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2007/02/08

突っ込みどころ

 政治ネタは荒れますね。
 本来は、政治的な話題であるよりは、単に「言葉」をめぐる解釈の問題だと思うのですが、論争に参加している人々のうちには、どうしても、この話題を党派的な争いに関連づけて考える人々がいるわけで、そういう人の目には、「あいつは、あっち派なのか」というふうに映ってしまう。やっかいなことです。
 もうひとつ、場が荒れた原因のひとつには、この種のお話(つまり、女性の権益みたいな問題をはらんだ事柄)について問題を提起する人々の口調が、どうしてなのかいつも高飛車であることがあずかっていると思います。
 どういうことなのかというと、フェミ関連の話題は、必ずや「あなたたちは気づいていないでしょうけど、その言い方は差別なのですよ」式の、過度に啓蒙的(つまり、「無神経でアタマの悪いオッサンにものを教えるトーンで語られる」ということ)な口調で語られる、ということです。と、いきおい、教え諭される形で説教を食らった側のオヤジとしては、「オレだって、日本語を使って○十年も生きてるんだぜ」ぐらいな気分にはなろうというもので、とすれば、こういうところから始まった論争が、まっとうな場所に落着するはずなど、はじめからありゃしないわけです。
「オレをバカ扱いにするのか?」
 と。
 
 さて、柳沢のオヤジのアタマの中に、優生学めいた管理思想が潜んでいることと、彼が国民を「資源」ないしは「将棋の駒」ぐらいに見なしていることは、どうやらガチです。でなくても、大臣にとって、私どもパンピーは生産単位ないしは消費単位以上のものではなさそうです。
 が、私は、そのことをして、別段問題だとは考えません。誰だって同じだからです。政治家というのは、どっちみち国民をコマに将棋をやろうとしている人たちです。野党議員であれ、与党の大臣であれ、区議会の下っ端であれ、です。
 今回、ヤナギのオヤジが失敗したのは、うっかり「機械」だの「健全」だのという言葉を使ってしまったことで、内心のガス室を垣間見せてしまったことだと思います。
 衣の下から鎧が、という、古いたとえにある通りの状態。見えてはいけないレースの下着が、ワイシャツの下に透けて見えた感じ。うん、ちょっと違いますね。気持ち悪すぎ。
 とはいえ、先述したように、失言のレベルとしては、ごくごく軽微なもので、内心をうまく隠せなかった分だけ良心的だったとさえいえるレベルの、牧歌的なエラーです。
 私が、この度の「機械&健全発言追及問題」に反応したのは、柳沢大臣の思想傾向がどうだこうだ(だって、そんなことは先刻承知ではありませんか)よりも、それを追及している人々の、居丈高な調子が滑稽に見えたからです。
 野党の議員にしたところで、どうせ国民をレゴのブロッグぐらいにしか思っちゃいないことは明白なわけだし、テレビに出てきているキャスターやらコメンテーターやらといった連中にしたって同じです。誰も、「傷ついた女性」の立場をおもんぱかって発言していたわけではありません。
 第一、この度の発言で、誰か一人でも傷付いたのかと言うと、該当者はいないはずです。
 彼らが、柳沢発言に飛びついたのは、この失言をとらえることで、何らかの「得点」ができると考えたか、あるいは、この種の人権がらみの問題が発生した時には、「弱者」と見なされている側に身を添わせていた方が無難だというふうに考えて保身をはかったかのかの、いずれかです。
 とすれば、こんな些細な問題で、いつまでも国会を空転させて良いはずがありません。まあ、私個人は、国会が空転しようが知ったことじゃありませんが、それでも、テレビの中の人たちが眉毛に変な角度をつけて、事態を憂えてみせている芝居をしていることには、いいかげんうんざりしている、と、そういうことです。
 うーん。かえって荒れるかなあ。

