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2006/02/28

ボスニア・ヘルツェゴビナ戦

日本代表vsボスニア・ヘルツェゴビナ代表@ドルトムント・ウェストファーレン・スタジアム

日テレにてTV観戦。無難に中継していた。鈴木健アナは、うまくなりましたね。
っていうか、この二年ほど、角澤実況を浴び続けた結果、アナウンサー全般について、点が甘くなっているのかもしれない。
というわけで、TBS、日テレ、フジのアナウンサーは全員合格。

  • 試合開始からしばらくはボールが落ち着かず一進一退。前半30分過ぎから日本ペース。
  • 45分:中村俊輔の左CK→高原が頭で決める。相手GKが釣り出されたのは、やはりボールの曲がりが予想外に大きかったからだと思う。見事。
  • 後半12分:中澤が相手FWを倒してPK。でも、これ、シミュレーションですね。偽ジダン倒れ方うますぎ
  • 後半22分:相手FKからのヘディングシュートを川口がファンブル。詰めてきた7番が決めて1-2。ううう。
  • 後半ロスタイム。右サイドから中村俊輔が上げたクロスにゴール前中央の中田ヒデが反応してヘッド。2-2。試合終了

 まあ、こんなものでしょう。
 小野君の出番が少なかったのが残念。でもまあ、25日に80分出てるわけだし、無理してまたケガをするよりは……
 俊輔はうまい。やっぱりこのチームの一番の得点源ですね。

 寝よう。仕事は明日。

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ウソの壁

 失敗を認めることは、そんなに難しいミッションではない。
 頭を下げることも、ふつうの大人ならやってできないことではない。
 でも、自分のウソを認めることは、これは、とんでもなくむずかしい。
 というよりも、非を認めることや謝罪をすることは、やり方とタイミング次第では、男を上げることにつながる。とすれば、それらは、難しいとかやさしいということとは別に、社会人として生きていくために身につけておくべき基本的なプロトコルでもある。
 一方、自分がウソつきであることを認めて、なお人としての威厳を保つことは、不可能に近い。なんとなれば、つき通せなかったウソは、バレたものであれ、白状したものであれ、どっちみち最悪だからだ。
 
 何が言いたいのかと言うと、つまり、このたびの「@堀江メール騒動」において民主党執行部が展開した強気一点張りの対応の裏には、ウソが介在している、ということだ。最初の段階でウソをついてしまったために、以後、撤退という選択肢を無くしてしまった、と、そういうふうに考えないと、あの一連のバカな態度について、合理的な説明がつかないわけですよ。

 たとえば、永田議員の質問が単純な勇み足に過ぎなかったのなら、民主党とて、比較的早い段階で謝っていたと思う。
「ごめん、言い過ぎた」
 で済むわけだし。
 その勇み足の質問に、党執行部がうかつにも乗っかったのだとしても、そのうかつさや軽薄さのうしろに嘘が含まれていなかったのなら
「ごめん、勘違いだった」
 と、早い段階で謝罪して、撤退することが可能だった。
 でも、彼らは謝ることができなかった。
 非を認めることもできなかった。
 論点をそらしたり、逆ギレしてみせたり、虚勢を張ったり、胆力のあるところを見せようとしたり、そういう努力は繰り返していたが、自らの誤りを認めるという、最も基本的な一番最初の仕事に、まったく手をつけることができないままここまで来てしまった。
 なぜか?
 嘘をついていたからだ。
 おそらく、堀江メールの一番最初のところに嘘があった。で、その嘘を見破られないために、さらに嘘を塗り固めてしまった。
 と、これはもう撤退できない。
 最初の嘘(つまり、メールそのものが捏造であることを永田議員自身が知っていたということ)を隠蔽するためには、「情報源の身の安全を守る」だとかいった子供っぽいプロットが必要になるわけだし、その話の不自然さを糊塗するには、「われわれはさらに決定的な証拠を握っている」ぐらいのフカシをいれねばならなくなる。
 と、ここまでやったら、もう撤退は不可能。
「巨悪が」
 式の、少年探偵団ストーリーを振り回し、あるいは
「報告は伺っております」
 と、木で鼻をくくったような答弁を繰り返したり
「闇の勢力が……」
 みたいな陰謀論を持ってくるほかに、どうしようもなかったわけだ。

 28日の記者会見において、民主党は、どのあたりに防衛ラインを引くのだろうか。

  • 永田はだまされていた。
  • 執行部は永田を信用した。
  • が、不幸にして、メールの信用性を証明することができなかった。
  • とはいえ、武部次男の疑惑が消えたわけではない。

 と、こんな都合の良いところで済むのだと思っているのだとしたら、彼らも考えが甘い。
 この期に及んでそんな「二人っきりで一晩を過ごしたのは事実ですが、トランプをやっていただけです」みたいな話をしたところで、誰も納得しない。傷口を広げるだけだ。
 といって、

  • すんません、ウソついてました。
  • 永田がメールを捏造してました。
  • 党首脳も、途中からそのウソに乗っかってしまいました。
  • うん。カッコつけちゃっただけで、悪気はなかったんだ。ごめんよ。

 と、ここまで認めてしまったら、永田辞職、野田更迭、前原辞任は避けられない。
 退くも地獄、進むも地獄。
 どうするんでしょうね。

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2006/02/26

糞食

 先日タイーホされたライブドアの熊谷さんです。
 描きやすい顔。
 っていうか、子供の落書きに似せたみたいな顔なんですね。そもそもが。

kumagai

 「武道顔」だと私は思うのですが、武道家である知人は「初段止まりの顔」と断言しておりました。
「そうかなあ。強そうだぞ」
「いや。乱暴なだけ。修行ができない」
 なるほど。

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能面クラツーラ

「サンデープロジェクト」を横目で見ながらスケッチしました。
田原さんのしつこいツッコミに対して、しつこい肩すかしを食らわしてました。
野党の党首が、あんなお役人みたいな答弁でいいんでしょうかね。
いずれにしても、度を超したポーカーフェースは、動揺のあらわれというふうに見られると思います。
何回も描いているうちに、ちょっと情がうつりました(笑)。
さっさと謝って立ち直ってください。

maezono

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2006/02/25

ゼロックススーパーカップ

ゼロックス・スーパー杯:G大阪 対 浦和

 国立霞ヶ丘競技場にて生観戦。1500円の自由席。でもまあ、わりと見やすかった。天気も良かったし。
 徳島で一緒に本を作ったK君と約8年ぶりに再会。近況などを報告しあう。相変わらずのムード。

reds0225

※試合後、バックスタンドに挨拶にきたレッズのみなさん。ばんじゃーい。 

 試合は圧勝。
 というよりも、ガンバがショボかった。
 お互い、ケガをしたくないという感じがあったのか、当たりが弱く、プレスも遠慮気味だった。

  • 小野君はやっぱり上手い。特に前半は切れていた。
  • アレックスがちょっとバラけていた。でも、疲れてるんだし、仕方ないよね。
  • 最大の収穫はワシントン。前線に預けどころがあると、中盤が落ち着いて動ける。2点めになったシュートも落ち着いていて見事だった。
  • ガンバではマグノアウベスが目立たなかった。まあ、仕方ないかな。加入間もないわけだから。

