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2007/05/21

あいさつ通り

 あいさつについてもう少し。

 あいさつは人間の基本である。
 しっかりとあいさつができるということは、人としてとても大切なことだ。
 とはいえ、どういう場合にどういうあいさつをするべきなのか、あるいは、誰にあいさつをして誰にあいさつをするべきでないのか、といったあたりの機微は、最終的には、個人の判断に委ねられるべき性質の事柄だ。というよりも、あいさつは、公的なマナーである以上に、個々人の心理的事情に属するプライバシーでもあるわけで、他人という外界に直面した個々の人間が、それぞれの縄張り意識や対人感覚を表現するための、極めてデリケートなインターフェースであったりもする。それゆえ、教育委員会やお国みたいなものが、介入したり教育したり成文化したり奨励したりするにふさわしいものではない。
 ……言い方が難しいかったかだろうか。

 たとえば、登山道の中には「すれ違う人間同士があいさつをする」ということが、半ば不文律みたいなことになっている場所がある。
 それはそれで良い。
 実際、半日歩いていてすれ違う人間が数人しかいないような淋しい山道では、人間と遭遇すること自体がうれしい体験になるわけだし、出会った以上、あいさつをかわそうと思うのが人情(あるいは、「頂上は晴れてますか?」ぐらいな情報交換があってもよろしい)ということにもなる。
 でも、これが「ルール」だとか「マナー」みたいな形で定まっていたりすると、それはそれで重荷になる。
 たとえば、登山シーズンのピークと連休が重なった槍ヶ岳の穂先の渋滞ポイントみたいなところで、登ってくる数十人に対していちいち「こんにちは」と言うのは、ちょっとつらい。あたしゃごめんだ。また、丹沢あたりで遠足の中学生とすれ違う(←「山道で出会った人には、大きい声で『こんにちは!』と声をかけましょう」などと、遠足のしおりに明記されていたりする)みたいな事態もご勘弁ねがいたい。物陰に隠れたくなるのがデフォ。

 さて、以下の写真は、3日ほど前に足立区のあたりを自転車で走った時に撮影したものだ。

Aisatu
※あいさつ通り@足立区

 とある区立中学校の通学路(正門から伸びる道。なぜか畑が残っていたりする)に「あいさつ通り」という看板が掲げられている。
 推量するに、登下校の中学生たちは、道行く人々に対して、「おはようございまーす」なり「こんにちは」なりといった、あいさつの言葉を投げかけて行くことになっているのであろうが、いや、それはそれで、基本的にはほほえましい光景だと思う。
 でも、毎朝この道を歩かねばならぬなりゆきのうちにある人間からしたら、ちょっと鬱陶しいはずだ。だって、人というのはいつも機嫌が良いわけではないから。二日酔いの朝もあるだろうし。あるいは、失恋だとかリストラみたいな事情をかかえて歩いている晩秋の日暮れ道、と、そういうタイミングだってあるかもしれない。とすれば、そういう不遇の時に数百人の中学生にあいさつを返すのは、非常な心理的負担であるだろう。オレなら道を変える。っていうか、心ある人々は、いつしか「あいさつ通り」を歩かなくなると思う。校長だとか、教育委員会のオヤジだとかが、朗々とあいさつをする中学生の集団を見て満足するのは勝手だが、職員会議の思いつきやらを公道に持ち出すのは、暴挙ですよ。

 たとえば、あいさつについて、一人の教師が、彼自身の影響力と目配りが届く範囲内で、自分の受け持ちの子供たちに対して、信念を持って教育をするのであれば、そこに多少の強制が含まれていてもかまわない。部活や私塾の範囲であるなら、指導者の思いこみが反映されていてさえ良いのかもしれない。教師個人の信念なり考えである以上、一部の生徒との間に、摩擦や齟齬が生じることもあるだろうが、そうした摩擦や齟齬や不一致のフィードバックを処理して行くことも教育の一つではあるからだ。
 その意味で、「茶髪はダメ」と考える教師がいて、その彼が、自分の教室で、彼自身の責任と信念において茶髪を禁じているのだとしたら、その処置は正しいと言える。
 しかしながら、学校単位、地域単位、国家単位と、範囲がデカくなってくると、茶髪みたいなことでさえ、一律に禁じるのは、基本的人権の侵害になる。
 私自身、茶髪はあんまり好きではないが、だからといって、茶髪程度のことが禁じられるような国に住みたいとは思わない。
 
