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2008/07/21

川崎戦

 浦和vs川崎@埼玉スタジアム

 久々の生観戦。五月の鹿島戦以来。
 比較的涼しいので、自転車で出動することにする。
 キックオフは午後6時だが、4時前に家を出る。
 2時間は見ないと不安なので。

 というのも、2日ほど前、寝違えて(←昼寝中に地震。びっくりして素早く身を起こしたのが良くなかった)、以来、首がうまく回せないから。ゆっくりなら振り返れないこともないのだが、自転車運転中の後方確認とかは無理。
 せめてiPod走行をやめれば良いとは思うのだが、風の中を走るのに音楽抜きは淋しい。
 というわけで、後方確認のためにヘルメットをかぶって行くことにする。私のヘルメットにはバックミラーが付いてるので。
 往路は順調。約1時間ちょっとで埼スタに到着。でも汗だく。

  • 試合は、1-3で負け。
  • 1-1までは押し気味の展開だったが、2点目を取られてからは、良いところがなかった。
  • 最近の浦和の傾向として、攻撃が機能しているゲームは落とすことが多い。逆に、ベタ引きでタコ殴りに耐えているみたいなゲームは、けっこう場合勝っていたりする。
  • 良いんだか悪いんだか。

  • 家に帰って録画を確認してみると……
  • おお、後半20分、浦和が攻め込んだ場面で、川崎の誰かがゴールマウスの中で、手を使ってボールを跳ね返しているじゃないか。
  • 間違いない。テレビ埼玉は、執拗にリプレイをしている。鬼の首を録画したみたいに。
  • で、浦和の選手がハンドをアピールをしている間にカウンターが発動。チョン・テセのファインゴールが決まって2点目。ああああ。
  • あそこで、正しい判定が為されていれば、展開は違っていた……かどうかはわからないが……

 寝よう。
 

 Reds080721
※試合前の練習風景。客席は、夏休みということで、子供連れが多かった。

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2008/07/20

歌詞カード

 iTunes Storeでお買い物。
 覗くだけのつもりだったのが、ふと気づくと5000円ほど買い込んでいる。ヤバい。これは宝のヤマ――というよりも、新たな散財ポイントになりそうだ。用心せねば。
 iTunes Storeは日本版がオープンしたばかりの頃、ひと通りまわってみたのだが、その時点では、まだまだ洋楽(といっても、ナツメロだけど)の品揃えが貧弱で話にならなかった。なので、アカウントは作ったもののそれっきり放置してあった。
 ところが、昨日覗いてみると、おお、あらゆるブツが揃ってる。しかも安い。まあ、洋楽CDのボッタクリ値段に比べてみればの話ではあるが。
 30分ほどウロつくうちに、ポール・サイモン関連のiTunesオリジナルものをいくつかと、ポール・マッカートニーのコレクション漏れ作品(LPレコードは持っているものの、CDを買い直していなかったもの)などを購入。とてもヤバい。タワーレコードどころのヤバさではない。
 以下、感想など。

 RAM(マカトニー卿のセカンドアルバム)の中にある「Monkberry moon delight」の歌詞(LyricsMasterにて入手)を見て驚愕。オレがおぼえているのとまるで違う。
 いや、私のアタマの中に残存していたのは、中学生の時に買ったLPについてた歌詞カードの丸暗記なのだが、これが、恐ろしいほど間違いだらけなのだ。たとえば、私の記憶では、最初のサビのところの歌詞は、

"catch up(catch up) super delay(super delay)" 
強いて翻訳するなら「追いつけ、追いつけ、超遅れてるぞ」ぐらいか?
 となっていたはずなのだが、ネット経由で入手した版では、

"Ketchup (ketchup) Soup and puree (soup and puree),"
「ケチャップ、ケチャップ、スープとピューレ」
 てなことになっている。
 おい、全然違うぞ。
 どういうことだ?

 ともあれ、高校生の頃まで、私は、自腹で買った洋楽LPの歌詞は、ほとんど完全に暗記していた。

 どうしてそんなことが可能だったのだろう。

 単に貧乏だったからですね。おそらく。
 貧困ゆえに、レコードは月に一枚買うのがやっと。だから、そうやって買ったLPレコードは、モトを取るべく一枚あたり百回は聴くことになる。となれば、イヤでも歌詞ぐらいは、暗記してしまう、と。
 で、その丸暗記の手がかりになっていた、歌詞カードが、どうやらウソだらけだっわけだね、どうにも悲しくも滑稽なことに。

 半年ぐらい前、火星探査衛星が送ってきた写真に「火星人らしき人影」が映っているとかいった話がちょっと話題になったことがある。
 で、ネタ元の記事(英文)が、どこかの新聞のサイトで紹介されていたのだが、その英文記事の見出しが「Life on Mars?」となっていた。
 私は、ひと目見て、「おお、これはデビッド・ボウイの『火星の生活』(1971年発表のアルバム「HUNKY DORY」ハンキー・ドリーに収録されている名曲)をいただいたタイトルだな」と思ったのだが、記事を見ると、どうもボウイとは関係ない。
 調べてみると、「Life on Mars?」は、「火星に生命はあるのだろうか?」という意味で、「火星の生活」という邦題が、モロな誤訳であることが判明。たしかに、歌詞を丹念に読めば、内容は、全然火星の生活なんかじゃない。日常生活の単調を呪う少女の歌(←だと思う。無理解な父母。退屈な映画。ミッキーマウス。月並みな演出などなど……ボウイの歌詞はあえて支離滅裂に作ってあったりする。いずれにしても難解)だ。ってことは、オレは、30年もの間、タイトルにだまされて、ずっと歌の意味を誤解していたのだな。ううう。

 似たような歌(少女の孤独と暴発を歌ったロケンロール)に、「哀愁のマンデイ」があるが、これも全然哀愁なんかとは関係のない歌だ。
 原題は、「I don't like Mondays」。自宅の向かいにある小学校で乱射事件を起こした女子高生が「なぜあんなことをしたんだ?」と聞かれた時に答えたとされる言葉(「月曜日が嫌いだから」である。
 
 つい、昨日、川口市で中学三年生の女の子が父親を刺殺する事件が発生している。
 
 って、話がこれ以上バラけるのはよくないかもしれない。
 寝よう。

 

