イビチャ師
オシム氏が就任へ-ジーコ監督の後任に (サンスポ)
なんだか、キナ臭いニュースです。
惜しむべき 身を投ずるや 神田川 淵深くして 浮かぶ瀬は無し
えーと、アレです。つまり、日本サッカー協会のビルのほど近くには神田川が流れているわけでありまして……
賢慮を。ぜひ。
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オシム氏が就任へ-ジーコ監督の後任に (サンスポ)
なんだか、キナ臭いニュースです。
惜しむべき 身を投ずるや 神田川 淵深くして 浮かぶ瀬は無し
えーと、アレです。つまり、日本サッカー協会のビルのほど近くには神田川が流れているわけでありまして……
賢慮を。ぜひ。
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ジーコの言っている「自由」は、多分に誤解されていたと思う。
この記事にある「自由」と「規律」を対立概念と受け止める見方がその代表。
自己流を ちょっと伸ばした ジーコ流
てなところでしょうかね(笑)。ええ。アエラみたいですが。
ジーコは叫ぶ。
「ヤナギザーワよ、どうして《目に青葉、山ほとどぎす》で《睡眠不足》なんだ? そんなことじゃ詩にならないだろ? 字数さえ合っちゃいないじゃないか。キミには、リズム感が無いのか?」
「……低血糖(ボソッ)」
「誰だ? 今、模範解答をつぶやいたのは。ナカームラか?」
「朝顔につるべ取られてチアノーゼ(ボソッ)」
「……ナカームラよ。キミの句は、リズム的には完璧だ。しかし、何かが違う。どういうふうに違うのかは説明しにくいんだが……ただ、キミに才能があることだけは……
……以上、未完のまま終了。
はい。仕事に戻ります(笑)
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「ブラジル戦」のエントリーに対するコメント欄で言及した、「自由」についての原稿を発見したので、再掲します。
ハードディスク上のファイルの日付は、2001年10月15日。どこの雑誌に書いた原稿なのかは、残念ながらわかりません。まあいいや。
例の同時多発テロ事件以来、ブッシュ大統領の支持率が90パーセントを超えている。
うひゃあ!
と、この場を借りてあらためて公式に驚愕の意を表明しておきたい。何度びっくりしても足りない。なにしろ90パーセントだ。黒人も白人もネイティブアメリカンもヒスパニックも東洋系もすべてひっくるめた上での、おまけにあらゆる宗教的文化的地域的階層的な違いを乗り越えての90パーセントだ。
うげげげげ。
この数字をどう解釈して良いのやら、正直、私は途方に暮れている。
小泉内閣の支持率が一時期70パーセントを超えていたことについては、たいして驚かなかった。いかにもありそうな話だからだ。だって、ウチの国は金太郎飴国家なんだし。
でも、アメリカは「多様性の国」だったんじゃないのか?