 さて、最初に書くつもりでいたことを列挙して、仕事に戻ります。いや、戻るとか、そういうウソはいかんですね。ようやく仕事をはじめます。ええ。

  • もう柳沢大臣の問題には触れないぞ。うんざりだ。
  • 「~♪~ 雨の降る日は天気が悪い 悪いはずだよ 雨が降るチョイ」というのは、たぶん、「ドリフのソーラン節」の一節。私の記憶では、私はこのレコードを確かに持っていたのだが、検索しても出てこない。夢でも見たんだろうか?
  • 応用のきくフレーズだと思う。
  • Google(と、ウィキペディア)が登場して以来、ちゃんとした知識のある人間が、真面目にウンチクを傾けて書いたテキストに対して、「どーせ検索したんだろ」ぐらいな感想を抱く読者が増えた気がする。かわいそうだなあ。
  • それどころか、あんまりくどくどとデータを並べると、「そんなことは検索すればわかるんだから、適当に済まして先に進めよ」という読み方をされてしまうおそれがあったりする。ウェブ上の文章では、特に。
  • で、書き手の側にも、「詳しくは検索してもらうとして……」ぐらいのところでお茶を濁す怠けた書き方が蔓延しはじめている。これで良いのだろうか。
  • ほんの5年ほど前までは、知識を持っている人間は、無条件で尊敬されたし、オタクでさえ一定の敬意に似たものを与えられていた。「データを持っている人」として。
  • それが、硬軟取り混ぜた知識が、無料でアクセス可能な形でウェブ上にばらまかれた結果、「物知り」の人たちは、ほぼ無価値になってしまっている。
  • オレは別に博覧強記の側の人間じゃないから、たいした被害は受けてないけど、でも、ものの書き方がこんな調子で変わって行くことに、オレは、この先、追随していけるんだろうか?
  • 寝よう。

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2007/02/07

極めて健全

「結婚・子2人は健全」 厚労相発言、与党内からも批判(朝日新聞)
http://symy.jp/?gv_yana

 この発言のどこが問題なんだろう。
 正直に言って、私にはまるでわからない。
 柳沢さんという人の人となりについて、私は知識を持っていないのだが、もしかして、この程度の発言で辞任を要求されているのは、この人が、過去にも様々な問題行動や差別発言を繰り返してきた「札付き」の存在だから、ということなんだろうか。
 そうでないのだとすると、大臣の問題発言の問題点に気づくことができないでいるオダジマの言語感覚は、陣笠以下の鈍感さだ、と、そういうことなのか?

 そもそも、「女性は子供を産む機械」発言にしたって、要約の仕方が恣意的(というよりも、特定の言葉を文脈から切り離した形でまないたにのせたやり方は、詭弁であるにしてもあまりにも低劣だった)だっただけで、本人の発言自体は「もののたとえ」に過ぎない。
 この件については、今週発売の「読売ウィークリー」に詳しく書いたので、これ以上は突っ込まないが、要するに、大臣は、「女性を機械にたとえれば機械の数は決まっているわけだから、一台あたりの生産量を上げなければならない」と言っただけだ。もちろんこの比喩が無神経であったことはその通りだが、それにしたって、一国の大臣をして職を失わしむるに足る類の失言ではない。

 今回の発言にしても、「極めて健全」という言葉から、読み方次第では、優生学的な思想をくみ取ることは可能だが、でも、そりゃ邪推ってものだ。

共産党の穀田恵二国対委員長は「1人だったら不健全、ゼロだったら不健全だと言いたいわけだ。全く反省していない」、社民党の福島党首は「子どもを持ちたくても持てなかった人や、持とうと思わない人に配慮がない」と批判。小沢、福島両氏と国民新党の綿貫代表の3野党党首は6日夜の会談で、改めて辞任を求めることで一致。首相官邸で塩崎官房長官に申し入れた。 (←上記、asahi.comリンクより)

 って、こんなものがマトモな読み方だと思いますか?