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野茂

 野茂投手が引退を表明した。
 で、昨日来、テレビのスポーツコーナーは、このニュースを思い切りセンチメンタルなBGM付きで伝えている。
 
 違和感を感じるな。

  
 挑戦者の栄光と悲哀?
 マッチとポンプじゃないのか? キミらの。

 どうして野茂が日本の球界に復帰しなかったのか、不思議に思っているファンがいるかもしれない。若い人たちは特に。
 確かに、ここ数年の状況だけを見れば、日本プロ野球復帰は考え得る選択肢だった。実際、日本の球団からいくつかオファーはあったようだし、その中には、億という年俸を保障する話もあったと聞く。

 でも、当時のいきさつをおぼえている人間なら容易に理解できることだが、野茂の側には、帰って来たいと思える理由はなかった。たとえ何億積まれたのだとしても。
 なぜなら 彼は、石もて追われる形で日本球界を去った選手で、その時のことを忘れているはずがないからだ。
 恨んでいるとか、そういうことではない。
 野茂はスジを通すタイプの人間だということだ。
 スジを通すオトコは、自分を「裏切り者」と呼んだ人間のオファーにはこたえない。
 また、信義を重んじる人間は、結果次第で手のひらを返す組織の言葉を信用しない。
 だから、野茂英雄は、彼を飼い殺しにしようとして失敗したかつての飼い主と、同じテーブルを囲むことはしなかった。極めて当然の成り行きである。

 野茂がアメリカに渡る意向を漏らした当初、スポーツ新聞は、異口同音にその決断を非難した。
 無責任、恩知らず、掟破り、世間知らず、思い上がり、身勝手……と、記事のトーンはあくまでも冷ややかだった。
 その冷たい論調の背景には、当時、圧倒的な力を持っていた日本プロ野球機構が、野茂を一種の「足抜け女郎」扱いにしていたという事情がある。
 記者たちの中には、内心、野茂を応援する気持ちを持っていた者もいたと思う。でも、当時のスポーツ新聞は、今以上に球界の御用機関だった。とすれば、野茂擁護の記事は書けなかった。機構や球団に弓を引く形のテキストは、ワープロが曲がっても打てない。だって、しょせんはドメスティックな業界紙なわけだから。なさけない話だが。

 無論、読者の中にも、流出に反対する声はあった。野球協約を絶対視するタイプのファンもヤマほど残っていた。が、野茂の挑戦をワクワクしながら見守っていたファンもまた、少なからず存在していたのだ。少なくとも、私は断然メジャー行きを支持していた。だって、面白そうだったから。ファンというのはそういうものだ。安全策を選ぶ選手よりは、リスクを取りに行くアスリートを応援する。勝負しないピッチャーなんて見たくないから。

 テレビは、黙殺していた。遠巻きに見物。っていうか、奥歯に張本勲がはさまっている感じの対応。あるいは、ネクタイを首輪と心得ている勤め人の身のこなしといったところか。飼い犬の遠吠え。ワンワン。天晴れっぽいけど喝喝喝!ぐらい。
 それが、ドジャースに入団が決定したあたりから徐々に風向きが変わって、キャンプ時点から、露骨な横並びカルガモ報道体制が敷かれるようになった。
 で、初勝利以降は、手のひらを返してヒーロー扱い、だ。

 いずれにしても、野茂が勝ち馬であることがはっきりするまでは、日本のマスメディアは、彼のサイドには立とうとしなかった。このことははっきりと明記しておかねばならない。

 この件については、野茂自身が、著書(「僕のトルネード戦記」:集英社:1995年)の中でこう書いている。

それに、今頃になって、「取材させてほしい」とか「取材に応じる義務がある」とか言いますが、僕からしてみれば、あまりにも都合がよすぎます。
 人間、足を踏んだほうはそのことを忘れていても、踏まれたほうはその痛みを、決して忘れないものなんですよ。
 わずか数ヶ月前、ほとんどのマスコミは僕をどう扱いましたか?
 僕が大リーグ行きを表明した時、それこそ「永久追放」だとか「協約破り」だとかいってバッシングをしてたでしょう。それなのに、今になって急に手のひらを返して「いや、野茂の活躍は日本人に勇気を与えた」なんて平気で言う。
 言論でメシを食っている人は、自分の言論に対して責任を持ってもらいたいです。僕のとった行為が違法なら、無視し続ければいいじゃないですか。「いや、会社の方針が変わったので、またヨロシク」と言われても、僕には関係のないことです。
 新聞は売れればいいんですか? テレビは視聴率を取れればいいんですか? そのためには平気で主張を曲げるのですか? 僕には考えられないことが多すぎます。》(第五章「ベースボールと野球の違い」p155~156より引用)

 いや辛辣。
 これ以上、私のような立場の者が付け加えるべき言葉はひとつもない。 

 どこかのテレビ局のインタビューに答えて清原が言っていた感想がちょっと面白かった。
「(野茂は)フォークを投げればこっちが三振するとわかっている時でも、真っ直ぐで勝負してくるピッチャーだった」
「アメリカに行ってからも、強打者に向かって、真っ向勝負をしている姿をテレビで見て、『ああ、やっとるな』と思った」
「自分のタマで勝負できる、たぶん、最後のピッチャーだったと思う」

 もしかして、キヨハラは、全球ストレート勝負をするのがピッチャーたる者の本来の姿で、変化球を投げるのは「逃げ」なのだ、と、本気でそう考えているのだろうか?
 いや、オールスターゲームみたいな花相撲の場では、そういう興業っぽい力比べ対決があっても良いと思うよ。
 楽しいしね。

 でも、投手と打者の「勝負」は、持ち球すべて(もちろんボール球も)を含んだ上でのものだ。
 清原は、釣りダマや、ハズしてくるボールや、緩急や、内外角の投げ分けみたいな「配球」と呼ばれるストラテジーを「卑怯」「逃げ」ぐらいに思って、打席に立っているフシがある。
 だから、いつだったか500号本塁打のかかった打席で、タイガースの藤川に変化球を投げられて三振した時、清原は、「チ○コついとんのか」と、藤川投手を罵倒したりした。

