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2007/06/30

雨と無知

 午後に打ち合わせ。
 日経ビジネス誌の公式ページ(日経BP社「NBオンライン」)内で、書評欄(「日刊新書レビュー」というコーナーらしい。無茶な企画だなあ)担当のメンバーの一人に加わることになった。
 執筆の頻度はとりあえず二週間に一冊程度。
 報酬や作業量の点を抜きにしても(抜きになんかできないけどさ)、強制的に本を読む機会を持つことは無意味ではないのだと思う。
 というのも、ここ数年、Googleとウィキペディアにもたれた生活をするうちに、物理的な読書時間が、減っているからだ。
 読書量が減っていること自体は、年齢も年齢なんだし、そんなに大きな問題ではないのかもしれない。が、自分の中で「知識体系」(というほどのものでもないが)が、バーチャル化している感じがして、それがなんだかヤバいように思えるのだ。
 たとえば、たまに仕事上の必要か何かで、書籍を何冊かまとめて読んだりすると「おお、オレって、おそろしく勉強してないんだなあ」と、改めてびっくりするわけだ。
 問題は、不勉強ではない。
 不勉強は昔からのことだし、いまさらどうなるものでもない。
 問題は、ふだんの生活の中で、私が、不勉強の自覚を喪失しているというそこのところにある。
 つまり、なんというのか、ウェブ発の情報をあてにした生活をしているうちに、自分の中で「知識」の位置づけが水ぶくれしてきている感じがするのだ。
 実際、ちょっとしたことは、いつでもGoogleで調べがつくし、疑問に思った事柄についても、即座にウィキペディアが答えてくれる。だから、なんだか、自覚として、「知らないこと」がなくなってしまったみたいな気分になっている、と、そういうことだ。
 で、どうかすると「オレは何でも知ってる」みたいな自覚が、いつの間にやら、自分の中に育っているわけで、これは、考えてみるに、けっこうおそろしいことなんではなかろうかと思うわけです。脳内「知の巨人」状態。蔵書の中に棲んでいる立花隆みたいなセルフイメージを抱いている怠惰なパンピー、と。ヤバいぞこれは。
 ……いや、いくらなんでも、自分がそこまで博覧強記になったと自負しているわけではない。でも、あらゆる分野の細かいことについて、「ああ、それなら知ってるよ」という感じを抱くようになってはいるわけで、でなくても、その場で分からないことについて、3分後には分かった気にさせてくれるツール(インターネットのことだが)を手にしていることは事実なわけだ。
 で、3分遅れのもの知り博士がここに誕生する。ほとんど、Google&ウィキペディア経由の、3分間検索の2000文字要約レベルのお手軽知識を読みかじっただけであるにもかかわらず、だ。

 ということはつまり、われわれは、最も大切な知識(←無知の知、ないしは、自分が何を知っていて何を知らないのかについての知識)を、喪失しつつあることになる。
 10年前は、自分が知らないことと、多少とも知識を持っている分野については、自分で区別がついていた。だから、自分がたとえばヒンズー教やシックハウス症候群やコスタリカみたいなことがらについて、知識を持っていないことについては、自分できちんとした無知の自覚を持っていた。
 で、しかも、ここが大切なポイントなのだが、その当時(10年前)は、自分がよく知らない事柄について情報を得ようとする場合、とりあえずは書籍に当たるぐらいしか方法がなかった。だから、ヒンズー関連の新書を読んでみるか、それが面倒くさい場合には、「ヒンズー教のことは知らないよ」という自覚を堅持したまま無知でいることを選ばざるを得なかった。
 であるから、そういう生活が便利であったのかどうかは別として、知識がわれわれとかけ離れた場所にあったあの時代、われわれは、知ってもいないことを知っているかのように錯覚する危険性から自由だった。
 ところが、ウェブ上にあらゆる知識が公開されてしまっている現在、わたくしどもは、瞬時に無知を解消できるようになった。それも、ほとんどあらゆる分野のトリビアルな事柄について、概括的かつコンパクトな三行情報が揃っていたりする。と、使い捨てのにわか勉強が楽になっただけでなく、身の回りのあらゆる事態について、あらかじめ事情がわかっているみたいに思いこむこともまた可能になったわけだ。