少なくとも私はそう信じていた。そう信じていたからこそ私は、ガキの頃から、何かいやなことがある度にアメリカ移住を妄想して自らを慰めてきたのである。
「ちぇっ、こーんな狭っ苦しい国に住んでられっかよ」
てな具合いに。
……いや、わかってます。現実逃避です。教師や上役が私を嫌ったのは、日本がくだらない国だったからではない。私がズルケ者だったからに過ぎない。わかっている。
が、アメリカの多様性を信じていたのは私だけではない。ジャーナリストや文化人の先生方だって日本の不自由さや後進性を論難する時には、その対偶にアメリカの自由と多様性を想定していたはずだ。特にインテリだったり知米派だったりしないビジネスマンにしたって、たとえば部長の訓示を「いかにも日本的だよな」と批判する時には、無意識のうちにアメリカ(のフレンドリーで民主的な上司)を対置しているに違いないのだ。
結局、空想上の移民先として人々の心にいくばくかの解放感をもたらしてきたという意味で、アメリカは、れわれのような非アメリカ人にとっても「自由の国」であったわけだ。
そのアメリカが一枚岩になっている。しかも戦争に向かって。
つらい事態だ。
「しょせん一時的なミーハー人気だろ」
と考えることもできないわけではないが、ブッシュさんが議会で演説をした時に、ほぼワンセンテンスごとに嵐のようなスタンディングオベーションを起こしていたのは素人ではない。プロの政治家である議員たちだ。被災地を慰問した大統領に向かって真っ赤な顔で「USA! USA!」というコールを繰り返していたのも、ただの群集ではない。筋金入りの消防士たちである。アメリカは、マジなのである。
「USAコール」の映像を眺めながら、私はフーリガンを思い浮かべていた。画面の中のファイアマンたちが文字通り真っ赤に燃え上がって見えたからだ。その彼らの熱狂ぶりは、熱狂的なことで知られるプレミアシップ(英国のプロサッカーリーグ)の観客やマラカナンスタジアムに集まるブラジル代表サポーターの雰囲気とまるで同じだったからだ。
「ってことは、アメリカの国技は戦争なのか?」
と私が思ったとしても無理はあるまい。
通常、アメリカ国民は、スポーツの国際試合にさしたる関心を示さない。サッカーはもちろん、バスケットボールの米国代表ドリームチームに対してさえ比較的冷淡な態度で臨んでいる。彼らが熱狂するのはむしろシカゴやニューヨークのホームチームに対してだ。国技と言われる野球やアメリカンフットボールでは、そもそもアメリカを脅かす外敵が存在しない。つまり、アメリカは、ことスポーツにおいては、あんまり外国を意識していないのである。というよりも、世界中のあらゆる国と地域から移民を集め、自国内にワールドシリーズを持ち、自国民同士でスーパーボールを行っているあの国は、ある意味で世界を包摂しているのだ。
とすれば、その「世界よりも大きい」国であるアメリカが、外敵を意識する機会は、戦争の時に限られるはずだ。なるほど。まさに国技だな。で、米国代表チームは軍隊。うん。立派な国だぜ。
ブッシュ大統領はこのたびの同時多発テロ事件について
「アメリカの自由そのものが束縛された」
という意味のことを繰り返し述べている。
これがわからない。
「威信が傷つけられた」とか「安全が脅かされた」と言うのならそれはその通りだが、テロの何が一体「自由」に関係しているんだろう?
辞書通りの意味で「自由」を考えている限り、答えは絶対にわからない。
というのも、アメリカの言う「自由」とは、「覇権」のことだからだ。
ブッシュの演説の中の「自由」(フリーダム)をそのまま「覇権」(ヘゲモニー)に置き換えてみると筋の通った演説になる。いやもちろんアジ演説だけど。
カールマルクスは「共産党宣言」の中でこう言っている。
「自由とはなによりも権力だ」
うむ、さすがは資本主義研究の専門家だ。確かにこの世の中で他人の顔色をうかがったりせずに十全な自由意思を体現できるのは、自前の権力を持っている人間だけだ。
たとえば、課長は部長の前に出ると自由を失い、部長は部長で、重役会の末席に連なった瞬間に部内での自由を失って、みごとな下っ端になってしまう。つまり、人が自由でいられる範囲は、その人間の権力が波及している範囲にほかならないわけだ。
ってことは、アメリカの言う「自由主義陣営」というのは、「アメリカ人の自由に協力するための陣営」のことなんだろうか?
なあ、教えてくれよ、ジョージ。
オレたちはパシリなのか?