 彼のアタマの中では、観客が盛り上がっている「勝負」の瞬間、投手は直球勝負をするべきなのであって、それが「オトコ」だ、と、どうやらそういうことになっている。
 まあ、そういうふうに、相手投手を「男と男の直球勝負」みたいなプロットに引きずり込むというのが、打者・清原の「駆け引き」だったという可能性はある。
 でも、誰も引っかからないと思うな。いまどき。
 血気にはやって振り回してくるバッターを、落ちるタマで料理するのも、立派な「勝負」なわけだし。

 でもまあ、伊良部だとか野茂だとかは、打者清原との「名勝負」を、あえて引き受けていたようにも思える。
 なぜなんだろう。やっぱり男・キヨハラのアジテーションにひっかかっていたんだろうか。直球オンリーの勝負なんて、投手の側が損なだけなのに。

  •  オレら昭和の男たちは、「オトコ」というプロットに弱い。
  • 伝統があるしなあ、マッチョ思想は。一朝一夕の出来物じゃないからね、これは。
  • なにしろ、マッチョ思想と闘うために何より必要なのが「侠気」だったりするわけだから。根が深いよね、この道ばかりは。
  • プロ野球衰退の理由のうち、もしかして一番大きいのは、「オトコ」という物語の衰退であるのかもしれない。
  • 清原の扱い方が、ある種戯画化されつつある(←つまり、オトコ・清原が、マジな物語としてではなく、「ネタ」として処理されている)こと自体、既に、野球が「オトコ」の世界のスポーツでなくなってきていることのあらわれなのであろう。うむ。

 とにかく、清原のような野球観の持ち主に監督(←既に、来年のオリックス監督に内定しているという噂がある)がつとまるようには思えない。
 客が呼べれば良いとか?
 呼べるとも思えないんだけどなあ。いまどき。
 あるいは、オレらのような素人の推理を寄せ付けない、深遠な深謀遠慮が介在しているとか、そういうことなのであろうか。
 大打者をK1に行かせないための球界をあげての防衛策だとか?
 食い扶持を与えておかないと、何やらかすか分からないから。引退したからって、放し飼いは危険。サーカスのクマと同じ。
 ってことは、監督稼業は座敷牢なのか?
 話がバラけてきた。
 寝よう。

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2008/07/13

すごい雨のあとで

 夕刻、日差しが弱まるのを待って自転車に乗る。
 やはり夏場は夕方にならないと走れない。
 自宅から志茂方面を経由、清水坂公園の横の坂を登って西が丘→帝京大学病院→仲宿→旧中山道を走る。

 北園高校裏から北養護学校を経て淑徳短大あたりを走っている時に突然の夕立。
 ハーフパンツのポケットに突っ込んでおいた帽子(以前、近所のスポーツ用品屋で買い求めたナイロン製の雨用帽子。2000円前後だったはず)が、早速役に立つ。自転車に乗っている時に降られると、どんなふうに傘をさしたところで、最終的には、必ずや全身が濡れることになる。ということはつまり、帽子で避けられる分以外は、あきらめるのが賢いということだ。無駄な抵抗はしない。はじめから濡れるつもりなら雨も悪くない、と思いこむのが正しい。
 
 ズブ濡れになりながら、この6月にオープンしたばかりの北区中央図書館まで走る。降り始めた地点から、だいたい500メートルぐらいか。
 ここで、20分ほど雨宿り。
 犬を連れた人々や、散歩中のご老人などが三々五々集まってくる。
 公園寄りの一階入り口のエントランスでしばらく土砂降りの雨を眺める。
 広い場所に降る雨は、涼しくて気持ちが良い。

 聞くともなく人々の話を聞いていると、年配のご婦人が「すごいわねえ」という台詞をしきりに繰り返している。
 おお。
 この言い回しをナマで聞いたのは、実に久しぶりのことだ。
 すっかり忘れていた。こういう日本語があったのだ。
 私が小学生だった頃、同級の女の子たちは、誰かを非難したり、何かに抗議する時には、ほぼ必ずこの言葉を使っていたものだった。たとえば給食配布の列に割り込んだり、雑巾を投げつけたり(すまなかった)すると、彼女たちは必ず「なによ、すごいわね」と言ったのである。
 私は、当時からこのフレーズに違和感を抱いていた。
 というのも、文字面のみを取り上げると、「スゴイワネ」は、対象の何かが甚だしい旨を強調しているのみで、何がすごいのかについては、まったく語っていなかったからだ。
「すごい失礼さである」
「あなたのやり方はものすごくズルい」
「このクラスの男子の強力にはなはだしい乱暴さに、私は満腔の怒りを禁じ得ない」
 と、おそらくはそういう意味がこもっていると思うだが、彼女たちは、「ズルい」とか、「きたない」とか「乱暴だ」とかに当たる具体的な非難の言葉は決して口にしない。その代わりに、「凄い」という、程度の大きさを示す形容詞だけを繰り返していたのである。
 やはり、昭和30年代の小学校では、まだ女の子が直接に男子生徒を論難することははばかられていたということなのだろうか。
まさか。
でも、女性らしい非難の言葉が「すごいわねえ」だったということは、少なくとも意識されていたのだと思う。
 つまり、非難や攻撃や啖呵みたいなものにも、一応「おんなことば」が設定されていた、と。

 同じように、女子がよく使っていた言葉に「びっくりした」というのがある。
「あたし、びっくりしちゃったわ」
 と言う時、それはたいてい非難ないしは呪詛を含んでいた。
「あの人のやり口のあくどさには本当に驚いた」
「私は彼女のあつかましさに驚愕したことである」
「A氏の無神経さというのは、それはもう驚きあきれるほかに対応の仕方の見つからない種類の災難である」
 ぐらいだろうか。

 とにかく、雨宿りの老婦人たちは、はっきりとした非難の形容詞を口にしない。
「あそこの奥さんは、まるっきりのグズよね」
「っていうか、バカじゃない?」
 とは言わない。
「ほんっと、すごいわよねえ」
「ええ、もう、びっくりしちゃうわよねえ」
 と、二人の老婦人は、あくまでも遠回しに、それでいて念入りに、感慨を述べ続けていたのである。
 そうこうするうちに、雨はウソのようにあがり、私は帰途についた。
 すごいぜ、と思いながら。

