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2006/06/24

自由

 「ブラジル戦」のエントリーに対するコメント欄で言及した、「自由」についての原稿を発見したので、再掲します。
 ハードディスク上のファイルの日付は、2001年10月15日。どこの雑誌に書いた原稿なのかは、残念ながらわかりません。まあいいや。

 例の同時多発テロ事件以来、ブッシュ大統領の支持率が90パーセントを超えている。
 うひゃあ!
 と、この場を借りてあらためて公式に驚愕の意を表明しておきたい。何度びっくりしても足りない。なにしろ90パーセントだ。黒人も白人もネイティブアメリカンもヒスパニックも東洋系もすべてひっくるめた上での、おまけにあらゆる宗教的文化的地域的階層的な違いを乗り越えての90パーセントだ。
 うげげげげ。
 この数字をどう解釈して良いのやら、正直、私は途方に暮れている。
 小泉内閣の支持率が一時期70パーセントを超えていたことについては、たいして驚かなかった。いかにもありそうな話だからだ。だって、ウチの国は金太郎飴国家なんだし。
 でも、アメリカは「多様性の国」だったんじゃないのか?
 少なくとも私はそう信じていた。そう信じていたからこそ私は、ガキの頃から、何かいやなことがある度にアメリカ移住を妄想して自らを慰めてきたのである。
「ちぇっ、こーんな狭っ苦しい国に住んでられっかよ」
 てな具合いに。
 ……いや、わかってます。現実逃避です。教師や上役が私を嫌ったのは、日本がくだらない国だったからではない。私がズルケ者だったからに過ぎない。わかっている。
 が、アメリカの多様性を信じていたのは私だけではない。ジャーナリストや文化人の先生方だって日本の不自由さや後進性を論難する時には、その対偶にアメリカの自由と多様性を想定していたはずだ。特にインテリだったり知米派だったりしないビジネスマンにしたって、たとえば部長の訓示を「いかにも日本的だよな」と批判する時には、無意識のうちにアメリカ(のフレンドリーで民主的な上司)を対置しているに違いないのだ。
 結局、空想上の移民先として人々の心にいくばくかの解放感をもたらしてきたという意味で、アメリカは、れわれのような非アメリカ人にとっても「自由の国」であったわけだ。
 そのアメリカが一枚岩になっている。しかも戦争に向かって。
 つらい事態だ。
「しょせん一時的なミーハー人気だろ」
 と考えることもできないわけではないが、ブッシュさんが議会で演説をした時に、ほぼワンセンテンスごとに嵐のようなスタンディングオベーションを起こしていたのは素人ではない。プロの政治家である議員たちだ。被災地を慰問した大統領に向かって真っ赤な顔で「USA! USA!」というコールを繰り返していたのも、ただの群集ではない。筋金入りの消防士たちである。アメリカは、マジなのである。
 「USAコール」の映像を眺めながら、私はフーリガンを思い浮かべていた。画面の中のファイアマンたちが文字通り真っ赤に燃え上がって見えたからだ。その彼らの熱狂ぶりは、熱狂的なことで知られるプレミアシップ(英国のプロサッカーリーグ)の観客やマラカナンスタジアムに集まるブラジル代表サポーターの雰囲気とまるで同じだったからだ。
「ってことは、アメリカの国技は戦争なのか?」
 と私が思ったとしても無理はあるまい。
 通常、アメリカ国民は、スポーツの国際試合にさしたる関心を示さない。サッカーはもちろん、バスケットボールの米国代表ドリームチームに対してさえ比較的冷淡な態度で臨んでいる。彼らが熱狂するのはむしろシカゴやニューヨークのホームチームに対してだ。国技と言われる野球やアメリカンフットボールでは、そもそもアメリカを脅かす外敵が存在しない。つまり、アメリカは、ことスポーツにおいては、あんまり外国を意識していないのである。というよりも、世界中のあらゆる国と地域から移民を集め、自国内にワールドシリーズを持ち、自国民同士でスーパーボールを行っているあの国は、ある意味で世界を包摂しているのだ。
 とすれば、その「世界よりも大きい」国であるアメリカが、外敵を意識する機会は、戦争の時に限られるはずだ。なるほど。まさに国技だな。で、米国代表チームは軍隊。うん。立派な国だぜ。
 ブッシュ大統領はこのたびの同時多発テロ事件について
「アメリカの自由そのものが束縛された」
 という意味のことを繰り返し述べている。
 これがわからない。
「威信が傷つけられた」とか「安全が脅かされた」と言うのならそれはその通りだが、テロの何が一体「自由」に関係しているんだろう?
 辞書通りの意味で「自由」を考えている限り、答えは絶対にわからない。
 というのも、アメリカの言う「自由」とは、「覇権」のことだからだ。
 ブッシュの演説の中の「自由」(フリーダム)をそのまま「覇権」(ヘゲモニー)に置き換えてみると筋の通った演説になる。いやもちろんアジ演説だけど。
 カールマルクスは「共産党宣言」の中でこう言っている。
「自由とはなによりも権力だ」
 うむ、さすがは資本主義研究の専門家だ。確かにこの世の中で他人の顔色をうかがったりせずに十全な自由意思を体現できるのは、自前の権力を持っている人間だけだ。
 たとえば、課長は部長の前に出ると自由を失い、部長は部長で、重役会の末席に連なった瞬間に部内での自由を失って、みごとな下っ端になってしまう。つまり、人が自由でいられる範囲は、その人間の権力が波及している範囲にほかならないわけだ。
 ってことは、アメリカの言う「自由主義陣営」というのは、「アメリカ人の自由に協力するための陣営」のことなんだろうか?
 なあ、教えてくれよ、ジョージ。
 オレたちはパシリなのか?

 「自由」は、簡単な概念ではない。
 というよりも、特にわが国において「自由」は、猛烈に曖昧なぬえの如きお題目なのであって、使う人間がよほど注意して意味を限定していかないと、「自由な」解釈に晒されて、必ずや無効化することになる
 ジーコとて、宣言するだけで「自由」が手に入ると信じ込んでいたわけではないと思う。
 でも、彼の言う「自由」には、「戦術の放棄」と解釈されても仕方のない側面があった。とすればそれは監督業という仕事の自己否定ではないか。

「決まり切った戦術は相手に裏をかかれた場合に致命的な結果を招く」
「指示通りに動くだけではサッカーはできない」
 というお話を、ジーコは繰り返したし、川淵さんあたりも二言目には「自由」という言葉を使って、個々の選手の戦術的深化を促していた。「自分のアタマで考えないと」と。
 しかし、チーム戦術は、個々のプレーヤーからプレイ選択の自由を制限するために考案されたものではない。選手から思考の機会を奪うために存在するものでもない。

 局面局面での「戦術的強制」は個々のプレーヤーに対して、一時的には「自由の束縛」として立ちはだかる。
 しかし、「チームの自由」(←すなわち、ピッチにおける優位性)を確保するためには、最低限の「戦術」が不可欠であるのがモダンサッカーの現実でもある。
 ここらあたりのややこしい現実を、一度でもジーコは言葉で説明しただろうか。
 あるいは、ジーコのアタマの中には、確固たる答えがあったのかもしれないが、それだけでは足りない。なぜなら、監督というのは、あらゆる問題に対する解答とその実現方法を、言葉(そして具体的なトレーニング方法)で伝えなければならない商売だからだ。

 長くなってしまった。
 もうおしまいにする。

 サッカーバブルは崩壊しつつある。
 関わっていた雑誌が、またひとつ消えることになった。
 そんなわけで、一時期は月に4本を数えていたサッカー関連の連載が、すべて消滅することになった。
 協会を揶揄する発言が多かったからだとは思わない。
 まあ、潮時だ。
 
 寝るよ。

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コメント

初めまして。
この原稿の初出は、このアドレスだったと思います。
http://nk-money.topica.ne.jp/odajima/odajima9.html

「アメリカの国技=戦争」説がとてもおもしろかったので、URLと内容を手元にメモしてありました。(残念ながらInternet Archiveにも保存されていないようです。)ご参考までに……。

投稿: studiotan | 2006/06/24 02:19

自由とは「オレの若い頃そのもの」
だったのでしょうね、ジーコにとっては。
俺になれナカムラ、カレカになれタハハラ。
ファルカンになれナカタ。
そうすれば自由になれる、と。

アメリカの国技=戦争、は面白いですね。
W杯が盛り上がったのが94アメリカ大会から。
戦後日本はアメリカのようになりたかった。
だから他国を気にせずGNPの伸びと巨人阪神大相撲
高校野球で満足し、五輪で国際大会を経験した
気になっていた。
でもバブル崩壊で日本はアメリカになれない事を
悟り、この地球にある二つの世界のうち
アメリカとそれ以外の「それ以外」に属することを覚悟したのだと思う。無意識のうちに。
そして「それ以外」の国々のプロトコルは
サッカーであり、ようやくPORTを解放した
わけで。にしてはなかなか成長の度合いは
良いと思うが。

投稿: slider | 2006/06/24 06:35

今、韓国代表の一次リーグ敗退が決まりました。
でも、胸をはって帰れます。
明日への希望があります。
(生命保険のCM?)

さて日本サッカーのバブルが弾けて
バレーボールのように堕落してしまうのでしょうか。

ところでスティーヴィー・ワンダーは好きな
ミュージシャンのひとりですが、サッカー
が見えているのかしら。視覚障害者用の
サッカーがあるので見える手段があるでしょう。
深夜テレビで若い時のスティーヴィー・ワンダー
の映像を見ました。

投稿: 桃太郎侍 | 2006/06/24 06:57

 はじめまして。僕はジーコを応援してきましたし、信じてきました。監督の評価は結果であり、今回の結果では、無能だったとしか言えません。
ただ、自由と約束事というのは今までも散々語られてきたことです。矛盾はしませんし、これからもジーコの哲学は変わらないと思います。僕は、戦術が直接的な敗因だとは思っていません。もちろん、負け犬の言い分では、説得力がないのは承知してます。
 サッカーとは話がそれますが、自由とは権力だという考えにはピンと来ません。ただ、自由には覚悟が必要だとは確信しています。人生において、自分で考え、自分の選択を正しいと信じ、結果に対し覚悟する。たとえ、権力に敵対する行為だとしても。不謹慎かつ極端かもしれませんが、もし自分の行動で体の一部を失い、周りから不自由と思われていようと、覚悟があるならば、その人生は不自由ではないと思います。もし、権力に屈し、もう考えたくないと最も大事な自分の人生を投げてしまったら、それこそ後悔をすることになると思います。

投稿: mori | 2006/06/24 15:38

Numberのみのもんたの驚異的な「突破力」はエラい!を読ませて頂きました。笑いながら納得しました♪私はみのもんたは嫌いなんですけどね(笑)ぬるま湯の中で唾を舐め合ってる奴らなんかホントに消えちゃってほしいです。川○キャプテンだって所詮、やってることは○べツネと同じ。。テレ○の社長も二宮清○も腐った組織なんかぶっ壊れればいいのにと思いながらも、世の中そんな腐った組織ばっか。やってられません。仲間内以外はみんな排除しようとする連中ばっか。こんな世の中のどこに希望を持てと大人たちは言ってるんでしょうか?でも私たちが変えて行ければいいななんてちっぽけでも思ってます。

投稿: がっちゃん | 2006/06/24 17:58

アメリカなんて全然自由の国じゃないですよ
ちょっとハメはずしたぐらいで、逮捕されますし
人権に配慮しすぎて、人権侵害が行われています
子供を怒鳴るのは逮捕、ナンパも逮捕、セクハラも逮捕

不寛容な国ですよ

なぁなぁで済ませる日本文化の素晴らしさを認識すべきです。何事も、人権侵害がないように神経質にきわめていけば、アメリカのようになります

もっとも、ご存知のようにアメリカ人は陽気です。クラブなどで平気で初対面でふざけて蹴ったりしてきます
勿論、悪いことじゃないし何とも思いませんが、もしクレーマーな人がされたらすぐ警察呼んで、逮捕させます。
だから、どんどん逮捕者が出る。刑務所も埋まってしまいます

恐ろしい国ですよ

投稿: たかやま | 2008/09/21 20:46

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朝から困った記事を読んだ。 朝日新聞1面。中小路徹記者の署名記事である。 選手過信したジーコ監督 自主性尊重、「時期尚早」 ジーコ監督は選手を信頼し過ぎてしまった。 懸念されるのは、この4年間が否定されてしまうことだ。 組織と個人能力は対立軸ではなく....... [続きを読む]

受信: 2006/06/24 10:10

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