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2006/03/30

エクアドル戦

国際親善試合 日本対エクアドル

  • ショボいゲームだった。
  • 久保のコンディションの悪さが響いていたのかもしれない。
  • 佐藤寿人は見事。ボールタッチは少ないがシュートが巧い。大黒と同じタイプ。どちらか、W杯の時点でコンディションの良い方を選出してほしい。
  • 対して玉田は、シュートのひとつ手前までは良いんだけど……というあたりが、どうも柳沢っぽい。とすれば、同じタイプとしてはヤナギの方が良いわけで、使い途はないですね。
  • 小野君は、オガサとボジションチェンジをしながら積極的にプレイしていた。でも、ミスが多くて全体的には、あんまりかみ合っていなかった。福西とのコンビネーションもいまひとつ。走れるようにはなってきている。W杯までにコンディションを戻してほしい。

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2006/03/25

9条どうでしょう

告知です。

 本日3月25日付けで、毎日新聞社から「九条どうでしょう」(1200円税別)という本が発売されます。
 私も、4人の共著者のうちの一人に名前を連ねていますので一応、告知をば。
 詳しくは、内田先生のページをごらんください。
 関心を持たれた向きは、ぜひご一読を。
 平和主義?
 いえ、どちらかといえば戦闘的な本です。
 ギブ・9条・ア・チャンス。
 アラシの予感……(笑)。

9jo

9条どうでしょう@アマゾン

9条どうでしょう @bk1

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2006/03/24

オマール・トルシエ!

元日本代表監督トルシエ氏、イスラム教に改宗

 イスラーム?
 びっくりだ。
 フィリップよ。キミはいつでも私を驚かせる。
 そういうえば、「フィリップ」という名前もすでに無効なのか? 私は、キミに対して「オマール」という名前で呼びかけなければならないのか?
 オマール・トルシエ……奇妙だ。私は、ムスリムになったキミに対してどんなふうに接するべきなんだ? なあ、フィリップ、とても、奇妙な気分だよ。
 私のひそかな野心は、浦和レッズの次期監督にキミを招くことだったのだが、それも、もしかして難しくなってしまったのだろうか。

「相変わらず小心者だな、タカーシ。何も心配は要らない。私は肉屋の息子だ。そして時々フットボールのコーチをやっている。本質は変わらない。オマール・トルシエは、異文化の伝道者であり、国境無き詩人だ。ムスリムになったのも、時のもたらす変化に過ぎない。時間は天才の相貌を様々な形に変える。それだけのことだよ。本質は変わらない」

 フィリップ……いや、オマールよ。元気そうでなによりだ。宗教のことは、ぼくにはよくわからない。ただ、食べる肉の種類だとか、アルコールに関する禁忌だとか、一日五回の礼拝だとか、そういう習慣上のことを心配しているんだ。というのも、うちの国で決定権を持っているのは、もっぱらそういうみみっちい習慣みたいなことですべてを判断してしまいがちな人たちなんだから。

「いいかね。タカーシ。禁忌などささいな問題だよ。時には赤信号でも渡らねばならないと言ったのは私であってアラーではない。なぜなら、偉大なる神ははじめから赤信号などお作りにならないからだ。私が浦和レッズの監督になることは、全然不可能じゃない。私の辞書の《不可能》の項目には《ナカームラによるコレクティブなゲームメイキング》という記事以外には何も書かれていない」

 いや、キミの方が可能でも、レッズのフロントがキミを拒むだろう。だって、イスラム教に改宗した口の減らないフランス人監督なんて、あまりにも前例がなさ過ぎるからね。

「改宗改宗と、君たちは大騒ぎをするが、そもそも私と神の関係はまったく個人的なものだ。通う教会の名前が変わったからといって、私の信仰が変わるわけではない。インサイドキックであれ、トーキックであれ、パスはパスだ。同じことだよ。重要なのはそのパスが通るかどうかだ」

 しかし、キミのパスはいつもぼくのアタマの上を越えて行く。いや、それどころか、キミの蹴るボールは、すべてピッチの外に向かって蹴られているように見える。

「ははは。クリアボールだよ。私は魂のディフェンダーだ。しかもとびっきりクリエイティブな芸術家肌のスイーパーだ。だから凡庸なゲームプランを描いているボールは、それが味方から渡されたものであっても敢然とクリアする。パスは本当に信頼している味方か、でなければ、敵陣のゴールマウスに向けてしか出さない」

 フィリップ。マイボールをタッチラインの外に蹴り出すのは、クリアとは言わないよ。

「フィリップじゃない。オマールだ。フィリップは死んだよ。トウキョウで灰になった」

 じゃあ、オマール。いつか会えるね。浦和で。

「うむ。 アッサラーム アライクムだ。」

 どういう意味だい?

「《諸君の上に平安がありますように》ぐらいの意味かな」

 平安? ということは、キミは、まだ日本に来る気はないということだな?