試合後、原宿でお茶。午後7時前に散開。



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2006/02/23

若害

 テレビを見ていたら、前原さんが出てきて、昨日と同じことを言っている。

「向こうは門前払いだ」
「もし本当に一点のくもりもないのなら、(自民党は)国政調査権の発動を受け入れるべきだ、と今でも思っている」  
「問題を起こしているのは与党である。それを追求していく気持ちには何の揺らぎもない」
「木を見て森を見ずの議論にならず、巨悪は何なんだ、と、こういう観点で先頭に立ってこれからも頑張っていきたいと思いますので」


 つまり、アレだ。この人は非を認めないつもりなのだな。
 しかも、余裕ありげな、すっきりした顔でしゃべっている。
 虚勢を張っているのか。
 それとも、マジで無神経なのか。
 いずれにしてもたいした根性だ。
「兄貴、すげえ度胸だぜ」
 とか、そういうふうに思ってもらいたいのだろうか。
 そんなに子供なんだろうか。

 政治の世界では、長らく「老害」ということが言われてきた。
 実際、55年体制のクソジジイ政治には、うんざりするような弊害がたくさんあった。

 でも、永田議員や前原さんを見ていると、「若害」というのもあるんだな、と思わされる。
 昭和の時代の、老害の政治家は、こういうところでつまらぬ意地を張らなかった。

 自民党とホリエモンの癒着が言われているが、「若害体質」(←ブレーキがきかない。虚勢を張る。要らぬ意地を張る。人目を引きたがる)という点について言うなら、ライブドアの本質はむしろ民主党に近いように思う。

 とにかく、品格ある土下座ができない政治家には、あんまり日本をまかせなくないな。
 お家芸なんだから(笑)。

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2006/02/22

二枚目

またしても、あんまり似てなかったもので……
ムキになって、さらにもう一枚描きました。
通算では三枚目、です。

やはりアレですね。口元の薄ら笑いと、いつも半眼な感じを再現しないとダメですね。
政治家としては損だと思うのですが、この人は、時々、非常に人を見下した感じの表情を浮かべます。
やはり天下を取る相ではありません。
せいぜい前頭。
二枚目だけど(笑)

maehara03
部下の判断に付き合って心中するあたり、案外男気があるのかもしれませんが、人を見る眼がフシアナさんでは、男気も台無しです。

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インド戦

アジアカップ予選 日本VSインド

日テレにて観戦。
吉田アナは、やっぱりどうしても野球の印象。

  • 小野君がジーコジャパン100点目を決めてくれた。うれしい。
  • インドはゴール前に張り付くのみ。W杯に向けてはあんまり参考にならない。
  • 久保が90分動けた(途中けっこう歩いていたけど)のは大収穫。
  • 良かった人:長谷部さん、アレックスさん、巻さん。
  • アレックスは、軽率なミスがいくつかと、良いプレーがいくつか。まあ、アレックスらしいといえばアレックスらしいプレーだった。
  • DFラインはなんだかダレていた。仕方ないかな。あれだけユルい試合だと。中澤、宮本は、たまにボールに触るとけっこうショボいミスをしていた
  • 加地さんも格下を相手にすると凡ミスが目立つ。油断? まさか。

 まあ、勝ったからいいです。課題も改善点も忘れちゃうことにします。ばんざい。

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男前

前の絵があんまり似てなかったので。
リベンジ。

maehara02

イケメンだけど、なんとなく人を小馬鹿にした目つきがイヤですね。

男前 ハラワタは無し 口ばかり

ってところですね。
今日の党首討論にはがっかりしました。

一騎打ち ガチンコ臭え 超避けん

うん。ちょっと苦しい(笑)。

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2006/02/20

前貼りを……

maehara

気の毒ですよね。
部下を信用して送り出しただけなのに。
で、黒塗りの隠蔽部分をハズしてみたら、ちょwwwおまwwwネツry……という。
まあ、ワキが甘いといってしまえばそれまでですが。

結局、この人も恥部を隠す目くらましに過ぎなかったのかもしれません。
松下政経塾って、何を教えてるんだろう。
二叉ソケットが処世の基本だというぐらいのことは当然知っていていいはずなのに。

※追加@2/21 01時13分

前貼りを 剥がせばガセの 虚根あり

……って、ちょっと下品かな(笑)。

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2006/02/19

自爆ゲロ

 さっさとトカゲの尻尾切りをすればいいのに。
 たいした尻尾でもないんだから。

nagata

涙目のタックラー・永田議員です。
来週の国会中継が楽しみですね。

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2006/02/18

フィンランド戦

日本vsフィンランド

テレ朝にて観戦。

まあ、順当な勝利でしょう。
フィンランドは、アタマ悪そうな感じ。
前半に点を取れなかったのがちょっと不満。

  • 久保 :7.0 アメリカ戦よりははるかに動けていた。
  • 巻  :6.5 前線の守備、ポスト、よくがんばっていた。
  • 小笠原:7.5 前半ボールを失う場面が多かったが、アシストを決めてから俄然動きが良くなった。ゴールは見事。
  • 小野 :6.5 順調に回復している。いくつか素敵なパスがあった。後半ちょっとバテたけど、運動量もアメリカ戦よりは豊富だった。
  • 福西 :5.5 目立たなかった。
  • 村井 :6.0 何本か良いクロスをあげていた。当たりも案外強い。
  • 加地 :6.5 安定していた。レギュラー確定ですね。
  • 中澤 :6.5 強かった。後半はけっこう上がってくる場面もあった。
  • 宮本 :6.5 1本怖いパスミスがあったが、ロングフィードの精度は全般に高かった。
  • 坪井 :6.0 守備は安定していた。でもフィードを怖がるのは相変わらず。バックパス、横パスばっかし。でもまあ、無理に前目にチャレンジしてパスミスするよりは良いのかも。
  • 交代メンバー:時間が短くて特に論評するようなアレじゃなかったですね。

 小野君がコンディションを戻しつつあるのが何より。
 試合はつまんなかったけど。

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2006/02/17

永田さん劇場

 すごい。
 民主党は、記者会見で「メールのプリントアウト(しかも宛先欄をスミ塗り)」を公表したようだ。
 すごい。
 あまりにもすごい。
 これを「証拠」だと言い張るつもりなんだろうか?