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2008/07/08

おもてなし

※交流不発、自治体肩すかし 洞爺湖サミットhttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080708AT1G0704008072008.html

  主要国首脳会議(洞爺湖サミット)で地元自治体の「おもてなし」が肩すかしを食らっている。主要8カ国(G8)首脳の直接訪問は相次ぎ不発。主会場のおひざ元の温泉街で連夜開かれている盆踊り大会は外国人宿泊客の“欠席”が目立つ。多忙な日程などやむを得ない事情も絡むだけに、関係者らは盛り上がりを欠く交流行事に思案顔だ。
 「浴衣約2000着をそろえたけど……」。洞爺湖町の職員は苦笑する。湖畔の盆踊りは温泉街に滞在する各国関係者との交流を図ろうと、町民らが企画し、5日から始まった。町は宿泊先を通じて竹の繊維でできた「エコ浴衣」を配り、参加を呼びかけてきた。(日経新聞)

 当然ですね。
 盆踊りとか浴衣みたいなアイテムは、生粋の日本人の、しかも、いい年をぶっころがした中年オトコであるオレでさえ、ぜひ御免こうむりたいと念願しているところのものだ。それを外人さんに押しつけるなんてもってのほかです。

 浴衣については、いつだったかこのページで触れたこともあると思うのだが、あれは、海外に発信する日本文化として、あまりにも恥ずかしすぎる。誰かが止められなかったんだろうか。

 デザインや機能性の問題ではない。浴衣は、部屋着、寝間着、ないしは文字通りバスローブに相当する役割を担った衣服だ。
 その「プライベートな部屋着」を身に纏った人間を、海外の国家元首の目前に晒すというのは、これは、やはり失礼というのか、いずれにしてもとても居心地の良くない見世物になると思う。

「浴衣姿」= 「浴衣でくつろいでいる状態は」、本来、自室でのプライベートな時間に限定されているはずのものだ。たとえば、パジャマでテレビを観ているとか、バスローブ姿で風呂上がりのビールを飲んでいるとか。
 それを、自室の外に持ち出すのは、やはりどうかしている。

 日本旅館における「おもてなし」の思想は、「(自宅の居間や寝室にいる時と同じように)浴衣姿になってくつろいでください」ということなのだと思う。
 そこまでは良い。
 が、日本旅館のプライベート感覚は、ロビーや路上にまで延長される。
 どういうことなのかというと、温泉街に代表される日本の典型的な観光地は、観光客が、旅館内の公的スペースはもちろん、町内の街路や映画館や射的場といった、あらゆるパブリックな場所を、浴衣姿のまま歩くことが許されている町で、彼らの定義では、そういうふうに、無防備なカタチで、公私の分別なく過ごせるということが、その町の特別さを証し立てている、てなことになっている。
 おそらく、宴会における「無礼講」に通じる何かなのだと思う。
 肩肘を張ることなく。カミシモを脱いで。一人の裸の人間に戻って過ごせる場所……と。
 
 主旨はわかる。
 でも、私には無理だ。
 温泉旅館のベタついたサービスや、押しつけがましいもてなしは、一旅行者である私には、ただただ面倒くさい。ホテルのロビーをわがもの顔で闊歩する浴衣姿の団体客と旅先の友情をあたためたいとも思わない。ぜひ放っておいてほしい。なぜというに、オレは無礼講の仲間じゃないし、キミらの身内でもないし、当たり前の話だが、見知らぬ町の人間と公私の枠組みを取っ払ってまで付き合う筋合いはないからだ。

 盆踊りの対人感覚も、あれが小さなムラ社会の中の年に一度の祝祭であったからこそ有効だった話なのだと思う。
 YOSAKOIソーラン(この度のサミットで、なぜか歓迎イベントのひとつに採用されていた。恥ずかしくて顔から火が出そうだった)みたいな祭は、ムラ社会のサイズ(せいぜい500人程度)でしか通用しない(というよりも500人以内なら無礼講も楽しいのかもしれない)はずの集団的逸脱を、市の規模(つまり数万人から数十万人を相手にしたイベント屋採算ベース)で展開している暴挙なのだと思う。
 

「交流」とか「おもてなし」とか言ってるけど、要するにPRだから失敗したのだ、と私はそう思っている。
この機会に地域の活性化を、とか、票を、とか、採算ベースの観光資源を、とか、そういう思惑は、かえって外国から来た人には見え見えだったりするのだと思うな。
 ええ、恥ずかしいことです。

参考までに、以下、過去記事へのリンクを

※2000年2月22日の日記:観光地の浴衣ピープルについて
http://odajiman.net/diary/20000220.html

※2000年8月13日の日記:トルシエの浴衣について
http://odajiman.net/diary/20000813.html

 あるいは、「おもてなし」は、「裏があるよ」ということの隠喩なのだろうか。

 ニッサンティーダ (ティアナ) のCMが外人さんのローマ字でアナウンスしている「OMOTENASHI」は、いかにもそんな感じだが。 

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2008/07/05

古舘伊知郎 地球人を叱る

 テレビをつけると、おお、古舘伊知郎が演説をしている。
「テレビ朝日開局50周年記念特別番組 ~地球危機2008~」
 だと。
 なるほど。
 温暖化は待ったなしです、だっけ?

 
 古舘君はどうかしたのだろうか。
 どうしてあんなに必死なんだろう。
 見る度に顔つきが険しくなっている気がする。
 仕草も操り人形みたいにデカくなってきている。
 大丈夫か?

 昔の、いいかげんで、口から出まかせの、軽妙で、肩の力の抜けた安っぽい古舘に戻ってくれよ。
 石橋とやってた「第四学区」は面白かったぞ。オレは大好きだった。

 それが、この2年ぐらい、古舘のアタマの中は、どうやら二酸化炭素で一杯になっている。で、かわいそうに、脳味噌の居場所がなくなってしまっている。
 キミは一体地球の何なんだ。
 森と海と空の代弁者なのか?
 それとも「環境詩人」みたいな立場を目指しているのか?
 で、オレらは、古舘の地球を痛めつけ、古舘の警告に耳を傾けない愚かで意識の低いかわいそうなレミング系の衆愚地球人だと、キミのアタマの中では、そういうスジの話が進行しているのか?

