丑年の因果
前回の丑年に出した年賀状について思い出したので。
12年前、私は、年賀状を書いていた。
ちょうど40歳だった。
とにかく、生涯のうちで、私が年賀状を書いたのは、小学校時代の数年間と、あとは40歳前後の何年かだけなのだが、そのうちの一回は、12年前の丑年だったわけだ。
どうして年賀状を書いたのか。
一つめの理由は、酒をやめる途上にあったからだ。
95年の5月から断酒をはじめた私は、人生をやり直すべく、それまでのいろいろな事に関するやり方を精算して、すべてを一から組み立て直そうとしていた。
年賀状を書くこともそのうちのひとつだった。つまり、野球観戦をやめてサッカーに切り替えることや、ロックミュージックからいったん足を洗ってジャズを聴いてみることや、時代小説の耽読をやめることや、無闇矢鱈と散歩に出かけてみることを含めた、様々な行き当たりばったりの取り組み(あるいは白々しかったり人工的だったりする無理矢理な路線変更)のひとつとして、私は、20年ほど書かなかった年賀状を書いてみることにしたのである。
まあ、もがいていた、ということですね。
二つ目の理由は、仕事に窮していたからだ。
うん。なさけない話だが。
アル中時代末期の数年間、私は、問題をかかえた人間である以上に、問題のある書き手だった。〆切を飛ばすことや、約束の時間を守らないことはもとより、そういう出来事の詳細をろくにおぼえていなかった。
そうこうするうちに、いつしか私は、問題外のライターになっており、仕事は、30代の後半から激減していた。
で、気がつくと結構な額の借金と、酒をやめたことで生じた厖大な時間をかかえていたわけで、だからせめて年賀状を書いて、多少とも付き合いのあった編集者との関係を修復しようとしていたのだと思う。
三つ目の理由は、これがたぶん一番大きい理由だと思うのだが、要するに「うまり文句」を思いついたからだ。
搾るだけ搾り取られてモウからぬ 憂しの心を誰か知るらん
というのがそれで、私はこの年、この狂歌を書き付けた年賀状を、なんだかんだで30枚ほど、各方面にバラ撒いた。
歌自体はなかなか良いデキだったと思う。でも、歌柄の恨みっぽさがいけない。新春の賀を述べるにはふさわしくなかった。
だから、この賀状が仕事に結びつくことはなかった。
まあ当然だが。
〆切をトバされたり、約束をすっぽかされたりしたあげくに、正月早々頼んでもいない愚痴まで読まされたわけだからして。受け手の皆さんからすれば。
その12年前、1984年の丑年、28歳だった私は、TBSラジオでAD(アシスタント・ディレクター)をやっていた。
この時、年賀状は書かなかったが、職場に置いてあった回し読み用のノートに新春の和歌を書いた記憶がある。
淋しさに寝ず見る月の傾けば 憂しの年にぞなりにけるかも
確か、牛とネズミ(前年の干支)の絵を付けていたはず。
つまりアレだ。オダジマさんという人は、四半世紀前から既に、なにかうまいセリフを思いつくと、全力をあげてそれをひけらかさずにはおれないタチの男だったと、そういうことだな。
うむ。いやらしいといえばいやらしい根性だ。
でも、ライターには不可欠な資質なのだよ。
わかってくれ。
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