967 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/02/17(金) 22:33:31 ID:3Iuv0vw20
民主の隠しだま:メールの筆跡鑑定に200ペリカ

 と、つい20分ほど前、これを読んで笑っていたのだが、笑いごとではない。民主党はマジにやりかねない。
 つーか、アダルトサイトの架空請求詐欺だってもう少しそれらしい請求書を送ってくるぞ。
 頼む。
 しっかりしてくれ。
 唯一の野党がこれじゃ自民党の独裁は戦前レベルまで行っちまうぞ。
 さすがに、ちょっとコワくなってきた。

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2006/02/14

転倒

 昨晩の、女子ハーフパイプについて。
 今井メロ選手の転倒は色々な意味で無残だった。

  • 兄妹そろっての転倒:前日の兄に引き続き……というところがなんとも無残。演技前の過剰なアピールと転倒後の壊れっぷりの落差がおんなじであるところも。カメラの前で育った人間のオーバーアクション……。むごい。
  • NHKの事故処理:っていうか、事故処理努力の放棄でした。カメラをスタジオに切り替えるみたいな配慮もなかったし、その結果、何十秒も延々とライブ放映され続けることになった無様な転倒滑走映像に対して、実況アナ、解説者ともにフォローらしいフォローをしなかったわけだから。特に解説のおじさんの口ぶりからは、「さっさと立てよ」と思っていることがひしひしと伝わって参りました。ええ。
  • 2ちゃんの実況板:まあ、ふだんから不謹慎、残酷、露悪なご意見が7割を占めるのが実況板の不治の属性ではあるのだが、それにしても、昨日のNHK-BS実況板は、90%が「ざまあみろ」の声で埋まっていた。

 おそらく、普通の選手だったら、ここまで露骨に「ざまあみろ」が渦巻くことはなかったはずだ。メディアの持ち上げ方の不自然さが、ちゃねらーの皆さんの反感を買っていたということなのだと思う。

  • 過剰なメディア露出:三兄妹が幼児であった頃からの、継続的かつ無思慮なプライバシー公開。童夢、夢路、緑夢という名前のつけられ方。そして、思春期を迎えて後の、案の定の確執。
  • ちぇきらうな人生観:テレビカメラの前で何度か歌ってみせた自作のラップの走って逃げ出したくなるようなトンテケなノリ。で、転倒翌朝のワイドショーはこの若気の至りの恥さらしを、おいしい映像として、何度も何度も再生してみせるわけだ。傷口にドブ泥。
  • 相次ぐ事件:用具メーカーとの契約トラブル。IT企業とのタイアップやら突然の改名。不思議な記者会見。

 メロ選手の思慮の浅さを責めるのは簡単だ。が、なんといっても、彼女まだ18歳の子供だ。マナーの問題についても、本人の資質をどうこう言うよりは、まず周囲の大人の責任を問うべきだと思う。
 DQNなオヤジと、ネタになりそうな話題ならどんなものにでも飛びつくメディアの貪欲――メロ選手は、そういうものの犠牲者なのだと思う。
 きちんとした子供時代(気楽で、のんびりしていて、笑いと不思議と眠りに満ちた、いつでも帰れる心の故郷としての幼年期)を過ごせなかった子供は、本当の大人になることができない。
 ……と、ここまで書いたところで、以前、どこかに似た主題の原稿をアップしたことを思い出したので、以下に転載しておきます。編集部のヒトごめんなさい。

      ……前半略……

 カルキン君が逮捕された。そう、あの「ホームアローン」の子役マコーレカルキン君。容疑は麻薬所持。もう24歳だという。で、まだ24歳だというのに離婚歴(結婚は17歳。離婚は19歳)と逮捕歴。両親はとっくの昔に離婚(カルキン坊やが稼いだ莫大なギャラがトラブルの原因とか)。大急ぎの人生。
 大五郎(1号は殺人で服役中、2号はは銃刀法違反で逮捕)といい、ケンちゃん(ケーキ屋ケンちゃん。長らく不良化していた)といい、ある程度以上売れた子役は、あんまりまともな大人に育たない感じがするのだが、これはいったいどういうわけなのだろう。
 列挙してみよう。
 蛍の韜晦(どうしてこの人の演技は過剰に投げやりなのだろう)、チー坊の自棄(この先、ヤケ酒キャラでどこまでやって行くつもりなのか、お兄ちゃんは心配だぞ)、鳩子の肥満(ノーコメント)、タバサの暴走(「奥様は魔女」の子役:下着ロッカーとして再デビュー)、そしてマイケルの地獄(ご存知、マイケルジャクソン。度重なる不祥事。失われた幼年期への復讐が小児性愛なのだとしたら、悲しすぎるぜマイコー)……いずれも、ろくなことになっていない。
 まあ、普通の子供であれば祝福されるはずの「成長」というできごとが、子役の世界では、そのまんま「タレント性の喪失」だったりするわけだから、ある意味、ひねくれるのも当然ではある。
 現場の王様として、あらゆるわがままを許される環境も不幸といえば不幸(だってマトモなしつけを放棄されているわけだから)だし、幼くして一家の家計を支えるという状況が、本人にとって素晴らしい体験であるはずもない。
 なるほど。地獄だな。
 本当の子供でいられなかった人間は本当の大人になれない、と。
 でもって、あらゆる初対面の大人に「大きくなったわねえ」と言われ続け、一番仲良くしたい同世代の子供たちからは無条件で浮き上がってしまう。
 彼らが大人への階段を何段飛ばしで登ろうとするのは、これは、宿命なのだな。踏み外すことも。

 というわけで、TBSは、二度とラップ映像&全裸雪中飛び込み映像を流さないように。
 それから、亀田三兄弟の思春期をエサにするのもやめてあげてほしい。
 他人の恥がメシの種だというのはかまわない。
 でも、子供には手を出さないというのか、大人のたしなみってものだろ?

