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2007/05/29

サムライ

 松岡農水大臣の自殺について、石原都知事が、「死をもってつぐなった。彼もやはりサムライだった」という意味のことを言ったのだそうで、この発言に対して、様々な波紋が広がっている。
「どこがサムライだよ」
「美化すんなよ」
「恥ずかしいことをして、黙って死ぬのがサムライなのか?」
 と、まあ、ふつうに考えれば、上記のような感想を抱くのも、当然といえば当然だ。
 でも、言った人が石原さんである以上、ふつうに考えてはいけないのだと思う。「サムライ」みたいな言葉について、石原先生のような人は、一般人であるわれわれが考えるよりもずっと深いところでものを考えていたはずなのだからして。とすれば、彼の言う「サムライ」は、ただの「サムライ」ではない、と、そう考えなければいけない。

 「サムライ」という言葉を、一般的によく使われている意味で、「誇り高い」、あるいは、「出処進退のきれいな」という意味で解釈すると、知事のコメントは、辻褄があわなくなる。だって、松岡大臣の死に方は、そういうのとはちょっと違うからだ。なによりみっともないし、後味が悪いし。
 でも、ちょっと見方を変えれば、彼の死に方には、いにしえの武士の死に方と相通ずるところがないわけでもないのだ。
 なんとなれば、松岡大臣の死は、まったくの無駄死にであり、サムライというのは、組織防衛のために無駄死にしたメンバーに対して、残された者が諡(おくりな)として捧げる称号みたいなものだったわけだから。

 武士は、「犬死に」に最高の価値を置く生き方の由であり、その意味からすれば、死にざまが粗末であるほど武士らしい、という見方もまた、成立し得る。
 何の必然性もなく、何の効果も無いのに、それでも、死ぬ……そうやって死という非日常を無造作に投げ出すことで、生者の側の日常を無効化する。それが、武士としての死に方のひとつの理想の型になる。「死による生の超克」と言うと、いささか格好が良すぎるが、これは、別の言葉で言えば、個人の死を組織防衛のために利用するこの国の組織の常套手段というのか、社会的な病理でもあるわけで、でなくても、「世間(ないしは会社、政党や出身省庁)に迷惑をかけた」(ことを自覚している)人間の肩にのしかかる自殺圧力のうちのかなりの部分は、「ハラキリ」という歴史的オブセッションに由来しているはずなのだ
 サムライは、第一義的に組織の歯車である。奴隷と言っても良い。主君あるいはお家のためであるのなら、自らの一命を捨てることをも厭わない。しかも、その死を美化する。美化。ここが大切なところだ。犬死に美化装置としての武士道。要するに、奇妙な形で美化された奴隷根性がサムライの美学の本質であり、そうした倒錯した自己愛みたいなものが彼らの集団主義に逆説的な誇りをもたらしていたりもする、と、そういう構造になっているわけだ。病気だよね。もはや。
 サムライの奴隷根性は、「私心」ということを極度に嫌う武士の徳操の中に、最も端的にあらわれている。
 個人的な判断や思考は、「利己的」ないしは「自分勝手」な態度であるとして、排除される。で、最終的には、個人の欲得や生物としての生存本能をすら超えて、あくまでも、忠誠心と帰属意識だけが称揚されることになっている。究極の奴隷根性。
 「葉隠」にしたところで、世襲官僚の服務規定としての「お家大事」と、戦時殺人集団たる戦国武士が元来持っていた「切り捨て御免」の凶暴性という、本来なら絶対に折り合いのつかないはずの二つの倫理を、「死」というひとつの言葉を通じて無理矢理に合体した相当に奇妙な哲学書なのであって、こんなものをありがたがっている限り、武士は一人前の個人にはなれないのである。
 で、結局、武士が生命よりも大切なものとして掲げたのは、「正義」でも「個人の尊厳」でもなく、「お家の体面」と、「おのれの職分」というなんとも矮小な没個性主義であった。そして、武士道は、忠臣蔵の四十七士が、取り戻しようのないお家の名誉に殉じて腹を切ったことや、白虎隊の少年たちが百パーセント勝ち目の無い闘いに挑んで集団自決をしたことを、大義への殉死として美化する際の理論的装置として機能し、かかる集団的愚行を理想として掲げる、後ろ向きで恨みっぽい犬死にの美学として結実せざるを得なかった、と。悲しいではありませんか。
 とすれば、松岡大臣の死に方は、犬死にという意味においても、没個性的であるという意味においても、武士らしかったわけです。
 生き方も。
 というのも、武士を現代語訳は、「命がけの役人」ないしは、「お家ロボット」ぐらいになるわけで、自爆装置つきの歯車であった彼は、やはりサムライだった、と。
 ええ、ほめてます(笑)。

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コメント

Hats off to Odajima-san!!

