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2008/09/11

雑誌

 雑誌の休刊(←事実上「廃刊」であっても、現場の人間はそうは言わない。背景にある事情は、医療関係者が「死ぬ」という言葉を使わないのと同じなのだと思う)が相次いでいる。
 つい先日「論座」が休刊になったと思ったら、この9月には、「現代」(講談社)「ラピタ」と「Latta」(ともに小学館)の休刊が発表された。
 Lattaという雑誌には、最後まで縁がなかったが、ほかの3誌は、そこそこに関係があって、いずれも私には、なじみの深い仕事場だった。

 論座には、結局、最後までコラムを連載していた。創刊の頃もなにかで関わった記憶がある。振り返ってみれば短命な雑誌だったが、個人的には縁の深い雑誌で、その意味で、終刊は残念だ。
 「ラピタ」では、おそらく2年間ほど仕事をしている。2ページの取材モノを連載していて、けっこう色々なところに行った。なぜか名古屋のアンティークショップに買い物に行ったり、六本木のディスコで15センチのロンドンブーツを履いた写真を撮ったりした。元来が出不精な私にとっては、貴重なバカ体験だった。
 「現代」では、ルポルタージュじみた仕事をやったことがある。そのほか、対談記事や書評などで何回かお世話になった。

 ほかにも、休刊が噂されている雑誌がいくつかある。
 月刊のPlayboyも無くなるらしい。
 いくつかの雑誌の終焉と赤塚不二男先生の永逝が、タイミングとして一致したのは、偶然なのだろうか。

 雑誌の時代が本当に終わりつつあるのかどうかは、まだわからない。
 曲がり角に来ていることは確かだが。
 でもまあ、人間が文章を書くという営為が滅びるはずはないのだし、他人の書いた文章を読むという習慣が消失するわけでもない。
 媒体の形が変わったり、メディアをスポンサードする主体が変化したりということはあっても、広い意味での「雑誌文化」は、不滅だと思う。
っていうか、不滅であってほしい。
 できれば。
 業界のために、というだけではなくて。

 9月は、ぼちぼち更新する所存です。

 ついでに告知しておきますが、「コラム道」という書籍のためのネタ(←おそらく「コラムのためのコラム」になるはず)をミシマ社という出版社のブログに連載する予定です。
 ……と、こう書いておくことで、外堀が埋まる仕掛けですね。

 ミシマ社には、本当は7月から毎週金曜日にテキストをお送りする予定でした。
 それが二ヶ月も延びてしまっているので、非常手段に出た次第です。
 初回分は、まだ送っていませんが、今後、順次更新予定です。よろしくよろしく。

 ざっとした見出し案などを。

コラムとは何か
枠組みと額縁
構図と視野
書き出しと結語
推敲とアドリブ
パターンとカオス
着想と着地
文体と個性
比喩
修辞
ミッションとモチベーション
貧困と観察
視点と論点
平明な思想をひねくれた技法をもって表現する上での基礎的な応用

 ……と、以上に挙げた事前の思いつきは、おそらくこの通りの形で実現することはない。
 というよりも、構想を逸脱した着地点に至る道筋にこそ、コラムという規格外の枠組みを……とか、デタラメを言うのはよそう。
 とにかく、なんとか形にせねば。ねばねば。

 

 

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コメント

久々の更新、素直に嬉しいです。

>雑誌の休刊(←事実上「廃刊」であっても、現場の人間はそうは言わない。)

私は今まで「休刊=いつか復刊するかもしれないということ?」と思っていました。うぶ過ぎですね・・・(40代)。

投稿: キリハラ | 2008/09/12 00:12

一度休刊して
復帰する可能性のある雑誌を考えてみると
噂の真相くらいしか思いつかないですね。
小田嶋さんの連載、好きでしたよ。

投稿: slider | 2008/09/12 06:37

 キリハラさんと同じく,更新をすなおによろこんでいます.
 学術誌では電子ジャーナル化が進んでいます.しかし,これまでの紙媒体の雑誌と比べて,自分の専門以外の論文を偶然に読んでしまう機会が激減し(パラパラと雑誌を流し読みできないから),ますます,知識や発想がたこつぼ化してしまうという状態になっていると思います.
 雑誌(学術誌や一般の雑誌を含めて)の電子化は,早い,安い,簡単,という長所はありますが,偶然による知識の広がりという点では,いまんところ紙媒体の雑誌に劣るのではないでしょうか?
 という論理展開から紙媒体の雑誌は残ってほしいと思っています.