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2006/02/12

ダウンヒル

※スキー競技男子滑降

 夜。NHK BS1にて男子滑降決勝を見る。
 やはり、冬季オリンピックの魅力はダウンヒルに尽きると思う。
 選手が滑り降りる姿を見ているだけで、なんだか爽快な気分になる。
 日本人選手が出ていないことは、残念と言えば残念だが、中継放送についていうなら、外国人選手のみの競技の方がずっと良い出来になる。だって、実況、解説が、ヘンな応援モードを発動しないから。
 金メダルを取ったフランスの選手の選手の滑りは見事だった。
 スノボのために、午後10時頃、中継終了。
 というわけで、私にとってのトリノ五輪はほぼ終了いたしました。

※スノボ・ハーフパイプ
 惰性で見る。スキーと比べると、スノボの世界は何から何まで違っている。面白いな。

  • 選手のマナー:カメラに対するアピール。観客の煽り方。失敗した時のアクションの取り方。とにかく明るい。でもちょっとDQN風味。
  • ファッション:パッツンパッツンのフィット感がスタンダードであるスキーファッションと違って、スノボでは、ダブダブが基本。ズボンは当然腰パンがデフォルト設定。ヘルメットも千差万別。ま、ストリートファッションですよ。アルペン風味、およびゲレンデっぽさはゼロ。仕草も微妙にチェケラッチョ。
  • 観客:ピーピーワーワーな感じ。なーんかアメリカっぽい。ノリの良さも雪上の人々とは思えず。
  • Tシャツの兄ちゃんを何人か確認。絶対アメリカ人だな(笑)
  • 滑走前、背中に雪を入れる選手が何人かいたが、あれは「気合いを入れている姿」なんだろうか。
  • ドイツのビンセント・ルプスという選手のベルト位置の低さは限界レベルだった。真っ赤な口紅塗ってるというのもすごい。しかも、カメラにキスマークつけるし。ドイツ人にも不良がいる、と。勉強になった。
  • 演技としては、やっぱりアメリカ人さんの独擅場。ショーン・ホワイトという選手は、抜群。ちょっとコカインやってそうなところが心配だが

  ってことで、今日はゆっくり寝ることにして、明日から頑張ろう(←何を?)。

 追記:結局、最後まで見てしまった。それにしても、なんだかゲイっぽい選手が多い(コーチも)ような気がしたのは私だけだろうか。

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2006/02/11

ガダルカナル

日本代表VS米帝代表戦

 テレビ東京にて観戦。
 うーん。完敗ですね。点差以上の圧倒的な惨敗。手も足も出ないタコ殴りの壊滅的陵辱。
 黙示録的敗走。帝国の逆襲。ハルマゲドン的重殲滅。
 あるいは、対戦相手のことを考えるならミッドウェーと言うべきか。
 ガダルカナルでないと良いんだが。
 

  • 久保は今回についてはペンディング。コンディションを戻して再挑戦してください。
  • 小野伸二は微妙。ボールさばきの軽快さと、時おり見せる視野の広さはさすが。でも、当たりの弱さがちょっと……。まあ、長い怪我明けの復帰第一戦だし。怖がらずにブツかって行くのはこれから。レッズで頑張ってほしい。
  • 小笠原もなんだか。まあ、前の3人についてはそもそもボールが回ってこなかったわけだから仕方のない面もあるが。
  • 地蔵トライアングルの1トップ2シャドーは失敗。前線には如来ないしは阿修羅キャラが不可欠。
  • ボランチ二人(福西&遠藤)は、どうなんだろう。オレには判断できない。こういう押されっぱなしの展開ではもっとブツかって行くべきなんじゃなかろうか。
  • 3バック(田中、宮本、中澤)は、滑ったりブツかられたりで、思い通りのプレイができてきなかった感じ。
  • 両サイド(加地&アレックス)は、ほぼ完全に守りに忙殺されていた。で、加地もアレックスも、結構大切なところでブッちぎられておりました。加地君が、いくつか良いクロス(ひとつは点に結びついた)をあげてました。
  • 川口は、大活躍。ゴールネットを揺らした3点はノーチャンスだった。
  • 途中交代の選手は、アメリカがバテた後だったので、そこそこにボールにからむことができていた。でも、評価の対象になるかどうかは別問題。巻の1点は見事。良く当てたと思う。

 4バックになってからの方が試合らしくなっていたのは事実。
 でも、相手がバテていたこともあるし、3点取ってユルんで(あるいは、無理に攻めなくなった)いたということもあるんで、一概に4バックが機能していたとは言い切れない。
 いずれにしてもボロ負け。一から立て直しですね。

 おっと、最後に中澤の奇跡の右足ゴールが決まって2-3。
でも、評価は変わんないな。ボロ負け。
実況、解説は、まあ健闘していたと思う。

 散歩でも行ってこよう。(´・ω・`)チェッ

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2006/02/10

あえてアカピーを擁護する

 昨日のうちにアップするはずだった仕事を引っ張っているので、まだ若干忙しいのですが、ちょっとだけ。

※アラシとアクセス数
 朝日関連の話題を持ち込むと場が荒れるんではなかろうか、と懸念しておったのですが、それほどでもなかったですね。
 それはともかく、荒れるとアクセス数が伸びるという事情があるのも事実でして、ブログなんかをやっていると、このアクセス数という数字が変に気になるようになってくる。うん、オレもこう見えて優等生出身だから、何であれ数字で出てくる評価みたいなものにはヨワいわけです(笑)。
 で、「最近閑散としてるなあ」と感じると、ちょっとだけ燃料を投下してみたくなる……って、これ、アラシですね。自分で自分のブログ荒らしてどうする、と。
 webを流して歩いていると、実際に自分のページを荒らしてるとしか思えないブログ管理者が結構いる。別にアクセス数が増えたからって何の利益があるわけでもないのに。
 なんだか、ムハンマド関連の風刺画を転載して部数をあげてるフランスの週刊紙みたいですね。
 反省せねば。

※アカピーを擁護する
 で、朝日についてだが、私は、個人的には、現在、ネット社会で流行みたいなことになっている朝日バッシングは、常軌を逸した運動だと思っている。
 2ちゃんあたりで「アカピー」だとか言われて批判されている内容が、まるで見当はずれだと主張したいのではない。
 あれだけデカい組織なんだから、当然、そこそこに官僚的ではあるわけだし、社員の中には、鼻持ちならないエリート意識を抱いている皆さんもいるのだと思う。
 でも、朝日が、すべての朝日的なるもの(インテリ意識、エリート臭、官僚性、言論機関の傲慢)の象徴としてひとくくりに非難され、のみならず、朝日に関連するすべての事象や人物が「売国」「シナの手先」みたいなレッテルで処理されている現状は、やはりどうかしていると思う。ヒステリーと呼ばねばならない。
 以下、箇条書きで。