 もしかして、知識が遠かった時代の記憶を持っていない若い人々は、情報に関して、生まれつきの全能感みたいなものを抱いているのだろうか。
 実際、ものごころついた時にはインターネットがあって、どんなことでもググれば一瞬で調べがつく時代に生まれた人間が、「知識」というものの全体像について、いかなる種類のイメージを抱くものなのか、私にはちょっと見当がつかない。

 ん?
「昔はあんた、上野ぐらいまでなら、みーんな歩いたもんだよ。三時間かけて。今の若い人たちは、どこに行くんでも、気軽に電車使うけど」
 などと、私は、そういうことを言っていた明治生まれのご婦人みたいなものになりつつあるのだろうか。

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2007/06/26

新刊

 ※1984年のビーンボール

 「サッカーの上の雲」の続編が出ます。
 本日、再校のゲラを戻して、あとがきを書きました。疲れた。
 タイトルは「1984年のビーンボール」。ええ、「1973年のピンボール」(村上春樹:著)へのオマージュ(←パロディじゃないよ。パクリでも、インスパイアでもありません)です。
 内容的には、野球関連が5割、サッカーが3割、残りが2割という感じ。
 分量は前回の2割増程度。値段も200円ぐらい割高になるかも。正式に決定したら。またあらためて告知します。

※ 偽装ミンチ事件について雑感
 偽装自体は「企業家の貪欲」ということで、さして珍しい展開でもない。っていうか、必然だな。企業努力の。
 ただ、コトが食べ物ということになると、話は別になる。食い物の中には様々なヒステリーの種が潜んでいるから。
 私自身、「血をまぜて色を赤くした」という新聞報道を読んで、ちょっと気持ち悪くなった。こういう感覚は、「安全か否か」とか「食ってうまいのかどうか」とは別の次元のお話で、気持ち悪いものは、どうしたって気持ちが悪いのだよ。うえええ。だって、血だぜ血。エホバの人じゃなくても、イヤなものはイヤなわけだ。
 食べ物について、人は様々なタブーやらアレルギーやらこだわりやらを持っている。
 であるからして、食べ物の好き嫌いは、人によっては単なる好みの問題を超えた、人格の根本にかかわる非妥協的な要素だったりする。
 たとえば、すり潰して混ぜてあればブロッコリーが苦手な人でも云々といった調子のレシピがあったりするけど、オレはそういうだまし討ちみたいなものを食わされたいとは思わない。だって、気づかずに食えれば良いという問題じゃないから。自分の中にブロッコリが入ってきたと思うとそれだけでこみ上げてくるものがあるわけだし。
 
 で、豚肉だが、相手が肉関連だと、宗教上のタブーがかかわってくる。
 たとえば、牛肉100%の表示を信じてうっかりカトキチのコロッケを食べてしまったムスリムとか、ユダヤ教徒(←っていうか、彼らは信徒用にきちんと処理された肉しか食べないんだっけ? でも、中には食べちゃう組の連中もいると思うよ。牛100パーならオッケーね、とか言って)は、どういう反応を示すんだろう。
 もしかして、あの社長は、「処刑」ということになりはしないか?
 でなくても、とてつもない額の損害賠償訴訟を起こされるとか、そういう可能性は無いんだろうか?

