微苦笑道
直前のエントリー(「弱者」)について、いくつかコメントをいただいたのですが、答えが長くなりそうなので、新しい項目を立てます。
友人Mのエピソードは、たしかに、シャレになりにくい話――というよりも、アタマ少年の立場からすれば、いじめそのものです。
結局、ティーンエイジャーの笑いは、「いじめ」と未分化だ、と。
しかも、笑いを取ってスターになるのは(紳助やさんまを見れば明らかな通り)いじめっ子の側です。ネタにされた側の人間は、それこそゴミと一緒。
とすれば、笑いを取るということが、絶対善になっている昨今の風潮は、間違っています。
1990年代以前の、「お笑い」が一段低い肉体芸として見下されたいた時代ぐらいの感覚がちょうど良い塩梅なのでしょう。
笑い――特に集団でのアクションをともなう笑い――は、一種の暴力です。
暴力が絶対にいけないとは申しませんが、その発動に際しては、常に最大限の注意が払われていなければならない、と、自戒をこめてそう思った次第です。
私のような、中年を過ぎた人間が笑いを取りに行く場合は、極力上品に、間違っても放送禁止用語なんぞは使わぬように気を配ってかからねばなりません。
で、さんざんもったいぶって、最後の最後に、ジプシーがテントを畳むタイミングで、小声のジョークを置き残して行く。客席の片隅でほんの小さな含み笑いぐらいが起これば大成功、と。まあそういうことですね。
爆笑は下品。
餓鬼微苦笑道。
あ、わかってます。仕事に戻ります(笑)。
なるほど。
(笑) と、一人笑いを提示する手法は、人を笑わせるより簡単かつ有効ですね。上品であるかどうかは別として。(微苦笑問題)。
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コメント
なるほど。主旨はよく解りました。
元イジメられっことして、ちょうどイヤーなところに触れられた気がしたものですから。
お騒がせしてすみませんでした。
さて。
現在「ジプシー」は放送禁止用語なのですが(例:山口百恵の『謝肉祭』は放送不可)。
投稿: するばん | 2005/09/30 23:48
確かに、笑いを取ってスターになるのはいじめっ子の側ですよね。ただ紳助やさんまは何かを笑いにしている中に、必ず救いがあるように思います。Mさんの場合、まさに救いがないですね(笑)。
ただ、小さい頃にこれ(Mさん的な笑い)を面白いと感じてしまう感覚はよく理解できます。そして、このようなことは10代のみならず成人後も脈々と人々の中に生き続けている気がしています。
そしてこういった感覚というのは、例えば結局本音のところで学歴にこだわってしまうのと同じように、「本当はなければ綺麗そうに見えるのに実際はあってしまう物」なのではないだろうか、という気がしています、最近特に。
投稿: ありん | 2005/10/01 01:23
「世の中には言っていいコトと言うと面白いコトがある」
蛭子神健
投稿: 笑いって本質的に残酷なものなんですよね | 2005/10/01 12:18
いじめっ子/いじめられっ子の関係は、人間関係の中でも相対的なものだと思います。
人間が死ぬときまで、上手に付き合っていくしかない感情のひとつですね。
--------------参照-----------------
笑いを取ってスターになるのは(紳助やさんまを見れば明らかな通り)いじめっ子の側です。
-----------------------------------
テレビ画面上では、常にいじめっ子の側である紳助やさんまも、いじめられっ子の側に陥らないよう様、有形無形の努力が透けて見えること
があります。 私は、このような如才のなさが彼らの人気の一環かな?とおもうこともあります。
イジメは本質的に感情と結びついているものなので、年齢を重ねるということは、その発散と抑制機能を作り上げていくことだと思います。
投稿: 勉強王子 | 2005/10/01 15:24
これ、そんなに酷い話かなぁ。学校や会社が代わって、長年呪った昔の徒名からやっと逃れられたと思ったら、ある日、みんながいる前で悪友とばったり出くわし、まるでお約束みたいに忘れていた自分の徒名をバラしてくれるというのは、人間一度や二度は経験するものだと思いますが。
