馬鹿と祭り
昼過ぎに起床。
散歩
……に出て気づく。そういえば、今日は「大赤羽馬鹿祭り」だった。
どこを歩いても人だらけで思うように動けない。自転車の移動力もほぼ無効。30分ほどで帰宅。
夕刻、パレードが終わった頃を見計らって買い物に出てみる。
揃いの法被を着た人々が、傍若無人に歩き回っている。
毎年同じだ。
祭り装束を身につけた人々の素行は、どうしてなのか、必ずや修学旅行生の水準に低迷することになっている。
列挙すれば以下の通り。
- 路上での車座飲食行動
- 必要以上のがに股歩き、および横一列での商店街練り歩き
- 法被男女による威圧的厚化粧&無差別のガン飛ばし
- 三車線道路の集団任意横断。信号無視どころか、横断歩道さえないルートを、中央分離帯をまたいでまで渡る。それも、しごくゆっくりと。
- タバコのポイ捨て
- 未消化なべらんめえ口調による粗放な会話の誇示
こんなものが町おこしになるんだろうか?
「国家の品格」以来、日本の伝統文化を見直そうという機運が高まっているようだが、藤原先生、伝統にだって、当然のことながら、善悪の両面があるわけで、なにも奥ゆかしくて美しいだけがわれらの伝統ではないのだと小生は愚考します。
祭りには、解放と交流の楽しさがあるのだろうし、踊りのリズムには古き良き庶民文化伝統が息づいていたりもするのであろう。
が、そうした美点の一方には、卑俗で粗暴な昔ながらの一族郎党のいやらしさが……
、
この件(法被集団のDQN化傾向)について、以前、どこかで書いた気がするので、サーチクロスでHD内を検索すると、以下の原稿が出てきた。以下転載する。
今年もまたワイドショーは「荒れる成人式」の映像で明けた。そう、全国津々浦々の田舎町で、茶金赤髪の新成人たちが、市民憲章の弾幕を引きずりおろし、一升瓶をラッパ呑みでまわしていた。
成人式の羽織袴、慰安旅行の浴衣、祭りのハッピ、あるいはゾクの戦闘服……と、揃いのなりで身を固めた時、わたくしども日本人は、「群集」という一段階レベルの低い人たちになる。で、個人としてのモラルを脱ぎ捨てたわれら群集は、絵に描いたような乱暴狼藉を展開する。
ん? 絵に描いたような……?
そう、騒乱成人式映像は、ある意味、ディレクターが描いた絵なのだな。
ヤラセとまでは言わないが、こう毎年同じ絵柄が供給されて来る以上、撮影者と被写体の間に、暗黙の了解が介在していると考えざるを得ないわけです。
でなくても、テレビ局が撮影スタッフを送り込んでいることで乱痴気騒ぎがエスカレートしている一面は否定できない。ということはつまり、取材陣は騒動を煽っているのだよ。
実際、「荒れる成人式」は、テレビ局にとって、期日ぴったりに所定の場所でカメラを構えていれば、ほぼ期待通の映像が撮れる、おいしい取材先だ。
他方、被写体となる新成人の諸君にとっても、一生に一度のバカ騒ぎを全国ネットで紹介されるかもしれないスリリングな機会ではあるわけで、なんというのか、若気の至りの記念碑として、後々、面白おかしい語り草になる。
ってことは、騒ぐ阿呆と撮る阿呆がそれぞれに盛り上がっているのであるから、これはこれで罪の無い祭りなのだ。あるいは、毎年、まったく同じタイミングで、まったく同じ映像を提供するこのイベントは、「シロクマ君ぐったり」(←夏本番を演出する上で不可欠な定番映像)や、中禅寺湖初氷レポートと同じテの「季節の風物詩」なのかもしれない。
いずれにしても、こういう映像を見て、真正直に憤慨したり、日本の将来を憂えたりするのは、適切な態度ではない。
ぜひ、無視すべきだ。
さて、ゾク連中とテレビ局にとってはいざしらず、主催者にとって、成人式は、もはや何のメリットももたらさないイベントだと思うのだが、どうだろう。いや、メリットがないどころか、単純な話、税金のムダ使いですよね? 違いますか?
なのに、どうして市町村は成人式をやめないのだろう?
以下、私なりの邪推を列挙してみる。
・前例踏襲という役人のDNA
・市民ホールのためのアリバイ作り。っていうか、大金をはたいて作った箱物は、こういう時にしか使い道がない
・新成人が新たな票田に見えるという、地方政治化の病気
……って、考えすぎか?
ところで、「ザ!情報ツウ」では、成人式の廃止を訴える麻木久仁子に対して、珍しく峰竜太が反論していた。誰に対してであれ、決して反論ということをしない極度に同調的な芸風が売りの、入り婿芸人・峰の反論……何かありそうだ。
・はやくもレギュラー司会者をハズされた後の生活を睨んでいる苦労人・峰にとって、田舎成人式講演営業は老後の保険、半端セレブの金城湯池だから
・定番の取材先である成人式を防衛したいディレクターの意向を代弁しました
……うん。これも考えすぎだよな。
峰さんのとこって、お子さんはそろそろ成人でしたっけ? で、ヨメさんと姑が大乗り気で振袖を……とか?
いや、どうでも良いんだけどさ(笑)
※ちなみに、当稿は「読売ウィークリー」誌のために2004年の1月に書かれたものです。編集部のみなさん。あしからず。
上に引用した原稿の中に
>揃いのなりで身を固めた時、わたくしども日本人は、「群集」という一段階レベルの低い人たちになる。
という一節があるが、ちょっと訂正しておきたい。
祭りのハッピを来た人々は、「群衆」ではない。
「群衆」もまたモラルの低い人々ではあるが、しょせんは、一過性の存在だ。個々人の責任感を集団の中に希釈してしまっているきらいはあるものの、積極的な悪意を持っているわけではない。
法被姿の「連」や、戦闘服を身にまとった「ゾク」は、群衆とは違う。群衆よりずっと帰属意識が高く、それゆえ粗暴さや品の無さにおいても、より顕著な特徴をそなえた人々だ。むしろ、「徒党」と呼ぶべきだと思う。
いずれにしても、「徒党」「軍団」「組」みたいな制服集団に帰属した時、われわれ日本人(の、特に男)は、愚劣な人間になる場合が多い。
つまり、
- 外部に対しては、粗暴かつ威圧的かつ夜郎自大であり
- 内部的には、著しく結束のカタい血盟団式の秩序を持った集団
- すなわち「ギャング」になる
ということだ。
しかも、徒党の内にある人々は、多くの場合、集団的自己陶酔に陥っている。
いやだなあ。
ってことはアレだ。
教育基本法の改正はヤバい。
オレらは、これまでどおり、バラバラでまとまりのない、ピリっとしない、腰抜けの、ゆるーいニポン人であるべきだ、と、そういうことだな。
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