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2008/02/22

負傷

 昨日(2月21日)午前10時、朝日新聞の記者さんが取材にやってくる。
「有名人のペット」のコーナー。夕刊だそうです。
 私が有名人であるかどうかはともかく、イギー氏のメディア露出機会には抵抗できない。
 で、取材を快諾した次第。

 掲載はたしか「2月の30日頃になります」と言っていたような気がするのだが。
 ん? 2月って、29日までしか無いよね?
 2月末ということなんだろうか。それとも3月30日と言ったのを私が聞き間違えたのだろうか。
 まあ、明日にでも確認してみます。夕刊だそうです。

  • というわけで取材に先立って、イギー氏の居室であるところの風呂場を磨き上げる。写真が載るというのでね。
  • タイルの目地に入り込んだヨゴレを落としたり、かなりキになってクリーンアップしました。
  • 朝からさんざん水をかけられたり足もとをゴシゴシやられたりして、イギー氏は次第にナーバスに。
  • で、棚の上を行ったり来たりして落ち着かないので、「まあ、落ち着けよ、相棒」と、アゴのあたりを撫でてやる。こうすると落ち着く場合が多い。
  • とはいえ、風呂椅子の上に乗って、右手でタイルを磨きながら、左手でイギー氏をハンドリングするというのは、動作として無理があった。
  • ちょっと舞い上がっていたのかもしれないな。新聞の取材だああ、とか。素人ってヤだよね。
  • 壁面のタイルのヨゴレに視線を集中させたままで、イギー氏に手を伸ばしたものだから、イギー氏へのアプローチがちょっと素早く(つまり、イグアナにとって苦手な、天敵の動物っぽいクイックな動作に)なってしまった。
  • と、驚いたイギー氏は、なんと、私の手を噛みました。12年と9ヶ月飼っているけれど、噛まれたのははじめて。
  • えっ? という感じ。痛みよりも驚愕。飼い犬に云々みたいなことわざはあるけど、この場合……
  • 見ると血がドクドク。イグアナの歯は、肉食トカゲの歯とは違って華奢。でも薄くて鋭い。カミソリライクな切れ味。モロヘイヤの硬い茎なんかも、スパッと切る。
  • それゆえ、傷はけっこう深い。
  • とっさに、「イグアナの凶暴性が強調されるみたいな記事になったらヤだなあ」と、レプタイル業界の心配をする。こういうところが、ふだんから偏見にさらされている爬虫類キーパーのいじらしいところですね。ちなみに、イグアナは犬猫なんかよりずっと安全です。飼い主がバカだったり油断しまくっていたりその両方だったりしない限り、怪我をさせられることはありません(断言)。
  • 撮影は30分ほどで終了。その後、マンション前の路上で顔写真を撮影の上、近所のファミレスで、話をする。うん。血染めの包帯姿でね。困ったことです。
  • 午後、念のために病院に行く。化膿すると面倒なので。
  • お医者は、「消毒しても処置しても、化膿するときはします」とか言いつつ、クールに治療。傷口の拭い方は、ちょいと乱暴。軍医モード。たぶん忙しい病院の外科の医者にとって、この程度の傷は軽傷なのでありましょう。
  • 化膿止めを処方されて帰宅。「経過を見たいので明日も来てください」と言われる。
  • で、その昨日の明日が今日なわけだが、結局医者には行かなかった。忙しかったし。
  • 明日、悪化しているようなら診てもらうことにしよう。
  • まったく。

