忙しい。
毎月のことだが、ほとんどすべての仕事が最初の一週間に集中している。今日一日がんばったら、2~3日ぼんやりして、それから先のことを考えることにしよう。
ところで、朝日新聞がやっている「ジャーナリスト宣言。」キャンペーンって、ちょっと変だよね。
朝日新聞のご案内ページ
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
あれのCMをテレビで見ると、微妙にはずかしい気持ちになる。
なぜなんだろう?
おそらく、朝日新聞社自身が、自分たちの「言葉のチカラ」を信じていないように見えるところがイタイのだと思う。
なにより、「言葉のチカラ」と、「力」をカタカナ表記にしているところがよろしくない。コピーライターの心のふるえが露呈している、というのか、斜に構えている感じがするわけだ。
「それでも私たちは信じている、言葉の力を」
と言い切ってしまってから、自分のセリフに照れている感じ、ですね。
倒置表現まで使って大見得を切った以上、照れるのはルール違反だと思う。ここは一番、思いっきりクサく、ベタに、ポエム全開で信じ切ってやるのが相手に対する礼儀だと思う。
こういう場面でのカタカナ使用は、
「えっとつまり、オレとしては、キミをアイシテるわけです(笑)」
ぐらいなメールを想起させる。
微妙に腰がひけていて、口説いた相手に笑われた時に
「なーんてね。冗談冗談」
と、安全に撤退する退路をあらかじめ確保している感じがするわけだ。
表記の問題だけじゃない。
内容もちょっとおかしい。
「感情的で、残酷で、ときに無力」 なものを、簡単に信じて良いのか?
という問題が残る。
「それでも、信じる」ことを誰かに訴えるためには、その、信じようとする対象の良いところをきちんと列挙して、「こういう欠点があるのは承知しているけれども、一方、それにはこれこれこういった長所やこんなふうに素晴らしいところがあって、だからこそ私はそれを信じるのだよ」
というふうに、丁寧に相手を説得しないといけない。
「残酷だけど信じる」とか、「感情的だけど信じる」と、留保抜きの信頼感をただまっすぐに強調されても、聞かされる側は困惑するばかりだ。というよりも、
「それって、盲信じゃないのか?」
という疑問が生じますね。当然ですが。
「言葉」を誰かの名前に置き換えてみるとわかりやすくなるかもしれない。
「英寿さんは感情的で、残酷で、ときに無力です。それでも私は信じています、英寿さんのチカラを。駆け落ち宣言。みゆき」
これ、マズいよね(笑)。
明らかに悪い男にひっかかってる感じしませんか?
とにかく、パパは反対だな。なるべくなら結婚は許したくない。ちょっと前の世代のオヤジなら、パァーンてなぐあいに娘のほっぺたをひっぱだいて、言うだろうね
「目をさませバカモノ」
と。
男の例だけだと、なんだかマッチョみたいで良くないんで、逆の例も出しておく。
「りえは感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでもオレは信じている。りえのチカラを。交際宣言。健一」
うん。悪いのにひっかかってる(笑)。まあ、通過儀礼だけどさ。ジャーナリストがひっかかちゃいけないよな、こんな性悪に(笑)。
マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。
言葉のチカラを安易に信じるジャーナリストは、包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人です。てか、素人。
いつでも包丁のサビを気にかけて、メンテナンスを怠らず、間違っても生身の人間に向けて使わないように気を配るのが、まっとうな職人ってものだよ。
というわけで、コラムニスト宣言。
「オレは感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでもオレは原稿料がほしい。コラムニスト宣言。小田嶋隆」
そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。
オレの包丁が他人を傷つけたら、それは100パーセントオレの責任。
ま、包丁のチカラなんかを信じてどうするってことだよ。信じるべきは、オノレの目と頭とウデ。あとはハラを切る覚悟。それだけだろ?
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