« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006/10/20

マイ・リトル・ピョンヤン

 原稿が渋滞気味。うん。わかっている。ブログなんか更新している陽気ではない。
 でもまあ、ちょっと気分転換ということで。

 久々に「マイ・リトル・タウン」(サイモン&ガーファンクル)を聴く。

3番の歌詞を聴いていて、突然キム同志の顔が浮かんだ。

In my little town
I never meant nothin'
I was just my fathers son
Saving my money
Dreaming of glory
Twitching like a finger
On the trigger of a gun

ぼくの小さな町では
ぼくは何者でもなかった
ただオヤジの息子というだけの存在
小遣いを貯め
栄光を夢見て
引き金にかけた指みたいなぐあいに
全身をこわばらせていた

 うん。キム同志そのものだな。
 サビの歌詞もぴったり。

Leaving nothing but the dead and dying
Back in my little town

死者と死にかけの者しかいない、ぼくのちっぽけな町

 まるでキムさんの王国そのまんまだ。

 あんまり素晴らしいんで、ついでに一番と二番も掲載しよう。
 もちろん、著作権がポールサイモンにあることは承知している。
 が、歌の肖像権はキム将軍に所属している。
 そして、引用権は世界中のあらゆる詩人の魂のうちにあらかじめ分かち与えられている。
 というわけで、ジャスラックの出る幕は無い。
 ポール・サイモン フューチャリング・キム・ジョンイル インスパイアード・バイ・ピョンヤンタウン。

In my little town
I grew up believ--ing
God keeps his eye on us all
And he used to lean upon me
As i pledged allegiance to the wall
Lord i recall
My little town

ちっぽけな町で
ぼくは神様がすべてを見ていると信じて大きくなった
神は、まるでのしかかってくるみたいだった
壁に向かって忠誠を誓う時に
主よ ぼくは思い出す
あのちいさな町を

Coming home after school
Flying my bike past the gates
Of the factories
My mom doing the laundry
Hanging our shirts
In the dirty breeze

学校帰りに自転車を飛ばす
工場の門を行き過ぎると
母が洗濯をしている
母は、ぼくたちのシャツを
汚れた風の中で乾かしていた

And after it rains
There's a rainbow
And all of the colors are black
It's not that the colors aren't there
It's just imagin-ation they lack
Everything's the same
Back in my little town

雨があがると
真っ黒な虹が現れた
色が無かったわけじゃない
欠けていたのはイマジネーション
いつも同じ
ぼくの小さな町では
何も変わらない

Nothing but the dead and dying
Back in my little town
Nothing but the dead and dying
Back in my little town

死んだ者と死につつある者しかいない
ぼくの小さな町では

さて、仕事仕事、と。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2006/10/17

ボスの日

 午後、京橋に出動。
 C社にて打ち合わせ(←読売Weeklyの連載を単行本化するお話。乞うご期待)のため。
 ところが、先方に電話してみると、約束は明日。おい。
 で、久しぶりに都心に出てきたことだし、銀ブラ(←死語)としゃれこむ(←さらに死語)。
 ヴィトン、シャネル、カルティエ……銀座の中心部はブランド進駐軍によって再接収されつつある。
 オキュパイド・ジャパン。
 オレたちのエキゾチックな租界。
 そうだったのか、銀座の恋の物語というのは、貨幣鋳造地に展開される感情の両替行為だったのだな。

 伊東屋を覗く。
 手帳コーナーに掲示してあったPOPで、今日が「ボスの日」だということを知る。
 ボスの日

ボスの日:1958年に、アメリカのパトリシア・ベイ・ハロキスが、会社を経営していた父のために、経営者と部下の関係を円滑にする日として提唱し、アメリカ商業会議所に登録されたことが始まり。
アメリカではこの日に、ボスを昼食に招待したりプレゼントを贈ったりして日頃の労をねぎらう。
日本でも1988年からデパート業界が実施している。 (以上、Wikipediaより)

 イヤな記念日だ。
 ボスはボスのままで良い。
 どんな日であれ、いつでもボスでいるのがボスの仕事だ。
 が、部下にとって、「ボスの日」は「踏み絵の日」になる。
 あるいは、「奴隷の日」だろうか。
 ボスへの忠誠を品定めされる試練の一日。
 ううう。