  • 私個人にとって、朝日新聞社は、長年の取引先だったりする。それゆえ、このエントリーもまるで他人事として書いているわけではない。そういう意味では「身内の弁解」と受け取られてもかまわない。でも、「下請け業者のおべっか」というふうに判断されるのは心外です(笑)。
  • だって、朝日は、おべっかが通用するような会社はないから。プライドが高すぎて、擁護されても何とも思わないですよ。っていうか、メディア企業というのは、朝日に限らず、自社をケナす人材を重用するような、奇妙な屈折をかかえている場合が多い。どっちにしろ一枚岩ではありません(よりはっきり言うなら、常に派閥抗争の舞台ですぜ)。ええ。
  • 朝日には、優秀な人材が山ほどいる。まあ、ああいう難しい試験をくぐりぬけて入社しているわけだから、当然なんだが。
  • とはいえ会社の優秀さは、社員の優秀さの総和とイコールではない。
  • 社外の人間に、その会社がどんなふうに見えるのかは、社員の能力や人柄の平均値ではなくて、「どんなヤツが出世する会社なのか」ということにより多く依存している。
  • で、朝日の場合、偉くなっている人がどんな人であるのかについてはあんまり知らないので、はっきりしたことは言えないのだが、「朝日出身の有名人」(天声人語の書き手、転出してキャスターやノンフィクションに作家なった人々、歴代のニュースステーション/報道ステーションのコメンテーターなどなど)がどんな人物であるのかについて検討してみると、やっぱりちょっと偏っている。「イヤな野郎がスポットを浴びる位置に立つ会社」ではあるのだと思う。
  • ということは、外部の人間から見て、朝日が「イヤな野郎の会社」に見えるのは、ある程度仕方の無い話ではあるわけだ。
  • 会社の品格は、トップのほんの数人がどんな人間であるかによって決定してしまう。その下に立派な社員が何千人いても、クソ野郎の社長を一人いただいているというだけのことで、会社はクソ会社になることができる。
  • まあ、一人のクソ社長を支えるためには、5人のクソ重役が必要で、5人のクソ重役の背後には、30人のクソ部長がいて、30人のクソ部長は150人のクソ課長をコントロールしているのかもしれないわけだが。
  • いずれにしても、おそろしいことだ。
  • でも、だからって、「アカピーは売国」みたいな乱暴なレッテルを貼るのは、思考停止だと思う。いや、売国に限らず、レッテルというのは、ものを考えないための護符ですよ。
  • というわけで、皆さん、朝日に関しては、ぜひ、ひっくるめた全体としてではなく、個別のひとつひとつの朝日人についての是々非々で判断してあげでください。
  • で、個々の各々のそれぞれの朝日をひとつひとつ個別に評価した結果が非非非非であったらなら、これは仕方がありません。嘲笑してやってください。ひひひひ。

 仕事に戻ります。では。

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2006/02/09

コラムニスト宣言

 忙しい。
 毎月のことだが、ほとんどすべての仕事が最初の一週間に集中している。今日一日がんばったら、2~3日ぼんやりして、それから先のことを考えることにしよう。

 ところで、朝日新聞がやっている「ジャーナリスト宣言。」キャンペーンって、ちょっと変だよね。
朝日新聞のご案内ページ
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」

 あれのCMをテレビで見ると、微妙にはずかしい気持ちになる。
 なぜなんだろう?
 おそらく、朝日新聞社自身が、自分たちの「言葉のチカラ」を信じていないように見えるところがイタイのだと思う。
 なにより、「言葉のチカラ」と、「力」をカタカナ表記にしているところがよろしくない。コピーライターの心のふるえが露呈している、というのか、斜に構えている感じがするわけだ。
「それでも私たちは信じている、言葉の力を」
 と言い切ってしまってから、自分のセリフに照れている感じ、ですね。
 倒置表現まで使って大見得を切った以上、照れるのはルール違反だと思う。ここは一番、思いっきりクサく、ベタに、ポエム全開で信じ切ってやるのが相手に対する礼儀だと思う。
 こういう場面でのカタカナ使用は、
「えっとつまり、オレとしては、キミをアイシテるわけです(笑)」
 ぐらいなメールを想起させる。
 微妙に腰がひけていて、口説いた相手に笑われた時に
「なーんてね。冗談冗談」
 と、安全に撤退する退路をあらかじめ確保している感じがするわけだ。
 
 表記の問題だけじゃない。
 内容もちょっとおかしい。
「感情的で、残酷で、ときに無力」 なものを、簡単に信じて良いのか?
 という問題が残る。
 「それでも、信じる」ことを誰かに訴えるためには、その、信じようとする対象の良いところをきちんと列挙して、「こういう欠点があるのは承知しているけれども、一方、それにはこれこれこういった長所やこんなふうに素晴らしいところがあって、だからこそ私はそれを信じるのだよ」
 というふうに、丁寧に相手を説得しないといけない。
 「残酷だけど信じる」とか、「感情的だけど信じる」と、留保抜きの信頼感をただまっすぐに強調されても、聞かされる側は困惑するばかりだ。というよりも、
「それって、盲信じゃないのか?」
 という疑問が生じますね。当然ですが。

 「言葉」を誰かの名前に置き換えてみるとわかりやすくなるかもしれない。
「英寿さんは感情的で、残酷で、ときに無力です。それでも私は信じています、英寿さんのチカラを。駆け落ち宣言。みゆき」
 これ、マズいよね(笑)。
 明らかに悪い男にひっかかってる感じしませんか? 
 とにかく、パパは反対だな。なるべくなら結婚は許したくない。ちょっと前の世代のオヤジなら、パァーンてなぐあいに娘のほっぺたをひっぱだいて、言うだろうね
「目をさませバカモノ」
 と。
 
 男の例だけだと、なんだかマッチョみたいで良くないんで、逆の例も出しておく。
「りえは感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでもオレは信じている。りえのチカラを。交際宣言。健一」
 うん。悪いのにひっかかってる(笑)。まあ、通過儀礼だけどさ。ジャーナリストがひっかかちゃいけないよな、こんな性悪に(笑)。
 マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。
 言葉のチカラを安易に信じるジャーナリストは、包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人です。てか、素人。
 いつでも包丁のサビを気にかけて、メンテナンスを怠らず、間違っても生身の人間に向けて使わないように気を配るのが、まっとうな職人ってものだよ。

 というわけで、コラムニスト宣言。
「オレは感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでもオレは原稿料がほしい。コラムニスト宣言。小田嶋隆」

 そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
 オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。
 オレの包丁が他人を傷つけたら、それは100パーセントオレの責任。
 ま、包丁のチカラなんかを信じてどうするってことだよ。信じるべきは、オノレの目と頭とウデ。あとはハラを切る覚悟。それだけだろ?
 

