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2007/05/31

ファーストバイト

 夕刻、雨が降り出す前に自転車に乗る。
 赤羽台から西が丘周辺の坂を登ったり降りたり。
 いや、遠くに行けない時に短時間で運動量を稼ぐには坂道が好都合なもので。

 「運動量を稼ぐ」という言い回しに奇妙な感じを抱いた人がいるかもしれない。
 さよう。ちょっと奇妙ではある。
 説明します。

  • デヴにとっての自転車は、事実上、運動器具です。
  • だから、どこかに行くための乗り物じゃないのだね。
  • 行ったり来たりして、ぐるぐるまわって、堂々巡りをして戻ってくればミッション完了。そういう道具なんだよ。用途としては、ハムスターの小屋についてるネズミ車と一緒。
  • ここしばらく、節食だけだと気が滅入るので、ムキになって運動に励んでいたりする。
  • でも、スクワットとか腹筋運動だとかは、二日ほどですっかり大嫌いになった。
  • なぜかって? 初夏の密室でいい年をした男がたった一人汗ばんで息を荒らげている図が、あまりに陰惨で、自分ながら耐え難いからだよ。
  • だから、せめてオープンエアの下で運動にいそしみたいと願ったオレの心を笑うヤツは冷血漢だぞ。
  • 多少息が弾んでも、青空の下なら気持ちが良いし。
  • それに、汗だって向かい風が吹き飛ばしてくれるから。
  • 部屋の中の汗って、最悪だぜ。
  • それも五十男の汗なんて。
  • 考えただけで吐きそうだ。
  • 自転車だと景色が変わるのも良いよね。
  • 腕立て伏せを繰り返しても、景色なんか変わらないし。
  • あんな運動をするヤツは変態だよ。

 と、まあ、そんなわけで、1時間ほど走って、躁状態になって戻ってきたわけでした。めでたしめでたし。

※ポリティカルコレクトネス

  • 昨日、藤原紀香&陣内誰だかの結婚式をテレビで見た。
  • いや、最初の30分ほどをナマで見て、あとは録画をチェックしただけですが。
  • 本来ならこんな番組は見ない。
  • とある週刊誌の編集部からコメント取材の依頼があったのでね。
  • で、本日の午後、編集部の女性とお会いしてインタビューにお答えしてきたのだが、その内容と重複しない範囲で、ちょっと気づいたことを書いておきます。
  • 「ファーストバイト」という演出が気になりました。
  • なんか、関西弁でいう「いっちょかみ」みたいだよね。語感として。
  • ウェディングケーキに入刀した後、新郎新婦が最初の一口をお互いに食べさせる儀式の由。
  • 詳しくは検索してください。 ゴロゴロ出てきます。私は昨日まで知りませんでしたが。
  • 当日、司会のアシスタントをしていた日テレの女子アナが解説していたところによると、この「ファーストバイト」は、「新郎の側からは、《一生食べさせてあげるよ》という意味をこめて、新婦の側からは、《一生おいしい料理を作ってあげます》という意味をこめて、それぞれケーキの一切れを食べさせる」ものなのだそうだ。
  • なんだそりゃ。
  • ネットで検索すると、「ファーストバイト」については、もう少し違うタイプの解説(「これをやっておくと、一生食べるものに困らない」だとか)もある。どうして、諸説ある中で一番性差決定論的な、性別役割を強調するタイプの説明を採用して、それをまた、どうしてわざわざ全国ネットで流したのか、理解に苦しむ。
  • こういう露骨なジェンダー差別助長活動みたいなことをテレビ局が大々的に展開することについて、制作側の人間は、ちょっとでも議論をしたのだろうか? 
  • っていうか、単に結婚式場の側の説明を丸呑みにしただけ?
  • じゃないとすると、もしかして、ノリカがハマっているという噂の宗教の関連だろうか?
  • いや、夫婦なんてそれぞれなんだから、亭主関白を貫徹したいと願っている人がそれを強行せんするのは全然かまわない。女性が伝統的な女性の役割に忠実であることが夫婦和合の秘訣であると考える人々がいることもまったく問題ないと思う。どんどんやればいい。
  • でも、テレビ局がそれ(←ファーストバイトの儀式とそれについての解説を通じて「男が稼ぎ、女が料理をするのが理想のカップルである」みたいな夫婦像を固定化する活動)を推奨するのはちょっと違うだろ?
  • だって、あんたたちは、PC(ポリティカル・コレクトネス)みたいな旗印のもとに、えらい勢いで言葉狩りをしている張本人じゃないか。
  • たとえば、オダジマの著作からも「看護婦」という言葉が削除されている。おどろくべきことだ。単行本を文庫化する際に、チェックがはいったのだ。

    「あのー、校閲の方から、この《看護婦》は、《看護師》に言い換えてくれという要望がはいっているんですが」
    「……っていうか、これ、とあるご老人が、《看護婦さんに子供扱いにされた》ことについて述べた言葉を引用した文章ですよ。その文章の中の《看護婦》を《看護師》に変えたら、引用が成立しなくなるじゃありませんか。だって、昭和の時代に《看護師》なんていう言葉を使う爺さんが存在したはずないんですから」
    「ええ、おっしゃることはよくわかるんですが、これは会社の方の方針ということで、どうしても《看護婦》はマズいらしいんで」
    「……本当に《看護婦》という言葉そのものが丸ごとNGなんですか?」
    「ええ、……すみませんが」
    「……じゃあ、いくらなんでも《看護師》なんていう薄気味の悪い言葉を使うことはできないんで、《病院の女性スタッフ……》ぐらいにしますか?」
    「ええ、申し訳ありませんがそう直してください」