  仮に、今年の夏が冷夏に終わったのだとしても、古舘は
「地球規模の温暖化の影響がこんなところにも」
 ぐらいなことは言うだろう。
 きっと言うな。
「冷夏もまた、温暖化のひとつの顕在化した姿であると私には、そういう気がしてならないのです」
 とかなんとか。

 おお、
「先進国は、世界同時謝罪をしてもらえないだろうか」
 
と、古舘が演説をぶっている。
 すごいことを言うなあ。
「そうしないと、地球の未来は無いのではないか」
 と言っている。
「真っ先に謝ってほしいのはアメリカです!」
 と、人差し指で画面を指さしてそう叫んでいる。
 大丈夫だろうか。
 古舘よ。
 もうそれぐらいにしておいたほうが良いと思うぞ。
 な。
 肩の力を抜けよ。

 

※コンビニ

 京都市では、地球温暖化対策の一環として、コンビニに深夜営業の自粛を要請するつもりでいるらしい。
 石原都知事も賛成しているのだそうだ。
 
 まあ、店が開いているよりは閉まっている方が、確かにエネルギー消費は抑えられるだろう。それは間違いない。
 でも、どうしてコンビニなんだ?
 だって、どんな業界のいかなる業種であっても、営業規模が縮小すればCO2排出量は低下するはずで、そんなことは自明の理じゃないか。

 結局、京都市なりほかの自治体なりが、あえて営業自粛を求める裏には、コンビニの深夜営業を「不必要」「有害」、ないしは「無ければ無しで済むはず」と見なす思想があるはずなのだ。

 でも、どうしてコンビニなんだ?
 私にはその理由がよくわからない。

 深夜に煌々と明かりをつけて店舗を営業しているありさまが、無駄な感じを与えるということだろうか?
 若い者がタマるから?
 主婦の手抜き料理のベースになっているから?
 あるいは、夜寝ない子供が増えることの理由になるからだろうか?

 まあ、そういう側面もあると言えばあるかもしれない。

 でも、無駄というならディズニーランドや温泉宿の方ががずっと無駄(つまり、生活の必要に根ざしていないということ)だし、青少年の非行に関連しているというのなら、パチンコややくざ事務所こそが、真っ先にツブされるべきではないのだろうか。

以下、営業自粛の対象として、コンビニに白羽の矢が立った理由について考えてみる。

  • 歴史の浅い業界は、影響力の強い同業組合を持っていないから。たとえば、パチ屋の業界や競馬の団体は、強力な圧力団体を備えており、政官界に太くて暗いドロドロのネットワークを築いている。だから、こういう時に営業自粛を求められるような間抜けなハメには陥らない。対して、コンビニ業界はできたばっかりで、統一的なロビー活動回路を持っていない。天下りの官僚も受け入れていないし、政治献金もしていない。だから狙われる、と。
  • アタマの古い人たちは、無駄でも、良くなくても、古くから存在しているあれこれに対しては寛大に構える傾向がある。たとえば、パチンコ、競馬、酒、タバコ、売春みたいな、百害あって一利ぐらいしか無いタイプの習慣でも、それらの昔なじみの悪徳は、あんまり問題視されない。「そりゃ、たしかに良いものじゃないけど、世の中っていうのは、そういう良くないものも含んだ上で成り立っているわけなんだからさ」てな調子で、なんとなく容認される。ヤクザも。「一種の必要悪だよね」ぐらいで。ところが、パソコンだとか、携帯電話だとか、紙おむつだとかコンビニだとかみたいな、年寄りにとって「オレが若い頃はそんなものはなかった」と言い切ってしまえるタイプのニューカマーは必ずや異端視されることになっている。善し悪しや功罪とは無関係に。だって、なんとなく気に入らないから。
    だから、コンビニにしても携帯にしても、若いヤツらがわけのわからない犯罪をやらかすことの有力な原因にまつりあげられている。なぜかって? オレらの若い頃にはそんなものはなかったからだよ。

 結局、無茶に見える施策でも、世論からの一定の支持がなければ実行されることはないわけで、その意味では、コンビニはやっぱり嫌われているのであろう。必ず投票に行くヒマな年寄りに。
 私見を述べれば、コンビニより何より、ツブすならパチ屋だと思うのだが、ああいう無駄で下品で罪深いものに限って絶対にツブれないのだろうな。なにせおまわりさんの末の弟みたいなヤツだから。うん。次兄はヤクザ。でもって伯父が議員で従兄弟は芸能人。

 ん? 古舘君は、ほとんど絶叫してるぞ。
 おーい、落ち着け。
 アタマを冷やせ。
 な、古舘よ。
 まず、自分のアタマの温暖化をなんとかしてから語ると良いと思うぞ
 ハエも集まってきてるみたいだし。

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荼毘転

 7月4日をもって、「ダビング10」が解禁になったのだそうで、新聞各紙およびテレビ各局は、いまさらのように告知につとめている。
 解説の内容は、各局とも

「デジタル放送の番組を録画(ろくが)機自体に録画して、そこから最大10回までDVDなどにコピーできる仕組みのこと。現在は1回コピーすると録画機からは消えてしまいます。」

 という、朝日新聞が小学生向けに用意した解説ページ(朝日キッズ)から一歩も外に出ていない。

アサヒ・コムきっず:ダビング10(てん)とは? :ことばなるほどね

 私が昨日偶然見ていた「思いっきりイイ テレビ」では、女子アナさんが
「たとえば、私が『思いっきりイイ テレビ』をハードディスクに録画していたとします。これまでは、自分でDVDにコピーするとハードディスクから消えてしまうので、録画を頼まれた人に配ったり、みのさんに見て貰ったりはできなかったのですが、これからは、10枚までDVDに録画できるようになるので……」
 てな話をしていた。
 でもってそれを、みのもんたが
「一緒に見れば良いんじゃないの?(笑)」
「……ええ、まあ、ははは」
「ね。一緒に見れば良いんだよ、一緒に。そうだろ?」
 と。なんだか、セクハラっぽいジョークでまぜっ返して次の話題に流れていた。

