« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006/06/25

イビチャ師

オシム氏が就任へ-ジーコ監督の後任に (サンスポ)

Osimu

なんだか、キナ臭いニュースです。

惜しむべき 身を投ずるや 神田川 淵深くして 浮かぶ瀬は無し

 えーと、アレです。つまり、日本サッカー協会のビルのほど近くには神田川が流れているわけでありまして……

 賢慮を。ぜひ。

| | コメント (8) | トラックバック (4)

2006/06/24

コモンセンス

 ジーコの言っている「自由」は、多分に誤解されていたと思う。

http://megalodon.jp/?url=http://www.asahi.com/sports/update/0623/237.html%3fref%3drss&date=20060625063301

 この記事にある「自由」と「規律」を対立概念と受け止める見方がその代表。

自己流を ちょっと伸ばした ジーコ流

 てなところでしょうかね(笑)。ええ。アエラみたいですが。

  • こういう見方が広まる裏には、川淵キャプテン(←それにしてもこの「キャプテン」という呼称は何だったのだろう。「会長」で満足できない理由は奈辺にあったのか。今後、検証していく必要があると思う)が様々な場所で展開していた、「トルシエの規律からジーコの自由へ」式のあまりにも単純化されたストーリーが大きな力を発揮していたはずだ。
  • ジーコが選手個々人の自主的な判断を尊重したのは、もちろん、選手個人の成長を促したかったからでもあるのだろうが、もっと根本的なところで、「代表選手に選ばれるほどの選手なら、当然、フッチバルのコモンセンスを持っているはずだ」ぐらいな思いこみを抱いていたからだと思う。
  • しかし、わが代表選手が抱いていたコモンセンスは、ジャパニーズサッカーのコモンセンスであって、サンバのリズムから派生するカリオカのそれではなかった。いや、優劣の話をしているのではない。日本人のセンスや国民性を腐すための道具としてサッカーを持ち出すみたいな人たち(←ムラカミ、お前のことだぞ)がいて、話がややこしくなっているのだが、各国のサッカー選手に固有のリズムがあるのは、考えてみれば、当然のことだ。音楽は音楽、しかし、シャンソンとサンバは違う――みたいな――そういう違いが、ブラジル代表選手とわが代表選手の間にはある。それとは別に根本的なサッカー技術の優劣があるにしても、だ。
  • さて、そのジーコが想定していた「コモンセンス」とは、たとえば、「一方のサイドバックが上がったら、もう片方は下がる」とか「ボランチがボールを持ったら、前線の選手は一斉に動き出す」だとかいった戦術的合意事項から(←細かいところは違うかもしれないが、要するに、ブラジルでプロになるようなサッカー選手なら、当然「常識」として備えているはずの、フッチバルのABCみたいなもの)「ツバメが低く飛ぶ日はグラウンダーのパスが良く通る」みたいなほとんど迷信に近いガラクタに至るまでの、すべてを含んだ民族の知恵袋みたいなものだ。
  • もちろん、日本の選手だって、代表に選ばれるほどの選手なのだから、サッカーのABCは当然身につけている。ただ、「サンバのエッセンス」だとか、「ジンガー」みたいなブラジルローカルなサッカー方言については、その限りではない。踊らせてみれば一発だが、私たちの踊りは、南米の人たちとはまるで違う。
  • 一方たとえば、日本人であるわたくしたちの内奥には、「俳句のコモンセンス」がある。五七五の反復的リズムと季節感の組み合わさった、詩と哲学と美意識の複合的知識データベース……と言っても外人さんにはわからない――そういう何かだ。
  • 「4-4-2や3-5-2じゃなくて、5-7-5のシステムだったら勝てた」とか、そういう話をしているのではない。まあ、フォワードが5人ぐらい並んでいたら、そりゃ確かに強いだろうが。
  • たとえば、つかこうへいの「熱海殺人事件」だったかに、こんな場面があった。
    • 取り調べ中の刑事が、容疑者にいきなり問いかける。「目に青葉、山ほととぎす、あとを続けてみろ」「……野良仕事」「お前、アララギ派だな?」
  • このショートコントで笑うためには、俳句のコモンセンスが不可欠で、ブラジル人がこのやりとりを笑うためには、翻訳がついたとしても、やっぱり3年ぐらいの滞日経験が必要だと思う。
  • 何を言ってるんだ? オレは。
  • つまり、ブラジルサッカーにおけるコール&レスポンスは、連歌みたいなものだ、ということだ。
    センターバックがボランチに向かって「目には青葉」とボールを配球し、そのパスをボランチが「山ホトトギス」と言いながら右のサイドバックに渡す。と、ここでサイドバックのセンスが試されるわけだ。たとえば、「糠に釘」みたいなサバき方だと、まるでフットボールにならない。だって、美意識がゼロだから。