 いや、ボスも、無事では済まないかもしれない。
 というのも、このテのプレゼントがらみの慣習がわが国に本格普及すると、必ずや「お返し」のためのイベントが別途企画されることになるからだ。しかも、どうせ「倍返しが基本」ぐらいな腐れ上司の虚栄心をくすぐる感じのマニュアル付きで、だ。
 義理の発生と消費、そして相身互いの再生産。贈る側も貰う側もたいしてうれしくない、貸し借りの連鎖としての贈答スパイラル。このあたりの機微はバレンタインデーに対してホワイトデーが発明されたことで既に証明済みだ。
 プレゼントは、元来、贈りっぱなし、貰いっぱなしを旨としている。ところが、それが日本語に翻訳されて「贈答」という言葉になると、「贈」と「答」でワンセットの、どうにもがんじがらめな概念になる。
 そう。この国の人付き合いでは、貰いっぱなしは絶対に許されない。贈答無限連鎖への道。
 いやだなあ。

 伊東屋を出て有楽町近辺を歩いていると、C社O氏より電話。
「せっかくお運びいただいたので、食事でも」
 とのありがたい申し出。
 銀座三丁目でインドカレーをごちそうになりつつ、明日の打ち合わせのための予備折衝。
 ええ。「まえがき」がまだ書けてないので。

 帰路、ついでのついでに東銀座シネマパトスまで足を伸ばして、O氏おすすめの映画を見物していくことにする。
 「太陽」という変わり種の映画。
 ストーリーや設定の細かい点はともかく(っていうか、私にはよくわからなかった)、イッセー尾形の演技がとにかくみごとだった。
 エンペラーの内面に巣喰う空虚みたいなものを、この上なく効果的に演じていた。
 天皇はボスではなかった。
 じゃあ何だったのか?
 神の子?
 違うな。
 システム。
 機関だよ。
 いたましい話だ。
 人である前に、機関として機能せねばならなかった男に宿ったチック症状。
 
 現在でも同じだ。
 神格化が非人格化に変わってはいるが、基本的な路線は変わっていない。
 生身の人間を「象徴」というモビルスーツに押し込めるアクロバット演出。
 フォルマリン溶液の中のカニみたいな一族の悲劇。
 いや、比喩です。
 他意はありません。
 寝よう。
 
 

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2006/10/11

北の再チャレンジ

 北朝鮮が核ミサイルを撃ってきたらどうするのか? 
 前のエントリーのコメント欄で、北の脅威について意見を求められたように思うので、当面の考えをマジレスしておきます。

 まず「北朝鮮が核ミサイルを撃ってくる」という前提でものを考えること自体が失敗なのだ、と、私は考えています。
 だって、彼らは撃ってこないから。

 「核兵器を保有する」ことと、「核兵器を使う」ことは、まったく別の話です。
 というのも、核兵器は、「使わないこと」によって、その効力を発揮する逆説的な兵器だからです。
 北朝鮮の立場に立って考えてみると、彼らは、核兵器を保有することによって、一定の利益を確保しています。
 第一に、周辺諸国を恫喝できるという利益。
 第二に、核兵器で商売ができるという利益。
 もちろん、核兵器を持つことによる不利益は、これらとは別に、たっぷりと存在しているわけで、この先、キムさんのところはそれらの不利益に見舞われ続けるわけですが、それはまた別の話です。

 さて、北朝鮮が、その核ミサイルを実際に使用することで、彼らは、何らかの利益を得るでしょうか?
 ゼロです。まったく、何のメリットも期待できません。
 それどころか、国際社会の現状を見るに、核兵器の先制使用は(ことに北朝鮮のような貧乏独裁国家にとっては)国家崩壊への引き金にしかならないでしょう。
 だから、キムさんは撃ってこない。
 それゆえ、核ミサイルが飛んでくるリスクについては考慮しなくともよろしい。
 北のブラフに過剰反応して、国論を二分させたり、国防政策を見直したりするのは、それこそテキの思うツボです。