「子供二人以上欲しいと思うのは健全」
 という大臣の発言を、
「欲しいと思わないのは不健全」
  ↓
「子供がいないのは不健全」
 というふうに変換して受け止めた読み方の方がむしろどうかしている。
 こういう読み替えが許されるなら

「子犬は可愛いよね」
 ↓
「人間の子供は可愛くないとおっしゃるのですね」

「人間は健康第一ですよ」
 ↓
「病気で苦しんでいる人間は、生きている価値が無いというのか」

「学生の本分は勉強だと思う」
 ↓
「クラブ活動や文化祭は不必要だから廃止しろと言うのか」

「さすがは直木賞作家」
 ↓
「つまり、オダジマの文章は無価値だと?」
  
 みたいな「言いがかり」クオリティーの言論リンチが可能になっていまう。っていうか、これ、夫婦ゲンカレベルだよね。「夕食の時間に帰って来れないということは、アタシの料理が食べたくないっていうことで、それはつまり、もうアタシのことを愛してないっていうことなの?」みたいな。いや、新婚さんの口論ならそれはそれでほほえましくて良いです。でも、国会でこういうのはねえ。「子供がいない夫婦は不健全ということになりますよね」(byレンホー)だなんて、ばかばかしくて開いた口が差し歯でピカピカですよ。

 私自身は、子供を持ちたくないと思う夫婦がいてもかまわないと考えているし、結婚を望まない若者が増えているらしいことについても、まったく心配していない。好きにすれば良いと思っている。もう少し利口そうな言い方をするなら、「若い人たちが子供を持ちたいと考えるのかどうかは、彼らの自由であって、国家が介入すべき事柄ではない」と考えている次第だ。
 が、だからといって、少子化傾向に歯止めをかけるためのPR活動を期待されている立場の大臣が、「産めよ増やせよ」を強調したがることを責めようとは思わない。だって、そういうお役目なんだから。
 強いて言うなら、「健全」みたいな言葉を選ぶセンスが、いかにもバカだとは思う。でも、センスの無いオヤジだと、そう言えば良いことであって、なにも辞任を要求したり、差別を糾弾する筋合いの話ではない。

 それから、念のために言っておくけど、私は自民党支持者ではない。
 安倍政権にはぜひ倒れてほしいと思っている。
 なのに、野党の皆さんは、そんなアンチ安倍のオダジマに、政権擁護のテキストを書かせている。
 バカな人たちだ。
 この程度の揚げ足取りで大臣のクビを獲ろうとしている野党に、政権をまかせたいと、誰が思うだろう。
 まったく。

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2007/02/02

ひとりインフルエンザ

 風邪。
 発病は日曜日。
 月曜と火曜は喉の痛みと発熱。ひたすら寝る。
 水曜日になって発熱はおさまるものの、喉の荒れと咳がなかなか消えない。
 というわけで、約束を一件忘れる。
 恩のある人との10年ぶりの会合だったのだが、日付を間違えて見事にすっぽかす。
 気づいたのは今朝。あわててメールを打つ。平身低頭。
 その間にも仕事。
 原稿を産む機械(笑)。
 なーんて、そんなにシャレたものではありませんがね。