 宗教のタブーを除けて考えても、アレルギーの問題がある。
 保育園の送り迎えをやっていた頃に、ママである人たちと会話をすることがよくあって、その時に知ったのだが、食物アレルギーを抱える子供を持った母親たちは、それはそれは真剣なまなざしで食品成分表示を見ているものなのだ。
 だって、アレルギーの子供たちというのは、パンの表面を光らせるために使われてる卵白をうっかり摂取したおかげで、全身が真っ赤に腫れ上がったりしてしまう存在なわけで、となると、ママの眼から見れば、食品成分表示でウソをつくメーカーは、イコール殺人者まがいなのだな。
 あの社長は、絶対に無事では済まないだろう。まあ、自業自得だけどね。

 結局、この社長は、「イカサマのリスク」について、甘い考えをいだいていたわけだ。
 サイコロに何か仕込んだのがバレた場合、そのバクチ打ちは、あらゆる意味でおしまいになる。
 スマキにされてどこかの港に浮かぶか、幸運な場合でも、指を一本失うことは確実。で、組織内の地位から何からがすべてオシャカ。そういうきまりになっている。
 イカサマで勝った分の勝ち分を返せば良いという話ではない。当然だが。
 よって完全に終了。合掌。

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2007/06/25

肉の希望

 前の書き込みのコメント欄で話題に上がっている「食中毒自己責任論」の元原稿が見つかったので、掲載します。
 タイムスタンプが2000年7月25日になっていますので、おそらく今は亡き「噂の真相」誌の2000年8月号か9月号(8月初旬売りの分)に掲載したものだと思われます。

 ※雪印加工乳:?円(すんません、正式な価格がわかりません)

 たしかに、雪印の台所は、汚れていた。
 が、世間にはもっとひどい例がいくらもある。事実、一流レストランの厨房だって、仔細に点検してみればゴキブリだらけだったりする。ただそのゴキブリを、われわれが砂にアタマを突っ込むダチョウよろしく、あえて見ないように努めているだけだ。別の言い方をするなら、清潔というのは、台所を隠す料理人と、台所から目をそらす客が共同正犯で支えている一種の幻想なのだ。
 その昔、私のまわりにいた貧乏下宿学生の常識では、たとえば「村裂き(仮名)」の刺身を食って腹を下した場合、悪いのは腹を下した学生の方であった。
 基本的には、そもそも「村裂き」なんかで刺身を注文すること自体が不見識と見なされたということだが、でなくても、たったの六百円で皿一杯に盛られて来る刺身を食べる場合、責任は客の側が担うべきだというふうに考えられていたわけなのだ。
 私自身は自宅通学のお坊ちゃま学生だったので彼らほどワイルドな食生活になじんでいたわけではない。が、それでも腹を壊した時に店を責めるような卑怯な考え方は採らなかった。
 腹を壊した時は、まず第一に、アヤしい刺身に当たり負けした自分の消化器系フィジカルの弱さを恥じ、第二に刺身のヤバさを見分けることのできなかった味覚および嗅覚の鈍さを反省し、第三に、マズいと思いながらも残さずに食ってしまったおのれの賎しさと貧しさを呪う――と、そうするのがスジだった。要するに、当時、食品の安全は、供給側にだけ責任を負わせて済むタームではなかったのだ。アヤしい食い物を自らの努力と才覚で排除しつつ、そうしながら、極力安価な栄養を摂取して行く過程がすなわち食の経済化であり、生存の鉄則であり、ひいては学の独立だったのである。
 むろん、こんなものは、二十年前の、それも貧乏学生の常識に過ぎない。が、その滅び去った旧世代の常識からすれば、現代の日本人が抱いている衛生概念は、それ自体が病気なのである。
 たとえば、雪印が返品された製品を再加工していた事実に対して、「地球に優しい」という視点から評価したメディアは皆無だった。こんなことで良いのだろうか。
 だって、九九パーセント大丈夫な食品を、問題追求で点を稼ぎたがっているマスコミやら、ここを先途と消費者の味方ヅラをしてみせたがるスーパーやらの顔を立てるためにみすみす廃棄するって、これ、地球環境に対して思いっきり失礼ですよ。
 実際、新鮮でなくてもオッケーだという消費者は私をはじめ、たくさんいる。
 なんとなれば、食品の安全性なんてものは、食べる側の事情でどうにでも変わってしまういいかげんな目安に過ぎないからだ。
 ひとくちに消費者と言っても
a. 酸っぱい牛乳を飲んでも、糸を引くメシを食っても大丈夫な消化器系エリート。
b. ヤバい刺身やアヤしい肉を自分の舌で識別できるまっとうな人間。
c. 出されたモノを無批判に食ってあっさり腹を壊すバカ。
d. 糖尿病の患者や食品アレルギーの持ち主。病中病後の免疫弱者。
 と、色々な層がいるわけで、とすれば、食品の安全性にも、それに合わせた幅があってしかるべきなのだ。
 現在、メディアが騒いでいる「安全」の基準は、Cの「バカ」に準拠したものに限られている。嘆かわしいことだ。
 彼らは、表現の自由だとかについては最大限の自己裁量を主張しているくせに、食品については、統制を望んでいる。
 食品の安全基準で見れば、新聞なんかは一発アウトだよ。添加物だらけなんだから。
 「噂の真相」? うーん、ゲロのリサイクルはどうなんだろう。薬物扱いかな。