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2006/02/07

耳の純潔

 音楽ファンの偏狭さについて、いくつか言及があった。
 で、ずっと昔「クロスビート」という雑誌に連載を持っていた頃に、「耳の純潔」という主題で原稿を書いたことを思い出した。
 いま、テキストが手元に残っていない(古い原稿ファイルを大量保管していたCD-ROMが、ある日読めなくなってました。市ねマクセル)ので、3割ぐらいしか覚えていないが、おおまかな内容は以下の通り。

  • 耳は目に比べて指向性が曖昧な器官だ。
  • 目は複数の対象を同時に見ることができるが、耳は同時に二つの音楽を聴くことができない。
  • 目にはまぶたがあるが、耳には耳ぶたがない。それゆえ、耳は、自らの意思で自らを閉じることができない。
  • 耳たぶならあるけど、あれはホットケーキを焼く時以外にはあんまり役に立たない。
  • 以上の理由から、「耳は騒音やクズ音楽に対してまったく無防備だ」という結論が導かれる。うわあ。
  • 不快な景色に対して、目は、そらしたり、そむけたり、閉じたりすることができる。
  • 対して、耳はどうしようもない。360度の不快音源に対して、ほとんどまるで無抵抗。両手で耳をふさぐことはできるが、そうすると精神がダルマ状態になる。お手上げ。
  • で、腐った音楽にさらされ続けた耳は、ブタ耳になる。
  • ブタ耳は、ブタであるのだからして、当然、繰り返し聞こえる音に飼い慣らされる宿命のうちにある。
  • でもって、耳タコ音楽に聴覚(と美意識)をレイプされた無自覚な聴衆は、いつしかその音楽を愛するようになる。
  • 結論:耳の純潔をないがしろにするヤツのリスナー生命は風前のともしびだぞ。
  • ついでに言えば、耳は排他的な器官だ。
  • どういうことなのかというと、あるジャンルの音楽を聴き続けていると、他のジャンルの音楽に対して忌避感を抱くようになるってことだ。
  • 逆に言えば、ロックファンであり続けるためには、他の音楽に対して、思い切り排他的かつ偏狭なスタンスで構えなければならないということになる。
  • CMソングをうっかり口ずさんでいたりするタイプの人間は特に要注意。屁ジャズを流しているラーメン屋だとか民謡をループさせてる民芸居酒屋への出入りは極力回避しよう。じゃないと、長渕剛で涙流すようになるぞ。

 まあ、半分は冗談だ。でも、マニアが外道の音楽(←自分が普段聴いているジャンル以外の音楽)に対して、寛大になれない理由の一半は明らかになっていると思う。
 結局、耳というのは、ありゃ根っからのファシストなのだな。どんなに思想がリベラルであっても。
 
 ん? だからどうしたって?
 だからさ。これ以上、外道とは議論しないぞ、と、そういうことだよ(笑)。

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2006/02/05

反抗と慰安

 下のエントリー「グラフィティあれこれ」(に寄せられたコメントへのレスです。
 長くなったので、独立エントリーにします。

>スノーケラーさん
>いつの間にかすっかり白人どもに搾取されてしまったロック
 ははは。おっしゃる通りですね。
 原初的な黒人のビートが産業化される過程の中で、ロックは、より大きな購買力を持った白人家庭のお坊ちゃま(ならびに、異文化崇拝傾向を持つ経済大国=日本、の青少年たち)向けの、高級ソウルフードみたいなものに作りかえられたのだと思います。だからってそれが必ずしもニセモノだとは私は思わないのですが、でも、黒人さんたちにとって、まがいものに見えるのは当然でしょう。われわれにとっての、ハリウッド製チャンバラ映画みたいな感じで。
 でなくても、ミックジャガーが自分の息子をイートン校に入れていたりする(もっともミック本人は、「だから何だ? オレはのっけからカネ目当てだぜ」と言うんでしょうが)のを見てもわかる通り、商業ロックの成長過程は、ワーキングクラスヒーローが搾取階級に化けていく過程そのものだったりします。
 
 ずいぶん昔、ブラックミュージックマニアである年少の友人に
「ポールサイモンなんて、総合商社みたいなもんじゃないですか」
 という感じの異議申し立てを浴びたことがあります。
 つまり、われらがポール・サイモンが、ジャマイカ、ペルー、南アフリカといったあたりで取材した音階やビートをネタ元に、インテリ向け都市音楽を生産している成り行きが、第三世界から原料作物を買い付けてそれを紅茶ブレンダーみたいな人たちに販売している総合商社と同じだと言うのです。
「っていうか、音のセシルローズですよ」
 そう、より端的に言えば、土人にビー玉をバラまいて、象牙を輸入していた植民地商人と同じじゃないか、と。
 あんまり乱暴な理屈ですが、まるで当たっていないわけでもないと思います。
 でも、音楽であれなんであれ、何らかの表現を普及させる上で、商業的な要素が混入するのはこれは、不可避ななりゆきです。
 というよりも、国境を越えて全世界に流通する力を持っているのは、ただひとつ「商品」のみなわけで、である以上、商品化という過程を踏まない音楽は、しょせんローカルな存在(←それが悪いと言っているのではありません)にととまらざるを得ないわけです。
 別の言い方をするなら、音楽の商品化は、音楽産業に搾取過程を混入させる一方で、作品としての音楽の洗練(←まあ、堕落と言えば堕落ですが)を促進してもいるわけです。
 で、洗練がある段階に到達した音楽は、最終的にはイートン校臭くなるわけで、つまり、当初持っていたはずの反抗の魂(←ま、「カタログスペック」ないしは「仕様」ってヤツですがね。「当製品は、75mgのレジスタンスを含有しております」みたいな)を喪失したクリスマスの慰安になり果てる、と。
 
 結論として、音楽は世界を変えるのでしょうか?
 おそらく、音楽は、それにカブれたおっちょこちょいの人生を狂わせる(私自身かなり狂わされました)という意味で、世界の枠組みを少しずつ変えているのだと思います。
 で、優れた商業音楽は、少年を誘惑し、青年を扇動し、そして、われら中高年を慰安しつつ、結局、雇用と産業とカネを生んでいるわけです。めでたしめでたし。

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妖精

 ヒンギスは負けたようだ。でも、立派だったと思う。復帰二戦目で準優勝。上出来だ。
 パワーテニス全盛の時代に、あのフィジカルでランキング一位を維持していることだけでもたいしたものだと思っていたが、この度の復活はマジで見事だった。

