朝モヤッ!
みのもんた司会者の去就が話題になっている折も折ですので、2007年の8月に「Yomiuriウィークリー誌」のために書いたコラムを再録します。
テレビの中の人々にとって、夏休みはひとつの危機だ。裏方にとっては貴重な休息でも、看板を張っているキャスターやタレントにしてみれば、たった一週間でも画面から消えることは、巨大な忘却リスクを伴う空白だからだ。「あの人は今……」的な企画に登場するかつての有名人が、必ずやしなびて見えるのは、単なる老化による作用ではない。むしろ、わたくしども視聴者の側がそのタレントに対して抱いていた幻想が消滅したことによる影響の方が大きい。出ずっぱりでテレビに出演しているタレントは、実物以上の存在感を獲得する。視聴者の側から言うと、毎日見ている顔には、依存性が生じる。「オーラ」というのはそういうことだ。逆に、ほんの二年でも画面から消えたタレントは、オーラを喪失する。と、実際には二年分しかトシをとっていないのに、印象としては五年分ぐらい老け込んだことになってしまう。おそろしことだ。で、たとえば、みのが夏休みをとっていた間の「朝ズバッ!」は、まったくもってズバズバしていなかった。朝っぱらからどうにも微温的だった。仕方がないよね。だって代役として画面のはじっこに立っているのが、誠実一本槍の、芸もケレンもなんにもありゃしない、好人物を絵に描いたような柴田秀一アナだったんだから。そう、みのが彼を代役に選んだ(のだと思うよ)のは、柴田アナが、休んでいる間に職場を奪いそうにない、最も安全なアナウンサーに見えたからなのだと思う。でも、みのよ。キミは勘違いをしているぞ。確かに、私とて、最初は、「柴ズバッ!」のヌルさに唖然とした。おい、この地方局な雰囲気はなんだ? と。しかし、二日目、三日目と目が慣れるにつれて、私はみののいない朝ズバッが、なんとも気持ちの良い番組であることに気づかされていったのだよ。そう。番組は、ビールのCMとは違う。印象が鮮烈ならそれで良いというものでもないのだ。ズバズバ斬り込んだり、ゴリゴリ押しまくったり、バシバシ決めつけたりするような、そういうった濁点だらけの手法が目を引くのは確かだが、毎日見ている視聴者にとってはキツい。田原総一朗が政治家を叱りつけてるみたいなタイプの番組も、だ。やかましいし、うさんくさいし、なにより品がないから。とすれば、もやもや考えこんだり、もたもた逡巡したり、もごもご口ごもったりするタイプの、スローライフな情報番組があっても良いわけで、特に起き抜けから出勤前の時間帯に流しておく背景画像として、より微温的な番組にチャンネルを合わせる視聴者だって、決して少数ではないはずなのだ。というわけで、「柴田秀一の朝モヤッ!」はどうだろう? キャスターが局アナなら予算もかからないし、最初の一ヶ月を乗り切れば、きっとイケるぞ。実際、みのが居ない間の一週間、「朝ズバッ!」は、大健闘だった。Qシートは万事遺漏なく進行していたし、なにより、出演者スタッフ一同がリラックスして、スタジオの空気が和んでいた。柴田アナの人徳、あるいは、みのの逆人徳がもたらした好循環だと思う。少なくとも私は朝っぱらからピリピリした人たちの顔なんか見たくない。でも、実現不可能なんだよな。どうせ。だって、このテの帯番組というのは、業界にとっての公共事業みたいなもので、各方面に予算をバラまくことが最も大切な機能だったりするから。そう。田舎の空港と駅を結ぶ高速道路とおんなじ。よって「朝ズバッ!」は、今後も、廃止リスクのデカさで持ちこたえる……って、社保庁かよ。
ちなみに、告白しておきますと、柴田秀一アナは個人的な知り合いでして、なんというのか、はるか二十数年前、同じバンドで楽器をいじっていた古い仲間です。
とはいえ、こういうテキストを公開することで「朝モヤッ!」のコメンテーターにおさまろうとしているわけではありません。
っていうか、まっぴらごめんです。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
拙者も同感です。
みの氏のいない朝ズバッ。確かに
爽やかな気がしました。
働き過ぎのみの氏に週二回休んでもらって
「朝スパ」と温泉情報でも・・・・
投稿: kansen | 2013/10/26 05:44