 
 結局、雪印はツブれましたね。合掌。
 ちなみに、現在騒がれている「ミートホープ社」の事例は、雪印の場合よりもずっと悪質だと思っています。もちろん、不二家の例と比べても。
 でも、社会保険庁よりはマシかな(笑)。

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2007/06/23

自己弁護

 もともとは「減量苦再び」のコメント欄に、コメントを寄せてくださった、「は~」という方に対するレスだったのですが、長くなったので(それに、途中から話が微妙にズレてきたので。まあ、いつものことです)、別途新しいエントリーを作ることにしました。

>は~ さま

 「自分の意思でやせられる」
 と、肥満の問題を個々人の意志力の問題に還元するものの見方に、私は、必ずしも賛成しません。まあ、そういう見方に賛成するタイプの人間だったら、そもそもあんまりふとらなかったのかもしれませんが。

「誰だって死ぬほど努力すれば東大に入れる。にもかかわらず自分が努力せずに怠けただけなのに、学歴社会を呪うのは筋違いだ」
「アルコール依存なんて甘えだ。飲まなきゃいいだけじゃないか」
 といったこれらの主張は、一見スジが通っているように見えます。ええ、スパルタンで素敵ですよね。兄貴なご意見で。
 でも、これら(肥満、学歴、アルコール依存)は、意志の問題であるよりも、選択の問題で、個々の人間が、どういう生き方(あるいは日常の過ごし方)を選んだかということの結果なのだというふうに私は考えています。
 常に自分を追い込んで何事かを達成していくことを至上の価値とするタイプの人生観の持ち主もいます。が、私を含めて、一方には、そういうふうなものの考え方を採用していない人間もたくさんいます。
 具体的に申し上げるなら、面倒くさいことは嫌いだし、「自己を向上させる」だの、「次のステップに進む」だのといった暑苦しい考え方をしている連中とはなるべく距離を置いて暮らしたいものだなどと、そんなふうな考えを抱きつつ、だらしなくふとるような食生活や、昼過ぎまで眠っていたりする一日を尊重していく生き方もある、と、そういうことです。

 とはいえ、われわれとて、ふとりたいと願った結果ふとったわけではありません。
 ご指摘の通り、自らの意志の弱さに起因する暴食や、日々のストレスを板チョコのもたらす小さな幸せによって解消せんとする惰弱さによって、少しずつ蓄えた皮下脂肪が、現在の体型として結実しているという側面もけっして無視できるものではありません。ええ、自覚していますとも。
 しかし、話を、意志のところに戻したのだとしても、それもまた他人に押しつけられる話題ではありませんよ。
 だって、極端な話をすれば、「鉄の意志を持って生まれて来るかどうか」ということもまた、DNAレベルでみれば、背丈の高低や頭髪密度の粗密と同じく、ほとんどまったく生まれつきの天賦の資質、ないしは宿命だったりするからです。

 アルコール依存については、生まれつきその人が持っているアルコール分解酵素の組み合わせが関連しているという説があります。いずれにしても、アルコール依存症は、遺伝的な要素がからんでいる、なかなか一筋縄では行かない病気なのです。遺伝的な要素を除けて考えても、環境的な要素だって、人それぞれに違っていて、中にはやっかいな育ち方をしてそれがために、アルコールに……(私は必ずしもそうではありませんでしたが)という人々もたくさんいます。崩壊家庭に育ったとか、父親がアルコール依存だったとかなかったとか、とにかく、そうした様々な遺伝的・環境的素因が人をして何らかの逸脱行動に走らせていることは事実なわけで、肥満もまたそうした傾向のひとつだということです。
 ヒゲの殿下には、がんばってほしいですね。年齢的に大変かもしれませんが。

 肥満にも色々なレベルがあります。
 また、肥満の原因にも様々な要素があります。
 どんなに野放図に食べても肥らない体質の人もいれば、一方には、代謝異常みたいな病気でどうしても肥ってしまう人々がいます。
 ですから、自己弁護と、一方的に言うのはちょっと違うと思いますよ。

 私自身の肥満は、自らの不徳のいたすところではあります。でも、それだって、他人にどうこう言われる筋合いのことではありません。
 問題は、肥っている人間に対する「怠けている」「ずるけている」「鈍感だ」「人生に真剣に取り組んでいない」という、偏見だ、と、だから、私はそのように申し上げたいわけです。
 肥っている人間には肥る理由があります。
 それは、必ずしも「肥るべき正当な理由」だとか、「肥って当然なやむを得ざる事情」とばかり言い切れるものではありませんが、それでも、当面、わたくしどもは肥った人間として生きることを選んだわけで、そのことについて、他人に非難がましい口のききかたをされるとやはり不愉快ではあるわけです。

 私自身は、現在、痩せる方向で動いていますが、この先のことはわかりません。「10キロ痩せたら、お前らの予想通りに見事にリバウンドしてやるから楽しみにしていやがれ」ぐらいな気概も持ってないわけじゃないのでね。ええ。ヘンな気概ですが。われながら。

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移転完了

おだじまんの移転が完了しました。

おだじまん

http://odajiman.net/

上記URL(クリックすれば移動するはずです)でアクセスできます。
昨日お知らせしたURLはお忘れください。

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2007/06/22

おだじまん移転先

旧ホームページ「おだじまん」の移転先が決定しました。

おだじまん

http://odajiman1.s273.xrea.com/

が、新しいurlです。odajiman.netというドメインを取得したのですが、ホームページのurlは、ドメイン通りにはいかないのでしょうか? いや、無知ですんません。

とりあえず、無料サーバなんで上の方に広告が出ますが気にしないでください。私はちょっと気にしてます。

検索窓は、なぜかうまく機能しません。不思議です。
まあ、そのうち解決します。よろしくよろしく。

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減量苦再び

 暑くてうまく眠れないので、前のエントリーにちょっと追加。

 そもそも、今回の減量は、この春に連続して発生した法事および葬儀の際に集まった親戚の面々が、異口同音に当方の肥満を指摘したことが契機になっている。
 年寄りという人たちが、昔のことばかりよく覚えていて、前回会った時に気づいていたはずの肥満に、毎回会う度にあらためてびっくりしがちであるといったあたりのメカニズムについてはおおむね承知している。それに、どうせ互いに黒い服を着ている機会にしか会うことのない親戚同士が、面と向かって何か話をせねばならない時に、さしあたって、天気の話が終わったら特に共通の話題は無いわけで、とすれば、話題の乏しい向きの人々が、肥ったとか痩せたとか、白髪が出たんじゃないのかとか、そういう容貌上の変化にうっかり言及してしまいがちであるということもまた、仕方のないなりゆきではあるのだと思っている。

 それでも、ものの言い方に配慮の無い人間というのはいるもので、せめて「貫禄がついた」とか「恰幅が良くなった」ぐらいな、通り一遍の気遣いを含んだ言葉使いをしてくれれば笑って済ませられるのに、無神経な人々はそれをしない。彼らは、まっすぐに肥満を指摘し、さらに非難がましくそれを言い立て、かててくわえて、自分の舌鋒を「あなたのためなのよ」ぐらいに考えていたりする。

