ・フェミ論者であることは動かしがたい正確な認識だ」
 と言うかもしれません。
 ただ、私の側からすると、現在、ツイッター上に流れている情報に対して、いくつか反論したいポイントがあるわけです。
 ツイッター上では、現在、オダジマについて、以下のような情報が流れています。
・オダジマは、以前からけっこうガチでアンチフェミな言論活動をしてきた論者である。
・宝島から出た「バカ女の闘い」に掲載したコラムの中で、女性運動の抗議の歴史を嘲笑している。
・84年の講談社『モーニング』の中吊りポスターに対する抗議を「チンケな抗議」と言っている。
・エイズ予防財団ポスター抗議に対して「抗議行動はさらに瑣末かつヒステリックな色彩を帯びてくる」と書いている。
 
 私の側から申し上げれば、20枚からの小論の一部だけを取り上げて、こういう言い方をされるのは心外です。
 私自身は自分のことを、かなりフェミニズム寄りの人間だと考えています。
 もちろん、実際に活動をされている方からすれば、オダジマの「つもり」など、ちゃんちゃらおかしいかもしれません。
 筋金入りの性差別主義者じゃないか、と、そう思っている方がたくさんいることは残念ながら事実ですし、そう思われているということは、私の側に問題がある可能性を示唆しているのでしょう。
 なので、以下に話題になっている「宝島社」のコラムの全文を転載することにします。
 全文に目を通した上で、それでも、
「ああ、やっぱりオダジマは完全なミソジニーのバックラッシュのアンチフェミのセクシストのマッチョなのだな」
 と思われたのなら、仕方ありません。
 甘んじて批判は受けます。
 ただ、これ以上の議論はご勘弁ねがいます。
 私の人生の残り時間は、そんなに長くありません。
 その残り時間に、ギスギスした議論をすることは、なるべくなら避けたいのです。
 なにぶん古い原稿なので、本文を載せる前に、ざっと主旨を説明しておきます。
・オダジマは、女性運動を揶揄しているのではない。
・ただ、女性運動の歴史が、抗議活動の歴史とほぼイコールになっている展開が、女性運動にとって不幸なのではないかということを指摘したつもりでいる。
・1970年代の抗議運動は、ジェンダーや性役割といった当時なじみのなかった女性運動の概念を広く世間に啓発した。この点で、抗議という手法のインパクトは絶大で、戦略は成功していた。オダジマ自身、当時の抗議活動をきっかけに、はじめて性差別という視点を得ることができた。
・ところが、抗議が繰り返されるうちに、抗議のポイントが徐々に矮小になって行く。
・また、抗議を受けた側が、重箱の隅をつつかれたような感慨を抱くようになった。
・こうなると、「抗議をした女性団体が、広告の打ち切りを獲得することや、ポスターの掲示をやめさせること」は、勝利のようでいて、その実、勝利でなくなる。むしろ、「女性団体の偏狭さとめんどうくささを印象づける結果」を招いていなかっただろうか。いや、反論はあるだろう。でも、オダジマはそう思ったということです。
・最後のオチは、「女優さんが、男子中学生を滑り台のてっぺんから蹴落とす」みたいな描写のCMが流れていること自体、CM制作現場が、女性団体の抗議を内在化して韜晦している姿であるかもしれないわけで、こんなふうに思われているのは、戦略として成功だとは思えませんよ、ということです。
 では本文です。手元の資料では、2003年の6月に書いたことになっています。
 どうぞ。