 教育再生会議がダメなのは、彼らの持ち出してくる提言のひとつひとつがダメだからではない。
 仮に、個々の提言に、それぞれもっともな主張が含まれているのだとしても、「教育再生会議」という枠組みから発せられているメッセージである限りにおいて、そりゃダメなのである。
 つまり、教育についての細部を、国みたいな野放図な単位で論じようとしているという、その前提そのものがダメなわけだ。デカ過ぎるし、大雑把過ぎるし、なにより無神経だから。

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コメント

はじめまして。拝読してわが意を得たりと思いました。

私は山登りなぞめったにしませんが、
たまにするとなんで山道だけみなさんあんなに
うれしそうに挨拶するんでしょうか。
大丈夫自慢か何かかと。
仕方なく笑顔で会釈するだけにしますが、
会釈してもこちらが何も言わないのに
本気で不満げになる輩がいて、
ああ、やっぱりこんなやつに挨拶しなくて
よかったと(笑)。

かと思えば、少ないですが
たまに変わった人で
すれ違う随分前から「すれ違うだけで
挨拶なんかするなよ」と警戒しすぎるがために
ぎこちない動きになりながら
近寄ってくる人がいまして、
私はこういう人のほうがよほど好きです。
されたら本気でイヤなんだろうなあとは
思うのですがつい挨拶してしまいます(笑)。

あまりに押し付けがましく
挨拶をしてくる人は、
後をつけて人里に戻ってからも
同じように挨拶するのかを見定めて、
もし一度でもしなかったら詰問したく
なります「おいおい、今の人にも
俺にしたみたいな挨拶しろよ」と(笑)。

投稿: bun | 2007/05/21 10:57

それは乱暴じゃないですか
国が行うからだめってのは単純すぎるでしょう
具体的にこうすべきだという考えがあって、それは国家政策として
実行不能というなら分かりますが
国の政策によって多様性を保護することも経済政策と同じように
可能でしょうから

投稿: ken | 2007/05/21 17:14

>それは乱暴じゃないですか

「教育についての細部」にまで国が介入してくるのは乱暴だろう、
という話で、国のやるこた全部だめ、という話じゃないですぜ。

投稿: よし | 2007/05/21 18:38

>kenさん
つまり、アレです、「あいさつをしましょう」みたいな、ほとんど反論の余地の無いようなごもっともな主張でさえ、画一的に推進されるとイヤな副作用が生じるわけで、まして、お国みたいな単位で「あいさつ推進国民運動」みたいなことをやらかしたら、まんま北朝鮮になってしまいます。
 親孝行、愛国心、芸術愛好、読書、奉仕活動、国語復興……その他何でも良いのですが、良いこと、望ましいことでも、国家単位で義務化したり強制したり努力目標にすると、必ずや薄気味の悪いロボット化推進装置に化ける、と、かように愚考した次第です。

 
 

投稿: 小田嶋 | 2007/05/21 19:36

ただ具体的な政策を詰めていく中でおかしなものは修正されるんじゃないでしょうか
憲法違反になるようなことはできないでしょうから

投稿: ken | 2007/05/21 19:40

>>「概要では「脳科学では5歳くらいまでに幼児期の原型ができあがる。9歳から14歳くらいに人間としての基礎ができる」と指摘するなど、11項目にわたり具体論を展開。「子守歌を歌う」▽「授乳中はテレビをつけない」▽「早寝早起き朝ご飯」▽「親子で感動する機会を大切にしよう。テレビではなく、演劇など生身の芸術を鑑賞」▽「インターネットや携帯電話の情報に『フィルタリング』を」など、家庭生活のあり方をかなり具体的に記述。子どもの発達段階に応じ「幼児期段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目」を身につけさせるよう呼びかけた」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070426k0000m010157000c.html
 ……上記は、毎日新聞で引用されたものの孫引きですが、ここで言われていることのひとつひとつを学校現場の努力目標にすることは、おそらく「憲法違反」ではありません。
 でも、噴飯ものですよ。親学、だなんて。