Wound
※イギー氏の嚼み跡。歯が薄いので、傷口が深いわりにダメージは少ない。
手の甲の側にも傷がある。

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2008/02/17

モバイルな一日

 昼過ぎから、自転車に乗る。
 ここしばらく、雪が降ったり風が強かったりで、思うように走れなかった。まとまった距離を走るのは10日ぶりぐらいになる。
 赤羽から、十条仲原、西が丘、国立トレーニングセンター、大和町、仲宿、板橋、巣鴨を経て、本駒込、本郷、根津、谷中と、17号線の裏道を探しながらダラダラと走る。
 根津から谷中にはいったあたりで、すぐ近所に古い友人の墓があったことを思い出す。
 もう20年も墓参をしていないが、正確な場所にたどり着けるだろうか、と、そんなことを考えながらしばらく谷中近辺を走り回る。
 線香をあげようと思ったわけではない。私は、その種の信心深さとは無縁だ。
 が、偶然であれ、気まぐれであれ、いま自分がこういう場所を走っているということは、もしかして故人が呼び寄せたからなのかもしれない……と、そういう考えを抱く程度の迷信深さは、持ち合わせている。で、なんだかんだ30分ほど、日暮里と西日暮里の間の諏訪台通り周辺を探し回った。
 目的の寺は見つからなかった。
 私の記憶が間違っていたのか、それとも周囲の景色が変わっているのか。寺の名前を覚えていないだけに、どうしようもなかった。

 自転車で走る場所も、さすがにネタが尽きてきた。
 河川敷のサイクリングロードを上下するのは、この時期、冷たい北風が強すぎてあんまり気がすすまない。苦行っぽいし。
 で、都内を走ることになるわけなのだが、情けないことに、私の輪行は、孫悟空の飛翔やハムスターの疾走と同じで、決まった範囲から外に出ることができない。堂々巡りを繰り返している。
 その「範囲」は、簡単に言えば、山手線の北半分、もう少し詳しく言うと、「山手線を新宿と秋葉原を結ぶ総武線で切断した際にできる半円の北側に、赤羽・田端・池袋を結んだ三角形の帽子をかぶせた地域」ということになる。
 私は、このとんがり帽子から外に出ることができない。
 山手通りを走っていても中野区に足を踏み入れるととたんに心細くなるし、明治通りも台東区まで行くとにわかに里心がつく。大田区だとか世田谷区品川区あたりは検討の候補にさえのぼってこない。だって、クルマで走っていてさえアウェーな感じがしてくるこの世の果てなのだからして。

 北、板橋、豊島、文京の4区は、どこをどう走ってもなじみ深い。ホームタウンだからね。
 この4区は古い時代の都立高校の学区分けにおける第四学区に相当する。ここには、高校の同級生の自宅が散在している。それゆえ、すべての町名に、何らかの手がかりがある。
 この「旧第四学区」に、新宿周辺とお茶の水秋葉原界隈を加えたものが私にとっての「東京」のほとんどすべてということになる。ついでに言うなら、私にとっての「日本」も、8割方はこの範囲内に格納されている。うん。わがことながらケツめどが小さい。ヒデよ、笑わないでくれ。3LDKの国際感覚。携帯祖国。

 ともあれ、私の記憶のほとんどは、旧第四学区圏内にある。
 だから、このあたりを自転車で走っていると、土地に結びついた様々な記憶が去来する。
 良いことも悪いことも。
 あらゆるくだらないすべてのことどもが。

Denki
※帰途、田端新町で見かけた縄のれんの酒場。再開発対象になっているようだったので撮影しておきました。

 それにしても、輝かしい記憶や、懐かしい思い出が、いつも悲しみに似た感触を伴って思い出されるのはなぜなのだろう。
 それらのかけがえのない記憶と結びついている場所や時代に、二度と立ち戻れないことを、われわれが既に知っているからだろうか。
 反対に、辛い記憶や、苦い思い出が、それを思い出しているわれわれにさしたる苦しみをもたらさないのは、私たちが既にそれらを克服しているからだろうか。

 いずれにしろ、ペダルを踏んでいると実にたくさんのことを思い出す。イヤフォンの中で'70sのロックが鳴っていると特に。
 ワープロ付きの自転車が発明されるべきだと思う。
 あるいは文字通りのモバイル(←車輪付き)PCが。
 そうすれば、200キロの走行で、素敵な青春小説がひとつできあがる、はずだ。
 
 どうせ、警察が禁止するんだろうけど。
 

 