  •  と、おおよそ以上のようなやりとりがあって、オレの「看護婦」は抹殺されたわけだ。
  • つまり何が言いたいのかというと、テレビ局をはじめとするメディア企業は、一方において、クリエイターにPCを理由とした不自由なもの言いを強いているわけだ。で、そうしている一方で、自分たちが番組を作る段になると平気で性差別ネタを流している。ひどいじゃないか。
  • というよりも、彼らは、言葉狩りみたいなタイプの、「一律の基準で機械的に実施可能なポリティカルコレクトネス」に関しては熱心に実行するのだ。なんとなれば、表を作って該当する言葉を言い換えるだけで、簡単に実行可能だから。
  • そうやって、ロボットみたいな言葉狩りをしている一方で、演出手法にかくされた差別思想をチェックすることや、言葉使いとは別の、より深い場所で(たとえば、ストーリー展開やキャラクター設定の中で)展開されている人権侵害を排除することについては、まったくノータッチだ。
  • 結局、言葉狩りをしている連中(つまり、「看護婦」みたいな言葉を自主規制することで、ポリティカルコレクトネスへの配慮を宣伝している人々)は、本当のところ、差別を撤廃したいのではなくて、圧力団体(差別を糾弾してくる人々)との摩擦を避けたいだけなのだな。
  • で、われわれの社会は、率直な言葉で語られるまっすぐな差別を表舞台から排除する代償として、より隠微な表現で描出される、より陰湿で根の深い差別を蔓延させることを選んだわけだ。
  • オレの看護婦はどうなる? ひとっかけらの差別もしてないのに、どうしてオレの看護婦さんはコロされたんだ?

 つづく(かも)……

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2007/05/29

サムライ

 松岡農水大臣の自殺について、石原都知事が、「死をもってつぐなった。彼もやはりサムライだった」という意味のことを言ったのだそうで、この発言に対して、様々な波紋が広がっている。
「どこがサムライだよ」
「美化すんなよ」
「恥ずかしいことをして、黙って死ぬのがサムライなのか?」
 と、まあ、ふつうに考えれば、上記のような感想を抱くのも、当然といえば当然だ。
 でも、言った人が石原さんである以上、ふつうに考えてはいけないのだと思う。「サムライ」みたいな言葉について、石原先生のような人は、一般人であるわれわれが考えるよりもずっと深いところでものを考えていたはずなのだからして。とすれば、彼の言う「サムライ」は、ただの「サムライ」ではない、と、そう考えなければいけない。

 「サムライ」という言葉を、一般的によく使われている意味で、「誇り高い」、あるいは、「出処進退のきれいな」という意味で解釈すると、知事のコメントは、辻褄があわなくなる。だって、松岡大臣の死に方は、そういうのとはちょっと違うからだ。なによりみっともないし、後味が悪いし。
 でも、ちょっと見方を変えれば、彼の死に方には、いにしえの武士の死に方と相通ずるところがないわけでもないのだ。
 なんとなれば、松岡大臣の死は、まったくの無駄死にであり、サムライというのは、組織防衛のために無駄死にしたメンバーに対して、残された者が諡(おくりな)として捧げる称号みたいなものだったわけだから。

 武士は、「犬死に」に最高の価値を置く生き方の由であり、その意味からすれば、死にざまが粗末であるほど武士らしい、という見方もまた、成立し得る。
 何の必然性もなく、何の効果も無いのに、それでも、死ぬ……そうやって死という非日常を無造作に投げ出すことで、生者の側の日常を無効化する。それが、武士としての死に方のひとつの理想の型になる。「死による生の超克」と言うと、いささか格好が良すぎるが、これは、別の言葉で言えば、個人の死を組織防衛のために利用するこの国の組織の常套手段というのか、社会的な病理でもあるわけで、でなくても、「世間(ないしは会社、政党や出身省庁)に迷惑をかけた」(ことを自覚している)人間の肩にのしかかる自殺圧力のうちのかなりの部分は、「ハラキリ」という歴史的オブセッションに由来しているはずなのだ
 サムライは、第一義的に組織の歯車である。奴隷と言っても良い。主君あるいはお家のためであるのなら、自らの一命を捨てることをも厭わない。しかも、その死を美化する。美化。ここが大切なところだ。犬死に美化装置としての武士道。要するに、奇妙な形で美化された奴隷根性がサムライの美学の本質であり、そうした倒錯した自己愛みたいなものが彼らの集団主義に逆説的な誇りをもたらしていたりもする、と、そういう構造になっているわけだ。病気だよね。もはや。
 サムライの奴隷根性は、「私心」ということを極度に嫌う武士の徳操の中に、最も端的にあらわれている。
 個人的な判断や思考は、「利己的」ないしは「自分勝手」な態度であるとして、排除される。で、最終的には、個人の欲得や生物としての生存本能をすら超えて、あくまでも、忠誠心と帰属意識だけが称揚されることになっている。究極の奴隷根性。
 「葉隠」にしたところで、世襲官僚の服務規定としての「お家大事」と、戦時殺人集団たる戦国武士が元来持っていた「切り捨て御免」の凶暴性という、本来なら絶対に折り合いのつかないはずの二つの倫理を、「死」というひとつの言葉を通じて無理矢理に合体した相当に奇妙な哲学書なのであって、こんなものをありがたがっている限り、武士は一人前の個人にはなれないのである。
 で、結局、武士が生命よりも大切なものとして掲げたのは、「正義」でも「個人の尊厳」でもなく、「お家の体面」と、「おのれの職分」というなんとも矮小な没個性主義であった。そして、武士道は、忠臣蔵の四十七士が、取り戻しようのないお家の名誉に殉じて腹を切ったことや、白虎隊の少年たちが百パーセント勝ち目の無い闘いに挑んで集団自決をしたことを、大義への殉死として美化する際の理論的装置として機能し、かかる集団的愚行を理想として掲げる、後ろ向きで恨みっぽい犬死にの美学として結実せざるを得なかった、と。悲しいではありませんか。
 とすれば、松岡大臣の死に方は、犬死にという意味においても、没個性的であるという意味においても、武士らしかったわけです。
 生き方も。
 というのも、武士を現代語訳は、「命がけの役人」ないしは、「お家ロボット」ぐらいになるわけで、自爆装置つきの歯車であった彼は、やはりサムライだった、と。
 ええ、ほめてます(笑)。