投稿: melon | 2008/09/12 06:57

小田嶋さま。こんにちは。ご無沙汰しております。「論座」も「現代」もなくなってしまうんですね。ほかのメディアからコメントを求められましたけれど、ちょうど日本にいなかったので、「よくわかんない」と返事してしまいました。
↑にコメントされた方が書いてらしたように、「出会い頭的読書」ということが好まれなくなったということなのかも知れません。
「意外性」を忌避する傾向というのが、もしかすると私たちの時代の特徴なのかも。
ミシマ社の連載たのしみにしてます!

投稿: うちだ | 2008/09/12 19:53

> 雑誌の休刊(←事実上「廃刊」であっても、現場の人間はそうは言わない。

出版社が自社や当該編集長の体面を気にして「廃刊」を「休刊」と言い換えているのだな、と思うこのごろ(旧日本軍の「撤退」と「転進」みたいorz)。

ミシマ社のブログ連載を楽しみにしてます。

投稿: kabo | 2008/09/13 08:32

休刊ってのは手続き上その方が便利なのです。
雑誌を発行するためには雑誌コードを取得するのですが
新たに取るより休刊した雑誌の休眠コードを
再利用した方が手っ取り早い。
廃刊にすると雑誌コードを返上しなければなりませんから。

投稿: dosanko | 2008/09/13 08:39

Lapitaの連載は面白かったですね。
雑誌自体は、途中からちょいワルオヤジみたいな内容になって残念でしたが。

投稿: LIC | 2008/09/13 10:20

前にも書いたのでしつこくて申し訳ありませんが
左の「価格bom」リンクはそろそろ……。

投稿: かくた | 2008/09/13 20:43

 最近、宣伝狙いのコメント(←アフィリエイトだらけのブログに誘引したり)が増えて、困惑しています。
 一応、挨拶らしい文言を並べてあったりもするので、いきなり削除するのは乱暴かなとも思ったのですが、怪しいモノは、こちらで勝手に判断して削除することにしました。
 自サイトのurlを明示することがいけないと言っているのではありません。要は、転送先として指定されているブログなりサイトが、モロな商売モノでなければそれで良いのです。

投稿: 小田嶋 | 2008/09/14 04:04

 以下、まとめてコメントします。
>melonさま うちださま
「偶然による知識のひろがり」
 たしかに、本来なら読まないタイプのテキストを、ずいぶん読んだ気がしますね。特に若い頃は。ヒマと貧乏症(だって、カネを出して買ったわけですから)ゆえに。
 どういう書き手をどういうタイミングで配置して、どの記事とどの記事を隣合わせにするかといったところにも、「編集」の目は配られているわけで、その意味では、そうやって「編集」された「雑誌」は、単なるテキスト以上のものなのだと思います。
 テキストそのものはウェブ上でも展開可能だし、即時性や双方向性といった面では、ネット上の文章の方が身軽であるのかもしれません。
 が、紙の上に印刷されたブツには、コンテンツ以上の何か(いくつかの記事を、ある統一した書体やデザインのもとで並べてみせることによって生じるオーラみたいなもの)が宿ります。
 いずれにしても、印刷には、「カネと手間と人手」とが、投入されています。それと、「リスク」が。うんざりするほど多量に、です。
 ですから、生半可な気持ちで書かれたテキストや、中途半端な出来上がりの記事は、その「カネと手間と人手とリスク」を負担せねばならない人々の「覚悟」が排除していました。そして、その一点において、活字のクオリティーは担保されていたわけです。なにしろ、何万部という紙を、輪転機にかけるわけですから。
 もっとも、そのテの「コスト」(ないしは「ムダ」)のせいで、わが出版界は危機におちいっているということも残念ながら、事実ではあります。
 が、書籍を書籍たらしめ、雑誌を雑誌たらしめているものがあるのだとすれば、やはりそれは、そうしたコスト(つまり、カネと手間と人手とリスク)以外のナニモノでもありませんでした。
 おお、長くなてしまいました。この話はまたいずれ。

>UCさま
ラピタの連載は、ほとんどコスプレ紀行みたいな、いまとなっては考えられない仕事でした。面白かったです。


>かくたさま
 そうですね。「価格bom」は、さすがに消した方がいいですね。代わりにミシマ社のリンクを張っておきます。

投稿: 小田嶋 | 2008/09/14 04:20

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