« 新刊 | トップページ | パンク始末 »

2007/06/30

雨と無知

 午後に打ち合わせ。
 日経ビジネス誌の公式ページ(日経BP社「NBオンライン」)内で、書評欄(「日刊新書レビュー」というコーナーらしい。無茶な企画だなあ)担当のメンバーの一人に加わることになった。
 執筆の頻度はとりあえず二週間に一冊程度。
 報酬や作業量の点を抜きにしても(抜きになんかできないけどさ)、強制的に本を読む機会を持つことは無意味ではないのだと思う。
 というのも、ここ数年、Googleとウィキペディアにもたれた生活をするうちに、物理的な読書時間が、減っているからだ。
 読書量が減っていること自体は、年齢も年齢なんだし、そんなに大きな問題ではないのかもしれない。が、自分の中で「知識体系」(というほどのものでもないが)が、バーチャル化している感じがして、それがなんだかヤバいように思えるのだ。
 たとえば、たまに仕事上の必要か何かで、書籍を何冊かまとめて読んだりすると「おお、オレって、おそろしく勉強してないんだなあ」と、改めてびっくりするわけだ。
 問題は、不勉強ではない。
 不勉強は昔からのことだし、いまさらどうなるものでもない。
 問題は、ふだんの生活の中で、私が、不勉強の自覚を喪失しているというそこのところにある。
 つまり、なんというのか、ウェブ発の情報をあてにした生活をしているうちに、自分の中で「知識」の位置づけが水ぶくれしてきている感じがするのだ。
 実際、ちょっとしたことは、いつでもGoogleで調べがつくし、疑問に思った事柄についても、即座にウィキペディアが答えてくれる。だから、なんだか、自覚として、「知らないこと」がなくなってしまったみたいな気分になっている、と、そういうことだ。
 で、どうかすると「オレは何でも知ってる」みたいな自覚が、いつの間にやら、自分の中に育っているわけで、これは、考えてみるに、けっこうおそろしいことなんではなかろうかと思うわけです。脳内「知の巨人」状態。蔵書の中に棲んでいる立花隆みたいなセルフイメージを抱いている怠惰なパンピー、と。ヤバいぞこれは。
 ……いや、いくらなんでも、自分がそこまで博覧強記になったと自負しているわけではない。でも、あらゆる分野の細かいことについて、「ああ、それなら知ってるよ」という感じを抱くようになってはいるわけで、でなくても、その場で分からないことについて、3分後には分かった気にさせてくれるツール(インターネットのことだが)を手にしていることは事実なわけだ。
 で、3分遅れのもの知り博士がここに誕生する。ほとんど、Google&ウィキペディア経由の、3分間検索の2000文字要約レベルのお手軽知識を読みかじっただけであるにもかかわらず、だ。

 ということはつまり、われわれは、最も大切な知識(←無知の知、ないしは、自分が何を知っていて何を知らないのかについての知識)を、喪失しつつあることになる。
 10年前は、自分が知らないことと、多少とも知識を持っている分野については、自分で区別がついていた。だから、自分がたとえばヒンズー教やシックハウス症候群やコスタリカみたいなことがらについて、知識を持っていないことについては、自分できちんとした無知の自覚を持っていた。
 で、しかも、ここが大切なポイントなのだが、その当時(10年前)は、自分がよく知らない事柄について情報を得ようとする場合、とりあえずは書籍に当たるぐらいしか方法がなかった。だから、ヒンズー関連の新書を読んでみるか、それが面倒くさい場合には、「ヒンズー教のことは知らないよ」という自覚を堅持したまま無知でいることを選ばざるを得なかった。
 であるから、そういう生活が便利であったのかどうかは別として、知識がわれわれとかけ離れた場所にあったあの時代、われわれは、知ってもいないことを知っているかのように錯覚する危険性から自由だった。
 ところが、ウェブ上にあらゆる知識が公開されてしまっている現在、わたくしどもは、瞬時に無知を解消できるようになった。それも、ほとんどあらゆる分野のトリビアルな事柄について、概括的かつコンパクトな三行情報が揃っていたりする。と、使い捨てのにわか勉強が楽になっただけでなく、身の回りのあらゆる事態について、あらかじめ事情がわかっているみたいに思いこむこともまた可能になったわけだ。