 実際、テレビがロクなものじゃないことは確かですが、だからって、見る見ないはオレらの自由です。良い番組もあればバカな番組もあるわけだし。っていうか、そのテレビの番組の善し悪しを判断する基準だって、お国が決めることじゃありませんよ。余計なお世話です。
 で、テレビの代わりが「演劇など、生身の芸術を鑑賞」すると? ゲロが出ますね。鑑賞だなんて。第一、ここで「芸術」の例として演劇が選ばれていること自体、劇団四季のオヤジが有識者会議に名を連ねているからじゃないのですかね。
 で、親子で「感動」するために、あの恥ずかしい赤毛芝居を見に行けと? オペラ座の変態だのサカリのついた猫だのの歌物語を? ゲロ。
 冗談じゃない。低俗であれなんであれ、自分の自由意思でスイッチを操作して、テレビを見ること(あるいは見ないこと。途中でチャンネルを変えること。消すこと)からこそ、バカな番組の視聴にも若干の意義(←健全な批評精神は、良質な番組よりも、むしろクソ番組の視聴を通じて醸成される)が生じるのであって、そうでなければ、誰がリモコンなんか握るものですか。
 「感動」だって、親子で、わざわざ「感動をしに行く」みたいな形で行動するのは、そもそもスジ違いです。だって、感動っていうのは、「予期せぬ」体験に伴って生じるはずの情動であって、最初から感動狙いで拾いに行くようなものじゃないでしょう?
 まして、お国から「文科相選定の親子共通感動体験」みたいなものを推薦されたり指定されたりして、何が感動ですか。
 長くなりましたね。
 黙ります。

投稿: 小田嶋 | 2007/05/21 20:15

じゃぁ「お前明日から教育再生会議メンバーね」って言われて
何が提言できるかといえば・・・ラジカルな意見なんて無理だし
何もしないわけ行かないし・・・で「挨拶食事芸術ウンタラ・・」
になるんじゃないですかね。
この国覆うシニカルな雰囲気こそが教育の腐敗を招いている
のは間違いないのですが、雰囲気ってのは最大公約数だから
それってやっぱ全国民が望んだ結果なんですよね。
一方でハチマキ締めて「エイエイオー」って気勢上げてる
アツイ学習塾も沢山存在し、涙流して受験してますよ。
しかもそれを望んでいる。山に登るのに、ルートは腐るほどあると
思う。近道、早道、楽な道は正解だろうけど、どんなルートでも
山は登れる。でも気持ちがチンタラしているとどの道でも
うまくはいかないし、へたり込んでいる子供を登らせることは無理。

投稿: slider | 2007/05/22 09:39

「あいさつ通り」について。

小田嶋さんのお話は、一方でとてもよく理解できるのですが、
学校側が「あいさつ通り」で狙っている効果というのは、
(表向きには)教育的な側面もあるのでしょうが、
どちらかというと、性犯罪抑止のほうにあるんじゃないかな、と。
写真の場所、季節によっては下校時真っ暗でしょうし、
人気もなさそうで、性犯罪者が好みそうな場所ではあります。

私は小学生の娘をもつ身ですが、なんか変だなーとは思いつつ、
それで少しでも通学時の安全が保たれるのなら、
そういう指導もありかな、と思っているのですね。

登山中の挨拶っていうのも同様に、互いに自分が安全な存在であることを
確認し合う儀式という側面が(そもそも)あったのではないかと思うんですね。とくに山道で1対1で遭遇する場合には。

ですから、今回のトピックはおおむね納得しながらも、
少~し複雑な気分で読ませていただきました。

投稿: noppo | 2007/05/22 11:33

でも見たくても新しいテレビを見せない政策をとらせてるのは
テレビ業界ですからね
早く自由化して多様なチャンネルを見ることができるようにする
あるいは全部インターネットテレビにすれば
現在のような「画一化された」「多様性のない」番組ばかりでは
なくなりますよ

投稿: ken | 2007/05/22 12:08

 教育再生国民会議は、教育学者のいない教育審議会です。これまでの教育業界における成功と失敗、諸外国での経験などをふまえず、シロウトが適当なことを放言しているだけです。あまり相手にしない方がよろしいかと思います。