 「パワーテニス全盛」と言うと、競技の高度化みたいに聞こえる。
 でも、実態はラケットの機能進化に過ぎないのではなかろうか。でなくても、観客席から見る限り、この20年のテニス界の変化は、テニスがテニスでなくなっていく過程そのものに見えた。だって、ラリーが消滅したわけだから。
 男子テニスは、ボリス・ベッカーが登場した頃から、徐々にスピードガンコンテストみたいな競技に変質しはじめ、現在は来るところまで来ている。おそらく現時点で、一試合に占めるサービスエース占有率は、ボルグ/コナーズ/マッケンローの時代に比べて、10倍に到達しているんではなかろうか。
 ノータッチエース合戦。サービスゲームキープ率90パーセント以上。で、お約束のようなタイブレーク。不毛。
 女子テニスのゲームは、男子の試合ほどサイコロバクチ化していないが、それでも、徐々にサーブのスピードのみを競う単調な腕力勝負に傾いてきている。
 そんな中で、非力な技巧派のヒンギスが、3年のブランクから復帰したわけなのだから、これは快挙と言わねばならない。
 ただ、このまま彼女がすんなりと復帰するかどうかはちょっと疑問だ。
 パンツのケツの部分に広告を入れた(←あれはクリティカルヒットだった)頃から、ヒンギスは微妙にひねくれていた。引退は、体調よりもモチベーションの問題だったのだと思う。
 で、短期的なモチベーションは回復したのかもしれないが、もう一度ツアープロの日常を受け入れることができるのかどうかはまだわからない。オレだったらヤだな。よっぽどカネに不自由してるんでもなければ。だって、テニスのワールドツアーって、やたらに苛酷そうだし。

 シャラポワは昨年同時期と比べて身長が5cm伸びて、188cmになったんだそうだ。
 いまのところ、テレビメディアは「妖精」という接頭辞を引っ込めていないが、気のせいか、ちょっとだけ使用頻度が減ったような気がする。
 レポーターの兄ちゃんも自分よりアタマひとつ大きい女に向かって「妖精シャラポア」と言ったあとに、さすがに気まずい表情をうかべていたりする。
 来年の今頃、どうなっているのかちょっと楽しみ。
 190cmを超えた相手に向けて、なお彼らは「妖精」と呼びかけ続けるのだろうか。
 ピーターパンよりアタマひとつデカいティンカーベルがものすごい羽音を立てながらぶんぶん飛び回るファンタジー。
 素敵かもしれない。 

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2006/02/04

グラフィティあれこれ

2月2日のエントリ(「グラフィティ」という記事です)のコメント欄に返事を書いたのですが、長くなったので、新しい項目を立てます。

 もとより、ほとんどまったくHIPHOP音楽を聴く機会を持たない人間である私のHIPHOP批評は、ごく表面的なものです。
 でもまあ、風俗、文化に関する批評は、「断じて表面的であってはならない」というほどのものでもないわけで、別の言い方をするなら、「クリエイティブな制作物は、無責任な聴き手や通りすがりの客が抱く、表面的な印象についても責任を持つべきだ」ということです。
 聴きっかりじの客に「なーんかやかましいなあ」と思われたり、畑違いの傍観者に「あの失礼なステージマナーはいただけませんね」と判断されたり、グラビア写真を見ただけの評論家先生に「猿真似」と断じられているのだとしても、それはクリエイターの責任です。なぜなら、商業音楽(←keikeiさんは、商業hiphopとリアルhiphopを峻別しておられるようですが、市場ベースで販売されている音楽はすべて商業音楽と判断すべきだと思います。その商業音楽の中に、チープなものと深遠なものの区別は、当然、あるにしても、です)の聴き手は、多かれ少なかれ表面的な慰謝を求めてそれを消費する人々であり、その意味で、愛される「表面」を持っていない作品は駄作だからです。
 ……と、以上の前提(つまり、私がhiphopの良い聴き手ではないということ)を踏まえた上で、以下、印象批評をば

  • 音楽をやる連中について、一般社会のモラルを当てはめて判断しても仕方がない。っていうか、そりゃ、音楽そのものに対する批評としては反則です。
  • 商業音楽であれなんであれ、若い人たちをひきつける流行が、そのうちに反社会的な要素をはらんでいるのは当然で、むしろ、反社会的な根っこをもたない音楽は、スピード違反不能なクルマと同じく、そもそも魅力を欠いている。
  • ギャングスターラップと呼ばれる分野で英雄視されているブラザーズたちが、リアルな犯罪者であったり、ガチなヤー公であったり、あらかじめの死者であったりするのは、まあ仕方のないなりゆきなのだろうとは思う。いつの時代もボーイズは早死にする人間ととムショ入りする人たちが大好きだから。
  • ついでに申せば、そのギャングスターの人々の口調や物腰にある特有のスタイル(カッコ良さ)が生じている事情も理解できる。というのも、ギャングにとっては「カッコ良い」ということがほとんどすべてであり、いつの時代のどこの国のギャングも、思春期のうちにある一群の人々にとっては、常にカッコ良い存在であったはずだから。
  • でも、hiphopな人々が、もっぱら「半端じゃねえぞ」みたいなこと(←音楽的な優劣や技術上の巧拙よりも、その音楽をやっている人間のライフスタイルを問題にする聴き方)ばかりを競っているように見えるのは、音楽としてはマイナスなんじゃなかろうか。
  • hiphop文化が既成の常識をコケにした地点で成立している以上、その担い手である人々が一般社会から敵視されることは、当然の報いとして、甘受せねばならない。っていうか、パンピーから白眼視されなくなったら、いったい彼らはどうするんだ? 建設的で心あたたまるhiphop? お手々つないでみんなでラップ。おじいちゃんもおばあちゃんも笑顔でダンス、とか?
  • リアルなブラザーたちの口調および振るまい方が、部外者の目から見れば、単なるヤクザのそれにしか見えないということもまた、理解してもらわねばならない。だって、あれ、渡世人の口上(旅の博徒が「仁義を切る」に使う「おひけえなすって」にはじまる、あの定型的なあいさつ)にそっくりですから。
  • hiphopファッションのきたならしさについても同断。
  • ファッションが同一化欲求(皆と同じでありたいという願い)と、個性化欲求(独特でありたいと願う心情)を同時に満たさねばならない無理な注文である以上、それが、「典型的な逸脱」という逆説的陳腐に陥るのはむしろ必然なわけで、それゆえ、ブラザーズたちの服飾傾向は旧制中学の跳ね上がり連中が発明した弊衣破帽以来の伝統に沿った形すなわち「不潔と悪趣味」に着地せざるを得ない。
  • ジブラ(笑)という人がやっていたプロ野球応援ソング(ヤクルト球団とタイアップして、8月の神宮のナイターをプロデュースした時のもの。beat parkがどうしたとか)は、激しくサムかった。@2ちゃん野球板では、リアルにクソミソでしたよ。巻き舌おてもやん。バイリンガル秋田おばこ。以下ry