 もしかして、知識が遠かった時代の記憶を持っていない若い人々は、情報に関して、生まれつきの全能感みたいなものを抱いているのだろうか。
 実際、ものごころついた時にはインターネットがあって、どんなことでもググれば一瞬で調べがつく時代に生まれた人間が、「知識」というものの全体像について、いかなる種類のイメージを抱くものなのか、私にはちょっと見当がつかない。

 ん?
「昔はあんた、上野ぐらいまでなら、みーんな歩いたもんだよ。三時間かけて。今の若い人たちは、どこに行くんでも、気軽に電車使うけど」
 などと、私は、そういうことを言っていた明治生まれのご婦人みたいなものになりつつあるのだろうか。

|

« 新刊 | トップページ | パンク始末 »

コメント

打ち合わせではありがとうございました。
ブログで名前をあげてくださった「日刊新書レビュー」は↓です。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070612/127154/
(無料ですが、いろんなページを観てまわるには会員登録が必要です。昨日の金曜日からトップスピードで走り出した「広田教授の教育も、教育改革もけしからん」他、「連結社」という当方の企画編集コンテンツもいろいろあるんで、みなさんご覧ください)

小田嶋さんのおっしゃっているネットと知識のタチバナ的問題は、日々の編集作業の中でも思い当たる節が多々です。無知である自分への恐れみたいなのが、私自身だって薄れてるかも。

なにはともあれ、小田嶋さんにはノンジャンルで新書の新刊をばりばり捌いていただくことになりました。当方がライターとして、最初に出した本を最初に書評してくれたのが小田嶋氏。十数年ぶりの恩返し、もとい、またまた力をお借りするわけで、ありがたや~です。

半分以上宣伝になっちまいましたが、おだじまん読者の皆様も、日経ビジネスオンラインを覗いたってください。これからどんどん挑戦的なコンテンツにしていく所存です。

投稿: オバタカズユキ(連結社) | 2007/06/30 15:32

「インテルネッツは記憶をガンガン失わせる効果を持つ」

懸念は現実化しております。オバタカズユキさん、俺いずくかで御芳名を拝見してたのですが、以前だったら瞬時に出典をリコーリンできたのに、今まるでだめお。

云々唸って思い出す作業をほぼ完全に徹底してやっておったもんですけど…俺、Wiki使った回数って、両手両足の指で足りるやもであります。12年のネットライフで。先日、「ハビタット」「ハウス」「ホーム」等等、数十の候補から「CAPTAINシステム」を思い出せた時は達成感ありました。

ア!

思い出してきた!相対性理論に挑戦姿勢の方ですね!ナイスチャレンジ。

俺の「光引力仮説」を訊いて頂きたいものでありまする。俺の言説じゃ1ページで終了であるまする。

「全能感は常に誤解である。しかし、能力が低次の者が高次の者をアゴでこき使う社会体制は変革が必要である。」

ほっときゃ男と女の話まで、低次はつけあがりまする。思い知らせる、という行為、それが遮断されるかされないか。お互い踏み込んでしまったなら、笑いと笑いの応酬となるくらいは、致しかたなしかと思われまする。

俺の考える全能感とは、宇宙の全構成単純基本粒子(超ひも理論で仮説されてる辺りの;あれは誤説でしょうが)をひとつ残らずナンバリングして、その運動をひとつ残らず把握しており、そのひとつ残らずに意図作用できる能力を得て初めて持ってよい感じ でありまする、そして、そんなとこまでがっついて 努力 せんでも、ありとあらゆる宗教の 正しき理想 は実現可能なんでありまする。高田純次鑑定家のてきとー処世術はかなり有効です。

なんたって。適当 なんすから。いい加減 とか。

言葉の異化ってこわいですねえ。ほんとですねえ。

ともあれ、俺は呉智英先生の新著を読みたくてしゃーないのですが、あまりにあまりなルックス開発してしまった自己ゆえに、いきつけ書店に立ち読みに征くと雲霞の如く店員が。

「ムムウ アチラがたてばコチラがたたずとゆうやつだナ」
「いちいちうっせーんだよ外人はよ」

投稿: メルヘンひじきごはん | 2007/07/01 13:13

ナニ日経!!

日経BPは潰れにゃーならん出版社ですからなア…

じゃあ、なおさら俺が関わればよいのかナ。

そう考えたりしまする。

投稿: メルヘンひじきごはん | 2007/07/01 13:28

soryaコシノケンイチはんだった懸念。

マア

近傍の方すよね。「月にゑつとらんちや」とか。

投稿: 駄XiMen | 2007/07/01 17:04

ガビーン

師の新たなるお勤め先を看過しておるますた

日経さいこー!!BPはもっとさいこー!!益々の発展!!

