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2004/09/14

荒川区探訪

 朝から好天。
 出来心で川まで自転車をころがす。
 うん。たぶん軽い躁期なのだな。いずれにしても「出来心でサイクリング」だなんていう行動パターンは、元気の無い時には考えられないことだ。その意味では、いきなりブログなぞをはじめたりしたのも、ノルアドレナリンのしからしむるところと言えば言える。
 私の場合、病気の域ではないものの、二年周期ぐらいで気分の浮き沈みがあるように思う。
 でなくても、勤め先を持たない人間は、気分の変調をコントロールすることが苦手だったりする。
 勤め人は、多少気分が乗らない時でも出勤しなければならないし、人に会いたくない日でも、強制的に他人と交流する機会を持たされる。その結果、彼らは、内心に育ち始めた鬱を、芽のうちに克服することができる。まあ、鬱に抗って頑張ることで、さらにやっかいなストレスを抱えることもあるような気はするが、それはそれだ。
 ともあれ、われわれ自由業者は、鬱になったら、そのまんま、まっすぐに蟄居への道を歩む。
 すると、沈んだ気分と不活発な行動パターンは、クルマの両輪になり、双方が双方にとって原因と結果になりながら、深みにハマっていく……いや、まぎらわしい表現だった。つまり気分が沈む→家にこもる→ますます気分が落ち込む→さらに致命的に引きこもる→完璧に無気力になる→寝込むという感じのループに陥るということだ。鬱スパイラル。
 ……で、色々あって、一陽来復、陰極まって陽が生じて、ある日突然、躁がやってくる。
 理由はわからない。
 もしかしたら、引きこもっていたことが正解だったのかもしれない。
 レディオヘッドが救いになっていたのかもしれない。
 いや、理由なんか、ありゃしないのだ。
 単なる脳内物質の気まぐれ。いたってケミカルななりゆきってやつだ。
 状況があって、それに応じて気分が形成されるわけではない。
 まず気分がある。陰であれ、陽であれ、制御不能なタイプの気分は、状況なんぞの影響は受けない。
 しかしまあ、鬱も躁も、オレの場合は、たいしたことにはならない。鬱の時はだらしなく無気力だというだけだし、躁の場合は、多少勤勉になって、機嫌がよくなって、気前が良くなる……って良いことばっかりだと思っていると、二ヶ月後にどかんと疲れがやってくる。人生楽ありゃ蜘蛛あるさ。

 今日は、荒川の河川敷を走って、扇大橋(岩淵水門から5キロぐらい?)まで行った。
 扇大橋橋詰にあるK's電気を覗いて、帰り道は、そのまま尾久から町中に入って、小台→堀船→豊島という経路で赤羽までトロトロ走った。
 大遠征だな。ヒキーコ野郎としては。
 
040914a.jpg
※おそらく戦前からの焼け残り。東尾久にて撮影

 荒川区の町並みは自転車で走るのに好適だ。
 ありていに言えば都市再開発から取り残されているのだが、その取り残されっぷりが美しい。
 一般的な意味で美しいのではない。パッと見た見かけは、貧しさと古さ以外の何物でもない。が、その貧しさの奥に、情緒に訴える要素があるのだ。
 といっても、万人の情緒に訴えるわけではない。おそらく、30代より下の人間の目には、せせこましく映るだけだろう。
 結局、荒川区には自分が一番多感だった昭和40年代の景色が残っている、と、そういうことなのだな。
 東尾久のあたりを走っている時、唐突に父親のことを思い出した。そうだった、あの人は、学歴がないことを恥じてはいなかったが、でも、自分がきちんとした教養を持っていないということを時々思い出して、その度にちょっとなぐさめようのない感じでふさぎこむみたいなところがあった。
 低層の木造家屋が並ぶ露地の風景と父親の無教養。
 感傷的な組み合わせだ。
 躁期の人間は、上機嫌であるようでいて絶妙に感傷的であったりもする。
 不思議だ。 
040914b.jpg
産経下町家庭婦人バレーボール大会の告知。
マジでタイムスリップしたのかと思いました(笑)。

 ところで、さきほどちょっと触れたレディオヘッド(radiohead)は鬱だとか躁だとかいった事情を超えて、マジで素晴らしい。2年ほど前に偶然発見するまで、ほぼ完全にスルー(creepは聞いたことがあったが)していたのはまことにうかつだった。
 ただ、あの暗さはちょっとヤバい。たとえば「no surprise」の圧倒的に甘美なメロディーと、湿度百パーセントのサウンドと、ドス黒く暗い歌詞は、ありゃやっぱり若いヤツが聴くには危険だと思う。
 特に、サビにつながるところの歌詞がすごい。

I'll take a quiet life
A handshake of carbon monoxide
No alarms and no surprises
No alarms and no surprises
No alarms and no surprises
Silent, silent

ぼくは静かな生活を選ぶ
一酸化酸素の握手
目覚めも驚きも無い
静寂を

 たぶん、「一酸化炭素の握手」は、ガス自殺を暗示している。

 一酸化炭素の空いている腕が酸素と握手することで一酸化炭素中毒が起こる。その一酸化炭素中毒による無意識の死を「ノーアラームズ アンド ノーサプライジズ」と表現しているわけだ。
 決して目覚めることのない、驚きのない世界……すなわち死。
 と、こういう言葉が、極力ダウナーなサウンドに乗って繰り返されるのであるから、境界領域にいるヤツはけっこうひとたまりもないかもしれない。
 まあ、暗い気分の時には暗い歌を聴くべきなのかもしれないのだが。

 

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