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2007/05/26

成田にて

午前中、成田空港まで母親の出迎え。写真を撮ったのでご紹介します。

Baka070526_1

※到着ターミナルにて。「馬鹿 がいじん」と大書してあるTシャツを着た少年の後ろ姿。

 父親らしき白人とフランス語で話していたので、たぶんフランス人と思われる。15歳ぐらいか。
 意味がわかって着ているのだろうか。だとするとフランス版中二病ということになるが。
 悪いニポン人に悪いTシャツを売りつけられたのだとするとちょっと気の毒。
 でもちょっと痛快かも

※ 新社会人の9割吸わず=喫煙社員にマイナスイメージ
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007052600058

新社会人の約9割はたばこを吸わず、喫煙する会社員に抱くイメージは良くないことが26日、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のインターネット調査で分かった。4人に1人は会社選びでオフィスの禁煙環境を考慮しており、新社会人の非喫煙志向がうかがえた。
 調査は、今年4月に就職した全国の20~25歳の男女を対象に実施。各250人、計500人の回答を分析した。
 喫煙したことがない人は75.8%、吸っていてやめた人は12.2%で、習慣的に喫煙している人は12.0%。喫煙しない理由(複数回答)は「体に悪い」が65.2%で最も多く、「お金が掛かる」「髪や服ににおいが付く」と続いた。――後略――

 いつのまにやら、若い人々の間に、ここまで禁煙志向が高まっていたとは。ちょっとびっくり。
 今後、煙草については新しいレッテルを貼って対応すべきだと思う。

 国策麻薬
 徴税薬物
 タックスドラッグ

 とか、どうだろうか。
 喫煙者はヤク中で、しかもお国のパシリってことになる。最高にみっともないぞ(笑)。
 あわれ愛国ジャンキー。
 お国の目論見にハマって、さんざんっぱら納税させられたあげくに、まんまと肺ガンになって、職場放棄せざるを得ない羽目に陥るなんていうのは、左翼の風上にもおけない……というのは、言い過ぎかもしれないので撤回。馬鹿Tの外人さんみたいで、ちょっと間抜けだぞ、と。

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2007/05/24

因果応報

※トラックバックについて

 トラックバックについては、1月27日以来、「管理者が承認するまで公開を保留する」という設定で規制させてもらっています。この規制については、既にご案内の通り(http://takoashi.air-nifty.com/diary/2007/01/post_d51a.html参照)なのですが、ある時期(たぶん、更新を怠りはじめた頃ですね)から、いただいたトラックバックについて、そのまま、チェックもせずに、放置したままになっています。
 先日、この3ヶ月ほどの間に到着済みになっていた何百通かのトラックバック通知に目を通してみたのですが、ざっと見たところ、95%はゴミでした。エロ、広告、釣り、スパムなどなど。で、申し訳ないのですが、何通か来ていたはずのマトモなトラックバックについても、クズトラと一緒くたにしてゴミ箱送りに処することにしました。ええ、面倒くさいので。
 今後送られてくる分で、マトモなものがあれば、随時公開すべきなのでしょうが、どうなるかはわかりません。チェックする気持ちになれるかどうか疑問ですから。やっすいエロ広告だらけの見出しをかきわけるのも、なんだか疲れるし。
 そんなわけですので、トラックバックをつけてくださるのは自由ですが、公開するかどうかは保障のかぎりではありませんので、よろしくお願いします。なにかご意見のある方は、コメントないしはメールでお願いします。コメントは原則削除いたしません。メールは返事を書くかどうか確約できませんが必ず読みます。復讐はしません。

 トラックバックはもうダメかもしれませんね。
「書き逃げのコメントと違って、自分のサイトにリンクを貼るというリスクを犯す分だけ、責任ある記事が増えるはず」
 とか思ってた自分の認識不足がうらめしいです。
 ブログの公共性を担保する有望な機能なんではなかろうか、などと、そう考えていた半年前の私は、バカ野郎でした。
 
※亀田とか

 ACL(浦和VSシドニー:引き分けで決勝トーナメント進出決定:うれし恥ずかしじれったし)の試合の裏だったので、クズネタ録画用のVTRでチェックしました。
 いや、思った通りのいんちきファイトでした。詳細については省略。2ちゃんの実況スレでも当たってみてください。
 視聴率は、7.0(19時代)+14.1(20時代)と、ようやく適正水準に向けて低迷しはじめてきたようですね。
 低視聴率だけでなく、一時期のなりふりかまわぬ亀田プッシュがもたらしたTBSのイメージダウン(赤坂亀田放送局みたいな)は、ここへきて、確実なダメージとなって、局全体に厭な空気をもたらしています。
 もうひとつ見逃してならないのは、亀田に乗っかっていた関係者のほとんどすべてがコケはじめていること。

  • みのもんた:「キャプテンドみの」(土曜午後8時、TBS系)低迷(5~8%の超低視聴率)。「朝ズバッ!」の問題発言で窮地。限界か。
  • さんま:「明石家さんチャンネル」(水曜午後9時、TBS系)大コケ(6%台の超低空飛行)。他、からくり、さんま御殿など、すべてが露骨な低落下傾向。終わりか。
  • キムタク:用もないのにカンヌ千里行。ついでにCLに登場してサッカーファンの大ブーイング浴びる。大丈夫か。
  • 朝青龍:品格とか荒稽古とか八百屋とか。
  • 秋山……名前なんだっけ?:ぬるぬる。すっごいすべるよ。どこまでもすべっていくよ。
  • 高橋ジョージ:そうかそうか。そうだったのか。
  • サンジャポ:飯島愛引退。テリー手術。失笑問題。和田アキコも一蓮托生。もう、日曜の朝はぜーんぶおしまい。
  • 鬼塚:鬼の目にも血管。
  • 土井アナ:スポーツアナとしてのキャリアは絶望。惜しい人を亡くしました。