「ははは。友よ。浦和のフロントに伝えてくれ。チンケな平安に飽きたら、オマール・トルシエに電話をしろ、と」

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2006/03/12

検索窓

検索窓を設置してみました。
左サイドバーのプロフィールの下のところにあります。

ソースは、
いかんともしがたい
というページからいただいてきました。
ありがとうございます。

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2006/03/11

浦和VS磐田

J1第2節 浦和 対 磐田@埼玉スタジアム

 TBSにてTV観戦。
 例によって、ディレイ気味の放送でCMタイムを稼ぐ手法。セコい。
 まあ、中継してくれるだけありがたいと思わないといけないのかもしれないわけだが。
 
 ゲームは圧勝。浦和もけっこうミスが目立ったが、それ以上に磐田がダメ過ぎ。まるで迫力無し。

  • GK都築:6.5 見せ場無し。ろくにシュート打たれなかったし。
  • 闘莉王:7.0 2点目のヘッドは見事。
  • 坪井: 6.5 随所で効いていた。スピードが戻ってきた。
  • 堀之内:6.5 がんばりました。
  • アレックス:7.0 やればできる。突破もFKもカンが戻ってきた? だと良いのだが。
  • 山田:6.0 目立たなかった。
  • 鈴木啓太:7.0 久しぶりに活躍する啓太クンを見ました。
  • 長谷部:7.0 運動量がありますね。
  • 小野伸二:6.0 消えている時間帯が多すぎ。長いブランク明けで、まだ試合勘が戻っていない感じ。徐々にコンディションをあげていきましょうね。
  • ポンテ:7.0 時々持ちすぎ。でも巧い。
  • ワシントン:6.5 もう少しポストをきちんとやってほしかった。コンディション待ち。

交代選手

  • 平川:6.5 安定しています。
  • 相馬:7.0 素晴らしい突破が二つほど。戦力になりますね。
  • 黒部:―― 出場時間が短すぎて判断できず。

 余談。
 亀田長男の試合を実況していたのは、土井アナだったようだ。
 残念。
 良いアナウンサーなのに。
 彼のような技術も見識もあるスポーツアナに、あんな安キャバレーの呼び込みみたいな品の無い仕事を強要したことについて、TBSはぜひ反省してほしい。
 ただでさえ、ボクシングみたいなマイナースポーツに関して、きちんとした実況技術と知識を持っているアナウンサーは、いまどき貴重な存在なのだ。
 技術や知識だけではない。土井アナは、ボクシングという競技そのものに、まっとうな愛情を抱いている数少ない若手アナウンサーでもある。その意味で、ボクシングにとって、彼は、宝物のような存在なのだ。
 その若手のホープである土井アナに、あんなどうしようもない試合の実況を……
 むごい話だ。

 だって、あんなブッキングからなにからががんじがらめになっているガチガチの試合を、どうやって実況しろというのだ?

  • TBSと亀田一家は、もう何年も前からグズグズの癒着関係になっている
  • 今後も、長男、次男の試合スケジュールが目白押しで予定されており、そのほかにもバラエティー枠、やらせドキュメンタリー枠、番宣その他で、亀田一家はTBSの編成と一蓮托生の花魁道中を歩くことになっている
  • とすれば、一アナウンサーである身の土井ちゃんが、どうして長男のバッティングやローブローを指摘できるだろう。
  • しかもリングサイドには、コワい顔の人たちがズラリと並んでニラミをきかせていたらしいし。
  • ああ、かわいそうな土井アナ。

 な。土井クン。気にするな。
 もうボクシングなんて忘れてしまえ。
 いっそサッカーの専門アナになって、強く生きろ。
 
 

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2006/03/08

ローブロー

 驚いた。
 いや、亀田長男の試合の話だ。
 私は、生まれてこの方、おそらく、通算で最低でも100試合はボクシングのゲームを見ていると思うのだが、そんな私の観戦キャリアの中でも、

こんなにも露骨なローブローが、何らの注意すら受けずに、ここまで極端な頻度で確信的に繰り出され、しかも、KOパンチまでもがベルトのはるか下を狙って打ったとしか思えないモロな金玉ローブローであるようなラフファイト