 というわけで、私は、ファッション、ステージマナー(←両手をしきりに上下させるサル歩き)、しゃべり方(←アゴを上げないとしゃべれないんだろうか?)、ジャーゴン(ディスるとか、バイブスとか)といった、音楽以前の要素がどうにも恥ずかしくて、HIPHOPの入り口にさえ立てていないわけです。まあ、立とうとも思わんわけですが。いまさら、自分探しをはじめる年齢でもないんだし。
 黒人さんのマネをするのはそれはそれで結構なことだと思います。
 個人的には、黒人ワナビーの青少年たちは、ヨーロッパ貴族になろうと頑張っている連中(←たくさんいますね)に比べれば、数層倍好ましいと思っています。
 でも、ゲットー発の風俗ないしはファッションが、日本のストリート(←そんなもんあるんですかね? この国に)のお兄さんやおねえさんたちに似合うようになるまでには、まだ10年ぐらいはかかると思います。
 まあ、かくいうわれわれにしても、鹿鳴館という恥ずかしい猿真似時代をくぐりぬけて、なんとか西欧化を果たした(いや、「西欧化を果たした」という言い方自体が国辱だ、と、そういうふうに考える人々がいることは承知しています。ついでに申せば、hiphopというのは、ある意味、われわれの国のエスタブリッシュメントが、明治以来追求してきた鹿鳴館式の西欧化運動に対する、かなり根源的な反作用なんではなかろうかと、そういう見方も成立するように思います)人々の末裔ではあるわけで、うーん、何を言っているのかわからなくなってきたのでこのへんでおしまいにしておきます。

 聴かないで批評するという態度は、半分までしか正当化できません。
 ので、これを機会に、疎遠だったhihopについても、ちょっと聴きかじってみようかな、と思ったりしています。
 とはいえ、当方は、音楽の最前線から撤退して既に10年以上になります。
 感受性が現役であるのかどうか、大いに疑問です。
 まあ、無理でしょうね。いまさら。

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2006/02/02

グラフィティ

 世田谷区の大蔵というところにある国立生育医療センターに出動。
 途中、環七が渋滞したので、小茂根から千川通りを走って環八に出る。やっぱり混んでいる。
 帰路、若林にある古い知人の店で昼食。しばし歓談。
 世田谷区役所の横を通って環七に出る。以下→代田→大原→方南→幡ヶ谷→新宿という経路で、懐かしい町並み(笹塚に10年ほど住んでいたことがあるのでね)を走る。
 代田、笹塚、幡ヶ谷界隈は落書きだらけ。ちょっとびっくり。
 落書きのせいか、町全体が荒涼としたムードになっている。なんというのか、サイバーパンクな雰囲気でした。
 私が住んでいた80年代中盤から90年代の半ば頃は、こんなことはなかった。
 当時の笹塚は、もっと暢気な町だった。
 とにかく、非常に良くないことが進行している感じがする。

  • 昨今、東京の町にあふれている落書きは、昔よく見かけた暴走族のマーキングとはだいぶ様子が違っている。
  • おそらく、ヒップホップの人々が「グラフィティー」と呼んでいるものだと思う。抑揚もアクセントもなしで「グラフィティー」とひらべったく発音するアレだ。まあ、あの連中はあらゆるカタカナをアクセントなしで発音するわけだが。
  • グラフィティーは、環七を走っていると、高円寺を過ぎたあたりから俄然増え始め、大原交差点を中心に爆発的に増殖する。
  • 下北沢周辺は特にひどい。
  • 要するに、渋谷、新宿から西に向かう一帯の住宅街がグラフィティ文化(←「文化」と呼びたくない人々もいるだろうが、悪趣味や不作法も、集団化した文脈を有している以上、文化ではある)の中心地ということになる。
  • 言い換えれば「田舎から出てきた若いやつらがはじめて東京に住まいを求めるあたり」それも「多分にブランド志向な連中が家賃の高さをものともせずに見栄を張って住む町」が、グラフィティー濃度の高い地帯であるわけだ。
  • ってことは、これは、「東京」に対する復讐なんだろうか?
  • ヒップホップが、「都市在住の若年低層民による現体制への呪詛」であるとするなら、その彼らの攻撃欲求の視覚的表現であるところのグラフィティーが、アッパーミドルな住宅街の景観破壊に向かうのは、必然といえば必然なのだろう。
  • 平和な国の経済難民は最終的には文化的テロリストとして再出発する、と。
  • でも、細かく見ていくと、落書きの標的になっているのは、必ずしもアッパーミドルやブルジョアジーの邸宅ではない。
  • むしろ、公営住宅の壁面や、パパママストアーのシャッター、公立小中学校の塀といった環境弱者(←なんて言葉はないけどさ)の住宅施設が、落書き被害の舞台になっている。
  • おそらく、グラフィティー作者たちは、単に「描きやすい壁面」「警備の希薄な街」「人目につかない描画ポイント」「逃走経路のとりやすい現場」を選んでいるのであろうが、そうした選択基準は、結果として、都市下層民の生活を圧迫することになっている。

 個人的な感想を述べるなら、あのグラフィティーという絵文字は好きになれない。をというよりも、ヒップホップ音楽の周辺にわだかまっている要素のことごとく(ファッション、リリック、ダンス、DJ、グラフィティなどなど)が、神経にさわるわけです。
 でも、考えてみれば、私のような旧世代の人間の神経を逆なでにするということこそが、彼らの狙いなのであろうからして、ヒップホッパーの活動は的を射ている。
 というか、旧世代のおっさんに評価されたり、ママにアタマを撫でてもらえるようではダメなわけだよな。どうせ。彼ら的には。
 若いというのはやっかいなことだ。
 ヤングーな人々は、凡庸であるということをなによりも恐れる。
 どんなに最悪な評価をされようとも、「凡庸なやつ」と思われるよりはマシだ、と、若い人々というのは、そういうふうにものを考える。
 で、凡庸さから遠ざかるべく、哀れな燃える若いボーイズたちは、営々たる努力を重ねるわけなのだが、その彼らの血の出るような努力は、多くの場合、単に、不遜な態度として結実するばかりで、ほとんど何も生産的な結果を生まない。極端な場合には、犯罪者の道に至る。 
 そしてしかし面白くも残念なことに、人間の幸福は、凡庸さの中にある。
 いや、ここは一番、凡庸さの中に「しか」幸福はない、と、断言しておこう
 なんとなれば、幸福とは、自他の凡庸さを容認する寛大さの果実だからだ。
 というわけで、「世界に一つだけの花」の末尾に、以下の一行を追加しよう。
「オンリーワンにならなくてもいい、もともとありふれたワン・オブ・ゼム」

 とはいえ、14歳にして鉄壁の諦観を身につけた少年が、幸福な青春時代を過ごせるのかといえば、それはまた別の話で、たぶん、粋がらないガキは、ナニモノにもなれない。
 世界に一つだけのありふれた犬のクソ。
 

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