 たとえば、北の核に対抗して、この先、日本が軍備を増強したり、極端な話、核武装への道を歩むのであるとすれば、わが国の周辺状況は、かえって危険なものになるはずです。
 なぜなら、日本の再軍備は、極東アジアに現存している北朝鮮をはじめとする神経症的な反日国家に、先制攻撃の口実を与えるからです。
 というわけで、圧倒的な軍事的優位(←平たく言えば米軍並みの装備)を確保するのでない限り、軍備の増強はわが国の国防にとって、むしろリスクを高める要因になります。
 核保有国の隣国としての適正な軍事バランス?
 そんなバランスは存在しません。
 でなくても、軍備増強は、経済的なコストや人的なコストからしても、到底ペイしません。

 ……とはいうものの、「どうせミサイルなんか撃ってこないから、それについては考えないよ」という前提は、これはこれで、無責任な前提ではあります。
 実際問題、北朝鮮は、核ミサイルで先制攻撃することによるメリットなんかまるで無くても、それでもなおミサイルを撃ってくる狂った国家であるかもしれないからです。そういう狂気にとらわれた国家(ないしは指導者)の行動パターンは、通常のコスト対リスクを基礎とした分析からは読み取れないのかもしれません。
 そう。
 基地の外の刃物。
 制御不能ですね。
 とすると、ヤケを起こした銀行強盗が、一文の得にもならない殺人を犯すみたいな筋道で、彼らはミサイルを撃ってくるかもしれない。

 としたら、どうするのでしょう?
 実際に、撃ってきたら……これは防ぎようがありません。
 MD構想は、あれは絵に描いた鳥もちです。木に止まった蝉ぐらいなら捕獲できるかもしれませんが、空を飛ぶ鳥(←しかも群れをなして飛んで来る)に対しては為す術がないでしょう。

 われわれの文明社会は、古来、数百年に一度起こる火山の噴火や、黙示録レベルの洪水災害に対しては、「祈る」という対応で間に合わせてきました。
 つまり、より具体的に述べるなら、リスク回避にかかるコストの莫大さと、そのリスクが生じる確率の低さを天秤にかけて、計算が合わないようなら、あきらめるということです。
 窓から飛行機が飛び込んでくるリスクに備えてビルを設計していたら、3LDKのマンションが5億円みたいなことになってしまいます。タクママモルみたいな通り魔の襲来に備えて、登下校の子供たちにナイフを携行させると、おそらく今度は子供たち同士の刃傷沙汰が激増する、と、そういうバランスを考えて……

 以上、くどくどと述べてまいりましたが、要は、北の核への対応は、「撃たれたらどうするのか」という軍事上の問題として対応するよりは、「いかにして撃たせないか」「どうやって核兵器を放棄させるか」という外交上の課題として処理すべきだ、と、そういうことですね。
 月並みな結論ですが。 

| | コメント (69) | トラックバック (4)

2006/10/09

Radioactive

Kim2
ふたたびキムさんです。

 Scatterbrain(←頭の散漫な人,気の散る人,そわそわした人)という単語にあんまりぴったりだと思ったものですから。
 Scatterは、「ふりまく」「まき散らす」ですから、Scatterbrainは、直訳では「散り散りな脳味噌」「四散人格」「ぶちまけ脳」ぐらいになります。いるよね、そういう人って。

 デスパレートなつまはじき
 
 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

遊び人のキムさん

Kim1009
キムさんです。

核実験「安全に成功裏に実行」 平壌放送

http://symy.jp/?pij

やっちゃいましたね。

まさに
キムちゃんのどーんとやってみよう!
です。
 ……いえ、これは私のオリジナルではありません。
 古い友人である植木不等式氏のネタです。

 虚勢と恫喝。
 亀田一家とカブります。
 有効な対応策はただひとつ。
 相手にしないこと。
 つまり、マトモに対応しないことが、唯一の対応策だということです。
 この先、キムさんの煽りに乗っかる形で、憲法改正および再軍備に道をつけようとする動きが出てくる気がします。
 面倒な話です。

| | コメント (24) | トラックバック (0)

2006/10/08

千葉戦

2006 J1 第26節 浦和レッズVSジェフ千葉

 埼玉スタジアムにて生観戦。
 秋晴れ。
 日本晴れ、ではない。
 第一、日本らしい天気は晴れじゃない。
 わたくしどもの国土にふさわしい空模様があるのだとすれば、おそらくそれは、梅雨時の、いまにも降り出しそうな、湿っぽい空になるはずだと思う。ビニールハウスの脇に広がる休耕田から見上げるつゆぐもりの空。実らなかった初恋の思い出。頬を濡らすなまぬるい一滴。日本降り。美しい国へ。ってつまり、陰翳礼賛ってことになるが、オレはイヤだな。醜くても豊かな国がいい。
 本日の天気は、強いて言うならカリフォルニアっぽかった。加州晴れ。