 ま、そういう扱いなわけですわ。

 「ダビングが10回」という情報自体に、間違いはない。
 が、本当のことを言っているわけでもない、とオレは思うぞ。

 ダビング10を解説する上で重要なポイントは、

  1. 編集ができない。
  2. 孫コピーができない。

 の2点だ。ダビング回数は周辺情報に過ぎない。
 なぜというに、録画したものを丸ごと無編集でダビングすることしかできない以上、それが1回であれ、10回であれ、本質的な差はないからだ。

 テレビの解説をうっかり聞いた人は、ダビング回数が10回に増えたおげで、10倍自由になったみたいに思うかもしれない。が、そんなことはありません。ユーザーの側の利便性は、せいぜい1.5倍ぐらいにしかなっていない。

 編集・加工ができないということは、「鵜呑み」を強いられているということに近い。煮てもダメ、焼いてもダメ。もちろん噛むのもダメ。ただただ、皿の上に出てきたカタチのまま、丸呑みにしろ、と、シェフはそう言っているのである。
 具体的には、録画しておいた番組について、丸ごとDVDに焼くか、丸ごと捨てるかの、いずれにしても不本意な処理法以外に、有効な選択肢が許されていないことになる。

 たとえば、「スーパーサッカー」を録画しておいたとする。
 あのテの番組は、枠自体は45分だが、後々残しておきたい部分がどれほどあるのかというと、せいぜい10分に過ぎない。まあ、個人差はあるだろうが。
 内訳は以下の通り:CMを除けるとそれだけで35分ぐらいになる。さらに、野球やバレーボールのコーナーを除外すると25分。で、その25分の中から、クソ甘ったれたアシスタントのねえちゃんのチアガール挑戦企画だとかをケズると残りが10分。つまりそこだけ見れば十分。そういうことだ。
 が、これを、我々は、丸ごとDVDに焼かなければならない。
 CMカットさえできない。
 アタマから最後まで、見たくもないCMや余計なトークや、クソ面白くもないスタッフ慰安企画コミコミで、すべてダビングするほかに方法がないのだ。

 編集もできない。たとえば、捨てることになっている負け試合の録画VTRから、田中達也のファインゴールだけはピックアップして残しておくとか、録画済みの50本のサッカービデオの中から小野伸二ベストプレイ集を作るとか、そういうこともできない。

 加工もダメ。
 ゴール集映像をスロー再生して、それに自作の音楽をカブせてオリジナルのビデオクリップを作るとったような作業ははまったく不可能になる。録画済みのシーンを録画共有サイト(YOUTUBEとか、ニコニコ動画とか)にアップすることもできない。
 つまり、なんにも出来ないわけだ。
 で、メディアは、このことを伝えていない。
 ひどい話だと思う。 

 以下、参考までに、2004年時点での原稿を掲載しておく。
 事態は、4年前からまるで進んでいない。
 っていうか、より凶悪化した状態で固定されつつある。合掌。

 奇妙なニュースをひとつ。
《日枝久・日本民間放送連盟会長(フジテレビジョン会長)は12日の記者会見で、DVD録画再生機を使ってCMや見たくない場面を飛ばして番組を録画・再生することが、「著作権法に違反する可能性もある」と述べた。電機メーカーなどに何らかの対応を求められないかを検討するため、民放連で研究部会を設けた。》
 意味がわかりますか? 私には全然わかりません。先を読んでみましょう。《高性能のDVD録画再生機は、見たくない部分を自在に飛ばす「編集」ができ、CMカットも容易に出来る。日枝会長は「放送は1時間すべてが著作物と考える学者もいる。いろんな問題を含んでいる」と語った。》
 えぇぇぇぇえ? って感じだよね。
 ついでに背景説明。
《十数年前に三菱電機などがCMの自動カット機能付きのビデオ録画再生機を売り出した時も、民放連は販売抑止などを働きかけた。この時は広告主でもあるメーカーがカット機能を手動方式に変えるなどした》(朝日11月12日)
 ……と、結局、記事全文をアタマから十回読んでみても、いまだに私は、事態を飲み込めずにいる。私のアタマがタコなのか、記事がタコなのか、それとも、タコはテレビをめぐる現実そのものに取り付いているのだろうか。
・編集って著作権侵害なのか?
・だとしても、CMカットが編集かよ
・で、つまり、アレか? CM中にトイレに立ったりすると誰かの著作権を侵害することになるのか?
・「放送は1時間すべてが著作物と考える学者もいる」って、誰だよそいつは?
・泣く泣くCMまで丸録りしたとして、だ。それじゃあ、見る時に早送りとかするとおまわりさんにつかまるのか?
 ……疑問は尽きない。
 が、つまるところ、唯一の疑問は、
・地上波民放局は、どうしてこんな無茶な理論武装をしてまでCMカット機能に抵抗するのだろうか
 という一点に落ち着く。
 もしかして、「スポンサーがCM枠を買い取って、その宣伝費でもって番組を無償提供する」という枠組み自体が、行き詰ってきているのかもしれない。
 だよな。実際、オレら視聴者だって、昔みたいにテレビのCMを鵜呑みにはしてないわけだし。
 それでなのかどうなのか、テレビにおけるCMの扱いは、ここへ来て明らかに異常になってきている。
 CMの時だけ音量が上がるようになったのは、もう20年も前からの話だが、最近では、CMを見せようとする手口にさらなる陰険さが加わっている。
1.釣りテロップ:「CMの後、驚愕映像が……」みたいなアオリのテロップを送出→2分間のロングCM→何が出るのかと思ったらエンドロールだけ。
2.待たせまたぎ:クイズ番組や手品の種明かしコーナーで、答え部分をCMの後に持ってくる手口。
3.ギロチン切り:主にVTRもので使われる手法。異様に切れの悪い場面で、何の前触れもなしに突然CMに入る。
4.振りかぶり:ドラマ、アニメなどでよく使われる手口。「越前リョーマがラケットを振りかぶ」った瞬間にCM入り。
5.ブーメラン再生:CM明けの時、CM入り時点から5秒ほど戻ったところから再生する。ザッピング対策、あるいは、単なるVTRの尺稼ぎだろうか。
 なるほど。もしかして、オレらが見ているテレビは、CMのおまけ……ん? そんなのは常識? じゃあオレがやってる仕事はおまけ批評で、オレはオマケクレーマーライターなのか?

