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2005/09/03

葬式

 千葉県印西市に出動。
 昨日の通夜に続き、本日は告別式。南無。
 故人とはほとんど面識もないなのだが、葬儀イベントの勃発とともに足の悪い叔母と母親を現地まで運搬する任務が自動的に発生するわけだ。となると、一応、親戚の端くれに連なる者である私が、運転だけして列席しないという理屈が通るはずもない。そう。長らくぶらぶら者をやっていた次男坊の宿命。永遠の車両係、ってやつだ。
 いや、運転が面倒だというのではない。
 っていうか、ひきこもり系の仕事をしている反動なのか、運転は好きだ。窓の外で景色が動いているだけで、気持ちが晴れ晴れしてくる。往復100キロ程度のドライブは、気分転換には最適だ。

 でも、葬式は別だ。
 あれは、どうしても好きになれない。
 慣れるどころか、年齢を重ねるごとに、ますます嫌いになる。
 故人への哀悼の気持ちとか、遺族への気遣いとか、そういうこととは別に、あの儀式のなんともいえない嘘くささが身にこたえる。
 二日連続で葬式劇場に付き合っていると、なんだかカフカの小説の中の人物になったみたいな気分だ。
 作り声の読経。もったいぶった合掌。焼香の時に参列の人々が見せる芝居がかった仕草。永遠に繰り返され、波のように拡大再生産される無駄なお辞儀。
 儀式は人をロボット化する。機械仕掛けみたいな所作。テープ再生みたいなあいさつ。お経というのは、あれは思考停止のためのBGMで、葬儀は、要するに、演芸化された死体処理プログラムなのだろうか……って、言い過ぎだよな。わかってるってば。
 
 三々五々集まる親戚。葬式共同体としての血族集団。
 会うときはいつも黒い服。
 徒歩圏内に住む近縁の者たちが、農作業を協働していた遠い時代には、親戚縁者の付き合いにも、相応の意味はあったのだろうし、互いを規制している義理だのしがらみだのにも一定の必然性があったのかもしれない。
 でも、われわれはいま、離れて暮らしている。
 小さい核家族を構えて、互いのタコツボから外に出ない生き方をしている。
 日常、会うことほとんどないし、葬式や結婚式の待ち時間以外に、言葉をかわす機会もない。
 とすれば、絶縁したところで、誰が困るんだ?
 いや、親戚に誰か特定の不愉快な人間がいるということではない。
 ただ、面倒なわけだよ。懐かしくもないのにそういう表情を作ったりすることが。
 われわれがもし素敵な人間同士であるならのなら、親戚というしがらみを除けた立場で、心やすく付き合いたいものだし、そうでないなら、わざわざ交際を続行する必要は無いわけで、とすると、親戚という条件は靴の裏についた犬のクソと同じで、意図せぬ足跡を残す以外に……
「ぜいたくを言うなよ。ユーの親戚の誰がユーを殺そうとした?」
「ん? 誰だ?」
「わが名はキム・ジョンナム。世界中の親戚ぎらいの友にして、ぶらぶら者の王。放浪の半端オヤジ。永遠の宙ぶらりん男。自問自答の世界チャンピオン。偉大なるドラ息子の息子。東アジア放蕩国家の絶望の長男。裏社会の食通にして暗殺者のアイドル。生ける葬儀写真……まだ続けるか?」
「……うん。まあ、キミの家系図に連なる人たちと比べれば、うちの親戚はずっと素敵だな」
「そう。親戚の性格を決定するのは、個々人の人格や個性ではない。何を共有し、何を分かち合い、何を奪い合わねばならないかが、血族の運命を決定する。わかるか? これはシステムの問題なんだよ」
「了解した。同志ジョンナムよ。私はもう愚痴を言わないことにする。私の親戚は何も共有していない。これは、きっと素晴らしいことなのだな?」
「そうだとも同志。財産と権力を持たないということは、キミ、恩寵だよ」
「ありがとうジョンナム。キミも強く生きてくれ」
「ははは。私の任務はだらしなく太ることだけだよ」
「太ってどうするんだ?」
「私がより醜く太れば、それだけ偉大なる領導者の負担が減る」
「キミのパパはキミが太ることを望んでいるのか」
「いやつまり、処刑後に心を痛めずに済む、ということだよ」
「……処刑?」
「同志よ。こういうふうに考えたことはないか? 人間は誰しも生まれたその瞬間に死刑を宣告されているのだ、と」
「ジョンナム……」
「そう。執行猶予なんだよ。キミもわたしも。あの偉大な父でさえも」