  因果応報を絵に描いたみたいな展開ですね。神様ってもしかしたら本当にいるのかも。

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2007/05/21

あいさつ通り

 あいさつについてもう少し。

 あいさつは人間の基本である。
 しっかりとあいさつができるということは、人としてとても大切なことだ。
 とはいえ、どういう場合にどういうあいさつをするべきなのか、あるいは、誰にあいさつをして誰にあいさつをするべきでないのか、といったあたりの機微は、最終的には、個人の判断に委ねられるべき性質の事柄だ。というよりも、あいさつは、公的なマナーである以上に、個々人の心理的事情に属するプライバシーでもあるわけで、他人という外界に直面した個々の人間が、それぞれの縄張り意識や対人感覚を表現するための、極めてデリケートなインターフェースであったりもする。それゆえ、教育委員会やお国みたいなものが、介入したり教育したり成文化したり奨励したりするにふさわしいものではない。
 ……言い方が難しいかったかだろうか。

 たとえば、登山道の中には「すれ違う人間同士があいさつをする」ということが、半ば不文律みたいなことになっている場所がある。
 それはそれで良い。
 実際、半日歩いていてすれ違う人間が数人しかいないような淋しい山道では、人間と遭遇すること自体がうれしい体験になるわけだし、出会った以上、あいさつをかわそうと思うのが人情(あるいは、「頂上は晴れてますか?」ぐらいな情報交換があってもよろしい)ということにもなる。
 でも、これが「ルール」だとか「マナー」みたいな形で定まっていたりすると、それはそれで重荷になる。
 たとえば、登山シーズンのピークと連休が重なった槍ヶ岳の穂先の渋滞ポイントみたいなところで、登ってくる数十人に対していちいち「こんにちは」と言うのは、ちょっとつらい。あたしゃごめんだ。また、丹沢あたりで遠足の中学生とすれ違う(←「山道で出会った人には、大きい声で『こんにちは!』と声をかけましょう」などと、遠足のしおりに明記されていたりする)みたいな事態もご勘弁ねがいたい。物陰に隠れたくなるのがデフォ。

 さて、以下の写真は、3日ほど前に足立区のあたりを自転車で走った時に撮影したものだ。

Aisatu
※あいさつ通り@足立区

 とある区立中学校の通学路(正門から伸びる道。なぜか畑が残っていたりする)に「あいさつ通り」という看板が掲げられている。
 推量するに、登下校の中学生たちは、道行く人々に対して、「おはようございまーす」なり「こんにちは」なりといった、あいさつの言葉を投げかけて行くことになっているのであろうが、いや、それはそれで、基本的にはほほえましい光景だと思う。
 でも、毎朝この道を歩かねばならぬなりゆきのうちにある人間からしたら、ちょっと鬱陶しいはずだ。だって、人というのはいつも機嫌が良いわけではないから。二日酔いの朝もあるだろうし。あるいは、失恋だとかリストラみたいな事情をかかえて歩いている晩秋の日暮れ道、と、そういうタイミングだってあるかもしれない。とすれば、そういう不遇の時に数百人の中学生にあいさつを返すのは、非常な心理的負担であるだろう。オレなら道を変える。っていうか、心ある人々は、いつしか「あいさつ通り」を歩かなくなると思う。校長だとか、教育委員会のオヤジだとかが、朗々とあいさつをする中学生の集団を見て満足するのは勝手だが、職員会議の思いつきやらを公道に持ち出すのは、暴挙ですよ。

 たとえば、あいさつについて、一人の教師が、彼自身の影響力と目配りが届く範囲内で、自分の受け持ちの子供たちに対して、信念を持って教育をするのであれば、そこに多少の強制が含まれていてもかまわない。部活や私塾の範囲であるなら、指導者の思いこみが反映されていてさえ良いのかもしれない。教師個人の信念なり考えである以上、一部の生徒との間に、摩擦や齟齬が生じることもあるだろうが、そうした摩擦や齟齬や不一致のフィードバックを処理して行くことも教育の一つではあるからだ。
 その意味で、「茶髪はダメ」と考える教師がいて、その彼が、自分の教室で、彼自身の責任と信念において茶髪を禁じているのだとしたら、その処置は正しいと言える。
 しかしながら、学校単位、地域単位、国家単位と、範囲がデカくなってくると、茶髪みたいなことでさえ、一律に禁じるのは、基本的人権の侵害になる。
 私自身、茶髪はあんまり好きではないが、だからといって、茶髪程度のことが禁じられるような国に住みたいとは思わない。
 
 教育再生会議がダメなのは、彼らの持ち出してくる提言のひとつひとつがダメだからではない。
 仮に、個々の提言に、それぞれもっともな主張が含まれているのだとしても、「教育再生会議」という枠組みから発せられているメッセージである限りにおいて、そりゃダメなのである。
 つまり、教育についての細部を、国みたいな野放図な単位で論じようとしているという、その前提そのものがダメなわけだ。デカ過ぎるし、大雑把過ぎるし、なにより無神経だから。