2004年11月 「読売ウィークリー」掲載) 

結局、テレビメディアは、視聴者をバカにしているわけだよ。
「我々が想定している形式以外での視聴はまかりならぬ」
 と、彼らはどうやらそういう意味のことを言っている。
 
 何様だ?

 本来、著作権というのは、複製版を営利目的で大量販売する海賊版業者みたいな悪党から、著作者の生活と権利を守るために発想された権利であって、そもそもユーザーの私的複製や、私的な編集をさまたげるものではないはずのものだ
 が、デジタルコピーの簡便さ(と劣化の無さ)に過剰反応しているのか、ここ数年、著作権をめぐる議論は、ヤクザのみかじめ料じみた恫喝や利権団体のナワバリ争いみたいな醜い話ばかりになってきている。
でなくても、見て貰ってナンボの商売をしている人間が、観客に注文をつけるのは、本末転倒ってものじゃないのか? 

 仮に、不正コピーバージョンを販売したり、あるいは、改変版を勝手に流布している人間がいたら、その時点で摘発して罰すれば良いことで、複製それ自体や、編集そのものを配布の段階で一律に禁止するのは、筋違いである。作品観賞における基本的な条件を毀損する態度と言っても良い。
 第一、地上波の民放が流しているバラエティだとかを大量に複製したとして、そんなものに販路があると思うか?
 誰も見ないぞ。そもそもタダでばらまいてるものなんだから。っていうか、タダだからこそ付き合って貰っている、って、その程度のものだろうが。

 コンテンツ業界も、結局は自分の首をしめることになる。
 編集さえできないような制作物が、いったいどこのマニアにアピールするというのだ?

 っていうか、編集を許さないというのは、クリエイターの傲慢なんではなかろうか。
 あるいは、自分たちのクリエイティビティに自信が持てないから、彼らは編集を恐れているのだろうか。

 いずれにしても、ろくなことにはならない。
 おそらく、これで、デジタルAV家電の市場は台湾や韓国のメーカーにごっそり持って行かれることになるだろう。
 自業自得。
 イソップ童話か何かににこんな話がなかったっけ? 自らの強欲のために身を滅ぼすか犬か何かの話が。

 

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2008/07/01

グラフィティと美意識

※上越新幹線に「Hack」と落書き 始発が運休

 新幹線の車両に落書きが発見されたのだそうで、NHKの「ニュースウォッチ9」がけっこう大々的に報道していた。
 やめておけば良いのに。
 というよりも、このテのニュースは、徹底的に黙殺しないといけない。
 ぜひとも無視すべきだ。

 なぜというに、メディアの報道は、そのまま落書き犯のモチベーションになるからだ。
 こういう事件を報じるのは、逮捕された場合に限るべきだ。ニュース原稿も、極力小物扱いで処理し、キャスターならびにコメンテータもノーコメントでスルーしないといけない。片頬で冷笑しつつ次のニュース(どっかの課長がケチなわいせつ事件を起こしたぐらいの事件が好適)に移動するぐらいの取り組み方。ふふん、ぐらい。
 メディアが騒ぐのは、犯人の思うツボ。
 ただでさえ、まんまと侵入して、ものの見事に落書きを描き切った犯人は、彼らの世界の中では「英雄」になっている。おい、えらくクールな仕事っぷりじゃないか、ブラザー、と、そんな不埒なクルーに勲章を与えてはならない。
 なのに、NHKは騒ぐ。古舘はもっと騒ぐかもしれない。ああいうヤツだから。
 いずれにしても、自らの「作品」を全国ネットで紹介され、しかも手がかりひとつ残さず、つかまる気配さえみせていない彼は、今のところ、完全にヒーローだ。

 きっと後追いが出る。
 痛快だしね。彼らにしたら。NHKのネクタイぶらさげたキャスターが眉をひそめたりしてるわけだから。
 こんなに「カッコイイ」ことって、ほかにあんまり無いんじゃなかろうか。

 グラフィティみたいな文化にシンパシーを抱いている人々の美意識からすると、新幹線の土手っ腹に鮮やかに大書した文字は、これはどうしようもなくカッコイイはずだ。議論抜きで。だって、一夜明けたらあポップな電車が誕生してたわけだから。あの、スクエアでビジネスくさいジャパニーズリーマンの希望の流れ星であるところの「シンカンセン」が、ハーレムの裏路地モードに変身だぜ、な、これって、イケてるよな?
 であるからして、この素敵滅法な作品を「落書き」としか評価できないニュースの連中は、ひたすらにダサい。もちろん、「道徳」だの「倫理」だの「公徳心」みたいなところで議論をしてるオヤジたちの恥ずかしさは、申すまでもない。あんたたちがそんなふうにあんまり型通りに恥ずかしいから、オレらとしても、Hackせざるを得なくなったわけなんだ、な、わかるだろ? YOYO(笑)

 先日、新しいサドルを買った時につくづく思ったのだが、人間の美意識というのは、これは本当にどうしようもないものだ。
 自転車に乗り始めたばかりの頃、私はまだママチャリの側に立っている人間だった。だから、ちょっとだけスポーティーなクロスバイクはカッコイイと思ったものの、あまりに細くて軽いロードバイクは、「頼りなくて気味が悪いぞ」ぐらいに思っていた。
「スカしてんじゃねえぞ」とも。
 サドルについても同じ。レース仕様の細くて軽そうなサドルを見て美しいと感じるようになったのは、わりと最近のことだ。
 要するに、自転車屋の店頭に通う機会を重ね、専門のカタログを眺める時間が増えるにつれて、私の感覚は、いつしかローディーの皆さんのそれに近づいていたわけだ。具体的に申し上げると、後頭部のトンガった鋭角的なフォルムのヘルメットを素敵だと思うようになり、股間モコーリのレーサーパンツ姿に異様さを感じなくなり、吊り目型の昆虫人間っぽいサングラスを美しいと思うような、そういう美意識を獲得したわけです。でもって、なんであれ軽くて華奢で痛そうで高そうなブツが欲しいという、不気味な物欲を抱くに至ったのだね。おそろしいことに。