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コメント

う~ん。
私、坊主なんですが、おっしゃらんとするっことはわかると思うのですが、その必然性のなくなった部分を日常的な仕事にしているというのも、なんとなくつらいものですね。

檀家のコボルプログラマーの方が「時代遅れの仕事」と自嘲してらっしゃったのとはちょと違い、時代遅れのコミュニティの継続代行みたいな。

つらいな。

投稿: genba | 2005/09/04 15:00

>genbaさま
 いやあ、僧職の方が読んでいらしたとは。
 いまやネットと結びつかない職業や立場というのは、存在しないのですね。

 葬儀についてですが、今回の私のような義理がらみの参列者が儀式の窮屈さを呪うのは、まあ、仕方のないなりゆきであるとして、だからといって、葬儀全体に意義がないわけではないと思います。
 通夜、告別式、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌……というふうに、段階を追って儀式を執り行うことは、死者に最も近い遺族にとっては、喪失感をソフトランディングする上で適切な手続き(徐々に間遠になって行くスケジューリングが絶妙ですね)なのだと思います。
 元来、宗教には、死と和解するための技術としての側面があるはずで、とすれば、葬儀が芝居がかっているのはむしろ当然で、死別という、これ以上ない悲しみに直面している人々に新しい一歩を踏み出させるためには、あらゆる動作を、定型的な形式にはめこむのが賢いやり方なのかもしれません。
 どうも、私には、狂信的な無神論者みたいなところがあって、参拝とか追悼とかいったちょっと宗教がかった話をされるとヒステリーをおこしがちだったりします。
 信仰と同様、信じないということもまた、他人に押しつけて良いものではないわけで……まあ、どうかお気になされないでください。

投稿: 小田嶋 | 2005/09/04 18:41

私も狂信的な無神論者ではないかと自分のことを疑っていますが、それにしても、今回はいい文章だと思いました。とくに後半部分の冴えが素晴らしい。

儀式としての葬儀はあまり肯定的に捉えられないのですが、では僧職が無意味かというと、そうでもないのが微妙です。個人的には親戚の葬儀の時にとても素晴らしい僧職の方に出会って、説教に感心してしまいました。手続きだけで「死」のソフトランディングをされても困るのですが、そこに心と技術がこもっていると、とても力になります。

投稿: nora | 2005/09/04 23:30

はじめて書き込みます。

ジョンイルの最後の二言が素晴らしいですね。信長っぽいです。

私事になりますけど、俺の今まで読んだ色んな人のエッセイ集の中で、もっとも好きなのは「我が心はICにあらず」ですんで…その少し後、M事件の絡みで、あの部屋を擁護していた小田嶋さんの文章が今も忘れられません。

週プレとかで、たまにお見かけするとすごく嬉しいです。しぶとく書き続けて下さい。ヨミウリウィークリーとゲームラボも読んでます。

っつー信仰告白の場ではないんでしょうが…小田嶋さんは俺の青春ですから。朱夏も、できうれば、ガツンと俺のどたまにくらわせてくださると嬉しいです。

俺はくたばったら焼かないで宇宙に放り投げてほしいですね。眠るときくらい独りにさせてくれって思います。俺は盆だの彼岸だのまったく何もしませんから、俺にもそういうことしてくれなくていいです。

では。

投稿: ひじきごはん | 2005/09/06 06:30

連投すみません。ジョンナムだったんすね。なんて人選だ。

投稿: ひじきごはん | 2005/09/06 06:36

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