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2007/05/20

脅威臭い成果異議

前のエントリーについて、ちょっと補足をば。

  • 「孤立力」というタイトルの付け方がちょっと誤解を招くかもしれないと思ったもので。
  • タイトルにこの言葉を持ってきたのは、「○○力」という言い方が流行しているからちょっと乗っかってみただけのことです。
  • つまり、通常の意味あいではネガティブな性質の言葉に「力」という言葉をつなげてみて、その逆説を楽しむ、と。
  • まあ、単なる皮肉ですよ。
  • 私の意図は、「暗い」「友達のいない」高校生の立場を擁護してみるところにあった。
  • といって、すべての高校生が孤立すべきだと主張したかったわけではない。
  • 要は、人間は違っていて良いのだ、ということ。
  • そういえば、「五体不満足」の乙武洋匡君が、どこかの雑誌で、教師になった動機について「子供たちに『みんな違っていていいんだよ』ということを言ってあげたくて」という意味のことを言っていた。
  • 素晴らしい。
  • 彼のような人の口から発せられる、この言葉には、強烈な説得力があると思う。
  • 引き比べて、「教育再生会議」の先生方が持ち出してきた提言は「こうあるべきだ」というお話ばかり。うんざり。
  • 「幼児段階であいさつを徹底」「親学」「子守歌を聞かせながら授乳」「親子で演劇などの芸術を鑑賞する」だと(笑)。
  • ひとつひとつのお話にまるで意味がないわけではない。が、こんなことは、「有識者」が、上からとやかく言うべきことがらではない。
  • 一般論を言うなら、もちろん、あいさつはできた方が良い。産業戦士として、たとえば居酒屋チェーンで有能な店員になるためには、あいさつは必要欠くべからざる素養であるのだろうし、ほとんど唯一の条件でさえあるのかもしれない。
  • しかし、教育者たるものは、むしろ「きちんとしたあいさつのできない子供の中にも素晴らしい個性はひそんでいる」といったところをまず見逃すべきではないのであって……いや、こんなことは、現場で教育にたずさわっている人間なら、誰でも知っている。
  • たとえば、「もごもご」と口の中で何かを言っているみたいなはなはだ不明瞭なあいさつしかできないタイプのシャイな人間は、どこにでも一定数いる。そして、そういう彼らの中には、彼らにしかない良さがあったりする。こういう人たちは、営業ではイケなかったりするかもしれないが、研究職では立派にやっていけるかもしれないし、いずれにしても人間の価値は用途は一様ではない。
  • どこかの居酒屋みたいに、クラスの全員がデカい声で朗々とあいさつをしてくる教室があったら、やっぱりそれはそれで薄気味が悪いと、オレは思うぞ。
  • 教育再生会議の「有識者」の中には、おそらく多様な「良さ」を認めないタイプの人々が含まれている。「多様であるようなものは、良さとは違う」みたいな、そういうプレス工程としての教育観しか持っていなかったり。
  • いや、落語家の未亡人だから、居酒屋チェーンの経営者だから、競技スポーツの成功者だからいけないと言っているのではない。
  • ただ、たとえば、「オーラの泉」みたいな番組にゲスト出演して、インチキ霊能者の言う妄言に感動して涙を流しているような人間(←小谷実可子のことだが)を「有識者」として扱っているような「再生会議」が出してくる提言なんかで、教育が再生されてたまるものか、ということだけは言えるわけだよね。
  • ん? 話がズレてる?
  • まあ、仕方がないよ。明け方だし。

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孤立力

 例の会津若松の高校生が母親を殺害した事件について、思うところを述べておきたい。
 報道によれば、容疑者の少年は、中学校時代までは成績優秀でスポーツにも秀でた模範生であったのだそうだ。それが、生まれた町から離れた高校に進学してから様子が変わった、ということらしい。具体的には「暗い」「友達のいない」「何を考えているのかわからない」「孤立した」生徒に変貌した、と。
 なるほど。
 このテの事件が起こると、必ず繰り返される定番のストーリーだ。ネオ麦茶以来。いや、もっとずっと昔の、それこそ宇治拾遺の時代から連綿と続く挿話ですね。

 報道が事実に反していると言いたいのではない。きっと、取材してみると、事件の周囲にいる人々は異口同音にこのプロットに沿ったお話を繰り返すのであろうし、彼らがウソを言っているわけでもないのだと思う。
 ただ、私は、この「少年の孤立」という一つ話を、あんまり過大に評価することは、事件そのものの原因究明(←実際、この種の事件に関して、原因の究明なんてことが、本当に可能なんだろうか?)とは別に、日本中の教室と家庭に、誤ったメッセージを送ることになる気がするのだ。
 だって、少年というのは、多かれ少なかれ孤立しているものだからだ。
 でなくても、この種の報道の過度な反復は、内向的なタイプの少年に対する偏見を助長することになるんではなかろうか。

 ただでさえ、この国の社会には、孤立した存在を「気味の悪い異分子」と見なしがちな空気が蔓延している。
 そこへ持ってきて、こういう事件についてのこの種の報道が脅迫的に繰り返されると、世間づきあいの苦手なタイプの人間(あるいは私のような偏屈者)は、「犯罪予備軍」ぐらいに判断されかねない。
 それでも、大人であるわれわれは、なんとかやって行ける。自分が、世間の善男善女の皆さんとうまくやっていけないことについては、ずっと昔にあきらめているわけだし、孤立も偏見も覚悟の上というのか、ある意味望むところだからだ。
 が、高校生は別だ。
 高校生がふさぎこんでいることを、世間が責めてはいけない。
 高校生というのは、半分ぐらいはふさぎこんでいるものなのだ。
 誰もが明るい一方で成長するわけではない。一人の人間が大人になるまでの間には、必ずや困難な何年かが訪れる。思春期の少年が子供時代と比べてめっきり口数を減らすことは決して珍しいことではない。というよりも、多くの人間は、グレたりふさぎこんだりひねくれたりトチ狂ったりする厄介な時期を乗り越えて、そうやってなんとか大人になるものなのだ。とすれば、高校生が無口であったりすることについて、テレビみたいなメディアが、よってたかって異端視することは、非常によろしくない。子供たちにとっても良くないし、その年頃の子供を持つ親たちに対するメッセージとしても最悪だ。
「ま、色々だよね」
 と、大人であるわれわれは、高校生に対しては、そういうふうに言ってあげるべきなのだ。
「結局、人それぞれなわけだし」
 と。

