前のエントリーが、あんまり建前論に傾いている感じがするので、軌道修正をしておく。環境野郎みたいに思われると、ちょっと窮屈なのでね。
正直な話をすれば、私自身、スピードは好きだ。
飛ばすと気持ちが良い。
これは、言葉では説明できにくいタイプの感覚で、なんというのか、単純に速い速度で移動していると、心が晴れ晴れするのだな。スキーにしても自転車にしても自動車にしても。
速いクルマに対する憧れも、捨てられずにいる。
ハイパワーなクルマに特有な排気音や、走りに徹した自動車のフォルムにも、抵抗しがたい魅力を感じる。うん。そうだよ。フェラーリの318とかを見ると溜め息が出るのだよ。
ついでに申せば、カマロみたいなタイプの凶暴なアメ車が走り出す時の野放図な力感も好きだし、値段の高いクルマだけが備えている工芸品じみたツクリの美しさにも惹きつけられる。
ただ、私は、自分のスピード好きを全面肯定しようとは思っていない。
アクセルを踏み込む時には、せめて後ろめたさを感じようではないか、と、そういうふうにして自らを律している。
別の言い方をするなら、スピードの快感と、それに対する没入が必要以上に美化されている現状に違和感を感じている、ということだ。ほら、徳大寺のオヤジの美文だとか、五木の爺さんの逆ハンなんたら以来脈々と流れている、スピードとロマンチシズムみたいなマッチョ自慢の系譜があるだろ? オレは、アレが苦手なんだよ。スピードおやじの自分語りの周囲5メートルに漏れ出ている覆いがたい口臭が。
快楽そのものを否定しようというのではない。
ただ、快楽は罪を伴っているということを自覚するのが、文明人のたしなみだと愚考するわけです。
たとえば、暴力には暴力の快感がある。窃盗には窃盗の快楽があるのかもしれない。あるいは、もっと罪深いことのうちにも、それぞれに隠微な、人に言えないタイプの快楽が潜んでいるのかもしれない。
でも、「人を殴る楽しさ」や「破壊の面白さ」は、公認されていない。だから、それらについて語る人々は、決して大いばりで自らの愉悦を語ったりしない。
かくして、ボクシングは四角い狭いリングの中に押し込められ、厳しいルールと制限の中でかろうじて生き残っている。エロもそうだ。ポルノショップや売春宿はどこの国に行っても路地裏に隠れている。
ボクシングを見る愉しみについてさえ、心あるファンはきちんとした「うしろめたさ」を感じながら、観戦することを自らに課している。
なのに、スピードの快楽は、それが明らかに反社会的かつ破壊的であるにもかかわらず、なぜか、いつでも美文調で語られることになっている。
ハリウッド映画でも、ハードボイルド小説の中でも、スピードへの欲求は、明らかに特別扱いを受けている。なんだかそれが「男の甲斐性」で、「少年っぽさ」の尻尾で、要するに「愛すべき逸脱」であるみたいな調子で。あるいは、スピード好きが「心の純粋さのあらわれ」であるみたいな、そういう扱いがデフォルトになっているわけだ。
だから、スピード好きを公言する人たちの口調にも、微妙なヒロイズムとナルシシズムが漂うことになる。
どこからどこまでを何分で走ったとか、どこそこのカーブを何キロで走り抜けたといったタイプのエピソードも、反社会的な逸脱というよりは、無邪気な自慢話として語られ、それを聞いている少女たちの表情にも、これといった非難の色は浮かんでいない。
「男の人が何かに夢中になっている姿って素敵」
みたいな、方向違いの美化。
狂っている。
どうかしていると思う。
で、私は、かくのごとくにスピードが美化されている理由について、以下のように考えている。
つまり、スピードが美しい本能であるみたいに語られている背景には、スピードが産業化された快楽で、エンジンパワーの増大が資本主義の動力源になってきたということがあるわけで、マスメディアが、スピードを暴力やエロと区別しているのは、産業社会からの無言の圧力に対応しているからなのだ、と。
考えすぎだと思う人々には、そう考えてもらってかまわない。
たぶん、考えすぎだから(笑)。
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