「女性差別広告」への抗議騒動史
 
 オイルショックをご存知だろうか。
 若い人たちは知らないはずだ。
「いや、知っている」
 と言う君は間違っている。
 というよりも、君の知識のモトになっている「スーパーのトイレットペーパー売り場に客が殺到するVTR」は、ありゃウソです。
 そう、この二十年の間に、のべ何百回か再生されたに違いない、あの「主婦殺到映像」は、ヤラセとまでは言わないが、「演出上の意図に沿って極端端な場面を切り取って見せた、世相の一断面」に過ぎない。
 ちなみに、私は当時高校生だったが、あのニュース映像に出てくるような場面に出くわしたことは一度も無い。
 にもかかわらず、メディアの中では、「昭和49年=オイルショック=トイレットペーパー消滅」というひとかたまりの図式が歴史的事実として認定されている。たぶん、この先、この漫画じみた連想作用は「米騒動→一揆打ちこわし→ええじゃないか」あたりの大河ドラマ記憶とごっちゃになって、新たな歴史教科書問題を形成していくのだと思う。
 かくして、歴史は歪曲され、私や同年の友人たちが個々人の頭の中に蓄えている記憶は、公式の文書や局内ビデオライブラリーの映像に圧迫されながら、徐々に無視黙殺看過放置されて、50年もするうちには、完全に消滅するに違いない……のである。たぶん。
※《女性史という妄想》←コミダシ
 女性史でも事情は同じだ。
 いや、女性がらみの文脈において、歴史は歪曲どころか、捏造される。というのも、女性史は、女性の歴史であるよりは、「女性」という概念をめぐる表現ないしは相克の歴史であり、ということはつまり、現実の出来事であるよりも、脳内の想像力に負うところの大きい、言ってみれば「妄想」だからだ。
 ん? 女性史は妄想だ、と?
 いや、いきなりこういう不穏当な結論から出発するのはよろしくない。
 言い直そう。
 女性史をめぐる論考には、多かれ少なかれ、妄想的なバイアスがかかっている……と言ってみても、同じだろうか? むしろ表現が婉曲になった分、内容が陰険さを増してしまっている? っていうか、婉曲の「婉」の字と、妄想の「妄」の字に、いずれも女偏がついているのは、これは単なる偶然だろうか? 何かの陰謀じゃないのか? でなければ差別ではないのでしょうか? ……って、くだらん思いつきを誇示するのはよそう。誤解を招くだけだ。撤回。
 重要なのは、自動車の歴史が交通事故の歴史とイコールでないのと同じように、女性の歴史もまた、女性運動の歴史と等価ではないということだ。女性運動が女性の歴史を作ったわけではない。女性の歴史のうちの一部分に女性運動の歴史が含まれていると、それだけの話だ。当然だが。
 この原稿の中で、私は、私自身の記憶に沿って、女性運動と抗議の歴史を検証してみようと考えている。
 女性史という、社会的な広がりを持つグローバルな問題に向けて、私個人の、個人的かつ瑣末な(そして、おそらくは、曖昧で偏見に満ちた)記憶をぶつけることは、普通に考えれば、無意味なことだ。
 が、女性史のような一見社会的に見えるタームにこそ、個々人のパーソナルな視点と一個人の固有な記憶の裏づけが要求されるべきなのだ。なんとなれば、「公的な」「資料付きの」「定説化された」情報には、多くの場合、党派的なバイアス(「フェミ側の」あるいは「マッチョ寄りの」でなければ、プロ市民臭かったり、偽善っぽかったり、利口ぶっていたりするような様々な偏向した圧力)がかかっているものだからだ。逆に言えば、党派的な思惑や商売上の利害関係の持ち主でもなければ、誰もこんな厄介な問題(女性史のことだが)には、手を出さないはずなのであって、とすれば、誰かが女性問題について発言しているということは、すなわちその発言が偏向していることを意味している。……って、厄介だなあ。
 ともあれ、女性史が厄介な話題であり、党派的なヒステリーの温床であるという、このうんざりするような状況に水をかけるためにも、一個人のナマの記憶は第一次資料として、ぜひ、珍重されるべきではあるのだ。
※《初回クレーム大ヒットの記憶》
 CM表現に対する女性の立場からの抗議行動は、1975年、ハウス食品提供のテレビCMに対して「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」がクレームをつけた事件をもって嚆矢とする。