 美意識はあなどりがたい。
 先日、話のタネ に「チャンプロード」という雑誌を買ってみたのだが、一通り目を通してみて、私はこう考えた。つまり、ヤンキーというのは、思想や生き方である前に、まずなによりも、美意識なのだ、と。
 私自身は「チャンプロード」が提示する美意識に与する者ではない。彼らの言う「オトコっぽさ」が有効な哲学であるとも考えない。でも、あれを見てぐっと来る人々がいることは理解するのである。
 要するにキーワードは「美意識」なのだ。
 「チャンプロード」を熟読するとこのことが良くわかる。あの雑誌の主要な読者層である「ヤンキー」の人々とて、遡ってルーツを辿れば、単に「かっこいい」と思うから革ジャンを着るみたいな、至極単純なところから出発したあどけない少年に過ぎなかった。’60sの子供(しかもエリートを自認する洋楽カブれの小学生)であった私が、長髪&ミリタリースーツの異様なファッションに憧れたのとまったく同じように、だ。
 どうして小学校6年生だったり中学の一年坊だったりする子供が、エナメルの白いベルトを見て「イカすぜ」と思ったり、ズボンを膝のあたりまで下げて歩いているお兄さんに憧れたりするのかは、これは別の問題としてひとつじっくり考えてみなければならない課題ではある。が、それはそれとして、本格派ヤンキーの若者たちが、「チャンプロード」の読者ページで口々に語っている通り、彼らがこの道にはいったきっかけは、必ずや「カッコイイから」なのである。
「地元の先輩で、えらくカッコイイ人がいて、その人のやることなす事をマネしたわけッス」
 と、そのテのエピソードで埋まっていることであるのだよ。この種の雑誌の自分語りコーナー(←少年院卒業インタ。彫り物師探訪。ヤンチャ史連載。オレらのチーム紹介などなど)は。
 で、皮ジャンを羽織り、タトゥーに憧れ、逆立てた金髪を「イケてる」と自認し、ヤンチャと補導歴が自慢で、この世で一番大切なのは「仲間」であると主張する人々ができあがって行くのだ。もちろん、親とか先コウとかはまるで眼中に無いし、「漢」は必ず「おとこ」と読む。これは、思想や覚悟の問題ではない。反抗や逸脱を自覚的に目指した結果でもない。本人たちとしては、あくまでも「カッコイイ」と感じることを自然に追究した結果の暫定的な立ち位置に過ぎないのである。

 うむ。話がズレたな。
 寝よう。

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子機ぶり奇譚

 昨日直ったかに見えていてた子機は、一夜明けて試してみると、元に戻っている。全然直っていない。おい、どういうことだ? 更生したんじゃなかったのか? 悔い改めて一からやり直すと、オレの前で誓ったあの言葉はウソだったのか? 
 朝起きてボタンを押してみると「3」と「切」は一切認識せず。しかも、充電器に置いても接続が切れない。

  •  アルミホイルが接着剤で定着していたのはうたかたの夢で、テスト時における数回の成功例は、結局のところ、死に瀕した子機の最期の頑張りに過ぎなかったということだろうか。
  • 今朝になってまったくセンスしなくなったのは、アルミホイルの剥落か、はみ出した接着剤による絶縁効果なのか、あるいはもっと致命的な理由による何かなのか、理由はわからない。が、いずれにしても、「切」と「3」は、完全に認識不能になった。
  • 接触不良から通信不能へと、修理前と比べて、不安定だった故障の様相が、より安定的な死相に転じたことが収穫と言えば収穫。だろうか。
  • おそらく、敵側の作戦の要諦は、「ぬか喜び」といったあたりにある。
  • つまり、一瞬の達成感と一夜限りの全能感を与えておいて、しかる後により深い絶望の沼に突き落とすという古典的な手練手管だ。
  • でもって、反省とかみたいなことをしてほしいんだろうな、オレに。どうせ。
  • 自らの慢心を戒めるとかなんとか、そういう安っぽい自己省察のあげくに、オレがまんまと信仰の道にでも迷い込んでくれれば作戦成功、と。
  • つまり、Yダ電機の立場からすると、新規顧客獲得&折伏成功で一石二鳥なわけだ。
  • 冗談じゃないぞ。どうしてオレが勤行なんかをする? 南無妙法蓮華経? ふざくんな。

 で、最後の抵抗を試みた次第。

  • もう一度フタを開けて、再度アルミ箔定着作戦を試みる。ま、ダメ元。っていうか、悪あがきだよ。死んだ子の年をカウントダウン的な。
  • あ、ダウンしちゃだめか。
  • 案の定ダメ。まるでセンスしない。おまけに、どこかの線を切ったのか部品を脱落させたのか、はたまた何かの拍子にどこかにアルミ箔のカケラがまぎれこんでしまったものか、充電器の接点が完全に反応しなくなっている。これじゃ切れないのみならず充電もできない。
  • つまり、「受け」専用の受話器としても生命を断たれたわけだね。うん。
  • まあ、ケチなユーザーの迷妄を断つという意味で、自力修理にも意味がないわけではないってことだ。

 メーカーのコールセンターに電話してみた。

  • 親切なねえちゃんが色々と教えてくれる。
  • 細かい話は省略。先方の説明の概要は以下の通り
  • 「へえ、子機は充電器&アダプター込みで売らして貰っとります」
    「値段は16800円だす」
    「へへへ、ビタ一文まかりまへんなあ」
    「へえ、そりゃまあ、販売店さんの中には割引をしてはる店もあるんちゃいまっか? でも、ワテら、小売店さんのことはよう知りまへんのデスわ。すんまへんな」
  • と、ねえちゃんは必ずしも関西弁でしゃべったわけではないのだが、会話の内容をよりリアルに再現するために、関西ライクなトークを採用した次第。どっちにしてもオレの負けだ。販売店にしたところで、たいした値引きはしないだろう。だって、こういう場合、競合する売り手が無いわけだから。
  • 子機のみで16800円という値段は、新品の親子電話より高かったりするわけだが。つまり、親のみの値段はタダ以下ということだろうか? それとも、ある種の人身売買の場合と同じで、親付きだとむしろ値段が落ちる(←いや、詳しいことは知らないよ)てなことなんだろうか。

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