倖田來未の「羊水」発言(「35歳をまわると羊水が腐る(笑)」云々)について。
ひどい失言だと思う。
単なる不注意で済まされるレベルの話ではない。「軽率」とか「無知」みたいなことでスルーしてもらえるニュアンスの表現でもない。
なにより「腐る」という言い方に、「軽率さ」や「無神経」以上の「悪意」ないしは「嘲笑」が横溢してしまっている点が致命的だ。
よって、責められるのは仕方がない。
企業の広告が手を引くのも当然。
だって広告なんだから。
どこの営利企業が、腐った化粧品を宣伝したいと思うかって、そういう話ですよ。
とはいえ、発言した媒体(←AMラジオ)の気楽さ(およびマイナーさ)から考えると、騒動の波及範囲が不当に大きく、しかも急速であったとは思う。
要は「ブログ」の炎上と同じで、途中から(つまり、ある程度騒ぎが大きくなって以降)は、面白がって煽る連中がカネと太鼓で騒ぎ立てただけの話なのだと思う。その意味では、当騒動の半分ぐらいは、人為的な人だかりだった。
で、本来ならAMラジオの視聴者(せいぜい数万人)が不快な思いをすれば済んだはずの不適切発言が、数百万人の耳に届くことになった。
不幸ななりゆきだ。
たぶん、5年前だったら、放送局の周辺でちょっと話題になって、関係者が叱られて、それで終わりの話だった。あるいはスタジオの現場感覚からすると、問題にさえならなかったかもしれない。みんなで下品に笑って終わり。「くーちゃん、ヤバいって(笑)」「また始末書コピーしとかないとならないじゃん」ぐらいでおしまい。放送事故未満のちょっとした不手際。その程度の扱いだ。
執念深いタイプのアンチや、耳ざとい聴取者が騒ぎ出した可能性はある。でも、そこから先、仮に新聞の投書欄に苦情が書き込まれたのだとしても、騒ぎが、活動自粛やCMの配信停止にまで拡大することはなかった。
そんなわけで、マスメディアの一部には、騒動の「元凶」をネットに巣食う匿名の正義派気取りの人々(具体的には@2ちゃんねらー)に帰する論者が現れていたりする。
「騒ぎすぎだよ」
と。
「騒ぎすぎだ」とする見方にも、一理あるとは思う。
でも、今回の問題に限って言うなら、ネットを悪者にするのはスジ違いだと思う。
というのも、この度の騒動の震源は、発言の内容以上に、倖田來未というタレントの資質そのもののうちに内在していたものだからだ。
「この程度の失言でタレント生命を断たれるようでは、芸能人なんかやってられないぞ」
という議論は、一見、まっとうに見える。
が、実際のところ、ネット時代だからといって、すべての芸能人のあらゆる問題発言が必ず炎上騒動につながっているわけではない。
ヤバい発言を繰り返しながら無事で済んでいるタレントはたくさんいるし、無頼な芸風で売っている芸人だって珍しくはない。っていうか、ヒップホップ的には不敵不遜不謹慎じゃないお兄さんはアーティスト失格だったりするわけで、いずれにしても、ダメでしょ? 謙虚で腰が低い敬語ラッパーみたいなものは。きっと。
この度、倖田発言が特に問題にされたのは、要するに、倖田來未という歌手に対する反感があらかじめ醸成されていたからで、そういうふうに手ぐすねを引いた状態で失言を待ちかまえているテの世論が、爆発寸前になっていたからこそ、騒動は急速に拡大したと、そう考えるべきだ。
仮に、同じ発言をたとえば、篤姫の主人公をやっている童顔の女優さん(←名前失念)だとかがやらかしたのだとすると、おそらく、この場合は、そんなに大きな騒ぎにはなっていない。
「○○ちゃんって、見かけによらずバカだったんだなあ」
「無神経な女だよね」
「まったく、ぶっちゃけとか無邪気とか、そういうレベルの話じゃないぞ」
と、ラジオを聞いた人々の間で話題になることぐらいのことはあっただろうが、でも、それがすかさず@2ちゃんにチクられて、しかもそのスレッドが爆発的に伸びるような展開にはならなかったと思う。
つまり、「コーダ調子のってんじゃねえぞ」「なーにが歌姫だか」という気分が、あらかじめ巷間に蔓延しているのでなかったら、こんなふうに炎上する事態にはならなかったということだ。
ついでに申せば、倖田來未がエーベックス所属のタレントでなかったら、騒ぎはここまで大きくなってはいなかった。のまねこ事件や浜崎あゆみをめぐる様々な行きがかりからして、@2ちゃんねらーの多くは、おそらくエーベックスに対して良い感情を抱いていないわけだから。
興味深いのは、今回の騒動に対するマスメディア(ワイドショーのコメンテーター、キャスター、スポーツ新聞の記事などなど)の反応が、昨年の沢尻エリカ発言の時と比べて、圧倒的に好意的(つまり、倖田來未に対して同情的な発言が多いということ)である点だ。
倖田來未のバック(所属事務所およびレコード会社)が、沢尻エリカのそれと比べて、デカい影響力を持っているからだろうか。
そうかもしれない。
フジテレビ(特に「めざましテレビ」の軽部とか)が必死になって火消しに走っていた様子とかを見ると、そんな気がしないでもない。
でも、それだけではない。
二人の失言は、質的に異なっている。
で、メディアの反応の差は、その二人の問題発言の質の違いにある。
沢尻エリカ発言の問題点は、なにより「業界の仁義を裏切っている」点にあった。彼女は、「得意先の段取りを台無しに」した、「礼儀知らず」のタレントであり「監督の顔をツブ」し、「先輩アナウンサーのフォローを無視」した、不届き至極な秩序紊乱者であった。
とすれば、芸能界のインサイダーたるコメンテーターの皆さんは、沢尻の逸脱を、絶対に許すわけにはいかなかった。だって、こういう不埒な態度を許していたら業界が成立しないから。
対して、倖田來未の発言は、業界や現場に損害を与えたというよりは、より純粋に対視聴者の問題だった。
発言を聞いて不快に感じた視聴者もいただろうし、高齢出産を控えた女性とかは、モロに傷ついたかもしれない。でも、ほら、くーちゃんっていうのは、もともとがぶっちゃけで売ってるヒトなわけだし……と、業界の人間は同情したのだね。明日はわが身でもあることだし。
くーちゃんの発言は、たしかに不用意で無神経で未熟だった。でも、失礼だったり礼儀知らずだったり仁義を踏み外していたり言語道断だったりはしていない。許してやろうよ、と。
もちろん、視聴者の立場から受け止めるなら、倖田來未の発言の方がずっと悪質だ。
沢尻発言も、倖田発言も、無神経かつ不当なバカ発言であった点については似たようなものだ。が、いずれがより悪質だったのかと問われれば、文句なしに、「羊水が腐る」発言の方だと私は思います。
今回、テレビメディアの中に倖田來未を擁護するコメントが目立った裏には、ネット世論への反発という要素もあったはずだ。たしかに、テレビ関係者からすると、ネット発の批評や、騒動だの抗議だのは、一向に建設的でないのみならず、しつこくて残酷で面倒くさい、およそ神経にさわるタイプのリアクションなのであろうからして。
だから、今回、倖田來未を擁護している人々は、その実、この機会を利用して、「ネット世論」を攻撃したいと願っている人たちで、なるほど、顔ぶれと見てみると、ネットの嫌われ者(まあ、2ちゃんではたいていの有名人は嫌われ者だったりしますが)ばかりだったりする。
やっかいな話だ。
でも、そういうやっかいな連中と折り合いをつけて行かないと、21世紀の有名人はつとまらないわけで、ネット時代のセレブリティは、著しく不安定な基盤の上に成り立つ、幻のごとき流動資産に変質した、と、そういうことなのだな。
言葉をかえて言うなら、情報の双方向化は、メディアの側にもメディアリテラシーが求められる時代をもたらしたわけで、懐かしくも麗しい、古き良き二十世紀のおとなしくて無力なやられっぱなしの聴衆は、もう帰ってこないのだよ。残念だが。
エンジョイ炎上。うむ。楽しくないけど。
おそらく、ネットの言論は、この先も「荒れて」行くのであろう。私のブログのコメント欄も、だが。
どこのブログも同じだ。
酒癖の悪い常連客に辟易した個人営業のマスターが、面倒くさくなって店を畳むみたいな調子で、ある日突然消滅してしまうブログや掲示板がいくつもある。
残念なことだ。
特定の言論や特定の政治的ないしは民族的キーワードに拘泥する狂信的な発言者が居座るようになると、気楽な感想を寄せてくれていた人たちは、席を立つようになる。
で、電脳空間上に擬似的に形成されていたかにみえた甘ったれた井戸端空間は永遠に失われる、と。
ココログは、NGワードを導入できないんだろうか?
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