 具体的な抗議内容は、「ハウスシャンメン」というインスタントラーメンのCM内で使われていた「ワタシ作るヒト、ボク食べるヒト」というキャッチコピー(および、女性が調理役、男性が賞味役となっている映像)が、「男女の役割を限定、固定化するものだ」というものだった。
 当時、この問題提起は、一大論争を巻き起こした。私も記憶している。新聞、雑誌で特集が組まれたのはもちろん、抗議の舞台となったテレビの中でも、このCMの是非にはじまって、「男女役割論争」、さらには、流行歌の歌詞の中の「おんな」表現やら男女アナウンサーのホスト/アシスタント関係などなどについて、おおいに議論がかわされたものだった。
 ということはつまり、抗議は大成功だったのである。
 クレームの主旨が全面的に正しかったという意味ではない。この抗議をきっかけとして、「女性問題」というそれまで、一般の日本人がまっとうな関心を抱いていなかった話題が、一転、大衆的な議論の対象となったことが戦略として、的を射ていたということだ。
 「国際夫人年」のPRとしても、この抗議行動は完璧なクリティカルヒットだった。もし、このクレームと、クレームをめぐる大報道がなかったら、多くの一般市民は、国際婦人年というものの存在自体を知らぬままに過ごしていただろう。
 私自身も、この騒動以前には、女性問題についてまったく考えてみた経験すら持っていなかった。それが、この「ボク食べるヒト」というキャッチコピーをめぐる世間の論争を見聞しているうちに、いつしかジェンダー(もちろん、当時はそんな言葉は知らなかったが)や性差についてひと通りの関心を抱くようになっていた。なるほど。市川房江さんは、まんまと成功したのだ。少なくとも一高校生であった私を啓蒙し、女性問題に目を開かせたわけだ。あっぱれ。
 さてしかし、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(←このネーミングも卓抜だった。ために、後の市民運動の中に無数のエピゴーネンを生むことになる)の行動は、最初のバカ当たり以後は、徐々に後退することになる。
 まあ、主要な論点が、この時点で出尽くしてしまっていたわけだから、以後、運動に新鮮味がなくなるのは、当然といえば当然の展開ではある。
 ともあれ、「性差」「男女役割論」「家庭における家事分担」といった、女性問題における最重要かつ本質的な論点が典型的な形で提示されていたからこそ、この抗議行動は大成功をおさめたわけで、それはそれでめでたいことだった。が、逆に冒頭でスマッシュヒットを決めてしまったがゆえに、なんだか一発屋の演歌歌手みたいな調子で、以後の営業が徐々にドサ回りじみてきてしまったわけですね。
 次の抗議は? と、世間は待ち構えた。もちろん、ちょっと意地の悪い視線で、だ。
 一方、運動の当事者である女性の間では、ハウス事件での成功の記憶は、ひとつのオブセッション(強迫観念)として、後の行動パターンを規定していった。
 で、「次の抗議」は、より瑣末でよりチンケな話になった。
 列挙してみよう。
・1984年:講談社「モーニング」誌中吊りポスター(乳首を箸でつまんでいるイラスト)に「行動する女たちの会」が抗議。次号の「おしり」の広告(女性の身体の一部分を強調した広告表現)を廃棄させる。
・1988年:営団地下鉄の英文ポスター(女性の足をモチーフにした地下鉄利用推進PR広告)が、女性団体の抗議で撤去される。
 といった調子だ。
 どうだろう? ハウスの抗議と比べて、いかにも「重箱の隅」という感じがしないだろうか? 
 たしかに、右記一連の抗議行動は「性の商品化」という新コンセプトを打ち出してはいる。
 が、いかんせんこれは論点としてモノが小さい。というよりも、「家事分担論」や「男女の社会的役割差別論」が、広範な層の男女の問題意識に訴えたのに比べれば、「性の商品化論」は、所詮マニアックな議論に過ぎなかった。
「これは、性の商品化です」
 と、女性団体が居丈高に指摘しても、
「ご指摘の通りですがそれが何か?」
 という反応が返ってきたりさえした(つまり、指摘された側が、どこを反省して良いのやらわからないでいるわけです。面白いことに)わけで、要するに、あんまり一般向けの説得力がないのだ。