投稿: Inoue | 2007/05/22 16:36

>inoueさん
>教育学者のいない教育審議会

 たしかに不思議ですね。
 たとえば、自動車工学だとか医学だとかについて、畑違いの人間が横から口を出すということはあり得ません。畳屋でも大工でも同じです。どの分野でも、素人は、ふつう、専門家のやることに介入しません。
 なのに、教育についてだけは、なぜか居酒屋チェーンの社長や劇団主宰者であるに過ぎない人たちが、専門家に向かって教えを垂れることが許されています。

 たとえば、私が、コラムの書き方みたいなことについて、元水泳選手だの落語家の嫁さんだのに「提言」をされたりしたら、やはりちょっと気分を害すると思うのですが、教育現場にいる皆さんはどうなのでしょうね。

投稿: 小田嶋 | 2007/05/22 17:54

ぺたっと「ご」と頭にシール貼ってきましょうか?遠征はちときついすけど。

投稿: MeXi | 2007/05/22 18:00

スタンリー巨匠が「クソ映画をしこたま観ると『何をしてはいけないか』わかるぜコンチキショー」と語ってたと伺っております。マオおやんずも「反面は教師ニダ」と。

ン?

ンン。

投稿: MeXi | 2007/05/22 18:06

教育学者は教育方法の専門家かもしれませんが、「教育」の専門家ではないんじゃないですか?
というより、「教育」というのは子育て、社内教育、あるいは事故教育
でもいいですが誰かもが専門家あるいは素人なのかもしれませんよ

投稿: ken | 2007/05/23 00:37

>誰かもが専門家あるいは素人なのかも(略)

というkenさまのコメントを拝見して、教育再生会議の奇妙さの本質が少し見えた気がしましたのでコメントさせていただきます。

確かに教育はそこここに偏在しています。が、再生会議は学校教育を議題にする限りにおいて人の子を如何に教育するかに論点を絞るべき集まりでしょう。

学校教育とは他人の子供を教育することであって、自分の子供の教育や自己教育と大きな違って失敗が許されないものです。そして失敗が許されないが故に自分の子どもに対する教育ほどに踏み込んだ教え方が出来ないということになります。自分の子なら多少ケガしようが性格が曲がろうが愛国暴力青年になろうが諦めもつきますが他人の子となるとそうはいきません。

ところが再生会議では他人の子への教育(学校教育)について論議と自己教育も含めた教育一般について論議が錯綜しつつ、結局は部外者(非専門家)が学校教育に関してまるで自分の家庭での教育方針を開陳するが如き”提言”を得々として語っているように見受けられます。失敗が許される(非難する者のいない)我が子への教育と同レベルで学校教育を語るというところに再生会議のアホくささが滲んでいます。

確かに「教育」に関しては誰もが専門家であり素人でありつつ、同時にまた「学校教育」「塾=(準)学校教育」に関してはやはり専門家が存在すると言うべきでしょうか。
再生会議にはそこの区別をしっかりつけていただくべきでしょうね。アサリケイタさんあたりは虚構と現実の区別が出来る”演劇人”だからそのへん理解できそうでできなさそうで・・・。

いや、長くなりました・・・。まったくの思いつきでした。

投稿: UBSGW | 2007/05/23 01:22

 私の祖父は筆師という仕事をやっていました。職人です。父親は木型屋。これまた職人でした。
 筆を作ったり木型を作ったり(←まあ、彫刻みたいなもんです)といった作業は、普通の人間には一生涯縁のない経験であり、それゆえに筆師や木型屋の専門性は、疑いの余地のない、微動だにしない性質のものです。
 ですから、筆師に筆の作り方を教えようとする素人は、決して出現しません。出現したとしても、ほどなく消滅します。なぜなら、身の程知らずな助言者に対して、おそらく、祖父は、筆の根元を焼くために常備していた焼けゴテをまっすぐに投げつけたに違いないからです。

 教育者の仕事は、筆師や木型屋のような職人的な専門職とはちょっと違って見えます。教育は、誰でも大人である以上、多少は経験のあることだからです。
 その意味では、コラムニストの仕事もちょっと教師に似ています。専門家のようでありながらも、その実、誰もが使っている「言葉」という材料を使って細工物を作っているに過ぎないからです。
 そんなわけで、コラムニストの仕事に関しては、時々口を出す者が出現します。「オダジマももう少し接続詞の使い方を工夫した方が良い」とかなんとか。
 まあ、口を出したくなる人々の気持ちもわからぬではありません。本職のコラムニストをやっていない人間だって、毎日言葉を使ってもの考え、言葉で他人とコミュニケーションをとっているわけで、とすれば、自尊心の強いタイプの幾人かが、「オレの方がうまくやれる」と考える可能性は十分にあるからです。
 そう思うのは勝手です。
 私の答えは、
「じゃあ、自分で書けよ」
 ということに尽きます。
 私の書き方を直すことは誰にもできません。漱石にも、シェークスピアにも、です。
 オダジマよりも優れた文章を書いてみせることなら、当然、できる人間はいくらもいるでしょうが、それができる者は、オダジマの文章を直すことでなく、自分で書くことにトライすべきだ、と、そういうことです。
 教育についても原則は同じです。
 教育について何か言いたいことがあるなら、まず最初に自分の子供や自分のところの社員や劇団員に対して、その情熱なり方法論なり哲学なりをぶつけてみて、その結果を示すべきです。それでも物足りないというのなら、私塾を開くなりして、おのれの教育の理想を現場にたたきつければ良いことです。
 どうしても専門職として教育にたずさわっている人間のやり方が気にくわなくて、それを正したいと思うなら、安倍ちゃんは、まず、教員免許を取得するべき……なのですが、どっこい彼のアタマでは無理です。教育学部を卒業しながら、教員資格を取れなかった私が言うのだから間違いありません(笑)。

投稿: 小田嶋 | 2007/05/23 01:40

nn~

巷間伝えられる新造先生バカッタレ説は、フェイクだと俺は考え始めてます。

それはそれとして、俺の父方の祖父は仏壇仏具職人でした。母方の曽祖父は赤門を現在の位置に移す作業も受け持った宮大工だったそうです。

だから?

だから。

だから?

so what? ってなーうまい返しですな。何伝えたってこれで済みますのである。民主主義&衆愚主義マンセ。

投稿: MeXi | 2007/05/23 04:57

>「オダジマはもう少し

吉田戦車さん描くところの双子の校長みたいな方ですね。俺もふたご座ですが、それは偶然です。まったくの。

俺が戦車さんのキャラでもっとも首肯するのは「提案女」です。

投稿: MeXi | 2007/05/23 05:02

教育臨床分野のまともな学者を挙げておきます。

苅谷剛彦
藤田英典
佐藤学
教育史だと、天野郁夫

 全員が東大教育学部系なのは、金にならない地味な研究をしていられるほど余裕のある大学が、もはや東大ぐらいしか残っていないからでしょう。

投稿: Inoue | 2007/05/23 08:59

MeXiさんをスルーするのもいい加減疲れました…辛いです
そろそろ勘弁していただけませんか?
何か気に入らないことがあったのなら私が謝りますので

投稿: tillidie | 2007/05/23 09:16

苅谷剛彦
藤田英典
佐藤学
教育史だと、天野郁夫
この人たちもたいがいの「教育」分野では素人でしょうけどね
例えば学科教育という学校教育分野においても、数学や物理学
体育、工作教育の「現在」というものにどれだけ理解があるか
人格教育しかり
素人みたいなもんにみえますね

投稿: ken | 2007/05/23 10:50

 経済学者が商品先物取引や会社経営をしたことがなくても、経済政策の諮問は可能であるように、教育学者が教壇に立つ必要はないですね。統計や文献調査やフィールドワークをやっていればそれでよい。
 教育再生会議のメンバーは、それすらしていないんですから。「教育論」を語るだけの組織です。だったら居酒屋で好きなだけやればよろしい。

投稿: Inoue | 2007/05/23 16:15

ええ、そうですよ。

全人類65億人みんなが辛いのです。

辛くないの俺だけー(^Д^)9m

投稿: MeXi | 2007/05/23 19:11

人類って、いつの間にか65億にまで増えてたんですね。
50億に載せたってニュースを聞いたのはいつだったか。
全世界的には人口爆発状態が続いてるようで。
素直に感心、と同時に、こりゃ生きづらいわけだなと納得。

投稿: bbdqn | 2007/05/24 13:42

俺がガキの頃は36億だったか46億でした。ひょっとしたら前者。

ン?ドッチカナ

下一桁はガチです

投稿: MeXi | 2007/05/28 23:03

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