恋人と歩いている最中に昔の女と出くわすより、受忍限度的には遙かに寛容な問題はと思うのですが。
投稿: えいじ | 2005/10/01 19:36
>えいじさん
「よくあるひどい話」ぐらいでしょうか。
世間というのは、残酷な場所です。
でもまあ、アタマ少年とて、ひどい目に遭うことで社会化していった部分もないわけではなかろう……てなあたりで、この程度の問題は時効になります。
いずれにしても、紳助の事件とかと比べれば、しょせんは子供時代のほろ苦い笑い話ですね。
投稿: 小田嶋 | 2005/10/01 20:55
笑いをとる(業界用語っすよね)中に立場の強弱、高低からその落差を哂うという種類がある以上、未成熟の人間がその安きに流れるつーのは仕方がないことか、と。
実際ガキのときはそれは面白かったし。成熟した大人になってもそれだけで喜んでるうどん系の人とは距離をおけばいいし。
落語の与太郎系の話だって、一種の自虐系の笑いではあるわけで、差別を使わずに枕やクスグリで笑わす事ができるのは志ん朝とか小三治とか、談志(攻撃的ですが)とか名人のなせる業で凡人は客席で笑ってる方がいいんですかね。
そんな私は、立川藤志楼(高田文夫)の「私は人種差別と黒人が大嫌いだ」というものに大笑いしましたが。
投稿: 古今亭 | 2005/10/01 21:25
あれ?
小田嶋氏はシンスケ事件の時
どんな理由が有れ暴力はいけないと
言ってたはずですが。
口の聞き方を知らない者への暴力(体罰)
と
身体的なものを侮蔑する言葉の暴力
のどちらが酷いかという比較はしたくないですが
後者に関して
「酷い目にあわすことで彼は社会化できる」とか
「子供時代のほろ苦い思い出」という認識で
いられる神経がわからん。
投稿: あれ | 2005/10/02 00:11
えいじ「よくあるひどい話」
人によるでしょうけど、やられた方はたまったものじゃない。
場合によっては人生狂わされる事もある。
ま、センセのようなマッチョからすればそれは本人が
悪いとなるのでしょうがね。
投稿: *** | 2005/10/02 01:19
>でもまあ、アタマ少年とて、ひどい目に遭うことで社会化していった部分もないわけではなかろう
かえって社会と距離を置くようになった可能性も考えられますが。
投稿: Noisy | 2005/10/02 02:00
えいじ「よくあるひどい話」
ではないでしょ。
「身体的なものに対する侮辱」って、絶対やってはいけない行為だと思うけどね。
アタマ少年にとっては、自分の努力ではどうすることのできない部分を、ダイレクトに攻撃されたのだから。
この程度の問題は時効って、よく言えますね。
投稿: ar | 2005/10/02 13:46
泣く子と人権論には勝てん、とかゆーそーな。
小田嶋どん、ここは謝っときぃな。
投稿: あおきひとし | 2005/10/02 15:23
この世は、ある部分性善説で成り立っているわけですが、万人が一人残らずそれに従ってくれるわけじゃありません。現にそういうことは、学校だろうが会社だろうが、普通に暮らしていれば頻繁に起こりうる。
ここにこういう不謹慎な話があって、それは通りすがりの第三者からみれば不愉快な人もいるだろうし、俺もやられた経験あるよなぁ……、という人もいるでしょう。でもそれだけのことですよ。実行行為者に対して、そういう行為はイクナイと説教できるのであれば別ですが、その横に立っていただけの人間に説教しても始まらないでしょう。
たかだか数十年前の若い時分の昔話で、いちいち私は不愉快です、と表明するような問題じゃないでしょう。それとも、かつてこういう悪友がいたけれど、僕はとても不愉快で許せないと思いましたなどという陳腐なテキストをお望みなのでしょうか? ここでPTAみたいに振る舞っても読者にとっての益は無い。
投稿: えいじ | 2005/10/02 17:21
「頻繁に起こりうる」
「それだけのこと」
所詮はいじめた側からの事態の矮小化ですね。
「陳腐なテキスト」?
そうなるかどうかは結局書き手の力量の問題なのでわ?
投稿: Noisy | 2005/10/02 19:59