 サカ雲のアマゾン順位が低下傾向に入ってきたので、テコ入れに見本原稿をアップしてみます。
 とりあえず、ジダンの原稿などを。

 ジダンの頭頂部が禿げているのは偶然ではない。現代サッカーの頂点に広がる不毛を物語る暗喩だ。つまり、このジネディーヌ・ジダンというシャイな青年が王として君臨しているところにモダンフットボールの不幸があるということを、私は言おうとしている。ついでに申せば、ジダンに地団駄を踏ませた日清の罪は深い。ヤカンをヘディングさせた演出ともども。
 その昔、サッカー選手は治外法権だった。ボールをエレガントに扱うことのできる男は、芝の外でどんなに放埓であってもかまわなかった。
 リバプールではすべてのパブにジョージ・ベスト名のボトルがキープしてあり、ボトルのおまけには金髪娘がついていた。もちろん二日酔いで練習場に現れるこの長髪の伊達男を非難する人間は一人もいなかった。
「ヘイ、ジョージ。ゆんべの女はどうだった?」
 と、ファンが声をかけるとジョージは答えたものだ。
「チェルシーのディフェンスみたいにユルユルだったぜ」
 のみならず、二十年前のフットボール選手は、ゲームがおこなわれている芝の上にあってなお独善を貫く権利を有していた。
 たとえば、キング・ペレが守備をしただろうか? マラドーナはオーバーラップしてくるウィンガーのためにスペースを作る無駄走りをしただろうか?
 しない。
 あるいは、王者カントナはオーナーの誕生日にバラの花を贈っただろうか?
 贈らない。覚えてさえいない。
 つまり、彼らは自分の本能にまかせてフットボールをしていたのであり、その本能の輝きこそが彼らの天才であったのだ。しかも彼らの独善はそのままサッカーの美であり、そのエゴはフットボールの豊饒であった。
 ジダンはどうだろう?
 彼は守備をする。せっせとスペースを埋め、時にはファーサイドに上げられたクロスに合わせてニアでつぶれ役になる。
「自陣ペナルティーエリアでクリアをしてるようなヤツはエースとは言えない」
 と、1970年代のサッカーファンならそう言うだろう。しかし、ジダンはそれをする。敵フリーキックの時には金玉位置に両手を添えて壁にまでなる。
 そう、21世紀のサッカーではベストプレイヤーでさえ王様ではいられない。いや、騎士の地位さえあやしい。現代のサッカー選手は、年収数十億円の走る宝石も含めて、全員が一人残らず、しがない労働者なのだ。
 スタジアムの外に出たジズーはどうだろう?
 彼は奔放だろうか?
 放埓だろうか?
 せめて豪放磊落ぐらいではあってくれるだろうか?
 全然違う。彼はシャイで考え深く、寡黙で微温的で、慎重でオヤジくさい。さらに言えば大の愛妻家で、いくぶん恐妻家ですらある。もちろん女たらしなんかでは全然ないし、大酒のみでもなければ寝小便たれでもない。
 つまり、小物なのだな、男としては。どっちかって言えばオレの方が大物だもんな。
 いや、私ごとは措くとして、ともあれ、ジョージ・ベストはアル中のオヤジに成り果てた。われらがディエゴの余生もたぶんそんなに長くない。そしてこれらのことをジダンは知っている。そうだよ、ジズー。王には老後が無い。あるのは断頭台だけだ。うん。だけど、老後なんかどうでもいいじゃないか。な。だから税理士なんて言うなよ。ヒデもさ。
 2058年に書かれるジダンの自叙伝「ジダンが自伝だ」(仮題)の冒頭の一行は、たぶん、こんなふうにはじめられる。
「私のピークは空虚だった」
 私はこんな本を読みたいとは思わない。
 だとしたら、こんな本を書かないために、ジダンは、ぜひ自分を解放せねばならない。
ジズーよ。キミは王だ。黄金のエゴを持った本物の天才だ。王様らしく好き放題にやれよ。な。
 手始めに……
 そうだな、まず、女房を殴れ。
(以上、「サッカーの上の雲」 P257~259 初出:「ワールドカップ切り捨て御免」・宝島社2002年5月2日、より)

 ところで、この原稿のオチの、「まず、女房を殴れ」は、これは、マズいね。シャレになっていない。ヘタするとライター辞任につながりかねない。増刷分では訂正しよう。
 以下、訂正案

  • そうだな、たとえば、マテラッティあたりに頭突きを食らわすってのはどうだ?
  • そうだな、まず手始めに、買い物の時、嫁さんの荷物を持つ任務を拒否してみてくれ。

 うーん。どちらもいまひとつ弱い。やっぱり差別と人権侵害を禁じ手にされると、コラム屋稼業はあがったり、と、そういうことなんだろうか。

 寝よう。
 じゃなかった。仕事仕事。ゴホッゴホッ(←咳)。

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