「また一段とふとったんじゃない?」
 とか、10メートル先の人間に話しかけるみたいな声量で言われると、なんだかちょっと生きてるのがばかばかしくなりますよ。ええ。

 で、そういう人はまた「寝しなにものを食べると肥る」であるとか、「アブラものは肥る」だとか「よく噛まずに食べる人はふとる」だとかいった、どうせ昼さがりの時間帯のテレビ番組から仕入れてきたに違いない断片的な情報を、さもありがたい秘密を分かち与えるみたいにして教え諭してくる厄介な福音伝道者でもあるわけで、時には「食べ過ぎるとふとるよ」式の「犬が西を向くと尾は東を向く」みたいな調子の自明の理を繰り返し弁じ立ててきたりさえする。
 どうしろって言うんですか?
 つまり、食うな、と?
 肥満断罪者は、肥満者が無知ゆえに肥っていると、本当にそう信じているのだろうか? たとえば、食べ過ぎると肥るということを、寝る前に食べたものが皮下脂肪として定着しがちであるということを、オレらが知らないと、マジでそう思っているんだろうか?
 あるいは、消費カロリーを上回った分の摂取カロリーが脂肪として蓄積されるといったあたりのメカニズムについて、肥満した人々は、まったく情報を持っておらず、それゆえにこそ、何も知らずに食べ過ぎて、だからうっかりふとっているのだと、本当にあの人たちは、そういう形式でものを考えているのだろうか。
 違う、と思うな。
 ただ、意地悪を言ってるだけだ。
 違うんだよ先生。
 オレらが肥っているのは、食べ過ぎると肥るということについて知識を欠いているからではないんだ。私どもデブな人間たちは、肥満のメカニズムについては、キミたちみたいな痩せた人々よりも、ずっと詳しい。当たり前だけど。だから、オレたちが肥っているのは、知識や情報の問題であるよりは、むしろ、心の痛みに関連したことがらだというふうに理解してほしい。つまり、肥ると分かっていながらそれでも食べないとやっていけない事情が、私どもデブな人間の人生には抜きがたく介在しているということで、だとすれば、他者の人生の困難や心の痛みに対しては、思いやりをもって接してくれるとありがたいのですよ。わかってください。お願いだから。

 とはいえ、無神経な人間の無神経さというのは、おそらく、背の低い人間の背丈の低さや足のデカい人間の足のサイズの大きさと同じく、所与の条件というのか、天与の資質であって、改善可能な性質ではない。だからオレはもうあきらめる。
 目論見通りにオレが10キロの減量に成功したとして、会う機会があったら、きっと先方はこう言う。
「やつれたんじゃない?」
 と。
 それならまだ良い。
「なんだか、シワが深くなったんじゃない?」
 ぐらいな言い方はあり得そうだ。
 実際、50歳を過ぎた人間が減量すると、ストレートにすっきりしたりカッコ良くなったりスマートになったりするものではないわけだし。
 っていうか、中高年者の減量は、多くの場合、しなびたりシワシワになったり貧相になったり年寄りくさくなることと引き換えに達成される、捨て身の断食芸みたいなものなのだろうな。
 まあ、それでもとりあえず10キロ減まではやってみよう。
 クソ面白くもない取り組みだけど。