  • スタメンはワシントンの1トップ。3バックは左からネネ、闘莉王、堀之内。MF陣は、右に平川、左アレックス、ボランチ鈴木啓太&長谷部。前目のMFにポンテ&山田。GKは山岸。
  • 闘莉王の出場に驚く。
  • 伸二はまだ本当じゃないんだろうか? やっぱり足首? 昨晩のGGRでは、サテライトでゴールを決めている映像が紹介されていたのだが……
  • 前半15分:ワシントンが倒されてPK。スタンド(バック側アッパー席、ジェフゴール寄り)から見た感じでは、シミュレーションっぽく見えた。スタジアムではリプレイ無し。なぜだ。家に帰ってからビデオで確認すると、ジェフの結城君がワシントンの脇腹をモロに蹴っている(←まあ、ボールに届かなかったということかもしれないが)。一発レッドはちょっとかわいそうだったかもしれない。
  • 後半、ジェフに攻め込まれる。
  • 後半13分:山田のクロスに合わせたのは、なんと闘莉王。どうしてそこに?
  • というわけで、2点リードするものの、最後まで攻められ気味。まあ、最近勝つゲームはこんなふうに押され気味の展開が多いわけで、これでオッケーなのかもしれないが。
  • 後半40分過ぎに小野伸二登場。ファンサービスだろうか? ともあれ、よく動いていた。回復を祈る。

061007reds
帰り道に埼スタ前で撮った日没。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/10/02

ライク・ア・ローリングストーン

 "Sitting On A Fence"(by Rolling Stones)を聴く。おおお、こういう、「中学生時代にカブれてました」みたいな歌に突然出くわすのがipodの油断ならぬところで、しかも、その「シッティング・オン・ア・フェンス」が、明治通りの高田馬場あたりを流しているタイミングで、いきなり鳴るわけだから当方としてはひとたまりもない。そのまま他愛もなく14歳にタイムスリップだ。やけっぱちの諦観で身を固めた、自我狂の中学二年生。殴りに行きたいなあ。
 解説する。
 たいした歌ではない。
 ストーンズのナンバーとしては、おそらく異端で、コアなファンはおそらくバカにしているはずの曲だ。なにしろ、曲調がまったくの軟弱フォークだから。アレンジも生ギター2本だけだし。およそストーンズらしくない。
 でも、歌詞が良いのだな。特に先行きの定まらぬミドルティーンにとっては。

All of my friends at school grew up and
Settled down
And they mortgaged up their lives
One things not said too much, but i think
It's true
They just get married cause there's nothing
Else to do, so

I'm just sittin' on a fence
You can say i got no sense
Trying to make up my mind
Really is too horrifying
So i'm sittin on a fence

学校時代の友達は、みんな一人前になって落ち着いている。
連中は、人生を丸ごと抵当に入れてしまったんだ。
誰もが言うことじゃないが、これは本当ことだ――つまり、人は、ほかにやることがないから結婚するってことは。
だから、オレは、塀の上に座っている。
オレをバカだと言うのは簡単だ。
でも、どちらの側に降りるのか、そいつを決めるのは、本当にぞっとするようなことだ。
だから、オレは、塀の上から世界を見ている。

 ……と、ここに描かれているのは何だろう。
 モラトリアムの状態にある人間の困惑だろうか。
 あるいは、一種の愚民蔑視だろうか?