 抗議の声をあげている人々の間でも、「性の商品化」そのものが悪であるのか、「性の商品化の方向性」が問題をはらんでいるのか、あるいは「女性の性がもっぱら性的な側面でしか商品化されない傾向」が嘆かわしいということなのか、といったあたりのあれこれについて、はっきりと整理がついていなかったのだと思う。
 だって、微妙な問題ですから。
 私見を述べるなら、私自身は、性の商品化なんてことをいまさら指摘してみても、何がどうなるものでもないと思っている。われわれは、資本主義経済社会で暮らしている限り、男であれ女であれ、性的な側面を含めて、人格のあらゆる部分を商品化される宿命のうちにある。それだけの話だ。仮に、女性が性的な意味での商品価値でしか評価されないような職場があるのだとしたら、それはそれで問題だが、といって、その問題は、性の商品化の問題ではない。職場の勤務評価の偏りの問題であるに過ぎない。
 '90年代にはいると、抗議行動は、さらに些末かつヒステリックな色彩を帯びてくる。 
・1991年:エイズ予防財団のポスター(一枚は、パスポートで顔を隠した男性の絵柄、キャッチコピーは「いってらっしゃい気をつけて」。もう一枚は、コンドームの中に裸の女性が入っている図柄に「薄くてもエイズにとってはじゅうぶんに厚い」)に抗議の声が上がり、掲示を見合わせる自治体が続出。
・1992年:オンワード樫山「五大陸」の広告ポスター(モデルの浅野温子が、後ろ手に縛られてうつ伏せで横たわっている絵柄)に対して、朝日新聞の当初欄に「レイプを連想させる」という抗議が掲載され、反響を呼ぶ。その結果、一ヵ月後の同欄に、オンワード樫山の謝罪文を掲載される。
 ごらんの通り、「あなたは気付いていないかもしれませんが、これは差別ですよ」という啓蒙の感じが、ますます居丈高な調子を帯びてきている一方で、抗議内容そのものの説得力は、年を追って減衰している。
 よって、抗議を受けた側の人々も、それを真剣に受け止めない。
「なるほどそういう見方もあるんですね。勉強になりました」
 と、素直に耳を傾けてくれたりなんかは、絶対にしない。
「はいはいわかりました(笑)」
 という感じで対応する。当然。っていうか、不幸な関係だよな。
 もちろん、百歩譲った地点に立って申し上げるなら「いってらっしゃい、エイズに気をつけて」というキャッチコピーから「買春旅行の容認」を読み取ることはさして困難ではないし、あらゆるグラビア上の女性はレイプ可能な体位で構えてもいる。いずれもご指摘の通りだ。
 が、イマジネーションの問題は、どこまで行ってもイマジネーションの問題であるに過ぎない。
「ある表現が連想させる何かが、不適切な内容を含んでいる」という非難のあり方は、表現という行為そのものを否定し去るものだ。性的な事柄に対する言及をセクハラと断定し、セクシーな表現を差別であるとするなら、じゃあ、生殖器は差別器官であり性行為は、差別固定行動なのか?
 いや、より単純に、「セクシーは差別だ」は「表現は差別だ」「芸術は差別だ」と事実上、同義語だ、と言い換えよう。いや、実際差別なのかもしれないが。万事是差別。
 ともあれ、かくして、抗議はシステム化する。つまり、抗議それ自体を自己目的化するプロ抗議集団と、抗議を折り込み済みの天災として受忍するプロの腰抜け自主規制表現者が並立する不幸な体制が完成するということだ。、
 そんな中で、女性団体のクレームは、結果として、エセ同和による職業的恫喝や、総会屋の出勤風景に似て来ざるを得ない。不幸なことだ。
 だから、抗議を受ける側の広告業界だって、当然、スレてくる。
「これ、クレームきたら面倒ッスよ」
「だな。撮り直しヤだし」
「いっそ、常盤タカコにこの男ビンタさせとくのはどうでしょう」
「ははは、そりゃいいや。男性団体ってのは無いわけだし」
 ……というわけで、抗議に対する過剰反応として、あるいは無言の抗議ないしは表現側の自己韜晦として、松島奈々子による、滑り台上での中学生蹴飛ばしCMをはじめとする「男性差別広告」(このほかにも、男が殴られたり、投げられたり、バカにされるCMは枚挙にいとまがない)蔓延している次第だ。
 気をつけろ。男社会は、どうやら殴られ利権に気付きつつある。
 行け。抗議だ。