 を見たのは、はじめてだ。
 審判はどこを見ていたのだろう。
 実況アナと解説者は、何を見ていたのだろう。

 プロデューサーの顔色?
 それとも、誰かの足もとだろうか。
 いや、驚いた。
 

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2006/03/07

拝金力

 午後、好天に誘われて散歩。
 ついでに春物の衣料を物色する。
 いつものことだが、着る物を探していると、微妙に気持ちがふさいでくる。
 なぜかって?
 欲しいと思うのが高いモノばかりだからだよ。
 つまり、オレはセンスが良い……と、そう言えば言えないこともない。が、より正確に言うなら、私のファッションセンスは、見事なばかりに拝金主義的で、ブルジョア的スタンダードに沿って序列化されているのですね。
 っていうか「高価なアイテムがイコールエレガントなブツである」という身も蓋もない等式から一歩も外に出ることができずにいるわけなのだな。
「いや、そんなことはない。ファッションは個々人の美意識だ」
 などと、建前論を叫んだところでどうにもならない。だって、「美意識」そのものが、ブルジョア意識の別名に過ぎないわけだから。
 とにかく、
「おっ」
 と思って値札を見るとすごい値段が付いている。
 で、値札から先に探す方法でブツを当たると、案の定ロクなものがない。
 しばらくするうちに、
「しょせん、おしゃれはカネ次第だよ」
 といういつもの結論にたどり着く。そして、そこにたどり着いた瞬間になんだか闘志を失ってしまうわけで、結果、どこからどう見てもおしゃれとはほど遠い思いっきり地味なオブジェクトを二件ほど入手して帰ることになる。
「いや、そんなことはない。お金をかけないでも、おしゃれはできる」
 と、反論する向きもあるかもしれない。
 若い人々には、あるいはそういうことも可能だろう。
 でも、40歳を過ぎた人間にとってのおしゃれは、資本投下量の反映であるに過ぎない。
 いや、本当のところは、若いヤツでも同じことなのだ。

 結局、エレガンスというのは、人間についている値札の婉曲表現にほかならない。
 少なくとも、男のエレガンスは、その男が備えている資産ないしは権力の表象なのであって、その意味では、ライオンの美醜がその権力の象徴であるたてがみの長さと不可分であるのと同じだ。
 ひとつ、例をあげよう。
 学生時代の友だちで、いつもダサい格好をしている男がいた。素の見かけは、そこそこの好男子なのだが、着ているモノがとにかくひどい。
「どうやったらそういうのを見つけてこれるんだ?」
 と、私などはいつもからかっていたものなのだが、そのダサ男が、とあるメディア系の一流企業に就職して一年たってみると、ウソみたいにおしゃれになっている。当時はまだ知る人も少なかったカルバンクラインだかのジャケットを羽織って、颯爽と現れたわけだ。
 やっぱり港区のオフィスで一年洗われるとセンスが磨かれるんだなあ……って?
 違うな。
 カネだよ、カネ。
 その男のファッション支出が、たった一年の間に百倍増(月あたり千円→十万円に)したから、醜いアヒルの子が白鳥に化ける奇跡が起こったわけで、実際、あたしはそいつのかっこよさに圧倒されましたよ。ええ。折も折、当方は、新卒で就職した会社をフケたばかりで、基本的に安物を着ていたわけでもありますし。
 で、その時に、なんとなく決意したわけです。
「オレは、二度とおしゃれになんかしないぞ」
 と。一生涯半失業者で行く決意とともに。

  • おしゃれを志すことは、事実上、金持ちになろうと決意することと同じだ。
  • 「金持ちや権力者になれなくても、おしゃれな男でありたい」なぞという甘ったれた考え方は、100%無効だぞ。
  • 非権力的なおしゃれの突破口はゲイの方向にしか開いていない。

 と、概略、以上のごとくに考えたからだ。
 
 拝金主義を甘くみてはいけない。
 ホリエモンの事件があって以来、テレビに出てくる偉い先生たちは、異口同音に日本人の拝金主義を叱っている。
 でも、そう言っている先生方は、みんなおしゃれだ。
 ということは、彼らは、本当のところは、拝金主義なのだよ。

 拝金主義者を「常に金に拘泥し、金のことばかりを話題にする人間」と定義するなら、ホリエモンは、そういうプリミティブな意味での拝金主義者であったのだろうし、確信犯の我利我利亡者であった。
 が、別の見方をするなら、カネそのものを直接の旗印にしていたホリエモンは、拝金主義者としてはレベルが低かったと、言えば言えるのだ。
 もっと重症の、もっと本格的な拝金主義者は、病識を持っていない。というよりも、本物の拝金主義者は、自分が拝金主義者であることを自覚していないものなのだ。
 彼は、自分を自由人だと思っている。
 あるいは、おしゃれな男ないしは、教養人、趣味人だ、と。
 であるから、彼はおしゃれであろうとし、教養を深めるべくつとめ、自由を希求し、趣味に生きようとする。
 しかしながら、彼のファッションセンス、および教養意識、趣味志向のことごとくは、価格に沿って序列化されており、その結果、彼が発揮する向上心のすべては、現実的には拝金主義として顕現することになる。
 彼はまた、自由であろうとすればするほど、金を欲することになる。
 なんとなれば、カール・マルクスが喝破したように、自由は権力の別名(だって、部長の前にいる時、課長は自由じゃないだろ?)であるからで、とすれば、十全な自由を得るためには完全な権力が必要で、そのためにはカネが要るからだ。
 
 うーん。こんな大げさな話をするはずではなかったのだが。
 

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