「自由」は、簡単な概念ではない。
というよりも、特にわが国において「自由」は、猛烈に曖昧なぬえの如きお題目なのであって、使う人間がよほど注意して意味を限定していかないと、「自由な」解釈に晒されて、必ずや無効化することになる
ジーコとて、宣言するだけで「自由」が手に入ると信じ込んでいたわけではないと思う。
でも、彼の言う「自由」には、「戦術の放棄」と解釈されても仕方のない側面があった。とすればそれは監督業という仕事の自己否定ではないか。
「決まり切った戦術は相手に裏をかかれた場合に致命的な結果を招く」
「指示通りに動くだけではサッカーはできない」
というお話を、ジーコは繰り返したし、川淵さんあたりも二言目には「自由」という言葉を使って、個々の選手の戦術的深化を促していた。「自分のアタマで考えないと」と。
しかし、チーム戦術は、個々のプレーヤーからプレイ選択の自由を制限するために考案されたものではない。選手から思考の機会を奪うために存在するものでもない。
局面局面での「戦術的強制」は個々のプレーヤーに対して、一時的には「自由の束縛」として立ちはだかる。
しかし、「チームの自由」(←すなわち、ピッチにおける優位性)を確保するためには、最低限の「戦術」が不可欠であるのがモダンサッカーの現実でもある。
ここらあたりのややこしい現実を、一度でもジーコは言葉で説明しただろうか。
あるいは、ジーコのアタマの中には、確固たる答えがあったのかもしれないが、それだけでは足りない。なぜなら、監督というのは、あらゆる問題に対する解答とその実現方法を、言葉(そして具体的なトレーニング方法)で伝えなければならない商売だからだ。
長くなってしまった。
もうおしまいにする。
サッカーバブルは崩壊しつつある。
関わっていた雑誌が、またひとつ消えることになった。
そんなわけで、一時期は月に4本を数えていたサッカー関連の連載が、すべて消滅することになった。
協会を揶揄する発言が多かったからだとは思わない。
まあ、潮時だ。
寝るよ。
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They've been spending most their lives
Living in a future paradise
They've been spending most their lives
Living in a future paradise
They've been looking in their minds
For the day that sorrows gone from time
They keep telling of the day
When the Savior of love will come to stay彼らの生涯は、将来の天国を夢見ているうちに、空しく過ぎ去っていく
悲しみの過ぎ去る日を待ちこがれ
日がな救世主降臨の到来を語り合っている、哀れな子羊たち
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あんまり悔しくないのは、気持ちが切れてるからなのだろう。
後半20分過ぎから後は、ブラジル側もパスタイムのパスばっかり。
そういえば、スティービーワンダーに「パスタイム・パラダイス」っていう歌があったなあ、と、そんなことを考えながら漫然と画面を見ていた。
They've been spending most their lives
Living in a pastime paradiseブラジル人は試合の大部分をパス回しの天国で過ごす。
なるほどな。たしかに、試合の終盤は、完全なパラダイスだった。
They've been wasting most their time
Glorifying days long gone behind
They've been wasting most their days
In remembrance of ignorance oldest praiseそしてまた彼らは、過ぎ去ったペレの日々を賛美し、古き良き無垢なる黄金の中盤の時代を懐かしむことで、生涯の大半を空費するのである。
スティービーがサッカー通だったとは。いや、勉強になった。
ジーコには、リアルをありがとうと言っておく。
ついでに、さようならを言わせてくれ。
バイバイ、茨城県の恩人。
別れるべき時が来た。
なあに、さびしいのはしばらくの間だけだ。
ふるさとでは、丘の上でワントップのキリストが手を広げて待っている。
国に帰ったら、地球の裏側で過ごした幾年間かの出来事については、もう思い出さないでくれ。
オレも忘れる。
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シェアウェアを購入。
いつまでたっても購入成立のメールが来ない。
ん? と思って受信ボックスを覗いてみると、解除キーの書かれたメールが「迷惑メール」に分類されている。
そうか、ついにこういうものまで疑うようになっていたのか。
急に心配になって、このひと月ほどの「迷惑メール」をざっと見てみる(約50通×30日=約1500通。ううう、死ぬ)。
非常に重要な私信1通と、仕事関連のメールが2件見つかる。
うん。もうso-netのメアドはダメだな。
使いモノにならない。
だって、毎日毎日50通もの迷惑メールのヤマをかきわけて、有意メールを拾い出すなんていう作業は、続行できっこないし。
一ヶ月以上前のアドレスは、かき分ける気持ちになれません。
というわけですので、小田嶋のso-netのアドレスtodajima@wa2.so-net.ne.jp
にメールを送ったけど返事が来ないぞ、という方がおられましたら、niftyのアドレスに送り直してみてください。お願いします。ついでにごめんなさい。念のために以下に記載します。
t_odajima@nifty.com ←このままコピペする場合には、@アットマークを半角@に打ち直してください。モロな形でメールアドレスを晒すと、メアド収集ロボットの餌食になりそうな気がするんで。
以上、業務連絡でした。
W杯?
はて? 何のお話でしょうか?
最近、物忘れが激しくて……
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更新が遅れました。
放心しておったものですから。
あるいは、身分不相応な攻撃志向が死を招いたのではなかろうかと……
デカ過ぎるハサミみたいな無駄に華麗な中盤が、重荷に……
そう。豆粒大のカニの分際で肩幅よりデカいハサミを装備したら、走れなくなるのがものの道理で……
ええ、思いつきですよ。
っていうか、真面目に分析する気持ちになれないんです。
がっくりし過ぎてて。
ただ、これだけは言っておきたい。
最後にもうひとつ。
伸二は悪くない……と思う。伸二なりに、自分の役割を果たしていた。
代表のみんな。立ち直ってくれ。
たのむ。
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つい30分ほど前、詳細な観戦レポートを書いたのですが、ココログのタコなシステムのせいで、テキストのデータはすべて消失いたしました。以下、エントリー消失に至った状況を説明します。ううう。
というわけで、観戦については、ごくあっさりと書きます。
※座席はホーム側二階SA席。川崎サポのみなさんの近く。それにしても、駒場まで乗り込んでくるふろん太君たちはさすがに気合いがはいっている。見事な応援でした。
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暴力団周辺者を逮捕 ノンフィクション作家・溝口氏長男襲撃
http://megalodon.jp/?url=http://www.sankei.co.jp/news/060601/sha100.htm&date=20060602221820
※上記のリンクは「ウェブ魚拓」を利用しています。これは、ウェブ上で公開されているリンクをキャッシュに保管/公開するサービスで、これにより、一定期間でリンク切れになる新聞記事のリンクなどが、随時閲覧可能になります。なんと素敵な。
しかしまあ、品の無い恫喝だよな。上品な恫喝があるのかどうかはともかくとして。
本人を脅しても無駄とわかったら家族を襲う、と。なーにが任侠道だか。
記事がとりあげている襲撃事件は今年一月の出来事だが、今週号の「週刊現代」(5月29日発売)には、溝口氏と暴力団幹部の間でかわされたつい最近のやりとりが書かれている(←《「魔女の履歴書」特別版》「細木数子は暴力団最高幹部に私の原稿つぶしを依頼した」という記事)。これもまたいかにもなお話。面目躍如。
心配なのは、溝口氏の身の安全だ。
というのも、ヤの字の人々にとって、「恫喝に屈しない人間」の存在を許容することは、自らの存在意義を否定する非常事態であるはずだからだ。
ヤクザが一般人を恫喝して、その恫喝が通用しなかったのだとすると、それはヤクザの「顔」がツブれたというにほかならない。
ということは、これは、ヤクザとしての死を意味している。
言ってみれば、料理人がサカナをサバき損ねたみたいな話だ。
とすれば、彼らとしては、この不始末は、決して放置するわけにはいかない。採算を度外視してでも、新しいサカナをまな板に乗せて、自分が完全な包丁人であることを証明するまで、何度でも活魚解体作業をやり直さないとならない。
で、暴力団員による襲撃事件に対して、恫喝に屈さない旨を記者会見の席で語った伊丹十三は、最後に自殺したわけだが、あれが本当に自殺だったのかは、誰にもわからない。いずれであれ、「恫喝」の威力は、あの自殺によって、息を吹き返した。「ヤツらは、相手が死ぬまで絶対にあきらめないぞ」と、パンピーがそういうイメージを抱いていてくれないと彼らは商売ができないわけなのだからして、伊丹十三の死は、ヤの字の稼業に連なる人々にとって、大勝利だった。
まとまらないな。
寝よう。
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