以上です。
 自分でも、出来の良い原稿だとは思っていません。
 ただ、ツイッターに引用されている部分だけを読んだ場合よりは、ずいぶんマシなテキストではあるはずだと思っています。
 以後、この問題については、議論しません。
 さようなら。

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コメント

( ´ ▽ ` )ノ( ´ ▽ ` )ノありがとうございます。
とても伝わってきました(/ _ ; )
“女性の歴史もまた、女性運動の歴史と等価ではないということだ”

投稿: chi | 2014/05/14 05:37

you suck deadly

投稿: www | 2014/05/16 02:51

人に対して何があっても「死ね」発言される神経を疑います。
若者ならば若気の至りと思えますが、あなた何才ですか?
かなりの大人でしょ?
事の経緯がどうであれ、前後関係がどうであれ、真意がどうであれ、「死ね」は人に対して決して言ってはいけない暴言、暴力です。

しかも、公のコメントで「死ね」発言は神経を疑います。
人格がめちゃくちゃな人ですね。

投稿: 怒り | 2014/06/22 21:40

因みに私は50代女性です。
あなたと同年代である事が恥ずかしい。
あなたのブログは読んでいません。
あなたの子供でもおかしくない若い女性に対しての「死ね」発言を知り、コラムニストだか何だか知りませんが口先三寸で正論めいた事をブログで発信されているのでしょうが、人に対して「死ね」と暴言を吐く人の戯言を読みたくもありませんし知りたくもありません。
一度口から出た言葉はTwitterの文字であれ、取り返しがつかないのですよ。
もういいお年なのに、そんな事もわからないとは情けない。
メールアドレスの欄にちゃんと受信できるアドレスを入れております。
身元を隠す気もございません。
ただただ怒り心頭です。
恥、と言う物を学んでいらっしゃらなかった可哀想な方なんですね。。。
よく公の場に出られる事かと、厚顔さに呆れます。
これからもせいぜい、ご立派な正論をぶって下さいませ。
しかし繰り返しますが、一度口から出たあなたの言葉から露呈した本質は隠しようがないのですよ。
私にも彼女と同年代の娘がおります。
彼女と彼女のご両親の心情を察すれば、どれほど傷ついた事か。。。

ブログを読む気もしないので内容違いだと思いますが、最新のブログにコメントさせて頂きました。

投稿: 怒り | 2014/06/22 22:20

この様な事で彼女が実際に死ぬとは思いませんが、何かで彼女が死んだら嬉しいですか?
彼女が命を無くしたら喜びますか?
人の死が快感ですか?

言葉には言霊が宿ると昔から言われています。
それは相手を攻撃し、そしてあなたに帰るでしょう。
人を呪えば穴二つ。
50半ばになるまで、誰もあなたに教えなかったのでしょうか。

人が正当な仕事で頑張っている事に対して、何故「死ね」と言えるのでしょう?
あなたはコラムニストなぞ得体の知れないご商売をなさりなから。
何かにつけて批判をして名を売り難癖と自己正当化、口先正論を繰り返す因果なご商売なのでしょうね。
常人では勤まらない程、心臓に毛が生えていないと出来ない裏道商売を生業になさってる方ですから、人の死も快感なんでしょうかね。
哀れな気質、ご商売ですね。。。
いい年なさってお可哀想に。。。

投稿: 怒り | 2014/06/23 00:35


25歳の大島優子さんに「死ぬまで自分に熱狂してろ」 

「オーバーヒートして死ね!」って コメント入れるなん

て60近い人間のやる事じゃないです。

非常識です。

人間失格ですね。小田嶋隆さん、あなた最低な人間です。

投稿: チンかすやろう | 2014/06/24 01:52

どの口がこんないっぱしの事を語れる資格があるんだ?特定人物タレントが嫌いならそれはそれで構わないが、死ねとか、何人もの人物が死ぬかもしれないという恐怖を味わった事件を茶化したり、文筆を生業にしている人物にしてはあるまじき行為。こういう事書き込んでも「どうせオタクの火病」と高をくくって悦に入っているあなたを想像すると反吐が出そうです。多分、アナタの趣味主張関係なく、万人が「殺人事件を茶化すコラムニスト」と認識したと思います。あなたのようなクズ人間こそ、世間から一線を引くべきです。セクハラ以下です。

投稿: しのぶ | 2014/06/25 00:30

とても盛り上がっていますね。セクハラ野次問題同様、このツイッター問題もどうでもいい些末的な話だと思います。

誰にだって間違いはありますし、衝動的になることもあるでしょう。非難している皆さんは、そんなに自分に恥じるべきことのない聖人君子なのか。そう思っているなら傲慢なのか恥知らずというものでしょう。

ただ、日経のコラムで以前に書かれていたように、ネットのおかげでここ数年の日本は、いじめ社会になってしまいました。自分の現状に不満があり誰かをいじめたい貧困層も増えたのでしょう。それでファシストみたいな人達がたくさん寄ってくるのだと思います。

8歳だった30年前から小田嶋さんのコラムを愛読しているファンですが、めげずに頑張ってください。最近いろいろお疲れかと思いますが、これからもウィットに富んだ楽しいコラムを期待しています。

投稿: 吉田毅 | 2014/06/28 01:51

投稿: 井川 | 2015/05/11 07:56

この記事へのコメントは終了しました。

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