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2005/09/01

表現者の王国

 朝日記者の取材メモ捏造事件に関する報道を見ていて、私がなにより違和感を感じたのは、一方の当事者である田中康夫知事が発した、以下のコメントだ。

田中康夫・長野県知事は29日夜「若い表現者の情熱が、取材メモ作成の過程で勇み足となってしまったのか。か弱き人々に優しい目線を常に抱き、仕事熱心だった彼(西山記者)とは日ごろの取材を通じて信頼関係を築けていただけに、複雑な思いだ」とするコメントを発表した。(←以上、毎日新聞より)

 皮肉だろうか?
 
 ふつうの日本人の言語感覚からすると、一新聞記者に対して「表現者」という言葉を使うのは奇妙だ。
 新聞記者は、ジャーナリストであり、報道人であり、真実を追究する者ではあるかもしれないが、「表現者」というのとは、ちょっとニュアンスが違う。
 表現者は、作家、詩人、画家、映画監督、作曲家、俳優、という感じの、言ってみれば「芸術家」に対して使われる言葉だ。
 その意味で、新聞記者に「表現者」という言葉を当てはめるのはおかしい。
 記者の書く記事も自己表現の一形態なのだという見方も可能ではある。が、新聞記者の書く文章は、そもそも出発点からして、小説家や詩人の書く自己表現の文章とは違うものだし、当然、出来上がりもまったく別の性質を持つものになる。
 ジャーナリストの文章は、芸術家の書く文章と比べると、もっと自己を滅却したところにあるものだ。ずっと対象寄りの、あるいは、主観的な自己省察よりは、客観的な事実に重きを置いたものであるはずだ。
 ……という、以上の事情を踏まえてなお、田中康夫があえて記者を「表現者」と呼ぶ狙いは何なのだろう。
 私には、田中康夫が、「表現者」という述語を通じて、こう言っているように聞こえる。
「おい、表現者としては、オレの方が格上だぞ」
「同じ文章で身を立てる者として、オレの方がより高級な立場なんだぞ」
 つまり、本来、自分の専門分野である小説とは畑違いであるはずの新聞記者の仕事を「表現」という言葉で、ひとくくりにすることによって、新聞記者を、「作家より一段下の文章書き」「小説家になりそこなった会社付きの勤め人文章人」というふうに貶めることが、田中先生の狙いであるわけだ。
 でなければ、「表現道場」(田中知事が案出した、記者クラブの代替物。県の広報みたいなものでしょうか?)などという高飛車な発想は出てこない。

道場? つまりアレか? オレのところで修行して行けと? オレが稽古をつけてやる、か?

 もっとも、田中知事は、「脱記者クラブ宣言」の中で、「生きている人間はすべてが表現者だ」ということを繰り返し述べている。
 なるほど。
 そう言って言えないことはないだろう。
 誰もが言葉を使ってしゃべっているわけだし、言葉を除けたとしても、歩くことも、走ることも、あるいは女を口説くことだって、広い意味からすれば表現だからだ。さよう。あらゆる人間の行動は、すべからく自己表現である。その通り。
 しかし、そうは言っても、誰もが表現ということを人生の主目的に置いて生きているわけではないし、まして、表現を生業として暮らしている人間はほんの一握りだ。
 その意味で、「すべての人間は表現者だ」という言い方は、一面の真実を含んではいても、なお極論に過ぎない。「すべての人間はアスリートである」「人はみな旅人である」「生きとし生ける者は、誰もが病人である」「男は誰も渡り鳥さ」といった、似たような宣言と選ぶところはない。与太に過ぎない。
 とすれば、われわれは、田中康夫が「表現者」というものの枠を無闇矢鱈と広げてかかりたがっている裏には、何かたくらみがあるはずだ、と考えねばならない。
 面倒なので、いきなり答えを言おう。
 
 田中康夫は、どうしてあらゆる人間を表現者という枠内にはめこみたがっているのか。
 狙いは、おそらくふたつある。
 一つは、
「新聞記者を特別扱いにはしないぞ」
 と言う宣言。
 そう。田中康夫は、自分の公私の立場と県政に関わるあらゆる情報を、すべて田中の意のもとに一元管理したいと願っている。だから、記者は邪魔、とそういうこと。
 もう一つは、
「人間にとって一番高級な作業は表現であり、その表現という分野で成功した人間である田中康夫は、あらゆる人間の中で最も上質な人間なんだぞ」
 という宣言だ。
 つまり、「すべての人間は表現者である」という大前提は、次に来る隠れた小前提(「表現では田中康夫がチャンピオン」)に導かれて、黄金の結論「すべての人間の中で最高最上なのは田中康夫」に到達するわけだ。康夫式三段論法。すばらしい。

 たとえば、松坂大輔が、
「すべての人間は投手である」
 と言ったのだとしたら、その意味するところは、
「オレがナンバーワンだぞ」
 ということです。
陸上の末續選手あたりが、「すべての人間はランナーである」と言った場合も同じ。
どうしたって、 「おい、日本じゃオレより上等な男はいないぞ」になる。
 結局、田中康夫は、「表現者」という言葉を通して、長野県民をおだてているわけでもなければ、人間一般を崇高な存在と見なしてその「表現」を愛でているのでもない。
 田中は、表現という自分が一番(←だと本人は思っている)な分野で、あらゆる人間を判断しているだけなのだ。
 もしかしたら、松坂大輔君あたりは、人間の優劣を投げるタマの速さで判断しているかもしれない……いや、いくら松坂君とて、そこまで自己肥大してはいないだろう。
 でも、表現王田中康夫は、こう思っている。
「おい、表現ならオレが世界一だぞ」
 厭な野郎だなあ。

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コメント

小田嶋さんの田中康夫嫌いには一理あると思いますが、新聞記者を表現者と呼ぶことについては、田中氏側の理屈も大いにうなずけると思っています。小田嶋さんは、新聞記者は「客観的な事実を扱う」ので、芸術家のような表現の幅はないとおっしゃいます。それはそうですが、新聞記者は、見た事実の「重要さ」や、他の事実との関連について想像力を働かせたりする重要な役割も担っており、その結果を紙上に「表現する者」と言い換えることは、それはそれで意味のあることように思えます。「表現者」とわざわざ筆記することには、特に記者クラブが事実を規格化してきたこれまでと一線を画す意味で、有意義だと思います。いかがでしょうか。

投稿: 六月五月 | 2005/09/01 22:14

田中康夫が主張する「理屈」だけを聞いていれば、もっともらしく聞こえないこともない。が、その行動をつぶさに観察すれば、その本質(他人を見下した嫌味な性格)に気づかずにはいられない、ってことでしょうね。
長野県庁の記者会見(表現道場)のテキストを読むと、田中知事がいかに記者達を馬鹿にしているかが良くわかります。
http://www.pref.nagano.jp/hisyo/press/press_h.htm
新党結成時の談話も、県民を馬鹿にした、と受け止めた人が少なくないはず。

投稿: ya-mana | 2005/09/01 23:29

>六月五月さん。
 お返事を書いたのですが、長くなったので、別途項目を立てます。

投稿: 小田嶋 | 2005/09/01 23:50

田中康夫は元表現者ね。

投稿: 佐藤秀 | 2005/09/02 08:12

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