 思い出してみれば、心当たりがあるはずだ。
 高校生のすべてが快活なわけではない。クラスの全員が社交的なメンバーだけで編成されているわけでもない。当然、人づきあいが苦手な子供もいるし、一人でいることを好むタイプの少年もいる。また、同じ人間であっても、孤独な精神状態で過ごす時期もあれば、他人を遠ざけたい気分に陥ることもある。
 要は、人それぞれ、生き方には違いがあって、必ずしも同調的で社交的で明朗なばかりが青春の実相ではないし、理想でもない、と、そういうことだ。
 たとえばの話、40人の教室には、最低でも10人の「暗い」子供が座っている。
 私が通っていた高校のクラスでも事情は同じで、同じクラスだったにもかかわらず、最後まで一言も口をきかなかったクラスメートが3分の1ぐらいはいた。
 もちろん、口をきかなかったのは、私の側の問題でもある。が、それを抜きにしても、おそらく、クラスの誰とも意味のある会話をせずに過ごして、そのまま卒業していった生徒が各クラスに5人やそこらは必ずいた。そういうものなのだ。
 では、その「暗く」て「友達がいない」ように見えた彼らが無価値な人間だったのかというとそんなことはないし、彼らの高校生活が、一概に無味乾燥な体験だったというわけでもない。
 というよりも、「明るく」て、「友達が多い」側の人間が、そうでない生徒たちに対して、憐れみを覚えたり、優越感を抱いたりすること自体、どうかしているのだ。
 もちろん、意に沿わぬ孤独に苦しんでいる者もいるだろうが、孤独をむしろ楽しんでいる少年だっている。社交よりも、思索を好む子供がいるのだとしたら、それはそれで見事な態度だと言わねばならない。
 とすれば、むしろ安易な同調を好まない少年の中にこそ、端倪すべからざる個性が隠れていた……のかもしれない。まあ、結局、最後まで口をきかなかったから、ほんとうのところは死ぬまでわからないわけだが。
 私自身、ハッピー一辺倒の思春期を送ったわけではない。クラスでは明るく振る舞っていても、そう思えていない時期もあったし、塾みたいな場所ではまったく別の人格に変貌してもいた。
 そう。思い出すのは、小学6年生から中学2年生まで通っていた英語塾で、自分が猛烈にシャイな子供だったことだ。
 実際、私は、誰かに話しかけられると真っ赤になってうつむいてしまう、どうしようもない子供だった。
 というのも、私が通っていたのは、私の叔母に当たる人が個人的に主宰している英語塾で、ほかにも色々と事情があったからだ。
 まず、私は、ほかの生徒よりも年齢がひとつ下だった。うん。英語は、早くはじめた方が良いってなことで、小学校6年生の時に、中学一年生のクラスに編入していたのだね。いま思えば、バカな先走りだった。
 次に、私は、一人だけ都電に乗って20分ほど離れた町の、別の中学校から通っていた。ということはつまり、ほかの生徒からしてみれば、私は、一人だけ「一年年少」で、「先生の身内」である、しかも「違う中学」から来ている生徒だったわけで、とすれば、ちょっと距離を置くのは仕方のないことだった。
 一方、私はといえば、最初の授業で自己紹介をする時にアガってしまったことを、最後まで克服できなかった。
 それまで、人前でアガるなんてことは経験したことがなかったのだが、一度「アガる」ということを経験してしまった人間は、自分でそのことを意識して、次から、必ずアガるようになる。結局、「アガる」ということの原因は、「アガってしまった」記憶と経験の反復にあるわけで、とすると、それは到底中学生に克服できる種類の感情ではなかった。
 と、周囲も「ああ、この子は、えらく内気なんだ」という扱いをする。
 で、そうした環境のうちにある子供は、ついにその「内気なあいつ」の役割からどうしても逃れることができない。
 そんなわけで、週に2回、3年間、その塾に通っている間、私は、最後まで、その自縄自縛のシャイネスにとらわれていた。
 結局、われわれが自分の性格だと思っているもののうちのかなりの部分は、ある特定の「場」における「役割」に過ぎなかったりする。

 会津の少年の場合でも同じだ。遠い町から通っていた高校生が、クラスとうまくなじめなかったというのは、別に珍しいことではない。というよりも、むしろ当然の反応と言って良い。
 私が、違和感を感じるのは、容疑者の少年の「孤立」が、犯罪の原因(でなくても遠因)だったとするものの見方の安易さだ。
 このデンで行くと、高校生の2割かそこいらはシリアルキラー予備軍てなことになってしまう。
 アタマの中で妄想することはともかく、現実に母親の首を切り落とすみたいなことを実行に移す少年は、何年かに一人しか出てこない。
 つまり、彼は、何千万人に一人の、特殊な人間なわけで、こういう明かな特例が為し得た事柄や考えた理路を、安易に一般化するのは、やはりどうかしているし、それ以上に、彼のような人間の孤立と日本中に数十万人はいるに違いない孤立した少年たちを同一視することは、さらにどうかしている。
 
 とりとめのない話になってしまった。
 寝よう。

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2007/05/16

デブを生き抜く

 デブがらみの話ばかりで恐縮ですが。気にしてるのでね。
 厚生労働省によると、成人男性の二人に一人にメタボリック症候群のおそれがあるんだそうだ。テレビ(TBS、の夕方ニュース)で言っていた。
 なるほど。
 ところで、この「メタボリック症候群」というのは、いわゆる「肥満」とは違うんだろうか。
 ……このテの話は、もはや検索すればわかる(っていうか、最近、このテの新用語だのについて、マジメに文章を書く気持ちになれましぇん。だって、どうせググればわかることだし、ウィキペディア経由の知識を得々と披露するのもなんだかアレですし)ネタに過ぎない。だから、これ以上説明しません。
 で、詳しくは検索していただくとして、奇妙なのは、この「メタボリック症候群」という目新しくもかしこそうな響きを備えた言葉の、その診断基準がえらく大雑把であることだ。
 腹囲85センチ……って。
 人間っていろいろだぜ。
 こんなアホみたいな基準で良いのか?