 ジーコは叫ぶ。
「ヤナギザーワよ、どうして《目に青葉、山ほとどぎす》で《睡眠不足》なんだ? そんなことじゃ詩にならないだろ? 字数さえ合っちゃいないじゃないか。キミには、リズム感が無いのか?」
「……低血糖(ボソッ)」
「誰だ? 今、模範解答をつぶやいたのは。ナカームラか?」
「朝顔につるべ取られてチアノーゼ(ボソッ)」
「……ナカームラよ。キミの句は、リズム的には完璧だ。しかし、何かが違う。どういうふうに違うのかは説明しにくいんだが……ただ、キミに才能があることだけは……

……以上、未完のまま終了。
 

はい。仕事に戻ります(笑)

| | コメント (15) | トラックバック (4)

自由

 「ブラジル戦」のエントリーに対するコメント欄で言及した、「自由」についての原稿を発見したので、再掲します。
 ハードディスク上のファイルの日付は、2001年10月15日。どこの雑誌に書いた原稿なのかは、残念ながらわかりません。まあいいや。

 例の同時多発テロ事件以来、ブッシュ大統領の支持率が90パーセントを超えている。
 うひゃあ!
 と、この場を借りてあらためて公式に驚愕の意を表明しておきたい。何度びっくりしても足りない。なにしろ90パーセントだ。黒人も白人もネイティブアメリカンもヒスパニックも東洋系もすべてひっくるめた上での、おまけにあらゆる宗教的文化的地域的階層的な違いを乗り越えての90パーセントだ。
 うげげげげ。
 この数字をどう解釈して良いのやら、正直、私は途方に暮れている。
 小泉内閣の支持率が一時期70パーセントを超えていたことについては、たいして驚かなかった。いかにもありそうな話だからだ。だって、ウチの国は金太郎飴国家なんだし。
 でも、アメリカは「多様性の国」だったんじゃないのか?
 少なくとも私はそう信じていた。そう信じていたからこそ私は、ガキの頃から、何かいやなことがある度にアメリカ移住を妄想して自らを慰めてきたのである。
「ちぇっ、こーんな狭っ苦しい国に住んでられっかよ」
 てな具合いに。
 ……いや、わかってます。現実逃避です。教師や上役が私を嫌ったのは、日本がくだらない国だったからではない。私がズルケ者だったからに過ぎない。わかっている。
 が、アメリカの多様性を信じていたのは私だけではない。ジャーナリストや文化人の先生方だって日本の不自由さや後進性を論難する時には、その対偶にアメリカの自由と多様性を想定していたはずだ。特にインテリだったり知米派だったりしないビジネスマンにしたって、たとえば部長の訓示を「いかにも日本的だよな」と批判する時には、無意識のうちにアメリカ(のフレンドリーで民主的な上司)を対置しているに違いないのだ。
 結局、空想上の移民先として人々の心にいくばくかの解放感をもたらしてきたという意味で、アメリカは、れわれのような非アメリカ人にとっても「自由の国」であったわけだ。
 そのアメリカが一枚岩になっている。しかも戦争に向かって。
 つらい事態だ。
「しょせん一時的なミーハー人気だろ」
 と考えることもできないわけではないが、ブッシュさんが議会で演説をした時に、ほぼワンセンテンスごとに嵐のようなスタンディングオベーションを起こしていたのは素人ではない。プロの政治家である議員たちだ。被災地を慰問した大統領に向かって真っ赤な顔で「USA! USA!」というコールを繰り返していたのも、ただの群集ではない。筋金入りの消防士たちである。アメリカは、マジなのである。
 「USAコール」の映像を眺めながら、私はフーリガンを思い浮かべていた。画面の中のファイアマンたちが文字通り真っ赤に燃え上がって見えたからだ。その彼らの熱狂ぶりは、熱狂的なことで知られるプレミアシップ(英国のプロサッカーリーグ)の観客やマラカナンスタジアムに集まるブラジル代表サポーターの雰囲気とまるで同じだったからだ。
「ってことは、アメリカの国技は戦争なのか?」
 と私が思ったとしても無理はあるまい。
 通常、アメリカ国民は、スポーツの国際試合にさしたる関心を示さない。サッカーはもちろん、バスケットボールの米国代表ドリームチームに対してさえ比較的冷淡な態度で臨んでいる。彼らが熱狂するのはむしろシカゴやニューヨークのホームチームに対してだ。国技と言われる野球やアメリカンフットボールでは、そもそもアメリカを脅かす外敵が存在しない。つまり、アメリカは、ことスポーツにおいては、あんまり外国を意識していないのである。というよりも、世界中のあらゆる国と地域から移民を集め、自国内にワールドシリーズを持ち、自国民同士でスーパーボールを行っているあの国は、ある意味で世界を包摂しているのだ。
 とすれば、その「世界よりも大きい」国であるアメリカが、外敵を意識する機会は、戦争の時に限られるはずだ。なるほど。まさに国技だな。で、米国代表チームは軍隊。うん。立派な国だぜ。
 ブッシュ大統領はこのたびの同時多発テロ事件について
「アメリカの自由そのものが束縛された」
 という意味のことを繰り返し述べている。
 これがわからない。
「威信が傷つけられた」とか「安全が脅かされた」と言うのならそれはその通りだが、テロの何が一体「自由」に関係しているんだろう?
 辞書通りの意味で「自由」を考えている限り、答えは絶対にわからない。
 というのも、アメリカの言う「自由」とは、「覇権」のことだからだ。
 ブッシュの演説の中の「自由」(フリーダム)をそのまま「覇権」(ヘゲモニー)に置き換えてみると筋の通った演説になる。いやもちろんアジ演説だけど。
 カールマルクスは「共産党宣言」の中でこう言っている。
「自由とはなによりも権力だ」
 うむ、さすがは資本主義研究の専門家だ。確かにこの世の中で他人の顔色をうかがったりせずに十全な自由意思を体現できるのは、自前の権力を持っている人間だけだ。
 たとえば、課長は部長の前に出ると自由を失い、部長は部長で、重役会の末席に連なった瞬間に部内での自由を失って、みごとな下っ端になってしまう。つまり、人が自由でいられる範囲は、その人間の権力が波及している範囲にほかならないわけだ。
 ってことは、アメリカの言う「自由主義陣営」というのは、「アメリカ人の自由に協力するための陣営」のことなんだろうか?
 なあ、教えてくれよ、ジョージ。
 オレたちはパシリなのか?