投稿: 六月五月 | 2007/05/29 18:24

小沢の事務所問題の方がひどいから死んだらいいのに

投稿: ken | 2007/05/29 18:39

おっしゃることは、もっともですが、もう少し武士の情けというものがあっても。。。
死者にむちうつというのは、あまり見ていて気持ちよいものではありません。

投稿: ヒネッケン | 2007/05/29 21:06

汚職事件のある度に、関係者が自殺してきました。
死者への礼儀はあるでしょうが、「死者をむち打つようなことはできない」という論理が前面に出て、話がうやむやになったことはしばしばありました。

この「死者をむち打つな」という論理は、「死者を奉じることで組織への批判を封じることができる」と言う論理にすり替わりがちです。
すなわち、「君が死ねば、話は丸く収まるのだ」と。

小田嶋さんが書いておられるのは、こうした「末端」切り捨ての論理への批判だと思います。

投稿: なまけもの | 2007/05/29 21:57

>ヒネッケンさま
>死者をむちうつ……

 何十年も生きていると、若くして死んだ者がむやみに伝説化されたり、不慮の死を遂げた人間に対する評価がてのひらを返したように甘くなったり、また、生前の犯罪への追及が手打ちになったりという現場を、幾度となく目撃することになります。そういうことの連続と繰り返しに、私は、少々苛立っているのかもしれません。
 で、私個人としては、特に、自殺という結末を選んだ人間に対して、それを英雄視したり美化したりせぬように心がけているわけですが、とはいうものの、この国では、死者とその遺族に対しては、あまり辛く当たらぬのが上品な態度とされているわけで、私とて、そのぐらいのことを知らぬわけではありません。
 ですので、死者については、あえて鞭打たず、打擲もせず、なるべく放置することにいたします。
 が、死者を持ち上げるムキの人々や報道に対しては、昂然と異議を表明……することもないのかな。ムダだし。
 でも、揶揄ぐらいはしたくなろうというものじゃないですか。死者で商売をしたり、死体で蓋をしようと考えている皆さんに対しては。
 ザード?
 いや。何も言わずにおくことにします。
 惻隠の情。

投稿: 小田嶋 | 2007/05/29 22:13

小渕氏の生前と死後の新聞の論調の掌返しはひどかったですねえ。散々、無能だの醒めたピザだの書いておいて、死んだら「こんなにいいところがあった」と書く。

 かつて、政治経済の資料集か何かで読んだ、朝日新聞の8月20日ごろの見出しは、
「民主主義の下で、新生日本の門出」
とかいうもので、わずか10日前までの
「うちてしやまむ」
と同じ人が書いているとは思えませんでした。

 私は高校生にして、
「論理の一貫性とか整合性にこだわってしまう自分は、マスコミ、特に報道関係者にだけはなれない」
と絶望したものでした。

投稿: Inoue | 2007/05/29 23:00

石原の映画もそういうことだったのか。でもさ、石原みたいな奴が最後までしっかり生き残るんだよね。部下を「弾」呼ばわりしながら自分は生き延びて戦後ちゃっかり国会議員になんぞに納まった源田某みたいにさ

投稿: 甘粕 | 2007/05/29 23:12

あれこれ出てきたコメントや言葉の中で一番印象に残ったのが

こうなったのはXXのせいだ!と声高に叫ぶ奴こそ、
自分が最もやましいと思っている @2ch

ってのでした。

他意はありません。

投稿: slider | 2007/05/30 04:16

ガッツある。!!
よんでいて大丈夫かと思いました。

投稿: katae | 2007/05/30 11:19

>ヒネッケンさん
昨今では、死者の批判はタブーという処理の方が見ていて気持ち悪いですよ。
松岡氏は、政治家として責任を取る途をまったく弁えずに自分勝手な方法を選んだだけじゃないですか。最低限の資質にすら、欠けていたんだということもできますよね。

ところで、「死者に鞭打つ」というのはなぜいけないことのように感じられるんでしょう?死者は反論不能だからでしょうか?
しかし、だからといって生者の側が批判不能に追い込まれるのはおかしい気がしますね。

投稿: ido | 2007/05/30 13:40

唾棄すべき戦後サヨクが何を偉そうに

投稿: 武士 | 2007/05/30 15:26

supreme text!

投稿: nihonngo utenai | 2007/05/30 15:35

唾棄すべき戦後サヨク=唾棄すべき戦後ウヨク≠偉愚庵亭

反論の出来無い(または理解できない)論議はいつも「えらそうに」聞こえるのでしょうね。

投稿: ムヨク | 2007/05/30 20:52

>石原都知事
三島事件を「狂気の沙汰」のひとことで片付けた石原さんが
サムライなどと言うんで、どうしたんだろうと思いましたが、
今回のエントリーを読んで、なんか納得しました。

投稿: よし | 2007/05/30 21:58

自爆装置つきの歯車とはさすが小田嶋さん。
どこからこんな痛快な例えが浮かんでくるのでしょう。

この人達は自業自得で腹を切らざるを得なかったので仕方なかったと思います。バレればこうなるのを分かっていなかったわけでもあるまいし。現閣僚としては戦後初だそうですが。