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2008/02/15

閉店

 昼過ぎ、昼飯ついでに川口まで出かける。探している本があったので。
 赤羽には、「城北最大」(←「池袋は城北じゃなくて都心だよね」式の超ローカルな地元意識における「城北最大」。すなわち「北板橋両区における井の中のトノサマ」ぐらいな半端夜郎自大)を謳う中規模書店がある。
 でも中規模書店というのは、いかにも中途半端な存在で、雑誌やベストセラーを買うぶんには良いのだが、ちょいとマニアックな本はまず見つからない。たとえばオダジマの本とかは新刊の時でも2冊ぐらいしか入荷しない。で、オレが買うと売り切れ。それっきり。そういう本屋です。
 ってことはつまりコンビニとたいして変わらないわけだ。わたくしどもインテリにとっては。
 で、ちょっとした本を探していたり、特定のジャンルの新刊でめぼしいものを漁る時には、川口まで出かけるのが私の中のコースになっていた。

 ところが、本日約3ヶ月ぶりに訪れたその「書泉ブックドーム川口店」は、既に閉店している。
 駅方面から歩いて来て、一階の一角が携帯電話のショップ(Dokomo)になっているのを発見した時、既にいやな予感がした。近づいてみると、ドコモショップの向こう側のメインの入り口にはシャッターが降りている。
「ん? 休みか?」
 とは思わなかった。
 というのも、店頭のたたずまいが、明らかに撤退店舗のそれだったから。具体的にどこを見て廃業と判断したのかと問われると返事に窮するのだが、実際に見てみれば一目瞭然。閉店に追い込まれた店ならではの寂寥感みたいなものが、周囲を圧していた。

 入り口前の張り紙(←ワープロ打ち。これも淋しい。だって、仮にもビル一つまるごとを占有する大型総合書店だったわけですよ。その、地域随一の大規模書店の閉店を知らせる告知が、A4ペラのワープロ文書であって良いものなのか?)によれば、閉店は1月27日とのこと。

 以前から、行くたびにフロアが縮小されていたり、最上階のレストランが撤退したまま後の店が入っていなかったりで、なんとなくサビれた感じはしていたのだが、それはそれとして、閑散とした店内でゆっくり本を眺められるこの店は、私にとって大切なスペースだった。
 いや、残念。

 今後は、池袋まで出かけることになるのだろう。
 ジュンク堂とかは、人が多すぎで好きになれないのだが、この際好き嫌いを言っていられる立場ではない。
 amazonで間に合わせるのもなんだかシャクだし。
 それに、このうえ外出先として本屋まで失うようだと、それこそマジなヒキコモリということになってしまうから。

 出版不況……についてはノーコメント。
 砂に頭を突っ込んでじっと耐えるのが賢明な出版人の処世なのだと思う。
 もがいたり動いたりする奴が先に死ぬ……と、こういう場合は山岳遭難における危機対応マニュアルを援用するのが正しいはずだ。
 というのも、我々が直面している事態は、「不況」(つまり、好況とワンセットになっている循環的な景況概念のうちにある一時的停滞状態としての不景気)と呼べるような生やさしいものではなくて、恐慌、氷河期、ないしは隕石衝突みたいな、むごたらしくも血なまぐさい非常事態だからだ。こういう状況に追い込まれた時は、雪洞でも掘ってビパークするしかない。いずれその雪洞の中で凍死するのだとしても。

 昼食後、気を取り直して赤羽の書店におもむくも、ここでもちょっとびっくりさせられる。
 店中、細木&江原の顔だらけだったから。
 まあ、中規模書店は、こういう商売をやらないと生き残れないのかもしれない。
 いや、中小に限ったことではない。
 もしかしてオレら出版業界にいる人間は、この先、テレビ霊媒師の下請けで糊口をしのぐことになるのやも知れぬ。
 オーラの泥沼。
 スピリチュアルの下水。
 霊感の肥溜め。
 野壺カンタービレ。
 テレビんぼの終わらない夜。
 って、上のは4月刊行予定の読売ウィークリー連載単行本第二弾の書名候補のひとつです。わかりにくいかな。
 と、うまいこと宣伝に着地したところで、今日のところは店じまい。
 手をひろげ過ぎないのが長続きの秘訣、と。
 ははは。