 「自由」は、簡単な概念ではない。
 というよりも、特にわが国において「自由」は、猛烈に曖昧なぬえの如きお題目なのであって、使う人間がよほど注意して意味を限定していかないと、「自由な」解釈に晒されて、必ずや無効化することになる
 ジーコとて、宣言するだけで「自由」が手に入ると信じ込んでいたわけではないと思う。
 でも、彼の言う「自由」には、「戦術の放棄」と解釈されても仕方のない側面があった。とすればそれは監督業という仕事の自己否定ではないか。

「決まり切った戦術は相手に裏をかかれた場合に致命的な結果を招く」
「指示通りに動くだけではサッカーはできない」
 というお話を、ジーコは繰り返したし、川淵さんあたりも二言目には「自由」という言葉を使って、個々の選手の戦術的深化を促していた。「自分のアタマで考えないと」と。
 しかし、チーム戦術は、個々のプレーヤーからプレイ選択の自由を制限するために考案されたものではない。選手から思考の機会を奪うために存在するものでもない。

 局面局面での「戦術的強制」は個々のプレーヤーに対して、一時的には「自由の束縛」として立ちはだかる。
 しかし、「チームの自由」(←すなわち、ピッチにおける優位性)を確保するためには、最低限の「戦術」が不可欠であるのがモダンサッカーの現実でもある。
 ここらあたりのややこしい現実を、一度でもジーコは言葉で説明しただろうか。
 あるいは、ジーコのアタマの中には、確固たる答えがあったのかもしれないが、それだけでは足りない。なぜなら、監督というのは、あらゆる問題に対する解答とその実現方法を、言葉(そして具体的なトレーニング方法)で伝えなければならない商売だからだ。

 長くなってしまった。
 もうおしまいにする。

 サッカーバブルは崩壊しつつある。
 関わっていた雑誌が、またひとつ消えることになった。
 そんなわけで、一時期は月に4本を数えていたサッカー関連の連載が、すべて消滅することになった。
 協会を揶揄する発言が多かったからだとは思わない。
 まあ、潮時だ。
 
 寝るよ。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006/06/23

フューチャー・パラダイス

  • さきほどのエントリーで、ブラジル戦の後半が「時間つぶしのパスによる天上の無時間」であった旨を指摘した(うそ)。
  • ついでに、スティーヴィー・ワンダー師の「パスタイム・パラダイス」(←遊戯の極楽)が、ブラジリアンのうちにあるフッチバルの精神を歌った歌であることも明らかにしたのであるが、
  • いま、ざっと二番の歌詞を見ていて、それが日本サッカーについての黙示的な言及である点に気づいたので、報告しておく。

They've been spending most their lives
Living in a future paradise
They've been spending most their lives
Living in a future paradise
They've been looking in their minds
For the day that sorrows gone from time
They keep telling of the day
When the Savior of love will come to stay

彼らの生涯は、将来の天国を夢見ているうちに、空しく過ぎ去っていく
悲しみの過ぎ去る日を待ちこがれ
日がな救世主降臨の到来を語り合っている、哀れな子羊たち

ううう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ブラジル戦

2006W杯 一次リーグF組 日本代表VSブラジル代表

 あんまり悔しくないのは、気持ちが切れてるからなのだろう。
 後半20分過ぎから後は、ブラジル側もパスタイムのパスばっかり。
 そういえば、スティービーワンダーに「パスタイム・パラダイス」っていう歌があったなあ、と、そんなことを考えながら漫然と画面を見ていた。

They've been spending most their lives
Living in a pastime paradise

ブラジル人は試合の大部分をパス回しの天国で過ごす。

 なるほどな。たしかに、試合の終盤は、完全なパラダイスだった。

 They've been wasting most their time
Glorifying days long gone behind
They've been wasting most their days
In remembrance of ignorance oldest praise

そしてまた彼らは、過ぎ去ったペレの日々を賛美し、古き良き無垢なる黄金の中盤の時代を懐かしむことで、生涯の大半を空費するのである。

 スティービーがサッカー通だったとは。いや、勉強になった。

 ジーコには、リアルをありがとうと言っておく。
 ついでに、さようならを言わせてくれ。
 バイバイ、茨城県の恩人。
 別れるべき時が来た。
 なあに、さびしいのはしばらくの間だけだ。
 ふるさとでは、丘の上でワントップのキリストが手を広げて待っている。
 国に帰ったら、地球の裏側で過ごした幾年間かの出来事については、もう思い出さないでくれ。
 オレも忘れる。
 

| | コメント (9) | トラックバック (2)

2006/06/21

メアド

 シェアウェアを購入。
 いつまでたっても購入成立のメールが来ない。
 ん? と思って受信ボックスを覗いてみると、解除キーの書かれたメールが「迷惑メール」に分類されている。

 そうか、ついにこういうものまで疑うようになっていたのか。
 急に心配になって、このひと月ほどの「迷惑メール」をざっと見てみる(約50通×30日=約1500通。ううう、死ぬ)。
 非常に重要な私信1通と、仕事関連のメールが2件見つかる。
 うん。もうso-netのメアドはダメだな。
 使いモノにならない。
 だって、毎日毎日50通もの迷惑メールのヤマをかきわけて、有意メールを拾い出すなんていう作業は、続行できっこないし。

 一ヶ月以上前のアドレスは、かき分ける気持ちになれません。

 というわけですので、小田嶋のso-netのアドレスtodajima@wa2.so-net.ne.jp
 にメールを送ったけど返事が来ないぞ、という方がおられましたら、niftyのアドレスに送り直してみてください。お願いします。ついでにごめんなさい。念のために以下に記載します。
 t_odajima@nifty.com  ←このままコピペする場合には、@アットマークを半角@に打ち直してください。モロな形でメールアドレスを晒すと、メアド収集ロボットの餌食になりそうな気がするんで。
 以上、業務連絡でした。
 W杯?
 はて? 何のお話でしょうか? 
 最近、物忘れが激しくて……

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/06/19

フシアナトラップ

対クロアチア代表戦は、論評する気持ちになれません。
イラストを掲載しますので、これでごかんべんください。

Zi02

 目が節穴みたいに見えるのは、あなたの目が偏見で曇っているからです。
 

| | コメント (18) | トラックバック (1)

2006/06/13

シオマネキ

更新が遅れました。
放心しておったものですから。

あるいは、身分不相応な攻撃志向が死を招いたのではなかろうかと……
デカ過ぎるハサミみたいな無駄に華麗な中盤が、重荷に……
そう。豆粒大のカニの分際で肩幅よりデカいハサミを装備したら、走れなくなるのがものの道理で……

Siomane01

ええ、思いつきですよ。
っていうか、真面目に分析する気持ちになれないんです。
がっくりし過ぎてて。

ただ、これだけは言っておきたい。

  • 日本人の国民性(←農耕民族がどうしたとか、個性がどうだとか)を云々するお話って、あまりにも凡庸ですよね。
  • でなくても、国民性に敗因を求める議論は、卑怯だと思います。
  • それとは別に、一部の論者の口吻に見え隠れしている国民性を叱る態度は、ありゃ、あんまり高飛車で見ていられません。だって、あんたは誰だ? 日本人じゃないのかって話ですよ。これは。
  • サポーターの慢心にケツを持ってくるテの立論も同じくばかげている。サポーターが甘かろうが厳しかろうが、勝つチームは勝つ。一サッカーチームの敗北を全国民の責任に帰するものの言い方は「一億総懺悔」と一緒で、不毛ですよ。どこまでも。
  • サッカーの勝敗は、サッカーの論理で語ろうじゃありませんか。文化人類学だの歴史だのを引用してる連中は要するに気取ってるだけなんで、相手にしないようにしましょう。
  • うんわかってるよ。仕事に戻るよ。

最後にもうひとつ。
伸二は悪くない……と思う。伸二なりに、自分の役割を果たしていた。

代表のみんな。立ち直ってくれ。
たのむ。

| | コメント (56) | トラックバック (3)

2006/06/03

川崎戦

2006 ヤマザキナビスコカップ 準々決勝 第1戦

 つい30分ほど前、詳細な観戦レポートを書いたのですが、ココログのタコなシステムのせいで、テキストのデータはすべて消失いたしました。以下、エントリー消失に至った状況を説明します。ううう。

  • 今回は、ウェブ上にあるココログの記事作成ページに直接テキストをタイプする形で原稿を書いていた。短めの記事の時にはこの方が手軽で良い。
  • テキスト入力を終えて、最後に、タイトル欄に題名を入力し、「カテゴリー」欄から適当なジャンル名を選択して「送信」ボタンを押せば作業完了なのだが、ここに落とし穴がある。
  • ココログの仕様では、たとえば「カテゴリー」欄での入力時に、「あ、この記事は、《日記・コラム》じゃなくて、《サッカー》だったな」と思って、うっかり「バックスペース」なり「delete」キーを押すと、その瞬間に、すべての入力が消失して、管理画面に戻ってしまうのである。
  • つまり、カテゴリー欄は、既存のカテゴリー候補から文字列を選択する形式になっているため、ここにカーソルがある状態でのバックスペースキー押下動作は、「記事作成ぺージから管理ページへの帰還意図」というふうに解釈されるわけだ。
  • でも、入力ミスなり選択ミスをした時に反射的にバックスペースキーを押すのは、これは、パソコン使用者の通弊ですぜ。
  • 100歩譲って、管理ページへの退却がありなのだとしても、そのページ移動動作をキャンセルできないのはあんまりだと思う。だって、もう一度記事作成ページに戻れないのだとすると、ユーザーが苦労して書いた原稿は、完全にメモリの藻屑と消える運命なわけですよ。
  • この世界では、データが何より大事だってことは常識でしょ? それぐらいのことがわからないで、ブログみたいなものを運営できるわけ?
  • 私は、これまでにも、この「カテゴリー欄入力時のバックスペース押下動作」によって、何度も入力済みエントリー消失の憂き目に遭っている。
  • ううう。

 というわけで、観戦については、ごくあっさりと書きます。

  • 駒場スタジアムで生観戦。
  • 駒場は3年ぶりぐらいだろうか。
  • 4-3の勝利。
  • ばんじゃーい

Reds0603_1
※座席はホーム側二階SA席。川崎サポのみなさんの近く。それにしても、駒場まで乗り込んでくるふろん太君たちはさすがに気合いがはいっている。見事な応援でした。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006/06/02

恫喝

 暴力団周辺者を逮捕 ノンフィクション作家・溝口氏長男襲撃
http://megalodon.jp/?url=http://www.sankei.co.jp/news/060601/sha100.htm&date=20060602221820

 ※上記のリンクは「ウェブ魚拓」を利用しています。これは、ウェブ上で公開されているリンクをキャッシュに保管/公開するサービスで、これにより、一定期間でリンク切れになる新聞記事のリンクなどが、随時閲覧可能になります。なんと素敵な。

 しかしまあ、品の無い恫喝だよな。上品な恫喝があるのかどうかはともかくとして。
 本人を脅しても無駄とわかったら家族を襲う、と。なーにが任侠道だか。

 記事がとりあげている襲撃事件は今年一月の出来事だが、今週号の「週刊現代」(5月29日発売)には、溝口氏と暴力団幹部の間でかわされたつい最近のやりとりが書かれている(←《「魔女の履歴書」特別版》「細木数子は暴力団最高幹部に私の原稿つぶしを依頼した」という記事)。これもまたいかにもなお話。面目躍如。
 心配なのは、溝口氏の身の安全だ。
 というのも、ヤの字の人々にとって、「恫喝に屈しない人間」の存在を許容することは、自らの存在意義を否定する非常事態であるはずだからだ。
 ヤクザが一般人を恫喝して、その恫喝が通用しなかったのだとすると、それはヤクザの「顔」がツブれたというにほかならない。
 ということは、これは、ヤクザとしての死を意味している。
 言ってみれば、料理人がサカナをサバき損ねたみたいな話だ。
 とすれば、彼らとしては、この不始末は、決して放置するわけにはいかない。採算を度外視してでも、新しいサカナをまな板に乗せて、自分が完全な包丁人であることを証明するまで、何度でも活魚解体作業をやり直さないとならない。
 で、暴力団員による襲撃事件に対して、恫喝に屈さない旨を記者会見の席で語った伊丹十三は、最後に自殺したわけだが、あれが本当に自殺だったのかは、誰にもわからない。いずれであれ、「恫喝」の威力は、あの自殺によって、息を吹き返した。「ヤツらは、相手が死ぬまで絶対にあきらめないぞ」と、パンピーがそういうイメージを抱いていてくれないと彼らは商売ができないわけなのだからして、伊丹十三の死は、ヤの字の稼業に連なる人々にとって、大勝利だった。

  • 週刊現代は、買わないつもりだったが、やっぱり買っている。気は心。
  • 週刊文春が、グラビアページまで動員して煽っている連載記事「ここまで語るか細木数子ロングインタビュー」(今週分が第二弾ということになっているが、いったいいつまで続くんだ?)は、いったい何の狙いがあって始めた企画なんだろう。
  • 細木関連出版物への色目だろうか。
  • あるいは、さる方面からの圧力(噂では、N中H務。ほんとかね?)か?
  • まあ、いずれにしてもこういうページが誌面を埋めている現状は、マジメに記事を作っている現場の編集者さんたちにとってはお気の毒なことだ。
  • 週刊現代誌上で高橋源一郎氏が、見開きの新連載を開始。で、その第一回が「ホソキさんとエハラさんのチカラ」というお話。「ホソキカズコ」と「エハラヒロユキ」の双方を、さりげなく、しかしきっちりとやっつけている。同じ雑誌に正反対(細木攻撃&江原マンセー)の記事が載っている中で、あっぱれな仕事ぶりだと思う。
  • で、ページを2枚めくるとそこには江原啓之提灯持ち企画「会社のオーラ」の連載第5回目。
  • 上目遣いで自称霊能師をおだてあげる揉み手編集部員を相手に、エハラ師は「子供のたましいが自然霊化している」てなことを吹きまくっている。
  • 雑誌の誌面は、良い記事を作るということとは別に、ベストセラー著者への阿諛追従として利用されたり、取材源への便宜供与の一貫として使われたりする。
  • やっかいな話だ。
  • 一方の権力を叩くために、もう一方の権力に片足を置いておかないとバランスが取れなかったりとか、まあ一個の雑誌を無事に運営して行くためには色々と面倒なことがあるんだろうな。

 まとまらないな。
 寝よう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »