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2006/05/28

マイケルの午後

 久々の好天。
 午後、近所に住むY田氏より耳寄りな情報。
「おい、マイケル・ジャクソンが赤羽に来てるぞ」
 半信半疑。
 でも、後で後悔したくないんで、とりあえず出動する。
 詳しく述べると「見に行って空振りだった場合の後悔よりは、本当に来ていたのに見に行かなかった場合の後悔の方が、より致命的なはず」と、そういうふうに考えたわけです。ええ、ミーハー魂です。この先、自分のカラダが動くうちに、自宅からのチャリンコ圏内で、ワールドクラスのブツに出会う機会が何回あるだろうか……と、そう考えると、とにかくカメラを持って出かけるしかないわけだ。

 現場(カトリック系の学校の敷地内に併設されている児童擁護施設)に到着すると、既に人だかりができている。

  • 集まった見物人の総数は多めに見積もって約100名。マイケルの知名度を考えればごく小規模な騒ぎなのかもしれない
  • 集まっていた人々の年齢層は10代~50代まで。えらく幅が広い。さすがに芸歴30年のスーパースター。すごい。
  • 主流は20~30代の女性。
  • タクシーで乗り付けているファンのグループがいくつか。カネありそう
  • 黒のレザーで決めている女性たちが異彩を放っている
  • でも、半数は近所のヤジ馬。「誰だ? ペ・ヨンジュンか?」とか、わけもわからず集まっているおっさんとかも。まあ、オレも似たようなものだが
  • SPの黒人さんがなかなかそれらしい雰囲気を醸しておりました。

Michael0528b
※裏門前で出待ちをしている人々。報道陣も。

Michael0528
※園内に駐車しているマイケル車。撮影ポイントは内緒(笑)。

 1時間ほど、塀の外から園内をうかがったり、バスに乗ってやってきたと思われるファンの人々の質問(この施設には、入り口はいくつあるんですか? とか)に答えたり、蚊に食われたりしているうちに、日差しが傾いて来る。
 午後6時頃、マイケル様ご一行の出発を見送って帰宅。
 良い日曜日だった。

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2006/05/24

フラット3の残像

 23日、所用で御徒町に出動。
 ついでに、以前から気になっていたミッションをこなす。

Toru0523
※トルシエの絵? です。

  • あるいは、戦術指示の図解みたいなものだろうか。
  • サイズは大きめのポスターぐらい。
  • 2年ほど前、アメ横のとあるスポーツショップの地下サッカー用品売り場で、偶然発見して、以来、いつか写真を撮りに舞い戻らねばならないと思っていた物件。昨日、機会を得て撮影に成功。
  • この店の壁面には、ほかにも、ルイス・フィーゴのサイン入りユニだとか、パブロ・アイマールのサイン入り色紙(だったと思う)なんかが展示されている。
  • トルシエ先生の戦術図は、メインの扱い。「落札160000円」という説明書きがついている。どこかのチャリティーか何かで入手したものだろうか。
  • 細かく見ると、緑チームはキーパー+フィールドプレーヤーが5人、赤チームは3人、キーパー無し。
  • 矢印が行ったり来たりしているが、どういう想定のシステム図なのか、全然わからない。
  • フラット3のコンセプトを解説したものだろうか?
  • とすると、トルシエのフラット3が攻撃に関する戦術を放棄(っていうか、選手に丸投げ)していたというのは、本当かもしれない。
  • 第一、5人対3人ってのはどういうこと?
  • むしろ、緑の5人がフラット3プラスボランチで、赤い色の3人が攻撃陣ということだろうか。とすると、人数が足りないけど……サイドの二人は省いたのだろうか
  • わからん。

Toru0523a
※図の下にトルシエ自身が書いた表題とおぼしき文字があるのだが、解読できない。
5 caitu 3 ぐらいに読めるけど、意味がわかりましぇん。

Toru0523b
※右下にある本人の署名。「トルシエ」というカタカナのサインも添えられている。
 なんという素晴らしい手跡。エスプリ横溢。
 また日本に来てくれると良いのだが。
 浦和の監督が無理なら、たとえばU-20日本代表とかの監督なんかはどうだろう。

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2006/05/22

言葉のチカラ

 朝日新聞社の「言葉のチカラ」のCMが、リニューアルされたようです。
 23時過ぎに、「報道ステーション」の流れでテレビをつけっぱなしにしていたら、いきなり流れました。
「言葉は○○、言葉は××、言葉は**」
 と、○○、××、**の部分に、様々な単語(勇気とか、翼とか、打算とか)をハメこんだセリフが繰り返される。色々な場所にいる多種多様な人々(リーマン風、モヒカンの兄ちゃん、OL風、小学生、入院患者などなど)がワンフレーズずつしゃべる。で、約2秒ごとに画面が切り替わる構成。
 最後に、防波堤に座る父と子のショット。父が言う。
「言葉は……」
 ここで、1秒弱の間。映像はオヤジの横顔のアップ。
「希望」
 最後に決め台詞。テロップつき
「私たちは言葉のチカラを信じている。朝日新聞」 

 最後のところは、顔から火が出ました。
「うわああああああああ」
 と叫んで、そのまま20メートルぐらい走り出したくなりましたよ、ええ。
 どうしちゃったんでしょう。朝日さんは。

 古い群像劇みたいな演出。
 劇団芝居の稽古風景と言うべきか。
 っていうか、はるか昔に学校現場で流行った「呼びかけ」(卒業式とかで子供たちができそこないのポエムみたいなものを唱和する演出技法「楽しかった修学旅行。みんなでチカラを合わせた学校菜園……」みたいな)を思い出す。

 前回の「ジャーナリスト宣言」のCMへの囂々たる悪評に対する、これが朝日の回答なんだろうな。
 素直に失敗を認めて、路線変更すれば良いのに。
「うん、ちょっとクサかったですね」
 と、アタマをぼりぼり掻いて、わかりやすいCMに切り替えれば良かったのに。

 でも、あの手の組織は、非を認めることができない。
 誰が責任を取るかで、社内抗争が起きてしまうから。たぶん。
 で、さらに「言葉」にこだわった演出をたたみかけて、失地回復をはかる。
 で、墓穴。
 民主党がメール問題への対応を誤った時の展開と似ている気がします。

 言葉は墓穴。
 おそらく、制作者は言葉のチカラを舐めているのでしょう。
 言葉は……
 言葉なんかじゃ説明できない、とオレは思うな。
 言葉は、言葉を語るには不完全過ぎるし、一方、言葉は、言葉で要約するには巨大過ぎるから(笑)。

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浦和VS横浜

ナビスコ杯 浦和VS横浜

  • 好天。寒くないスタジアム観戦は今季はじめて。
  • ゲーム内容は、浦和の圧倒的勝利。
  • 浦和は、代表組(小野、坪井、三都主)以外に、ポンテ、闘莉王を欠いているものの、戦力ダウンを感じさせない内容。
  • 対して横浜は、中澤、松田、河合、久保、坂田、ドゥトラがいない。モロな二軍っぽさ。だって、センターバックが中西エイスケですよ。いや、良い選手なのはわかってます。でも、ワシントンの相手はちょっと無理ではなかろうかと。
  • 4点取った後、ちょっと緩んで2点を献上したけど、全体としては文句なし。
  • っていうか、横浜はちょっと心配ですね。チーム内に内紛でもあるんじゃないかとさえ思えるほどの闘志のなさ。
  • まあ、消化試合と割り切った上でのゲームだったのかもしれないが。

帰路、同行のO野夫妻とともに浦和美園に新しくできてショッピングモールを探訪。屋上駐車場への導入路の柱の細さに驚く。うーん写真を撮ってくれば良かった。

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※ゴール裏のサポの皆さん。今日も素晴らしく元気でした。

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2006/05/21

元カレの元カノの……

 スーパーサッカーを見ていたら、久しぶりにACのエイズ検診をすすめるキャンペーンのCMにでくわした。
 アイフルの枠だろうか。
 まだやってたんだ。
 あの、「元彼の元カノの……元カノの元彼の元カノの……」というセリフが無限にエコーバックするバージョンは、登場当初から、暗くて意味不明ということで評判が悪かった。で、てっきり放送中止に追い込まれたのだと思っていたんだが。
 やってましたね。それも全然手を加えていない、同じ映像、同じナレーションで。しかも、あの、不安を煽るイヤな感じのBGM付きで。

  • あの「元カレの元カノの……」という呪文が、「乱れた性関係を続けていると、エイズ罹患の可能性が高まるよ」というメッセージであるのだとして、だ。
  • 若い世代は、そんなお話には聴く耳持たないですよ。「ケッ」ってなもんだ。誰がテレビの説教なんかをマジメにきくと思います?
  • いずれにしても、上からの道徳アナウンスというのは、ティーンエイジャーの非行少年には最も反発され、かつバカにされるパターンです。
  • あの呪文に耳を傾けるのは、むしろ40代から上のおばさんたちであるはず。具体的に言えば、乱交みたいなライフスタイルから物理的に隔離されてる事実上の性的リタイヤ世代。
  • で、その、おばさん(&おっさん)たちは、あの無表情なギャルさんたちのあっけらかんとしたつぶやきCMを見ながら「まったく、いまの若い人たちって……」と、よく知らない人たちに対する漠然たる敵意を抱くに至る、と。

 で、何が言いたいのかというと

  • あのCMは、エイズ検査を告知するキャンペーンとしては無効です。
  • もちろん、若い世代の性的荒廃を是正する効果もゼロ。
  • 期待できる唯一の効果は、エイズ患者ならびにHIV感染者に対する偏見(←「乱れた生活してたんだから自業自得でしょ」みたいな)を助長すること。
  • HIV感染者の中には、血液製剤経由でウィルスに接触した人たちもいるし、ほんの数回のごくまっとうな性交渉で感染した人々もいる。
  • そういう不運なHIV感染者にとって、あのCMはあんまり残酷なんじゃなかろうか。

 と、いったようなことです。おそらく、患者団体から抗議が行ってるはずだと思うんだけど、どうなんだろう?
 っていうか、ACって、何のために存在しているのでしょうか?
 ある種の天下り団体なんだろうか。
 不思議だよね。
 マジで。

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2006/05/20

霊富人

 ちょっと前のコメント欄で

「霊に不安や恐怖の原因を担ってもらう文化から
公衆の面前で、しかも当人は絶対に見ないところで不平・不満・不快をぶちまけてスッとする、
ネットに痰壺の役割を担ってもらう文化に移ったってことでしょうか。」

 てなことを言われたので、ちょっとムキになって反論しておくことにします。
 おとなげない態度であることは承知してます。が、霊能者みたいな連中(と、それを擁護することで「ものわかりのよさ」を気取っている人々)を目の前にした時には、おとなげのない対決姿勢を決めておかねばなりません。
 ってことで、これまで、私が活字メディアで書いてきた、細木および江原関連の記事を一挙公開することにします。
 長いですが、まあ、週末ですし。

※ある意味で死んだふりだったゾンビの復活について

 国松元警察庁長官狙撃事件の容疑者として、複数のオウム真理教幹部が逮捕された。なるほど。世間は忘れても、警察は忘れていなかったのだな。いや、世間だって、忘れていたわけではない。あれだけの事件だ。十年やそこいらで忘れられる道理がない。
 でも、TBSは忘れていた。
 オウム騒動がまだリアルタイムの恐怖であった時期に、坂本弁護士一家の情報をオウム側に漏らすという大失態を演じ、心底から反省していた(←「今日TBSはある意味で死にました」と、筑紫さんは言ってました)はずなのに、またぞろ細木数子なんぞを引っ張り出してきてオカルト商売をたくらんでいる。結局、反省なんかしちゃいなかったということだ。ある意味で死んだふりだった、と。
 振り返ってみよう。
 オウム騒動が一段落したタイミングで、テレビ業界はオカルト番組の制作放映を一斉に自粛した。
 というのも、視聴率目当てに疑似科学を弄ぶテの超能力ヤラセバラエティーや、詐欺師まがいの心霊研究家を起用して、いたずらに視聴者の恐怖心をアオるタイプの怪談番組が、オウムのようなカルト宗教の信者獲得に貢献していた事実が世間の非難を集めたからだ。
 以来、テレビの少なくともゴールデンタイムからは、心霊や超能力関連の情報が見事に駆逐されていた。それが、ここへきて徐々に復活しつつある。人の噂も75日、反省ポーズは75週。サルでもオッケー。で、解禁、と。
 もちろん、オカルト番組に手を出しているテレビ局はTBSだけではない。
 というよりも、最も早い時期にこの禁を破ったのは、むしろフジテレビだった。番組としては「奇跡体験アンビリバボー」という疑似科学寄りのバラエティーが猫の首につけた鈴で、それがさしたる反発を呼ばなかったのを見て、はじめてTBSは動き出したのだと思う。とはいえ、「アンビリバボー」には、最低限「冗談めかして逃げよう」とする半身の姿勢(そもそもタイトルがふざけてるし)がある。ま、製作現場の良心としてはこれぐらいが精一杯ということだ。
 ところが、TBSはガチだ。「金スマ」における、陰陽師の脅迫的な演出や、住宅リフォーム風水師の扱いを見ても、完全に本気(マジ)でオカルトをメインコンテンツに持ってこようとしている。
 この度の細木数子特番は25.2%(瞬間最高視聴率では34.1%)という驚異的な視聴率を記録した。
 ってことは、こりゃ、レギュラー化だろうか?
 ネタ的に週一が無理でも、月一か、でなくても改変期特番として年四回ぐらいの出演交渉はしているはずだ、と見るが、どうだろう。
 現場としては、占いはあくまでネタで、細木数子については
1.サッチー追放以来空席となっているパブリックエネミー(国民的嫌われ者)の第一候補
2.停滞する撮影現場に驚愕、怒り、恐怖といった演出以前のパニック感情をもたらす魔法の杖
 ……的な、特殊タレントとして利用しているつもりなのだろう。
 が、細木をナメてはいけない。
 プロデューサー、局ともども、必ず後悔することになる、とオレの占いにはそう出ている。
 まあ、そういうわけだ。
 最後に、断言をする人間はインチキだ、と、断言しておく。

『読売Weekly』2004年7月

※鴨と鷺

 地上波民放各局の報道キャスターは、長い夏休みをとる。で、不可解なことに、彼らは、その件(休むこと)について、視聴者にあやまる。
「まことに申し訳ありませんが私○○は、来週の月曜日から……」
 あやまるんなら休むなよ……と、テレビ画面を通じて個人的な休暇についてぐだぐだ詫びている図に、毎年私はいらつくのだが、おそらく腹を立てているのは私だけではない。忙しくて休めないでいる連中はもちろん、失業中の労働者も、リストラ自宅待機組の人々もやっぱりムカついていると思う。
 それにしても、キャスターさんたちが、ある時期から突然、一斉に長い夏休みをとるようになった理由は何なのだろう。
1.欧米流のバカンス生活をアピールする電波文化人の虚栄心。
2.お国からのそこはかとない圧力(「国民的影響力のある著名人は率先垂範して夏期休暇の普及宣伝にこれつとめ……」みたいな、非公式の通達)
3.単なる心身の疲弊。
4.休暇による一時的な失業不安を現出することで、にわかセレブの増長慢を牽制しようとする局編成部の深謀遠慮。
 いずれにしろ、生来のワーカホリック(労働嗜癖者)であり、職業的な空白恐怖症患者でもあるテレビ業界人が、自らの意思で長期休暇を望むなんてことは、ありそうもないことだ。
 というのも、レギュラー出演という習慣的洗脳過程を通じてオーラを維持しているテレビ有名人は、視聴者に忘れらたらそれでおしまいだからだ。
 ふむ。なんだか泳ぎ続けていないと溺れてしまう鮫(←「芸能人は歯が命」)みたいで、ちょっと哀れだな。
 さて、夏休みは、例によって、スペシャル編成(制作現場の休暇確保および低予算省力化のための時間枠水増し傾向)が横行したわけなのだが、今年の場合、アテネ五輪の開幕が重なったため、ことのほかスペシャル(つまりデタラメ)な番組作りが目に付いた。
 まずテレビ朝日は、サッカーのアジアカップ(7月下旬~8月第一週)を起点に、なし崩し的にレギュラー番組枠を放棄し、でもって、八月第一週は、朝一番のやじうまプラスから報道ステーション、テレビタックルに至るまで、丸ごと中国ネタで押し通してしまった。スペシャルアジアンウィーク。特殊反日週間。北京の誤銃後日――で、視聴率的には大成功。中華反日傾向様様の夏だった。
 フジも露骨だった。27時間テレビ、お台場冒険王(&レアルマドリード来日特番)あたりから既に全局夏休みモードに突入していた。で、八月七日のゴールデンタイムには、視聴者の暑さボケを見透かしたつもりなのか、思い切りナメた心霊スペシャルをかましてくれた。
 「江原啓之SP 天国からの手紙Ⅱ」というのがそれだ。自称超能力者(←スピリチュアルカウンセラーだと)の言を鵜呑みにする無批判さもさることながら、視聴者を鴨にする手口のエグさは、水辺の悪食鳥(←鷺のことだが)そのものだった。で、サカナ(←鳥たちのエサ)は、家族の死。最悪だな。ハゲタカ番組。
 急死した夫からの長い手紙(←誰が書いたんだ? 放送作家か?)を朗読する恵俊彰。号泣する未亡人。もらい泣きする女子アナとゲスト出演者たち。余裕綽々の表情で愛の不滅を語る江原師。
 誰が狂信者で、誰が悪党で、誰が間抜けなのかは、画面を見ているだけでははっきりとはわからない。が、涙の数だけ誰かが儲かっているということだけは、はっきりしている。

『読売Weekly』2004年8月

※感性と霊感

 大阪市役所の職員が公費で背広を作っていたことについて、ワイドショーの面々は口を極めて罵っていたが、ナニワのお役人も、まさかテレビの中の人に無駄遣いを指摘されるとは思っていなかっただろう。だって、テレビ局の社員って、30代で1500万円の収入があるんですぜ。……ん?
「テレビ局は私企業。市役所とは違う。税金を無駄遣いするのと、利益を社員に還元するのは全然別の話だ」
 と? なるほどね。でも、日本の放送局は許認可事業だ。ってことはキミらは半官半民みたいなものなわけで、心構えとしては、準公僕ぐらいなところで頑張っていてもらわないと困るのだよ。だから利益は、せめて制作費にまわしてください。
 さて、週末の番組テーブルには、そのテレビ局が制作する映画の宣伝番組が並んでいたりするわけなのだが、ああいうのは、放送法に違反しないんだろうか? だって、番組枠丸ごとが営利目的の宣伝に終始しているわけで、とすれば、あれは番組ではなくて、長いCMなんじゃないのか?
 ともあれ「映画『MAKOTO』2月19日公開~アナタには霊が見えますか?~」というその番組は、映画の宣伝番組であるとともに、心霊番組復活キャンペーン放送でもあった。
 いや、エンターテインメントとして心霊現象を扱った映画があってもかまわないし、ドラマやフィクションが科学的である必要はないと思う。でも、映画の宣伝のために霊能者(江原某)を呼んで霊の実在をアピールさせたりするのは筋違いじゃないのか?
 江原某という自称霊能者も、恫喝営業の除霊商売タイプではなさそうだが、癒し系であれカウンセリング系であれ、キワモノはキワモノなのだから、安易に先生扱いしてはいけない。
 「霊が見える」と言う人間は、パラノイアか嘘つきのいずれかだ。でなくても最低限、自己肥大人格ではあるわけで、「オレはあんたたち一般人とは違う」「私は感覚が鋭い」「ボクは選ばれた人間だ」という意味のことを主張しているヤバい人間だ。
 こういう人間を甘やかしてはいけない。私見を述べるなら、私は、われわれオヤジ世代の人間が、自称霊能力者みたいなモノに対して及び腰でいるから、霊感商法にハマる若者が減らないのだと思っている。
 昔のオヤジは違った。霊だのたたりだのと言う男に対しては正面から「ウソをつきやがれ」と言っていた。こうでなくてはいけない。
 が、平成のオヤジは弱気だ。霊の存在を信じていない組の人間でさえ
「いやあ、私はいたって鈍感なタチで、霊とかは見えないんですが……」
 といったあたりに防衛ラインを敷く。つまり「アタマのカタいヒト」と思われたくないのだな。というのも、面白話大好きの仲間づきあいのうちでは、「見たことのないモノを頭ごなしに否定する人」は「想像力の貧困な人」ということになっているからだ。若い人たちにそういうふうに思われるのは、やっぱりちょっと悲しいな、と。
 そう。平成の人間は「アタマがカタい」「ユーモアがわからない」「センスがない」と思われるとことを極度に恐れる。しかも、インテリを自認する人々の中にこういう人が多い。
 かくして、「知識」「教養」「科学」は、「硬直的」で「権威主義的」で「排他的」だってなことでしりぞけられ、「感性」と「霊感」が、スタジオの「空気」を席巻しているわけだ。
 あるいは、オレらはみんなゆとり教育の犠牲者なのかもしれない。

『読売Weekly』2005年2月

※運の悪い人たち

 世の中には「運の悪い人たち」というのが一定数いて、彼らは、自分の運の悪さを自覚しているからなのか、あるいは少しでも運気を向上させたいと願っているからなのか、占いにハマり勝ちな人々なのだが、当然のことながら、そんなことで運の悪さが改善される道理はない。
 というよりも、「占いにハマっている」という状態が、すでにして運気の停滞を示唆しているのであって、より忌憚のない言い方をするなら、「占いみたいなものをうっかり信じてしまう脳味噌を持って生まれてきた」ということこそが、その人間の運の悪さの本質なのである。南無。
 さて、テレビというのは、一面、この種の運の悪い人たち(←つまり、暗示にかかりやすいカモ)の上前をハネることで成り立っている稼業(しょうばい)だ。
 特に、二十一世紀に突入して以来、テレビは、「テレビを見る以外に選択肢を持たない人々」向けのメディアになり下がりつつある。
 そう。テレビ視聴が、時代をリードする有力な娯楽であった時代は既に過ぎ去った。現代のテレビは、姥捨て山ないしはニート慰安室に過ぎない。であるから、平成のゴールデンタイム番組を眺めている人々は、もっぱら、自宅の外で過ごすための可処分所得を持っていなかったり、書籍やインターネットに挑むスキルや知的探求心を欠いていたり、そもそもテレビ以外に友だちがいなかったりする、「負け組」なのであるよ。まことに遺憾なることに。
 で、細木数子だ。
 運の悪い人たちは、細木先生を好む。
 というのも、運の悪い人々は、自分の運の悪さが、自らの無能力と怠惰に起因する現象ではなくて、なにかしらの外部的な要因による一時的な状態なのだと思いたがっている人々でもあるからだ。そういう考え方をしているようだから、いつまでたっても状況を改善できないでいるわけなのだが、それはともかく、この人たちは、最終的には、前世だとか運命だとかいったタイプの外部的な決めつけにすがりつく道を選ぶことになる。なぜなら、運命とは、別の言葉で言えば、無責任だからだ。
 で、無責任なこの人たちに向けて、細木数子や江原啓之といった無責任鑑定配給業者が、予言だの前世だのを乱発する番組が、高視聴率を記録しているのが、平成のテレビの現状なわけだ。まあ、三木谷クンが買い叩いてたたき直そうと思ったのも、ある意味必然だよな。
 で、そのTBSは、どうやら運気が落ちている。その証拠に、彼らはマジで細木数子にすがりつきはじめている。
 ゴールデンタイムに冠のレギュラーを持たせただけでもたいしたギャンブルだと思うのだが、改変期ごとに長時間特番を組んでいる。
 一蓮托生。運命共同体。同じ泥船のカチカチ山。ずぶずぶ。
 三木谷氏の株買い占めについて、細木先生は、何の警告も与えてくれなかったのだろうか?
 それとも、彼女自身が大殺界(←らしいぜ)で、それゆえに、「大殺界の期間中には何をやってもうまく行かない」という自らの予見通りに予言をハズしているわけだから、予言は当たっている、と、そういうことなのか?
 ズバリ、予言しておく。
 「ズバリ言うわよ」は、せいぜいあと半年しか持たない。バイバイ(笑)。

『読売Weekly』2005年10月

※細木家の恥

 まずは新聞記事から。
「茨城県警日立署は27日、信用金庫から3000万円をだまし取ったとして、東京都町田市上小山田町、画家、細木久慶容疑者(66)を詐欺の疑いで逮捕した。細木容疑者は、占師の細木数子さん(67)の実弟だと供述しており、同署で確認を急いでいる」1月27日毎日新聞
 ……特定の犯罪について、その容疑者の血縁にある人間の責任を問うのは、筋違いだ。実の弟が詐欺をやらかしたのであれ、またそれが累犯であったのだとしても、姉である細木数子とは本来無関係な話だし、一人前の成人が自己責任で為したことについて、保護者でもない身内が非難されるいわれはない。
 でも、細木数子については、ぜひ責任を追及したいのだな。オレとしては。
 というのも、彼女は、いつでも「家」(「血」と「先祖」)を最重要視し、「身内」が一体であるとする人生観を主張しているテレビタレントだからだ。
 また、彼女は、「女」が「耐える立場の性」であり、「家」の「男たち」を支え、その背後で裏方の仕事をこなすべき陰の存在である旨を常々力説している一種のオピニオンリーダーでもある。
 とすれば、「細木家」の「表の顔」である実弟が犯した不祥事は、「細木家の台所」である数子が処理せねばならない。だって、「男の尻ぬぐい」こそが「女の晴れ仕事」だと、あんたはそういうお話を、いつも繰り返してるじゃないか。
 いや、私とて、細木数子が、個としての女性の独立自尊を認め、その自立を応援する立場の論者であるのなら、こんな無理は言わないのだ。
 が、細木数子は、常に女性を「一段低い種族」として扱い、女性全般が「一歩退いた生き方」に閉じこもるべきである旨を、テレビを通じて、全面的に開陳流布宣言強要している存在だ。
 とすれば、身内の責任を追及せぬわけにはいかないのだよ。
 それでもたとえば、「女三界に家無し」に代表される旧世代の道徳を主張してやまない細木数子が、実際にそういう生き方を貫徹している「おんな」であったなら、私は何も言わなかっただろう。
 が、細木数子は、「一歩退く」どころか、「常に最前面にしゃしゃり出てくる」女だ。「男を立て」「男に従う」生き方をしてきた様子もないし、「貞淑」「謙虚」「楚々」みたいな単語とも、まるっきりかけ離れた存在だ。
 なのに、細木数子に、面と向かって
「弟さんの運命は鑑定できなかったんですか?」と、尋ねる者は誰もいない。のみならず、テレビは、詐欺事件の報道自体を、完全に黙殺している。
 野球選手の従兄弟ぐらいの者が何かをやらかすと、それこそ鬼の首をとったみたいに騒ぎ立てるくせに、だ。
 そもそも、このたびの一連のホリエモンバッシング報道の中で、選挙応援に出かけた自民党の幹事長とかが執拗に謝罪を要求されていたりするのに比べて、細木数子が無事なのは、どうかしている。
 細木数子は正月特番でホリエモンを大々的におだてあげ、のみならず、「ライブドア株が五倍に値上がりする」と断言したのである。って、これ「風説の流布」じゃないのか?
 ……需要があるのはわかる。
 テレビの前には、他人に決めつけて貰わないとスリッパひとつ選べない優柔不断な視聴者が3割やそこいらはいて、そういう人々にとって、細木の断言は一時でも心強く響くのであろうから。
 細木数子がこの事態を無傷で乗り切るのかどうかは、彼女の問題ではない。
 テレビ業界でメシを食っている人間たち全員の、倫理の問題だと思う。
 ズバリ消えてほしい。
『読売Weekly』2006年2月 

※恥部

 番組改編期のテレビは、例によって特番ラッシュでぐちゃぐちゃだが、仔細に観察すると、各局の現状が見えてくる。結局、火事場のどさくさで組まれるこの時期の番組編成には、ふだんは隠しおおせているテレビの恥部がうっかり露呈しているわけで、してみると「スペシャル」の訳語は「恥部」とすべきなのかもしれない。
 たとえば、3月28日のテレビ欄を見ると、TBSが「祝!ズバリ言うわよ!細木数子生誕祭!2週連続2時間スペシャル」というのをゴールデン(午後7時~9時)に持ってきている。しかも、午後2時~4時が「新春もズバリ言うわよ!細木数子2006年大予言――以下略――SP」と、これまた細木特番の再放送。つまりアレだ。TBSは今クールも細木先生と心中する決意なのだな。乗りかかったタイタニック。航海先に立たず。
 思うに、細木数子の命脈は、本人の才能やタレント性ではなく、鑑定の対象となる芸能人の恥部に依存している。より詳しく述べるなら、細木数子は、テレビ局が、芸能人のプライバシーをネタに商売をする際のキー(鍵)として機能しているのであって、鑑定そのものは鍵穴に過ぎないわけなのだ。仮に、鍵と鍵穴を除けて番組を作ったら、細木スペシャルは、そのまんま出演者の私生活&恥部暴露番組になるはずだ。
 ちなみに、翌29日のテーブルを見てみると、「恥部」がモロな形で番組になっている。「ザ・放送ヲ阻止セヨ!! これ知られたら芸能界明日から生きてけない絶体絶命スペシャル2 クイズ不正解だと激ヤバVTR流出…極秘結婚バレたのは誰だ?&写真週刊誌より早く人気芸人マジ密会激写&整形女優実名が&美人タレント元カレ」(3/29 18:55~20:55 TBS系)……テレビ欄だけでおなか一杯という感じ。かんべんしてほしい。
 見る人がいるのは、まあ仕方ないとして、こういう番組に出る人間はいったい、どんな気分なんだろう。いや、一番不可解なのは、このテの番組を企画して作っている連中の神経だな。出演者や視聴者は、どっちにしろ、犠牲者に過ぎない。
 さて、28日の読売新聞には、以下のような記事が載っている。
――番組の人権侵害について審理する第三者機関「放送と人権等権利に関する委員会」(BRC)は28日、関西テレビに対し、昨年夏に放送したバラエティー番組「たかじん胸いっぱい」に「著しいプライバシーの侵害があった」と決定し、再発防止のための体制整備を勧告した。
 バラエティー番組について、BRCが委員会決定を下したのは初めて。
 決定によると、昨年6月、関西地域で放送された同番組に出演したタレントの杉田かおるさんが、当時、夫だった男性との結婚生活などについて暴露。翌月の番組では、杉田さん以外の出演者が、関連するトークを繰り広げた。――後略:読売新聞3月28日――
 テレビの人権侵害が、これまで問題にされていなかったのは、犠牲者の選び方が絶妙だったからだと思う。具体的に言うと、彼らは、モロな弱者は相手にせず、「一見強者に見える弱者」(←弱小プロダクション所属の芸能人。下っ端の役人。下り坂の政治家)をネタにしているのだ。
 その意味では、たとえば「旧財閥に連なる無名人」である杉田かおるの元夫などは、「庶民の素朴な嫉妬の対象にはなるものの、実質的な権力や知名度はゼロ」だったりする点で、テレビにとって絶好の生け贄だったわけだ。
 杉田かおる自身も、本人の破滅志向につけ込まれた形で社会的自殺の一部始終を公開されたわけだから、その意味では犠牲者でもある。
 公開先に立たず。うん、笑えないな。
『読売Weekly』2006年4月 

  ちょっとした言及だけならまだまだあるんだけど、そうなるとなんだか「全集」みたいになっちまうんで。それらについては、待て単行本化ってことで(笑)。

 というわけで、それではみなさん。よい週末を.。

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2006/05/19

彼らのゲーム

 霊だの死だのと、シケた話が続いているので、ちょっと風向きを変えます。

 広告と雑誌原稿の違いについて、さる業界関係者との間で話がはずんだので、その周辺のお話をば。
 「雑誌記事と雑誌広告の違い」とはいうものの、出来上がりを見比べてみると、実はたいした違いはなかったりする。
 特に、昨今は、パブ記事というのが増えて、広告と記事の境界線は、ますますもって曖昧になってきている。
 でも、アウトプットの結果はともかくとして、制作過程について言うなら、両者の間には、まだまだ、かなりはっきりとした違いがある。

  • 前提から結論に至るのが記事原稿。
  • 結論から前提を導き出すのが広告のボディーコピー
  • 持ち上げるのが広告。クサすのが記事
  • 暴くのが記事。飾るのが広告

 と、一見もっともらしいが、じっさいのところ、以上にあげたポイントは、さして本質的な差異ではない。
 はじめに結論ありきのコラムだってけっこうあるし、提灯持ちのエッセーも少なくない。それに、最近の広告は、露悪から入るのがあったりする。広告屋さんたちの繰り出してくるレトリックは、まことにもってあなどりがたい。

 結論を述べると、一番の違いは、実は、発注者、すなわちクライアントにある。
 もう少し具体的に言うと、発注者が玄人であるか素人であるかというところに差があるわけです。

 雑誌原稿は、玄人が玄人に発注している。だから、滅多なことでは直しは発生しない。玄人の編集者が、玄人のライターの原稿に訂正を要求するのは、明らかな記述ミスがあるか、よほど原稿の出来がひどいか、でなければ、出版コードにひっかかる表現(スポンサー関連を含む)が含まれていた場合に限られる。
 一方、広告は、素人が玄人に発注するメディアだ。しかもその素人は、カネを持っていて、玄人の仕事に口を出す。うわあ。
 というわけで、制作過程はまるで違う。
 以下は、15年ほど前に、とある広告業界人と私がかわした会話。若干誇張してあるが、まあ、おおむね、こんな感じだった。
「だからさ。ラフの段階で切り札を切ると自縄自縛に陥るわけだよ」
「なぜさ」
「だって、ど素人のクライアントがチェックするんだぜ。初手から最高のデキだったら、その先は悪くなるばっかりじゃないか」
「最高のデキなら、チェックがはいらないんじゃないのか?」
「甘いな、オダジマ君。たとえば、宣伝部の課長がラフ案を見て『最高ですね。これでオッケーです』なんて言ったんだとしたら、そいつは、チェックマンの仕事を果たしていないことになる。だから、課長は『ここ、もう少しシャープにならないですかね』とか、くだらないこと言うわけだよ」
「クライアントってのは、そんなバカぞろいなのか?」
「クライアントだって苦しいんだよ。たとえば、王貞治みたいな人のプレーにダメださなきゃならん立場に置かれているわけだから。『フォームに安定感がない感じがするんだけど、きちんと二本足で立って打ってみてくれないかなあ』とか」
「王貞治って……お前、そんなに偉いのか?」
「いや、クリエイターとしての力量からすれば、その宣伝課長とオレの間には、高校球児と王貞治ぐらいの実力差は当然あるわけだよ。でなけりゃ、専門家に依頼する意味ないじゃないか」
「っていうか、専門家に依頼したんなら、その専門家の手腕を信じて、黙って任せれば良さそうなものじゃないか。それを、どうして素人の分際でいちいちチェックなんか入れるんだ?」
「そこのところがこの仕事の醍醐味でね。広告ってのは、視聴者や読者のために作ってるんじゃない。オレたちがやってるのは、あくまでも発注者を良い気持ちにさせるためのゲームなんだよ」
「じゃあ、アレか? ベルリンフィルを相手に、素人が棒振ってるみたいな世界なのか?」
「そう。カネ出してるのは、その素人指揮者だからな」
「それでも、チェックマンが一人ならどうってことはない。でも、一本の広告コピーを通すためには、最低でも5人ぐらいのチェックは通さないといけない。そうすると、当然五箇所程度の直しは入るわけだ」
「だから、第一稿には、ヤマほどツッコミどころを用意しとく。ここ直せばぐっと良くなるみたいなポイントを散りばめておかないとダメなんだな」
「……で、チェックを通る度にどんどん作品の質が向上していく、と」
「そう。そうしてこそチームの全員がハッピーになるわけさ」
今テレビで流れてるCMね、あれ、ラフ案はえらく凡庸だったんだけど、私がチェック入れまくって、なんとかあそこまで持って行ったんだよ、とか、クライアントのクソオヤジにそう思わせればオレらの勝ちなわけだよ」

 ん?
 この話、何かに似ていないか?
 ジーコジャパン?
 違うよ。
 小泉改革。
 純ちゃんのためのゲーム。
 
 寝よう。

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2006/05/18

憑依

 雨。
 外出する気になれない。
 外に出るためには、どうしても外廊下を通過せねばならない(うちのマンションは、各戸の玄関とエレベーターホールおよび階段が外廊下に面した構造になっている)のだが、そこはすなわち自殺者が飛び降りた場所だからだ。私は現場検証に立ち会った人間でもあるので、なんというのか、記憶が生々しいわけだ。
 そこへ持ってきて「未浄化霊」である。
「二人羽織みたいに霊が取り憑いて、何度でも飛び降りる」
「本人に自殺するつもりがなくても飛び降りてしまう」
 ってな話を、オレは読まされたわけだ。
 何なんだ? これは。

 猛烈に腹が立つ。
 あるいは、これはひとつの心因反応なのだろうか。
 私は、元来、ひとつのことを根に持つタイプの男ではない。
 が、現実に、たかだか週刊誌のヨタ記事に過ぎないものに対して、三日たっても醒めない強烈な憤りを覚えている。
 ん?
 憑依?
 何かが取り憑いているんだろうか?
 その怒りも霊の障りですよ
 ってか?
 悪いけど、そういう冗談に付き合っている余裕はない。
 もし仮に未浄化霊だとかいったものが、オレに取り憑いているんだとしたら、オレは、飛び降りて自らの身を滅ぼしてでもそいつにダメージを……
 ……いや、冗談だけどさ。
 不謹慎な冗談を言う。
 これも、心因反応のひとつだ。

 昨日今日と、ムッとして、うまく原稿に向かうことができなかった。
 被害甚大だ。
 江原に対しては、今後、つらく当たることになるだろう。
 江原に限らず、私の前で、霊魂だの死後の世界だのといった話をする人間は、恐ろしい目に遭うはずだ。
 っていうか、オレが取り憑いてやる。
 生きて動いている人間のオーラがどんなに恐ろしいものであるのか、必ず思い知らせて……
 ま、人を呪わば穴二つとも申しますし、取り憑いたりはしません。
 でも、とりあえず、絶交だな。
「あたしって霊感が強いタイプからぁー」
 みたいな人たちとは、今後一切口をきかない。
 死が互いを分かつまで。
 ここまで言っても、わからないか?
 お前だよ、お前。
 二度とオレの前に顔出すなよ。

 葬式にだけは出てやる。
 オレの方が長生きしたことを確認するために(笑)。

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2006/05/17

オーラの泥沼

「週刊現代」が「細木数子――魔女の履歴書」というルポを掲載している。
 執筆者は溝口敦というジャーナリスト。「巨弾ルポルタージュ連載スタート!」と、麗々しく銘打って始まった巻頭連載の今週が2回目で、分量は5ページ(初回は6ページ)。なかなかチカラのはいった好企画だ。細木数子の出生時からの来歴を時系列で明らかにしていくつもりのようだ。素晴らしい。
 ここまで二週分を読んだところでは、既出のお話というのか、ネット上に既に流布している情報が多くて、とりあえず、びっくりするような新事実はまだ出てきていない。
 が、それでも、活字メディアにこれだけ集中的な形で情報が掲載される意味は小さくない。ネットのまとめページに意味がないわけではないが、社会的な影響力や信用度については、活字の力がまだまだ圧倒的だからだ。ぜひ、がんばってほしい。
 というわけで、先週、今週と、週刊現代を自腹購読しているのだが、今日になってひとつ、つまらないことに気づいた。
 せっかくの注目企画に水を差す奇妙な連載記事が、巻頭連載とほぼ同時期にはじまっているのだ。
 タイトルは、「江原啓之 会社のオーラ」。掲載は今回で3回目。江原啓之と編集部員の対話を編集部が原稿に起こす形の記事で、分量は見開き2ページ。
 内容?
 まあ、タイトルだけ見れば見当がつきそうなものだが、要するに「オーラの泉」でやっているお話をサラリーマン向けにアレンジしました、という至極安易な企画です。説明する気にもなりゃしません。以下に今週分の一部を抜粋する。
 著作権? カネが欲しいんなら訴えろよ。受けて立つぞ。

――江原さんには、霊に取り憑かれた人が視えるんですか?
江原:二人羽織のように「未浄化霊」が重なっているのが見えます。
江原:死んだことに気づいていない霊の場合は、電車のホームから何度も繰り返し線路に飛び込んだりすることもあります。
――憑依された人はその道連れになるわけですね。恐ろしい……
江原:問題なのは、憑依現象によって自殺が起きると、未浄化霊が二つに増えてしまい、それぞれがまた憑依現象を起こすこと。倍々ゲームで未浄化霊が増え、自殺者が増えていく。実はそれこそが「自殺の名所」のカラクリなんです。
――なるほど……。
江原:自殺を意識している人だけが憑依されるとも限りません。「ちょっと休みたいなー」と思っているだけなのに死んでしまった、というのはよくあることなんですよ。(以下略)

 念のために状況を説明すると、私の住んでいるマンションでは、つい5日ほど前に、飛び降り自殺が起きている。で、その事実を踏まえた上で、私が、こういうものを読んで、どんな気持ちになるか、週刊現代の編集部の皆さんは、見当がつくだろうか?
 つまり、アレか? オレは、外廊下に住み着いている「未浄化霊」だかに取り憑かれて、飛び降りるかもしれない、と、そういうふうなことを諸君は主張しているわけだな? それも、本人に死ぬつもりがなくても、「休みたいなー」とか思ってるだけで。それが「よくあることなんですよ」、と、オレにそう思わせたいんだな?
 ちっくしょう。冗談じゃないぞ。
 訴訟起こそうかなあ。
 だって、あんまり不愉快じゃないか。
 同じマンションの住民の中には、ショック状態で病院に通っている人間だっているんだぞ。それを、そういう読者が読んでいるかも知れないのに、江原は、「未浄化霊」だのと、こんな無益かつ暴力的かつ脅迫的な概念を、自死遺族をはじめとする、自殺の影におびえる人々に向けて流布宣伝して、それをネタに「カウンセリング」だとかで稼ごうとしている。
 これは、犯罪じゃないのか?
 あぁ? オーラの色だ?
 顔色が悪くなるみたいに、オーラの色がくすんでいるのが私には見えるだと?
 なあ、自分のクソの色をよく見つめてみるといいぞ。
 それがあんたの魂の色だ。匂いも。
 味も、だ。食ってみろよ。
 ん? どういうことかって?
 わからないのか?
 糞食らえと、オレは言っている。
 いいか? 伝えたぞ。

「週刊現代」の編集部は、何を考えているんだろう。
 こんなブタのゲロみたいな連載記事を、担当ライターの文責でなく、編集部の名前でやっているのは、どういう理由なんだ?
 それだけ、自信があるということか?
 それとも、単に個人名を冠した形で、この企画に携わってくれるライターが、一人も見つからなかったということなのか?
 いずれにしても、この江原の連載は、巻頭連載の勢いに水を差すだけではない。雑誌そのものの信用に泥を塗っている。
 溝口氏にも失礼だと思う。
 オレが溝口氏なら、間違いなく編集部に電話をしている。
「あのね。私の記事を巻頭に持ってきてくれたことには一応感謝しておきます。でもね、あの江原某とかいう人の連載は、あれはどういういきさつのものなんでしょうか? だって、あれ、編集部企画ですよね? 私の記事に対する当てつけなんですか? つまり、週刊現代はオカルトの味方です、と、そういう宣言みたいなものですか? ということは、私の記事は、編集方針に逆行する、営業上迷惑千万なデキものだ、と、そういうふうに受け止めてもかまわないわけですか?」
 ……あるいは、こういう、編集部にとって何一つプラスになるはずのない連載記事が掲載されるウラには、雑誌編集部の意向とは別の、もっとデカいところの思惑(たとえば、出せば十万部は見込める江原関連出版物の版権やら文庫化権をめぐる駆け引きとか条件とか口約束とか、あるいは、テレビ局とのメディアミックスのなんたらとか、代理店がらみのどうしたこうしたとか)があるのかもしれない。
 どっちにしても、来週からは買わないよ。永遠に。溝口さんには悪いけど。
 バイバイ。

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2006/05/15

霊魂と自尊心

 死者を悼む気持ちや、亡くなった者と会いたいという心情を否定するつもりはない。
 しかしながら、凄惨な事故の現場に立ち会って動揺している人間や、身内の死に直面して打ちひしがれている遺族に対して、「口寄せ」だの「浄霊」だのといった話題を持って近づいてくる人間がいることには、やはり嫌悪の念を禁じ得ない。

 儀式化された葬儀には、それなりの意味があるのだと思う。
 残された者の喪失感を軟着陸させる意味でも、追悼の気持ちを目に見える形で表現するためにも、格式張った葬儀や宗教儀礼は、必要なものであるのだろう。
 しかし、浄霊、除霊、口寄せ、スピリチュアルカウンセリング、といった霊能者の個人能力に乗っかった作業は、人類文化の伝統に根ざした追悼や慰霊の儀式とはかなり意味が違う。これらは、詐欺ないしは、恐喝だ。
 詐欺、恐喝でないにしても「霊魂が見える」ということを主張している人間は、自我狂ではあるはずだ。
 彼らの心中では、霊魂の存在は、疑い得ない大前提となっている……と、ここまでは良い。霊魂の存在を信じている人は少なくないし、そう考えることがほかの誰かに害をなすわけでもないからだ。
 問題は次の前提、「霊が見える人間とそうでない人間がいる」という、彼らのうちにある決めつけにある。
 つまり「世の中には、生まれつき霊魂の存在を感知する能力を持っている人間と、その能力を持たずに生まれてくる人間の二種類があって、自分は前者である」とするこの決定論は明らかな選民思想なのである。
 であるから、霊魂肯定派の人々は、霊魂を否定する側の人々に対して、万全の優越感を持って対峙している。
「合理主義者だかなんだか知らないけど、あの人たちは、霊が見えないかわいそうな人たちなのよ」
 と。

 霊魂やオカルトといった神秘思想にハマるのは、必ずしもアタマの悪い人々ではない。
 アタマの出来不出来だけについて言うなら、霊を信じる人には、どちらかというとアタマの良い人が多いのかもしれない。
 では、アタマの良い彼らがどうして、霊能力者なんかにひっかかるのか。
 思い上がっているからだ。
 彼らは、自分が特別な人間だと、ぜひともそういうふうに考えたい人々なのであって、霊魂は、そのためのツールあるいは筋道なのである。

 霊能力者にひっかかる人々の選民意識は「あなたは○○の生まれ変わりです」だとか「あなたには龍神様がついています」みたいな、特別なご託宣をほしがるという形で顕在化する。
 一方、霊能力商売にたずさわる人間には、独特の鑑識眼があって、自分のところに相談にやってくる人間を、「たたり」や「悪霊」で脅した方が良い組と、「守護霊」や「輪廻転生」を持ち出して、自尊心をくすぐってやった方が良い組に、素早く分けることができる。まあ、詐欺師の目だけど。
 で、思い上がりのキツい、芸術家肌の、シャーマン体質の、自分大好きな人たち(ユ○ミン、林真○子、あるいは、そのほか「オーラの泉」に集う幾多の芸能人たち)は、霊界のファーストクラス認定と引き替えに、こぞって有名霊能者の広告塔になる、と。

霊魂が存在するのかしないのか、という議論に深入りするつもりはない。
 私自身は霊魂など存在しないと考えているが、その考えもまた私の独断に過ぎないのだし、いずれにしても、この種の議論については、100パーセントの証拠は提示できないわけだから。
 だから、百歩譲って、「霊魂に類するものが存在する可能性は否定しない」というところまでは認めても良い。
 だが、その「霊魂」に対して「アクセスできる人間とそうでない人間がいる」とする命題について言うなら、私は、その前提は絶対に受け付けない。
 だって、そうだろ?
 彼ら自称霊能力者は、「霊魂の有無」についての議論を、「霊能力の有無」にすりかえているって、それだけの話じゃないか。
 というよりも、「霊」という超自然的な存在を語るにあたって、「能力」みたいな場違いな(というよりも無茶苦茶に個人的な)要素を持ち出してくるのは、彼らにとっての最重要課題が、霊そのものではなくて、自らの能力の誇示であるからにほかならないのだよ。

 だから私はこう言う。
「霊は存在するのかもしれない。が、だとしても、その霊が、エハラ某や美輪某や細木のババアの目には見えて、オレの目には見えないという、そのことは絶対に認めない」
 と。
 以上の主張は、非霊能力者である私が、全身全霊をかけて防衛せねばならない最後の一線だ。なんとなれば、霊、神、あるいは超越者といった形而上の存在について、それらとともにある人間とそうでない人間がいるとする前提は、人間を、高級種と低級種に分類する思想にほかならなず、その思想は、どうしたって高級人類による、低級人類の支配およびコントロールという結論に到達せざるを得ないからだ。

 いわゆる「霊感の強さ」を自覚している人間は、最終的には、自分が、守護霊や、先祖の霊、あるいは前世の因縁や転生の記憶を通じて、一種の超能力(予知能力とか危険回避能力とか、人格識別能力とか)を発揮できる存在である旨を主張することになる
 結局、「霊感」を主張している人間が言わんとしていることの骨子は「私は特別な人間だ」「オレは選ばれた人間だ」「自分は高貴な血統の末裔だ」「私は歴史上の偉人存在の生まれ変わりだ」
 という、なんというのか、シャレにもならない自慢話に尽きるわけなのだな。
 うーん、大演説になってしまった。
 そこいらへんに飛んだ唾を拭いて、寝てください。
 オレも寝ます。
 

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2006/05/13

うるうる

 前のエントリーで、抗鬱剤について書いたので、ちょっと補足を。
 サッカー日本代表のスコットランド戦についてはノーコメント。
 あんまり身を入れて観戦できなかったので。

 私が抗鬱剤の世話になったのは、アルコール依存の治療で精神安定剤を飲んでいた時期。なんでも精神安定剤(銘柄は忘れた)を服用すると、鬱状態に陥る人がいるらしく、それをキャップする意味で処方されていた。
 服用していた期間は、8ヶ月ほど。
 その間に副作用で10キロほど太ったが、まあ、それはそれ。仕方がありません。
 で、私の場合は、抗鬱剤の方がえらく効いたようで、その薬を飲んでいた時期は、気分が昂揚するのみならず、人生観までちょっと変わっていた。
 
 無論、薬で得ていた多幸感は、薬をやめれば去ってしまう。
 でも、一度あのすっきりとした青空みたいな気分を味わうと、事後が違ってくる。
 たとえば、頂上からの景色を一度でも見たことのある者は、キツい登り道にも簡単にはめげなくなる、と、そんな感じ。
 それに、薬みたいなもので簡単に気分が爽快になるということを経験すると、「苦悩も絶望も、しょせんは化学的な反応に過ぎない」という開き直りが生まれる。
 個人的には、私が抱えていた抑鬱は、アルコール由来(つまり、アルコールが切れている時の離脱症状としての抑鬱感。アルコール依存者は、禁断症状の憂鬱と、泥酔の闇の間を振り子のように行き来している)のものがほとんどだったわけで、その意味から言えば、私の場合のなりゆきは、抗鬱剤の力で、人生をやり直したというスジの話ではない。
 でも、とにかく、軽い鬱であっても、鬱を自覚している人には、一度ダメ元で、心療内科に相談してみることをおすすめしたい。役に立たなかったからといって、たいしたダメージにはならない。せいぜいが数千円の出費。いや、そんなにかからないかも。
 薬なんかに頼らないで、自分の精神力で乗り切らないと……みたいな、そういう真面目な考え方をする人が鬱病に陥りがちなのだそうだが、ううむ、軽い気持ちで心療内科に駆け込むような人は、そもそもあんまり鬱病とは縁がないのかもしれない。

 いずれにしても、あのACの「うつ」のCMは、感じが悪い。
「うるうるっと」(2年ほど前に頻繁にオンエアされていた最初のバージョン。「つらかったんですねっていわれて、なんかうるうるってきちゃたんですよね……」とかなんとか)の時の女性タレントの、甘ったれた感じのしゃべり方は、鬱で悩む人々に対しての、世間の誤解(←何を甘ったれてやがるんだ! みたいな)を助長しかねない感じだった。特に、「うるうるっと」という、古い世代の日本人にケンカを売ってるみたいな軽薄な言葉使いをあえて選んだのは大失敗だと思う。「若者らしさ」や「気軽な感じ」を演出しようとしたのかもしれないが、まったく的はずれ。単に考えの浅い、薄っぺらな印象を垂れ流したのみ。患者自身の体験談に見せかけて、実はタレントさんを使っていたのも悪印象だった。だまされた感じを受けた視聴者は多いと思う。

 最近までやっていた「いつからですか?」「いつから、がまんしてるんですか?」「いつから悩んでいるんですか?」とたたみかけてくるバージョンもNG。
 「いつから」の発音が「ぇつから」みたいで気持ちが悪かった。
 つまり、これもまた非常にベタついたしゃべり方がマイナスイメージを決定づけていたわけですね。
 どうしてACの広告ってあんなのばっかりなんだろう。
 もしかして、鬱の人間を追いつめるのが真の目的なのか?
 黒幕は戸塚校長&石頭都知事とか?
 おそらく、戸塚校長に言わせれば、鬱病患者とかは、「甘やかされたおかげで、弱く育ってしまった戦後教育の犠牲者」なんだろう。今週号の文春の寄稿は、ほんとにひどい。バカ過ぎる。

 いかん。話がバラけてきた。
 寝よう。

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転落

 午前二時過ぎ、突然の電話。
 同時刻に帰宅した妻から。
「駐輪場に人が倒れている」
 と。
 かなり動転している様子。

 すぐに1階に降りて、玄関ホールからガラスのドア越しに駐輪場を見ると、若い人(5メートルほど離れているのでそれ以上はわからない)が倒れている。ひと目見て、非常に良くない感じ。これ以上近づきたくない。
 警察には既に妻が連絡済みだったようで5分ほどのうちに数人の警官が駆けつけてくる。ほどなく救急車も到着。その後も続々と警官が登場。なんだかんだで20人近い人数になる。サイレンは鳴らさず。深夜は、自粛するもののようだ。
 倒れていた人は、救急隊員が甦生を試みるも即死状態であるらしい。しばらく後、搬送されて行く。
 以後、警官の質問に答えるなどして、一時間ほど取り調べにつきあう。
 まず、住所、氏名、年齢を聞かれる。
 で、発見時の状況などについて話す。
 ほかにも、ざっと以下の周辺事情を話す。

  • 火曜日の夜に、駐輪場に向けて消化器が投げ落とされた事件があった。ちなみに、各階の共用部分に設置されている消火器のうち、10階のものだけが無くなっていたので、おそらく投棄した現場も10階と推定される。
  • 1年以上前にも、同じ10階の消火器が投げ落とされたことがあった。
    火曜日の投げ落としについては、水曜日に管理会社の人間が調査に来て、警察にも一応報告してあったはず。

 一通り状況を報告した後、警官とともに、各階の共用部分を見て回る。

  • 落下位置から見て、飛び降りの現場は、ビルの外壁から露出しているコンクリート製の梁(外廊下から柵を越えてアクセスできる)の部分。
  • 9階の梁にタバコの吸い殻が3本。踏んで消した形跡はなく、燃えさしの状態。銘柄はラーク。遺体が所持していた銘柄(箱。開封済み)と一致。証拠採用のために、中年の警官一名が大胆にも梁に降り立つ。で、直接採取。ジップロックを提供。
  • 9階と10階を集中的に検分。メジャーを取り出して、様々な場所の寸法を測定している。
  • 3時過ぎ「ご苦労様でした」と言われて帰宅。その後も警官たちは色々と写真を撮ったりしていたようだが、とりあえず自室に戻る。疲れた。

 帰宅後。アタマが冴えて眠れず。
 以下、つらつらと思ったことなど。

  • そもそも妻の帰宅が遅かったこと自体、先月のはじめに長男を亡くした(住んでいるマンションの非常階段から転落した)奥さんのお宅を訪問した帰りだったから。
  • その話についても後日談は色々とあるのだが、個人情報なので詳しくは書かない。とにかく、ご長男は、愚息の小学校時代の同級生で、ものすごく優秀な子供だった。この春に中学三年生に進級したばかり。母一人、子一人の家庭だった。むごい話だ。転落が事故なのか自殺なのか、憶測はしないでおく。いずれであれ、本人にしか知り得ないことだから。
  • 朝になって、駐輪場に横たわっていた死体が、10階の住人であることが判明。
    50代とおぼしきご夫妻の長男。もう一人下に娘さんがいる。ご長男は、あんまり見かけなかった(あるいは別に住まいを借りていたのかも)が、娘さん、ご両親とは、エレベーターで時おり一緒になる。明るい、ごく普通の家庭に見えたが。合掌。

 昨年来、たいして数が多いわけでもない知り合いの周辺で、事故や自殺が相次いでいる。
 痛ましいことだ。
 月並みな意見だが、自殺は良くない。
 生きていれば、状況が変わることもある。
 死んでしまう前に、せめて医師の門を叩いてみるべきだと思う。
 あの抗鬱剤という薬は、私も世話になったことがあるが、魔法みたいに効く。まあ、効かない人もいるようだが。
 電気ショックも、効く人には電撃的に効くという。
 いずれにしても、絶望は、ケミカルな反応に過ぎない。
 ……と、そう思って、結論を出す前にもがいてみてほしい。

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2006/05/07

鹿島戦

J1第12節 浦和VS鹿島

 タイトルのところで「かしません」を変換したら、「貸しません」と言ってきた。
 ATOKは何でも知っている。
 そう。わがレッズは、アントラーズに白星を貸さない。選手をレンタルするつもりもない。手を貸したり智恵を貸したり、肩を貸す義理もない。ただ惜しみなく奪うのみ。悪く思わないでくれ、モトやん。君らがさんざんやってきたことだ。そう、無慈悲な圧勝ってやつだ。

 埼玉スタジアムにて生観戦。
 雨。ただし、バックアッパー席の高い方だったので、観戦中はまったく濡れなかった。
 試合は圧勝。4-0。夢のようだ。
 小野君は近来最高の出来。2得点。抜け目なく走り込んで決めた先制点と、軽いタッチで蹴りこんだ右足アウト気味のループシュート。うれしい。猛烈にうれしい。
 働こう。

Rsup0507
※こうやってみると、なんだかわかりませんね。
ヤバ目の宗教団体?
ちょいとタガの緩んだ北朝鮮ピーポー?
いえいえ、揃いのレインコートで身を固めたわれらがゴール裏のレッズサポです。

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カメダこりゃ

 TBS「サンデージャポン」は、亀田祭りなんだそうだ。
 はいはい、ご勝手にどうぞ。
 亀田一家の皆さんについては、ノーコメント。
 TBSについても同様。
 絶句閉口長嘆息。言わぬが鼻薬。
 収穫は動員した「有名人」の正体が見えたことかな。
 まあ、一種の踏み絵みたいなものです。
「ほほう、この人は提灯ホルダーなんだな」
「……こいつもカネに転ぶ人間なわけだ」
 と、せめて亀田利権に群がった人たちの顔を記憶しておくことにしようではありませんか。
 花に蝶 糞に銀蠅 亀に蓑
 テリー伊藤、さんま、みの、キムタク、二宮清純……といった、これらの人々が、実は叶姉妹、野村サッチーや川島なおみと同じジャンルのタレントであることが判明したわけで、まあ、なんというのか絶句ですよ。
 爆笑問題にもがっかりした。太田は何か言うと思ってたけど。
 八百万の神がついてるとか、スジガキじゃなかったスジガネ入りの強さだとか、噛んだふりして皮肉ぐらいは言ってもみても良さそうなものだったのだが……
 まあ、仕方ないか。お得意先がなけなしの社運をかけて全力プッシュしてるわけなんだし、浮き草稼業の芸能人としてはなまあたたかく乗っかっておくのが賢い処世ってやつだよな。
 残念なのは、竹原、畑山、鬼塚といった元チャンプが軒並み亀田陣営になびいていること。
 まあ、「ガチンコファイトクラブ」以来の腐れ縁というのか、ボクサーって、デビュー前と引退後はナニな人が多いから。亀田君は、現役でもアレだけど。
 
※長男について

  • 左右のフックは良い。
  • アッパーも打てる。
  • でも、ジャブが使えてない。ストレートも遅い。
  • ディフェンスはアームブロックのみ。ガードを固めてそれでおしまい。
  • ウィービング、ダッキング、スウェーはほとんど使えず。パーリングも無し。
  • フットワークについても、追い足はあるようだがディフェンスのフットワークは未知数。仕方ないよね。だって、素人のオヤジに殴り方を仕込まれただけで、きちんとしたジムでスパーリングやってないんだから。試合も弱い相手としかやってないわけだし。
  • つまり、アレです。ディフェンスがあまりにも貧弱。
  • おそらく、世界チャンピオンクラスの選手と当たったら惨敗でしょう。

※次男について

  • オープンブロー
  • ってか、猫パンチ
  • でたらめ

※マッチメイキングなど

  • 「世界前哨戦」というのは、本来世界戦が決まった後に組まれるもの。
  • っていうか、世界戦を前に、ウォーミングアップ、景気づけ、ないしは課題消化のために組まれるのが、「世界前哨戦」であるはず。ランキング30位の選手とホームで対戦する試合になんの意味があるんだ?
  • 「前哨戦」を3試合もやったあげくに、まだ世界戦が決まっていないなんて前代未聞ですぜ。
  • 実質5分の試合(←2試合あわせて)を2時間枠で(←しかも録画をナマに見せかけて)放映するボクシング番組も前代未聞。ボクシングの自殺。断末魔。
  • まあ、世界戦前に稼いでおかないと、その先はないわけだから……

 青木家、亀田一家、スノボの今井三兄弟、細木、サッチー、ガチンコ……
 TBSって……

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2006/05/06

教育家威嚇

 コメント欄のやりとりを眺めていて、ずっと昔、NHKの海外番組枠で見たドキュメンタリーを思い出した。
 俳優のピーター・フォーク(←「刑事コロンボ」)がレポーターを勤めた2時間ほどの番組で、内容はアメリカのある州がやっている不良少年更生プログラムの紹介だった。
 あやふやな記憶に沿って再現すると、番組の構成はこんな感じ。

  1. はじめにちょっとした非行(万引きとか喧嘩とか)で検挙されて、州の矯正プログラムを受けることになったティーンエイジャー数人を紹介して、それぞれの少年にフォーク氏がインタビューする。この段階では、少年たちは猛烈にツッパっている。「刑務所が怖いかって? めんどくさいけど、コワいってことはないな」「マジメにやり直す気があるかだと? ふん。冗談なら笑ってやるよ」てな調子。亀田状態。
  2. 更生プログラムに協力を申し出た受刑者の紹介とインタビュー:いずれも、懲役100年を超える凶悪犯。ムショで毎日筋トレしているおかげで、見かけもマッチョ。インタビューはマジメ。「子供たちが勘違いしないように導いてやりたい」とか。
  3. 非行少年と受刑者の対面風景。ここが番組のヤマ:「お前らここに何しにきたかわかってるな?」「返事が聞こえないぞ」「……返事が聞こえないって言ってるんだよ。特にお前だ、お前」(と、顔面を2センチまで接近させる)「どうだ? 聞こえるか?」「……ああ」「返事はハイだ」「……ハイ」「背筋を伸ばせ」「……」「返事はどうした? ん? もしかしてお前、オレを相手に粋がってるつもりか?」「……」「いいか、教えといてやる。オレは、人間を4人殺してる。懲役140年だ。シャバに出る見込みはゼロ。分かるか? つまり、ここでお前を殴り殺して、あと100年刑期が増えたところで、オレにとっちゃまるで同じことなわけだ。わかるか?」「……ハイ」「よーし、わかったならまずまっすぐ立て。それから、返事はハイだ」「ハイ」……と、この調子で一人ずつ半べそになるまで恫喝して行く。そして、完全に肝っ玉を縮みあがらせたところで刑務所がいかに厳しいところであるかについての講義を始め、シャバでの暮らしのありがたさや、神だの道徳だのといったお話につなげて行く。
  4. プログラム終了後の少年のインタビュー。「……半端に強がっていた自分が恥ずかしいです」「これからは、地道にやっていきたいと思います」

  ……とまあ、あんまり話がうまく運ぶんで、眉唾な感じすらしてしまうわけなのだが、話半分にしても面白いドキュメンタリーだった。「本格派凶悪受刑者による非行少年恫喝プログラム」という企画の秀逸さもさることながら、凶悪犯の皆さんの迫力がとにかくものすごかった。体格はボブサップ。声は若山ゲンゾウ。で、全身タトゥー。あれに凄まれては、ひとたまりもない。

 「教育」という言葉を、字義通りに解釈すると、その実施にあたって体罰を用いるなどということは、当然のことながら、想定外になる。
 ちなみに、学研の国語辞典では、「教育」の字義は、「知識・学問・技術・教養などを身につけるため、教え育てること」ということになっている。
 さてしかし、現実の教育現場には、「教育不適対象」とも言うべき、規格外の原料が一定数入荷してくる。
 と、それらの規格外教育対象に関しては「更生」「矯正」ぐらいの作業が要求されることになるわけなのだが、われわれの教育理念は、そうした不良分子を処理する技術を持っていない。
 それゆえ、学校現場でハンドリング可能な範囲を逸脱した児童・生徒は、「鑑別所」や「少年院」という別ルートの施設に送り込まれる。もちろん、第一義的には、一般生徒を不良分子の悪影響から防衛するために、だ。隔離した少年たちの更生については……まあ、強い自覚を期待するってことで。
 で、それらの矯正機関の不備を補う意味で、あるいは、世間体の悪い少年院とは違う「スクール」に自分の子供を所属させておきたいと願う切ない親心の反映として、ここに戸塚校長のニッチ市場が成立している。
 こういう対象について、いわゆる「教育」という論点から話をしても、議論がかみ合わないのは、当然なのだ。
 本来、「教育」の建前では、あらゆる人間が平等であり、すべての人間に十全な可能性が備わっていることになっている。
 が、現実の教室には、不揃いなリンゴとひと揃いの害虫が席を並べていたりする。
 工場長の論理で言えば、不良品は廃棄するか、再プレスにまわすしかない。
 さて、どうするか、だ。
 公的な機関が、不良分子の矯正を強行することは、これは近代法の理念と矛盾(だって、「どうしようもない人間もいる」「時には人権を制限せねばならない」という前提は、憲法違反だからね)する。そんなことはできない。

 戸塚校長が、もっぱら規格外の子供たちを相手に、彼の規格外の教育理念を強行しようとしていることは、もちろん、無慈悲な話だし、仔細に見れば、違法行為を含んでいるはずだ。が、「必要悪」という指摘にもあった通り、彼の強権の及ぶ範囲は、自分のスクールの狭小な土地の中に限られている。
 とすれば、預ける側と預かる側が合意している以上、彼の土地の中で、納得ずくで行われている蛮行は、いかに苛酷ではあっても、しょせんは私的な暴力に過ぎない。
 だから、私は、これ以上戸塚先生個人をいじくるつもりはない。

 私がうんざりしているのは、わが東京都が、戸塚氏の教育論(ま、「調教」理論だよね)を賛美してやまない人間(「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長は、創立以来ずっと石原慎太郎がつとめている)を、首長にいただいているという、そのことだ。
 戸塚校長の不遜不敵かつ堅忍不抜なキャラクターは、小面憎い半面、ある種のピカレスクな魅力を発散してもいる。特に、戦後社会の柔弱さにイラ立っている向きにはストレートにアピールするはずだ。
 で、その戸塚校長の悪目立ちを利用する形で、石原都知事は、著しくスパルタンな「教育改革」を推し進めようとしているわけだが、この「改革」が額面通りに実現したら、戸塚校長が行使した個人的な暴力とは比べものにならない、はるかに広範な権力犯罪として、後の世に致命的な悪影響を残すと思う。

 戸塚校長の次の一手が石原さんの落とし穴になってくれることを祈ろう。
 そのためには、メディアは、戸塚先生をおだてるべきかもしれない。
 オレもおだてておこう。
 先生。手加減は禁物。丸くなったら負けですよ。

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2006/05/05

戸塚養鶏場再訪

 戸塚校長の人柄とその方法論については、ずっと以前(2000年の10月。……前世紀ですね)に、ざっとしたところを書いたことがある。
 詳しくは、当時のテキスト(の10月2日の記述)を読んでみてください。

 私の立場は、現在でも、基本的には上記リンクで書いた内容と変わっていない。
(以下、念のために主要部分を引用)

 なるほど、T塚さんの言う通り、ある種の人間は、逆境に立てば立つほど内面的な強さを発揮するのであろう。
 厳しい体験や極限状況が、人間の可能性を広げるということも事実なのだろう。
 でも、それもこれも、結局は人それぞれだ。
 厳しさに耐えられない人間もいるし、逆境に萎縮するだけの人間もいる。
 同じ人間であっても、タイミング次第では、まったく別の反応をする。
 ある状況下では、人は、睡眠や引きこもりでしか癒されない。
 ……と、こんな簡単なことを、マッチョの連中は決して理解しない。
 
 T塚校長のこわばった表情を見ればわかる。
 ああいう人は、自分と違ったタイプの人間を理解することができない。仮に理解したとしても、彼は決して容認しない。
 おそらく、T塚校長のメソッドは、それなりの成果を上げているのだと思う。
 うまいタイミングで自分を追い込むことを知った子供は、その体験を糧に、自信を取り戻すものなのかもしれない。で、彼は、その自信をきっかけに生き方の方向を変えるかもしれない。
 が、そうならない人間もいる。弱い人間は依然として弱い。
 T塚校長の真意は、もしかしたら、弱い人間を叩き直すことよりも、むしろ彼らを踏み潰すことにあるのかもしれない。
 麦踏みと同じだ。
 麦踏みは、あれは、弱い麦を鍛えるための作業ではない。麦踏の真の狙いは、弱い麦を芽のうちに抹殺することによって、麦畑全体の強さの平均値を上げることだ。

 私は、戸塚校長のメソッドがまったく無効だと言いたいのではない。
 戸塚先生の方法論は、ある場合には、おそらく有効なのであろうし、それで立ち直った子供たちだっているのだろうと思っている。
 でも、体罰は、有効であってもなおやはり暴力ではある(無効な場合はなおのことだが)わけで、とすれば、それを行使する人間は、告訴や懲役や損害賠償や社会的制裁を覚悟した上でそれを発動せねばならないはずなのだ。まあ、先生は覚悟の上なのかもしれませんが。

 開腹手術は、悪化した病巣を切除する最後の手段として、非常に有効な医療行為であるし、ある場合には唯一の治療法だったりする。
 しかしながら、医師の免許を持たない者が他人の肉体にメスを入れれば、当然のことながら、それは傷害ということになる。
 外科医は、難しい試験をパスして、さらにインターンとして修行を積んだ上で、のみならず、失敗した場合は医療訴訟の被告となるリスクをおかして、施術に踏み切っている。
 体罰を行使する人間にだって、このぐらいの経験と見識と、資格と覚悟がなければいけないはずだ。
 先のエントリーのコメント欄でもちょっと話題になっていたみたいな、あまたある詐欺まがいの民間療法みたいな「効けばめっけもん」みたいなことで体罰教育論を振り回されたんではかなわない。

 あるいは、マッチョな教官がタコ殴りに殴りまくることで、不良少年の何割かは更生するかもしれない。
 問題は、更生できなかった場合だ。この場合、ただでさえ不適応な人間が、暴力によってねじ曲げられるわけだから、暴力の結果が物理的な傷害や死亡に至らないまでも、予後は最悪なことになる。

 戸塚校長とは離れて、体罰一般についても、一応考えるところを述べておく。うん。述べている場合じゃないんだけど。終わったら原稿書きますんで。

 子供時代を通じて、学校の教師からうんざりするほどの体罰を浴びた人間の一人として言わせて貰うに、教師の体罰の8割以上は、「教育効果」や「指導経験」とは無縁なものだ。教室で発動されている体罰のほとんどすべては、教師の側の感情的暴発に過ぎない。より端的に言えば、オダジマのような生意気な生徒は殴られがちだ、と、そういうスジのお話なのだよ、これは。
 しかも、体罰は、未熟な教師の逃げ場所になっている。
 というのも、体罰を行使すると、一時的に「教室が締まる」からだ。
 教室がざわついてどうしようもない時や、生徒たちが教師の話に集中していない時、誰か一人をつかまえて殴ると、教室の空気は一変して、たちまちピリっとした緊張がよみがえる。無能な教師は、この効果に依存する。
 で、話の面白さや、魅力や、人格的な圧力で生徒を制圧できない教師は、体罰によってそれを達成しようとする、と。ああ、思い出すだけで腹が立つ。ちくしょう。

 体罰に反対するような論陣を張ると、たちまち「偽善者」「プロ市民」「人権屋」みたいな非難が飛んでくるのが昨今の風潮だが、なにも悪ぶるばかりがコラムニストの持ち前ではない。
 露悪的な言辞を弄したり、乱暴なご発言を並べて度胸のある漢(←「おとこp」と読む)である旨の告知宣明につとめるのは、これは中学二年生のやりざまであって、いいおとなの言論人が真似るべき所作ではない。

 とはいうものの、「体罰はいけません」みたいなお話(「9条を守りましょう(笑)」も)を、ママのスカートの影に隠れているよい子の話し方みたいに聞こえない口調で決めるのは、けっこうむずかしいミッションだったりする。
 暴力や戦争を忌避する論調には、チキンな残響が伴ってしまう。で、人権、平和みたいな絶対善を訴える口調には、どうしたって偽善臭がついてまわる。やっかいなことだ。
 

ってことは、アレかな。平和主義や人権思想みたいなものは、なるべく伝法な口調で訴えるようにすべきなんだろうか。
「あ? 体罰だぁ? 上等じゃねえか。全力で受け止めてやっから、覚悟してかかってこいや、この半端ハゲ野郎が!」
「国防だと? ははははは。ったく、小金持ちの婆あじゃあるまいし、何を昼間っからビビりあがってるんだか。いい年ぶっころがして。北チョンだろうがシナントロプスだろうが、オレが堂々の丸腰ノーガードでねじふせてやるから、心配しないで今日ンとこは寝とけ。な」
 ぐらいがちょうど良いのかもしれない。

 いや、人前でチキンを押し通せるようじゃないと、本当のオトコとは呼べないぞ、と、ここは一番、一回転した侠気(←おとこぎ)を強調しておくところだろうか。

 寝よう。明日は早い。ってか、既に空が明るいぞちくしょう。

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2006/05/02

生体廃棄物処理の理論と実践

 午前中テレビを見ていたら、テレ朝のワイドショーに戸塚校長が出ていた。
 で、話題は、体罰の是非、徳育の必要性、戦後教育の荒廃とその原因ってなところを行ったり来たりしていた……のだが、あんまりばかばかしいんで、途中で電源を切った。だから、結論がどこに行った(あるいは消えた)のかは知らない。
 テレビは戸塚先生に釣られているのだろうか。
 それとも、視聴者を釣っているつもりなのだろうか?
 もはや、誰も食いつかないと思うのだがね。あんなエサには。
 だって、薄気味が悪いだけなんだから。

 液晶画面の中でツバを飛ばしているあの人たちは、体罰の是非を問う以前に、戸塚という人間の正体を明らかにしてしまえばそれ以上の議論はムダだ、という、そこのところに、どうして気づかないのだろう。
 体罰の是非については、様々な議論がある。軽々に一方的な結論を出せる問題ではない。
 というよりも、このテの問題にかんして、「体罰否定」「体罰肯定」みたいな二者択一の論陣を張ること自体が、議論の前提として軽薄なのであって、人間と人間が生身でぶつかり合う場所である教育については、個々のケースを注意深く検討しないと結論は出せない。当たり前の話である。
 それでも、「独善的な人間による一方的な体罰はよろしくない」ということだけは誰の目にもはっきりしている。とすれば、「戸塚の体罰はNG」という、この一点については、全世界的に明らかなわけです。
 ついでに申せば、この問題(←戸塚氏による体罰が「暴力」と認定されたこと)は、既に裁判を通じて結論が出ている。それゆえ、こんな話題は時間を使うだけムダなのだ。
 百歩譲って、体罰が有効であるような状況があるのだとしても、戸塚氏の体罰はその限りではない。なぜなら、戸塚校長は、暴力の行使する際に、決して自らを疑わないテの人間であるからだ。
 つまり、ためらいを伴わない体罰は、これはすなわち感情的暴発ないしは暴力なわけで、逆説的な言い方をするなら、体罰の有効性を高らかに訴える人間は、体罰を行使する資格を欠いている、ということだ。
 誤解を招きがちな表現だったかもしれない。
 別の言い方もしておこう。
 つまり、ある人間が別の人間に対して肉体的な強制力を行使するに際しては、前提として、強制力を行使する側の人間に、圧倒的な「徳性」が備わっていなければならない、と、そういうことです。
 で、戸塚先生にはその「徳」が無い、と。
 戸塚氏が言っている「徳育」の問題についても同様だ。
 徳育という考え方(ないしは、教育技術)が有効であるか無効であるのかについては、体罰の是非と同様、安易な結論は出せない。
 が、「戸塚の徳育は無効だ」ということは、断言しておかねばならない。
 なんとなれば、徳の無い人間による徳育は、板前による外科手術と選ぶところのない暴挙だからだ。
 
 ……って、ムダかな。何を言っても。
 黙ろう。
 あのテの「廃棄児童再生業者」みたいな人間は、相手にした時点で負けだ。
 再生業者?
 いや、再生なんかしていない。戸塚先生は「子捨て」という需要を商売にしている一種の処理業者であるに過ぎない。ま、教育廃棄物処理業者ってやつだ。

 結局、自分の子供が邪魔で、それを放擲したいと願っている親が一定数存在している以上、その需要を満たす業者が現れるのは当然の帰結であるわけで、遺棄子弟を有料で引き取って、社会的なパルプ滓みたいなものに仕立てあげる機関である戸塚ヨットスクールは、どんなに非難されようとも、不滅なのだな。
 どんな家にも便所が必要であるのと同じ理屈で、自分のケツを拭けない親がいる社会では、戸塚ヨットスクールの商売は安泰、と。
 だからこそ、こういう人間はテレビに出してはいけない。
 99%の人間に嫌われても、戸塚は全然痛くも痒くもない。
 だって、残りの1%の、子供を捨てたいと願っている親たちに対してプロモーションができれば、商売としては大成功なわけだから。
 寝よう。
 いや、その前に原稿、と(笑)。

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