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2008/02/11

スルー力

 ネット上の言論の一部は、新手の匿名リンチ法廷みたいなものに変質しつつある。
 面倒くさい話だ。
 私自身、自分のブログのコメント欄を読むことに疲れてきている。
 いつのまにか、公設のチラシ裏みたいなことになってるから。
 あるいは痰壺だろうか。
 公道上に壺を放置しておけば、じきにそれは痰壺になる。
 当然といえば当然の展開なのだろうな。
 どうせ匿名の言論なんて、半分ぐらいは痰だの唾だのでできあがっているわけだから。
 ……きたない話になった。
 気持ちが悪いよ。自分で書いていて。
 で、とにかく、オレとしては、ある朝目が覚めたら私設公衆便所の管理人になっていたみたいな、悲しい気持ちになるのだな、ほかならぬ自分のブログのコメント欄を眺めているうちに。およそばかばかしくも胸糞のよろしくないことに。

 スルーすれば良いことはわかっている。
 でも、スルーを貫徹することにだって一定のエネルギーは要る。
 反応すれば疲れるし、かといって反応しないでいるためには忍耐力のストックが必要になる。
 返事をすれば荒れるし、黙っているとストレスが溜まる。
 つまり、徒労感と焦燥感の二者択一。
 うんざりだな。

 結局、ブログを開設しているということ自体、匿名の煽り屋連中にエサを与える作業に過ぎないのかもしれない。いまいましいことに。

 
 ブログには面白い部分もある。厄介さや面倒くささを含み置いた上で、ネットにテキストをアップすることのうちには、独特のスリルが介在していたりもする。
 わたくしどもブロガーは、そのスリルに中毒している人々であるのかもしれない。

「どうして無料のテキストを書くのか」
 と尋ねる人たちがいる。
 原稿料が発生しない原稿を書くのは、プロの原稿書きとして墓穴を掘ることになるんではないのかと、そういうふうに考える人々もいるのだと思う。
 私自身、はっきりしたところはわからない。
 ただ、文章を書くことが好きなタイプの人間は、同時に、ブログのもたらすスリルを好むタイプの人間であるということは、おそらく言えるわけで、そういうわれわれのような人間たちは、ネット言論のうさんくささや面倒くささや厄介さやくだらなさを引き受けた上でなお、そのスリルに抵抗できなかったりしている。
 ブログ上で展開される言葉のやりとりは、ナマで動いている。そこには、活字媒体に原稿を書くことによって生じる反響とはまったく別種の(←良い意味でも悪い意味でも)刺激がある。
 で、その刺激は、うまくすると有料原稿を生産のためのモチベーションとして利用……できるんだろうか。まあ、話がうまく運んだ場合、そういうこともあるのだろうが、当然、ブログ由来の刺激が執筆意欲を害するケースだってある。
 とにかく、ブログの更新のために疲労していたんでは本末転倒ですね。
 ってことで、今日はおしまい。
 

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2008/02/10

防火羊水

 倖田來未の「羊水」発言(「35歳をまわると羊水が腐る(笑)」云々)について。

 ひどい失言だと思う。
 単なる不注意で済まされるレベルの話ではない。「軽率」とか「無知」みたいなことでスルーしてもらえるニュアンスの表現でもない。
 なにより「腐る」という言い方に、「軽率さ」や「無神経」以上の「悪意」ないしは「嘲笑」が横溢してしまっている点が致命的だ。
 よって、責められるのは仕方がない。
 企業の広告が手を引くのも当然。
 だって広告なんだから。
 どこの営利企業が、腐った化粧品を宣伝したいと思うかって、そういう話ですよ。

 とはいえ、発言した媒体(←AMラジオ)の気楽さ(およびマイナーさ)から考えると、騒動の波及範囲が不当に大きく、しかも急速であったとは思う。
 要は「ブログ」の炎上と同じで、途中から(つまり、ある程度騒ぎが大きくなって以降)は、面白がって煽る連中がカネと太鼓で騒ぎ立てただけの話なのだと思う。その意味では、当騒動の半分ぐらいは、人為的な人だかりだった。
 で、本来ならAMラジオの視聴者(せいぜい数万人)が不快な思いをすれば済んだはずの不適切発言が、数百万人の耳に届くことになった。
 不幸ななりゆきだ。

 たぶん、5年前だったら、放送局の周辺でちょっと話題になって、関係者が叱られて、それで終わりの話だった。あるいはスタジオの現場感覚からすると、問題にさえならなかったかもしれない。みんなで下品に笑って終わり。「くーちゃん、ヤバいって(笑)」「また始末書コピーしとかないとならないじゃん」ぐらいでおしまい。放送事故未満のちょっとした不手際。その程度の扱いだ。
 執念深いタイプのアンチや、耳ざとい聴取者が騒ぎ出した可能性はある。でも、そこから先、仮に新聞の投書欄に苦情が書き込まれたのだとしても、騒ぎが、活動自粛やCMの配信停止にまで拡大することはなかった。
 
 そんなわけで、マスメディアの一部には、騒動の「元凶」をネットに巣食う匿名の正義派気取りの人々(具体的には@2ちゃんねらー)に帰する論者が現れていたりする。
「騒ぎすぎだよ」
 と。
「騒ぎすぎだ」とする見方にも、一理あるとは思う。
 でも、今回の問題に限って言うなら、ネットを悪者にするのはスジ違いだと思う。
 というのも、この度の騒動の震源は、発言の内容以上に、倖田來未というタレントの資質そのもののうちに内在していたものだからだ。

「この程度の失言でタレント生命を断たれるようでは、芸能人なんかやってられないぞ」
 という議論は、一見、まっとうに見える。
 が、実際のところ、ネット時代だからといって、すべての芸能人のあらゆる問題発言が必ず炎上騒動につながっているわけではない。
 ヤバい発言を繰り返しながら無事で済んでいるタレントはたくさんいるし、無頼な芸風で売っている芸人だって珍しくはない。っていうか、ヒップホップ的には不敵不遜不謹慎じゃないお兄さんはアーティスト失格だったりするわけで、いずれにしても、ダメでしょ? 謙虚で腰が低い敬語ラッパーみたいなものは。きっと。

 この度、倖田発言が特に問題にされたのは、要するに、倖田來未という歌手に対する反感があらかじめ醸成されていたからで、そういうふうに手ぐすねを引いた状態で失言を待ちかまえているテの世論が、爆発寸前になっていたからこそ、騒動は急速に拡大したと、そう考えるべきだ。
 仮に、同じ発言をたとえば、篤姫の主人公をやっている童顔の女優さん(←名前失念)だとかがやらかしたのだとすると、おそらく、この場合は、そんなに大きな騒ぎにはなっていない。
「○○ちゃんって、見かけによらずバカだったんだなあ」
「無神経な女だよね」
「まったく、ぶっちゃけとか無邪気とか、そういうレベルの話じゃないぞ」
 と、ラジオを聞いた人々の間で話題になることぐらいのことはあっただろうが、でも、それがすかさず@2ちゃんにチクられて、しかもそのスレッドが爆発的に伸びるような展開にはならなかったと思う。
 つまり、「コーダ調子のってんじゃねえぞ」「なーにが歌姫だか」という気分が、あらかじめ巷間に蔓延しているのでなかったら、こんなふうに炎上する事態にはならなかったということだ。
 ついでに申せば、倖田來未がエーベックス所属のタレントでなかったら、騒ぎはここまで大きくなってはいなかった。のまねこ事件や浜崎あゆみをめぐる様々な行きがかりからして、@2ちゃんねらーの多くは、おそらくエーベックスに対して良い感情を抱いていないわけだから。
 
 興味深いのは、今回の騒動に対するマスメディア(ワイドショーのコメンテーター、キャスター、スポーツ新聞の記事などなど)の反応が、昨年の沢尻エリカ発言の時と比べて、圧倒的に好意的(つまり、倖田來未に対して同情的な発言が多いということ)である点だ。
 
 倖田來未のバック(所属事務所およびレコード会社)が、沢尻エリカのそれと比べて、デカい影響力を持っているからだろうか。
 そうかもしれない。
 フジテレビ(特に「めざましテレビ」の軽部とか)が必死になって火消しに走っていた様子とかを見ると、そんな気がしないでもない。

 でも、それだけではない。
 二人の失言は、質的に異なっている。
 で、メディアの反応の差は、その二人の問題発言の質の違いにある。

 沢尻エリカ発言の問題点は、なにより「業界の仁義を裏切っている」点にあった。彼女は、「得意先の段取りを台無しに」した、「礼儀知らず」のタレントであり「監督の顔をツブ」し、「先輩アナウンサーのフォローを無視」した、不届き至極な秩序紊乱者であった。
 とすれば、芸能界のインサイダーたるコメンテーターの皆さんは、沢尻の逸脱を、絶対に許すわけにはいかなかった。だって、こういう不埒な態度を許していたら業界が成立しないから。

 対して、倖田來未の発言は、業界や現場に損害を与えたというよりは、より純粋に対視聴者の問題だった。
 発言を聞いて不快に感じた視聴者もいただろうし、高齢出産を控えた女性とかは、モロに傷ついたかもしれない。でも、ほら、くーちゃんっていうのは、もともとがぶっちゃけで売ってるヒトなわけだし……と、業界の人間は同情したのだね。明日はわが身でもあることだし。
 くーちゃんの発言は、たしかに不用意で無神経で未熟だった。でも、失礼だったり礼儀知らずだったり仁義を踏み外していたり言語道断だったりはしていない。許してやろうよ、と。

 もちろん、視聴者の立場から受け止めるなら、倖田來未の発言の方がずっと悪質だ。
 沢尻発言も、倖田発言も、無神経かつ不当なバカ発言であった点については似たようなものだ。が、いずれがより悪質だったのかと問われれば、文句なしに、「羊水が腐る」発言の方だと私は思います。
 
 今回、テレビメディアの中に倖田來未を擁護するコメントが目立った裏には、ネット世論への反発という要素もあったはずだ。たしかに、テレビ関係者からすると、ネット発の批評や、騒動だの抗議だのは、一向に建設的でないのみならず、しつこくて残酷で面倒くさい、およそ神経にさわるタイプのリアクションなのであろうからして。

 だから、今回、倖田來未を擁護している人々は、その実、この機会を利用して、「ネット世論」を攻撃したいと願っている人たちで、なるほど、顔ぶれと見てみると、ネットの嫌われ者(まあ、2ちゃんではたいていの有名人は嫌われ者だったりしますが)ばかりだったりする。

 やっかいな話だ。
 でも、そういうやっかいな連中と折り合いをつけて行かないと、21世紀の有名人はつとまらないわけで、ネット時代のセレブリティは、著しく不安定な基盤の上に成り立つ、幻のごとき流動資産に変質した、と、そういうことなのだな。
 言葉をかえて言うなら、情報の双方向化は、メディアの側にもメディアリテラシーが求められる時代をもたらしたわけで、懐かしくも麗しい、古き良き二十世紀のおとなしくて無力なやられっぱなしの聴衆は、もう帰ってこないのだよ。残念だが。
 エンジョイ炎上。うむ。楽しくないけど。
  
 おそらく、ネットの言論は、この先も「荒れて」行くのであろう。私のブログのコメント欄も、だが。
 どこのブログも同じだ。
 酒癖の悪い常連客に辟易した個人営業のマスターが、面倒くさくなって店を畳むみたいな調子で、ある日突然消滅してしまうブログや掲示板がいくつもある。
 残念なことだ。
 特定の言論や特定の政治的ないしは民族的キーワードに拘泥する狂信的な発言者が居座るようになると、気楽な感想を寄せてくれていた人たちは、席を立つようになる。
 で、電脳空間上に擬似的に形成されていたかにみえた甘ったれた井戸端空間は永遠に失われる、と。
 ココログは、NGワードを導入できないんだろうか?
  

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