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減量苦

 近況などを少し。

  • ああ、減量中だよ。
  • っていうか、減量以外ほとんど何もやってないぞ。
  • つまり、アレだ。何事かを成し遂げるためには、ほかの色んなことをあきらめないといけないってことだよ。勉強になるだろ?
  • とにかく、ゴールデンウィーク明けからこっちの約1ヶ月半の間、節食に励んでいます。
  • 基本的な原則は「太陽が昇っているうちは、ものを食べない」ということ。うん、イスラム方式。ムスリムになったわが友トルシエに敬意を表して。
  • まあ、お菓子ぐらいは小ずるく食べてるわけだけど。
  • それでもなんとか、一日一食+ビタミン剤+手近な菓子類で一日をしのいでいます。
  • 運動はしたりしなかったり。面倒くさいんでね。
  • そんなこんなで、この50日ほどの間に、約6kgの減量に成功。パチパチ。
  • うんわかってるってば。「安全で理想的な減量ペースは1月に2キロまでです」だとか、そういうお話がしたいんだろ? 
  • そのテのきいたふうなお説教は、ぜひ冷静な人間に言ってあげてくれよ。オレは聞く耳持たないから。
  • 第一、冷静な人間が減量なんかすると思うか?
  • いや、冷静な気持ちで減量を始めた人間がいたとしても、だ。減量中の人間が冷静でいられると思うか? メシもロクにくってないのに。 
  • で、減量以外は何もできてないわけだよ。さっきも言ったとおり。
  • つまりどういうことなのかというと、この一月半の間にオダジマが成し遂げた仕事は、「ふだんの半分しかモノを食べない」というそのことに尽きるわけだ。おどろくべきことに。
  • いや、定期刊行物の連載分だとか、最低限の仕事だけはなんとかこなしましたよ。「減量のおかげで本当に食えなくなりました」なんて、シャレにもなりゃしないから。
  • でも、食わんがための仕事以外の、世間の付き合いやらなにやらは全部シャットアウトさせて貰ったわけだ。
  • ん? ものを書く人は見聞を広めないと、だと? ふん。くだらねえ。見聞なんぞくそくらえだよ。大体、食い物もロクに食ってないのに目や耳が機能すると思うか? 無理だよ、無理。呼吸と睡眠で精一杯。なんにもする気がしないね。
  • 仮にコンサートのチケットだとか芝居の招待券だとかが手に入ったとして、オレは行かないよ。タダでも。迎えのハイヤーが来てさえ。
  • だってそうだろ? 「こんなに腹がへってるのに、わざわざ都心に出かけて行って音楽なんか聴く気分にゃならねえよ」と、そういうことなわけだよ。
  • もし、この一月半の間に、人生を左右する出来事であるとか、どうしても成し遂げないとならない大切なミッションだとかがあったら、オレは即座に減量を放棄して、メシを食ったはずだと思う。だって、食べないと気力が湧かないわけだし、気力が湧かないと人生にぶつかっていくことはできないじゃないか。
  • そういえば、禁煙の時もそうだった。最初の一ヶ月は、禁煙以外のあらゆることがすべてストップしたっけ。
  • 禁酒の時も同じ。禁酒にかかりきり。禁酒とトランキライザーと抗鬱剤で奇妙なテンションになって、空回りしておりましたね、少なくとも半年ばかりは。
  • 結論:減量はヒマ人にしか達成できない。
  • とりあえず、10kg落とすところまではやってみようと思っている。
  • で、リバウンド、と? かもしれないな。上等だよ。人生浮き沈み。ヒューマントランポリン。結構じゃないか。畜生。
  • ため込んだ仕事がドミノ式になってるんで、詳しくは後日。ではでは。

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2007/06/04

「おだじまん」について

 既にお気づきの方もあろうかと思いますが、当ブログの故郷(というか、実質的には引っ越し前の跡地ですが)である「おだじまん」は、5月いっぱいで閉鎖されています。
 1998年以来、無料でスペースを貸与してくれていた「わねっと」(wanet)が、今年の春に倒産したため、サーバごと消滅した形です。諸行無常。驕らざるとて、久しからず。合掌。
 わねっとの皆さん、長い間お世話になりました。
 移転先はまだ決まっていません。
 データはミラー(←こっちが元ネタですが)が、当方のハードディスクに残っているので、いずれどこかのサーバにアップしたいと考えています。
 ココログに新しいブログの形で再登場させることも考えたのですが、ページ内のリンクやらを新たに構築しなおすのも大変だし、まあ、古い時代に作ったホームページは、古いデザインのまま残しておくべきなのかもしれません。
 移転先が決まったら改めてお知らせします。
 やはり、ドメインとかを取った方がいいのかな。
 移転先や方法、リンクの生かし方など、良い知恵があったら、お知らせください。

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