 要するに
「肥満はヤバいよ」
「デブは健康に良くないぜ」
 と、昔から言われている同じセリフを繰り返せばこと足りるお話だったんじゃないのか?

 が、厚労相およびマスメディアは、古くさい教訓話を繰り返すことをせず、あえて「メタボリック症候群」なる新しい概念を創出することで、肥満に対する注意を喚起しにかかっている。
 なぜなんだろう。
 彼らはどうしてこんなまわりくどい作業にあえて従事しているのであろうか。

 以下、私の邪推を述べる。
 彼らが、メタボリックという新しい旗を振りまわしている理由は、「肥満予防」という昔ながらの生活目標が、あんまり産業的じゃないからだと思う。つまり、肥満を予防しましょう。減量しましょうというお話は、食事回数とか、あるいは一回の食事量とか、カロリーだとか脂肪摂取量とかタンパク質炭水化物総量だとかいった、いずれにしても、食事にかかわる何かを「減らす」方向の運動として結実する。と、これは、お国やメディアにとってはあんまり望ましい動きではない。
 なんとなれば、彼らは常に何かを「奨励」したり「促進」したり「活用」する方向の施策を考えたがる人たちであり、同時に、何かの消費を「減らし」たり「削減」するようなタイプの国民運動には死んでも関わりたくないと考えている根っからのアジテーターであるからだ。
 ありていに言えば、「知ってるか? マヨネーズって、同量のバターと同じカロリーを含んでるらしいぜ」「肉は肥るよね」「コメの食い過ぎもキツいぞ」「伝票メシって直接皮下脂肪になるよね」「っていうか、外食自体デブ化要因じゃね?」みたいなお話は、景気を下方誘導しかねないと、彼らは考えているわけだ。テレビ屋さんたちとしても、減食キャンペーンみたいなメッセージが、幾多のスポンサー企業の機嫌を損ねることには、当然気づいている。
 そんなわけで、「メタボリックシンドローム」関連のニュースにおいて、彼らが提示する国民のあらまほしき生活態度は、決して「節食」や「減食」という方向には向かわない。その代わりに、メディアは「適度な運動の必要性」みたいなことを、ぜひもので強調する。だって、その方が消費の拡大につながるから。
 で、ついでのことに、「おすすめの低カロリー食品」「ダイエットに役立つメニュー」「定番の運動器具」「この夏にやってみたい新スポーツ」てな調子の、いずれにしても何らかの商品を新たに購入する形のメタボリック対策を提案してくる。うん。何かを売りたいわけだよ。結局、彼らは。
 本当は、「食べない」「飲まない」「無駄な付き合いをやめる」「くだらない会食を断る」「グルメ情報に踊らされない」というのが減量の本筋なのに、だ。

 てなわけで、今日は、午前中に原稿を2本片付けて、自転車に乗った。
 荒川河川敷を下流方向に西新井橋まで走る。この間約7キロ。橋を渡って本木、本木南、扇といったあたりの町を抜けて環七にぶつかる。で、環七沿いに鹿浜橋まで走って帰宅。往復で約15~6キロ。まあ、だからって急に痩せるわけじゃないけど。

※おまけ

0516
ポタリング途中で見かけた石材屋さんの店先風景。 ハ○太郎、マ○オ、ド○えもん、ミッ○ーマウスなど、おなじみのキャラクターがお茶目な石像になっている。 ディズニーや任天堂の皆さん。勘弁してあげてください。素敵なオマージュですよ。

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2007/05/11

サルコジとか

 ブレア首相が辞任を決意したというニュースを知る。
 ちょっと残念に思う。
 意外だ。
 だって、ブレアさんのことが特に気に入っていたわけでもないから。
 いや、好き嫌いを言う以前に、私は、彼の主張や政策について、ほとんどまったく知識を持っていない。興味もなかったし。
 あるいは、この気持ちは、つい数日前のフランスの首脳交代について抱いた気分と関連しているのかもしれない。つまり、オレはどうやらあのサルコジというチンピラが好きになれそうにないぞ、と。
 なぜサルコジが気にくわないのかは、実はよくわからない。
 対立候補のロワイヤル女史に肩入れしていたわけではない。
 前任のシラクさんに好感を抱いていたのでもない。
 単に、新しい指導者の顔を覚えることが面倒くさくなってきているということなのかもしれない。
 つまり、私も年をとったわけだ。

 ずっと昔、自分が若い者だった頃、政治家は、ずっと年上の人々と決まっていた。大統領とか首相ということになればなおのことだ。ブレアは例外的に若かったが、シラクさんは私から見てはるかに年配の男だったし、チャーチルだのドゴールだのは、半ば歴史上の存在だった。
 引き比べて、サルコジはあまりにも若い。
 だから、まるでえらい人という感じがしない。
 っていうか、タチの悪いソムリエぐらいにしか見えない。あるいは、葛西あたりでコギャルにコナをかけてるダンス教師とか。
「なあ、あのソムリエ、フランス人じゃないよな」
「オレの見るに南米出身だな。ブエノスアイレス郊外。8人兄弟の6番目。上の二人の兄貴はマフィアに撃たれて死んでる」
「っていうか、J2かJFLのチームが間違って連れてきた戦術コーチが遠征資金を横領してクビになってソムリエに化けた姿とか、そんなとこじゃないか」
「とすると、現役時代は武闘派のボランチぐらいか」
「フィジカルの不足を無慈悲なタックルで補うプレースタイルだな。体格的に見て」
「まあ、ハイボールの競り合いなんかだと、敵ストライカーの股間にちょうどエルボーが当たるぐらいな見当だし」
 と、こんな感じで陰口をたたきたくなる感じの存在ですね。