自分としては同日にニュースとなった女性アーティストの方がよほど大きな衝撃を受けましたが。

投稿: てっちゃん | 2007/05/30 23:08

松岡→バカ
石原→バカ
でFA。
ただし両人の醜態にかこつけてジャパニーズトラディショナルなメンタルアティチュードそのものまるごとを空洞化しようとしてるんだったら、勘弁願いたい。
それが有効に機能する状況も(たとえば物質的に恵まれなかったこの国がのし上がっていく過程で)少なくなかったはずだから。

「私心を捨てろ」=
自己中な選手は呼ばない って、オシムのじっちゃも言ってた。

投稿: 献身的ボランチ | 2007/05/31 06:00

>ジャパニーズトラディショナルなメンタルアティテュード

 ははは。いえ、サムライというのは私には不思議な人たちでね。
 世界史を見回してみても、神様のために命を捨てた宗教家や、お国に命を捧げた軍人の例はそんなに珍しくないのですが、サムライは、勤務先に過ぎないもの(藩、お家、会社、同族集団、私設武装集団)のために平気で命を落とすわけで、そこのところが私には不思議でならないのです。個人の尊厳のために命を落とすならまだしも。しかも、サムライの生命は、多くの場合、政策を誤った藩や、無能な上役や、無謀な作戦のために、捧げられています。ある場合にはトカゲの尻尾として、陽動作戦用の捨て駒として、あるいはさらに極端なケースでは、単なる組織的な虚栄心の発露として、です。組織の側から見て、サムライほど使い勝手の良い手駒は無いわけですが、でも、21世紀の人間がこんな終身奴隷心得みたいな哲学を美化しちゃいかんですよ。まあ、「サムライにも基本的人権を」というのも、それはそれで違和感横溢の主張ではありますが(笑)。

投稿: 小田嶋 | 2007/05/31 09:24

遊撃手からの読者ですけど、ここまで感情を露にした文章は初めてではないかと思います。

投稿: 読者 | 2007/05/31 09:38

>ジャパニーズトラディショナルなメンタルアティチュード
これ、皮肉じゃないんですよね。だとしたら、とっくに空洞化してるし、
意図的に復活させうるものでもないと思いますが。

ところで、賞揚すべき戦後ウヨクをさがしているんですが、
ご存知のかた、おられませんかね?

投稿: bbdqn | 2007/05/31 10:17

恐ろしく子供っぽい原則論ですが・・・
主君やお家のために死ぬるのが古来のサムライとするならば、(一応 民主主義・主権在民の)現代日本の国会議員は、主権者である一般ピープルの為だけに犬死にして、はじめてサムライと呼ばれる資格があるのでは?

投稿: kuni | 2007/05/31 11:01

さむらい さぶらう、さすらうに通ずる言葉、三郎と同音があるは偶々ではありますまいバガボンド(嫌いですが。

さ には 早期 の意味が(cf.早乙女

細かいとは思われるでせうが、ちょこっと音を変えればギリゴリの本意は変わります。

さ すらう←これは判りにくい すらうという言葉が現在inじゃないので
さ ぶらう←これは 早く ぶらぶらする
さ むらう←オイオイこれ意味変わってんぞ さ 村(邑・群れ・蒸れ う

さむらいは 徒党ぐみとぞ 悟りたり

当たってんじゃン!

さ は 早いより寧ろ さほど(これほど 左様に と捉えましょうか。である。

俺は侍より忍に路を見出しておりまっする

投稿: メルヘンひじきごはん | 2007/05/31 13:35

ひっかかるのだけ一つ。

こうなったのは××のせいだ!

と記して、それと胸の内とにズレがあるうちはどもなりませんぜ<んー ませんぜcopyright(コピー権行使

いかに思いと記す言葉を同じうしてゆくか、それが 研鑚研磨 ではないかと思われまっする。

投稿: メルヘンひじきごはん | 2007/05/31 14:31

>読者さま

自分も遊撃手からの読者ですが、いつもの小田嶋さんじゃないかなあ。特に感情的とは思えない。
曽野綾子への嫌悪感表明の時とかは、度肝を抜かれたけどね。


> メルヘンひじきごはんさま

お引取り下さい。もう来ないで。頼むから。

投稿: 平川 | 2007/05/31 23:47

一丁目だか二丁目だか知らんが、しけたフォークでも歌ってることである。

東京には何も無いのだろ。お前には故郷が待ってる。

投稿: MeXi | 2007/06/01 07:30

すばらしいです。
感動しました。
文章を読んでこんなに感動するのは久しぶりです。
ささやかながら、ブログで紹介させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070512
こういう文章こそ、ベストセラーになってほしいと思います。

投稿: 内藤朝雄 | 2007/06/01 09:10

わが街で、先日、市長・市議会議員の選挙がありました。
旧来の利権のしがらみを守るために「自爆装置つき歯車」として担ぎ上げられたとしか見えない候補は落っこちて、早々と「自爆」しました。
もっとも地雷となって残るつもりだったかもしれませんが・・・。
とにかく「自爆装置つき歯車」という、この見事な比喩を自分のブログにパクらせて頂きました。ありがとうございました。

投稿: 小高英二 | 2007/06/04 20:27

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