投稿: 駄XiMen | 2007/07/02 03:49

今月はアジアカップ、U-20ワールドカップと
ガチ代表戦が目白押しなので、できれば批評とともに
サッカーコラムをお願いします。

投稿: slider | 2007/07/02 20:34

 ネット知識は基本的にコピペの連鎖ですから、全部間違っている可能性があります。
 比較的信頼できる情報とされている新聞も例外ではない。
http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200707050084.html
 静岡新聞の社説がWikipediaをコピペしていたそうです。

 一体何を信用したらいいんでしょうかねえ。

投稿: Inoue | 2007/07/06 00:13

俺俺。

投稿: 駄XiMen | 2007/07/06 04:55

googleとwikipediaいいと思います。
ちゃんと本を読まないと正しい知識が得られないとは思いません。
一冊のちゃんとした本よりgoogleで見つけた玉石混交のページ10ページのほうが信用できます。
もちろん10冊のちゃんとした本のほうがいいに決まってますが、トリビアルな知識のためにそこまでやることもないと思います。
それと、ちょっと難しいことになるとgoogleとwikipediaではどうにもならないってのは誰でも気づくことだと思うので、全能感は持たないんじゃないでしょうか?
むしろ、膨大な情報を一生かかっても見切れないという無力感のほうを感じます。

投稿: まる | 2007/07/07 22:58

 私が問題にしているのは、それらのページが互いに写しっこをしていて、独立ではないってことなんです。面倒くさがりが多いから、ネットで調べてコピペに近いことを繰り返している。
 調査の端緒としてはネットで検索もいいです。しかし、それだけで完結してしまったら、まずい。

投稿: Inoue | 2007/07/08 02:02

もっと問題なのは、電子情報は可塑性が紙媒体より著しく高いことにもあります。しかも、見抜きにくい。卑近な例ですが、アイコラはその好例です。これは画像情報ですが、文章もできないわけではなく、そのての達人が本気を出したら、まず百人に九十九人は見抜けないものが出来うるのではないでしょうか。

今は流しの期間だと思われます。

投稿: 774 | 2007/07/09 10:50

グレッグ・イーガン描く所の「ディアスポラ」の世界には遥かに届いていないので、これからが本番かと。

投稿: 822 | 2007/07/30 13:43

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007083100434

イミダス、知恵蔵休刊です。
ネット版は存続するそうですが。
「現代用語」は紙も存続します。CD版もがんばってます。

 私はどれも好きではありません。小学生のころから「現代用語」は読みふけってましたが、想定されている読者の水準が、分野や著者によってバラバラで、さっぱりわからないところから、子供の目で見ても間違っている部分とかあって、玉石混交でした。
 Wikipediaの水準でいいんですよ。一次情報に迫るリンクさえ用意してくれていれば。

投稿: Inoue | 2007/08/31 17:48

ディアスポラ。民族離散ですか。戦自が攻めてきた折のマヤやんぽくなりそうなのをぐっと堪えるボクオトコノコ。

さておき どなたかの← 策動組織はこれからも活動を続けるとして それを打ち砕くには組織非人が相互にある閾値を越えるまで信頼しあわなければならなくなりまする。何の分野での閾値か。それはよく考えるとわかりまする。

悪とはそういうもので動きますから。癪に障るのは確かですが、公的舞台でシナリオ崩してからかうことがものっそく難易度あがってます。私的領域にまではいってこようとしたら痛烈棍棒をなんとかという現状。希望絶望混在五分五分ある。

投稿: FF2遣い | 2007/09/01 00:19

今日そば屋でスポーツ新聞読んだんですが、
イミダス休刊しません。
スタイルは大幅に変わるらしいですがね。
http://www.47news.jp/CN/200708/CN2007083101000322.html

Inoueさんご紹介の時事通信の記事はいわゆる「トバシ記事」ということになるでしょうね。
で、上のリンクページもGoogleニュースじゃ出ないんだよな。
共同通信主催の地方紙ニュースネット「47NEWS」で拾ったものです。
http://www.47news.jp/

Webだけで情報収集してるとミスリードされるといういい例でしょうか。

投稿: かくた | 2007/09/02 04:31

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 雨と無知:

« 新刊 | トップページ | パンク始末 »