 年寄りは変化を嫌うようになる。
 というよりも「すべての善きものは過去に属する」と考えた方が心が安まるわけなのだな、オレらにしてみれば。
 たぶん、この先、フランス人の映画監督が洒落た映画を撮ることはなくなるのだろうし、イギリスから秀逸なミュージシャンが出てくるようなめぐりあわせも皆無になる。国際的に配給される映画は、どれもこれもあのやかましいハリウッドの連中の息のかかったいまいましい量産型の粗悪品になる。音楽も然り。マージー川の流域から奇跡みたいな工芸品が出てくることなんか金輪際なくなる……と、私が、そういう形式でものを考えるのは、私自身が、内心で、自分の壮年期の終わりにタイミングを合わせて、全世界の青春が軒並み老化することを望んでいるからだ。そう。わが日本の善き時代は終わり、世界がおおむね平和であった戦後の数十年も終焉を迎える。で、祖国は世界の三等国に成り下がり、その命運は中華なる国の治乱興亡にまきこまれ……って、そこまでひどいことになる必要はない。わかっている。 
 この先ロクなことが無いという考えに、なぐさめられたりする状態は、たぶん、病んでいる。っていうか、腹が減っているのがいけないのかもしれない。だって、ここしばらく、なんとなく食事を避けているおかげで、なんだか力がはいらなかったりしているわけだし。私は何か食べるべきなのだな。きっと。
 人が肥るのにはやむをえざる理由がある。
 と、そう考えないと、世界がこんなにもデブだらけになってしまっていることの説明がつかない。
 そう思わないか?
 やせた人間として暮らしてきた40年あまりの間、当然といえば当然ではあるが、私は、肥った人間について、彼らの身になって考えたことがなかった。ありていに言えば、デブというのは自制心か自尊心かのいずれかを欠いた存在なのだぐらいに考えて、それ以上の分析は放棄していた。どっちにしろ、オレとは違うカテゴリーの生き物なのだ、と。
 私は間違っていた。
 肥満は、自制心の欠如がもたらす結果である以上に、自尊心が患っている症状なのだ。
 言葉を変えて言うなら、肥満というのは、精神が肉体のフォルムを通じて表現しようとているひとつの悲鳴なのだ。
 その皮下脂肪の語るところを無理矢理に翻訳すれば
「おい、このオレのクソみたいな人生をどうにかしてくれよ」
 ぐらいなことになると思う。ちくしょう。
 いずれにしても、肥った人間にとっての人生は、彼の自制心を失わしめ、自尊心を毀損するに至る事故みたいなものなわけで、そのぞっとするような事態に直面したら、誰だってヤケ食いぐらいなことはして当然なのであって、結局、食欲という最も根源的な欲望の充足でしか埋められない空虚……って、こういう理屈を言っているオレは健康じゃないぞ。腹が減っているんなら、素直に食おうではないか。それが人間らしさというものだ。空腹に対して理屈を言うべきではない。
 というわけで、何か食い物を探して来ます。夜中の4時だけど。ちぇっ。
 

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2007/05/08

肥満つぶし

 ゴールデンウィークも終わったので、復帰することにしました。
 あんまりリキんで長文を書いたりするとまた力尽きる気がするので、以下、箇条書きで、ざっと近況報告をば。

  • 昨年の末からこっち、何人かの知り合いが亡くなった。
  • 同年配の人間の死はやはりこたえる。
  • 葬儀にまつわるあれこれも負担になった。というよりも、ありていに言えば、追悼の感情はともかくとして、葬式という儀式はどうしても好きになれない。
  • というわけで、この3ヶ月ほど、無気力な状態だった。
  • こういう時には無理をしない方が良い。
  • 過去、鬱状態を押して無理に頑張ったせいで、何度か脳味噌を骨折したことがある。
  • あれはつらい。
  • で、面倒なことは一切避けて、人にもなるべく会わず、新しい仕事もせず、ただただ最低限の定期刊行物の原稿と、規則正しい呼吸をこころがけて蟄居しておった次第です。
  • 4月に法事。5月に葬儀。
  • 面倒くさかった。
  • 私たちが暮らしているこの国は、要するに農業が滅び去った後の農村なのだな、と、そう思うと何もやる気が起こりませんでしたね。
  • レッズ戦には律儀にでかけていた。
  • 観戦の度に更新を考えたのだが、なんだかショボい試合が多かったので。
  • しばらく休んだおかげで、この一週間ほど、気力が回復して参りました。
  • で、近所を自転車で走り回ったりなどして、減量に取り組んでいます。
  • 他人という人たちは、他人の体重にしか関心を持っていないということがよくわかりましたので。
  • 久しぶりに会った親戚は、必ず「ふとったんじゃないか?」と言う。
  • ええ、そりゃふとりましたとも。
  • でも、無限に肥り続けているわけではない。肥ったのは、一度だけだ。それでも、人々のアタマの中には、10年前の、ひどくやせていた時代のオダジマの映像がしぶとく生き残っていて、この3年ほど、私がなんとか体重を維持しているにもかかわらず、会う度に肥満を指摘してくる。とてもつらい。
  • 肥満を指摘する人々は、あるいは、難詰する調子を和らげようとしてそうしているのかもしれないが、誰もが、笑いながら語る。「あれ? もしかして、ふとった? ふふふ ふふふ」
  • とてもつらい。
  • 誰にも会いたくない。
  • 5キロやせるまで、しばらく他人との接触を避けよう。
  • この2日ほど、あんまりモノを食べていない。
  • 絶食は、時に躁状態を招く。少なくとも、私の場合はそうだ。
  • 逆もまた真で、躁状態の時はあんまりモノを食べなくなったりもする。
  • というわけで、人工的な躁状態を形成しつつ減量に役立てるためにも、ブログの更新に取り組んでみている次第です。ええ。
  • あんまり張り切ると反動がコワイので、とりあえず今日のところはこれまで。
  • みなさん心配をおかけしました。

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