 いずれにしても、ローリングストーンズを魅力的たらしめていた背景のうちには、こうした、「オレは落ち着かないぞ」という宣言みたいなものがあった。遺憾ながら。
 いつだったか「ニュース23」の中で、筑紫哲也がミックジャガーについて「永遠の不良少年」という言い方をしたことがあって、それを聞いた時に、猛烈にムカついたことを思い出す。
 私が憤った理由は、筑紫翁の発言が的はずれだったからではない。
 むしろ、大当たりだったからだ。よりにもよって、ティーンエイジャーの不良願望について語る資格を持たない人間の筆頭に位置している存在である筑紫翁が、もののみごとにストーンズの本質を、しかも陳腐極まりない表現で言い当てていたことが、私の痛いところを突いたのだ。
「つまり、アレだろ? 悪い子ぶりたかったんだろ?」
 と。ううう。

 「ローリングストーンズ」という名前がそもそも挑発的だ。
 伝説によれば、この名称は、マディ・ウォーターズの曲名からいただいたものなのだそうだが、含意としては「A rolling stone gathers no moss」を意識しているはずだ。
 辞書を引くと、「A rolling stone gathers no moss」は、「転がる石に苔は生えない」ということから転じて「職業を転々とする人間は貯金ができない」「絶えず恋人を替えている人は真の愛が得られない[結婚できない]」ぐらいの意味をこめて使われることわざだということになっている。また、アメリカでは「絶えず活動している人はいつも清新だ」というニュアンスで使われるとも。が、この成句は、ストーンズ的なニュアンスで翻訳すると、「おい、オレらはsettle downしないんだぜ」ぐらいのアジテーションになる。定住しない、腰を落ち着けない、成熟しない、そういう生き方。すなわち、ぶらぶら者、ならず者、はみ出し者としての覚悟、ないしは宣言、だ。
 いずれにしても、ティーンエイジャーだった頃に、このテのものにカブれていたということは、これはかなり深刻にこっぱずかしい事態だ。私の場合は、引き続き二十代の大半もカブれたままで過ごしてしまったわけだから、なおのことだ。ええ、「オレは一生ブラブラしてやるぞ」「ライク・ア・ローリング・ストーンだぞ」と、そういう、手に負えない否定的不定の決意でもって、人間としての伸び盛りの時間を、まるごと怠け通してしまったわけです。ええ、私が悪うございました。
 ついでに申せば、君が代という歌に対する屈折も、この時代からのものだ。
 「ローリングストーン」を、「苔・すなわち世間の義理を拒否する生き方」と解釈するアタマの持ち主にとって、さざれ石に苔を生じせしめんとする歌である君が代は、その正反対な生き方(具体的には、「挺身」ということ)への賛歌として響く。
 つまり、君が代の中で歌われている「さざれ石」は、転がらない、定住志向の、前例踏襲型の、保守一辺倒の鉄血の一石である、と、そのように見なさねばならない。とすると、この歌のうちで想定されている石(→「とよあしはらみずほの国のくにもとを支える民草たち」)は、一粒一粒は見栄えのしないさざれ石ではあっても、石原全体としては盤石な、決して転がらない、牢固とした、万古不変の、堅忍不抜の、一徹な、しかも、横並び志向で、集団主義的で、一致団結を旨とする、リアルムラ社会オリエンテッドな、巌(イワオ)の如きカルト集団である、と、そう考えるのは、やはり考えすぎであろうか?

 うん。
 おそらく、「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」は、単に「悠久の時間」をあらわす比喩であるに過ぎないのであろう。
 でも、その苔むした岩のイメージがもたらす、なんともいえない圧迫的で静的な感じが、あたしは苦手だったわけですよ。ずっと長い間、今に至るまで。
 あれ? また君が代の話になっている。
 
 寝よう。

追伸

 はるか昔にバンドのまねごとをやらかしていた頃のお話。
 バンド名を決めるに当たって、各自がいくつかずつ原案を持ち寄った。
 私が持ちこんだうちのひとつに "The strolling ones" というのがあった。そう、"The rolling stones"のアナグラム(文字の並べ替え)。意味は「放浪者たち」ぐらいか。
 説明すると、みんな
「うーん……」
 と言ったきり黙ってしまった。
 つまり、恥ずかしかったわけだね。あんまりストーンズワナビーっぽくて。
 オレも恥ずかしかった。
 だから、すぐに引っ込めた。
「いや、ちょっと思いついたから持ち出してみただけの話でね」
 と。

 しかしまあこんな程度のことを恥ずかしがっているようではロックバンドなんかできっこないわけで、いま思えば、あそこで黙り込んでいたあたりがわれわれの限界だった、と、そういうことですね。

 寝よう。

| | コメント (14) | トラックバック (1)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »