2015/08/05

「やんちゃ」の市民化について

 twitter上で、過去のいじめ加害体験を武勇伝みたいに語っている議員さんのブログが話題になっていたので、参考までに古い原稿を掲載します。

 2008年3月に、「テレビ救急箱」(中公新書ラクレ)という新書のあとがきのために書いた文章です。
 
 どういう本のあとがきなのかという説明を書こうかとも思ったのですが、めんどうなので本書の「まえがき」を、あとがきの後に付加しました。
 ちなみにこの本は絶版になっています。
 まあ、諸行無常ですよ。

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2014/05/14

「女性差別広告」への抗議騒動史

 熱で眠れないので。
 先日来、フェミニズム運動にかかわっておられると思しき女性から、当方のツイッター上で、質問を受けました。
 何人かの方に自分の発言を説明し、質問に回答するなど、私なりに対応をしたのですが、依然として、誤解は解けていません。
 もっとも「誤解」と言っているのは私の側からの言い方で、先方は、
「誤解もなにも、オダジマが、バックラッシュ活動に励むアンチ・フェミ論者であることは動かしがたい正確な認識だ」
 と言うかもしれません。
 ただ、私の側からすると、現在、ツイッター上に流れている情報に対して、いくつか反論したいポイントがあるわけです。
 ツイッター上では、現在、オダジマについて、以下のような情報が流れています。
・オダジマは、以前からけっこうガチでアンチフェミな言論活動をしてきた論者である。
・宝島から出た「バカ女の闘い」に掲載したコラムの中で、女性運動の抗議の歴史を嘲笑している。
・84年の講談社『モーニング』の中吊りポスターに対する抗議を「チンケな抗議」と言っている。
・エイズ予防財団ポスター抗議に対して「抗議行動はさらに瑣末かつヒステリックな色彩を帯びてくる」と書いている。
 
 私の側から申し上げれば、20枚からの小論の一部だけを取り上げて、こういう言い方をされるのは心外です。
 私自身は自分のことを、かなりフェミニズム寄りの人間だと考えています。
 もちろん、実際に活動をされている方からすれば、オダジマの「つもり」など、ちゃんちゃらおかしいかもしれません。
 筋金入りの性差別主義者じゃないか、と、そう思っている方がたくさんいることは残念ながら事実ですし、そう思われているということは、私の側に問題がある可能性を示唆しているのでしょう。
 なので、以下に話題になっている「宝島社」のコラムの全文を転載することにします。
 全文に目を通した上で、それでも、
「ああ、やっぱりオダジマは完全なミソジニーのバックラッシュのアンチフェミのセクシストのマッチョなのだな」
 と思われたのなら、仕方ありません。
 甘んじて批判は受けます。
 ただ、これ以上の議論はご勘弁ねがいます。
 私の人生の残り時間は、そんなに長くありません。
 その残り時間に、ギスギスした議論をすることは、なるべくなら避けたいのです。
 なにぶん古い原稿なので、本文を載せる前に、ざっと主旨を説明しておきます。
・オダジマは、女性運動を揶揄しているのではない。
・ただ、女性運動の歴史が、抗議活動の歴史とほぼイコールになっている展開が、女性運動にとって不幸なのではないかということを指摘したつもりでいる。
・1970年代の抗議運動は、ジェンダーや性役割といった当時なじみのなかった女性運動の概念を広く世間に啓発した。この点で、抗議という手法のインパクトは絶大で、戦略は成功していた。オダジマ自身、当時の抗議活動をきっかけに、はじめて性差別という視点を得ることができた。
・ところが、抗議が繰り返されるうちに、抗議のポイントが徐々に矮小になって行く。
・また、抗議を受けた側が、重箱の隅をつつかれたような感慨を抱くようになった。
・こうなると、「抗議をした女性団体が、広告の打ち切りを獲得することや、ポスターの掲示をやめさせること」は、勝利のようでいて、その実、勝利でなくなる。むしろ、「女性団体の偏狭さとめんどうくささを印象づける結果」を招いていなかっただろうか。いや、反論はあるだろう。でも、オダジマはそう思ったということです。
・最後のオチは、「女優さんが、男子中学生を滑り台のてっぺんから蹴落とす」みたいな描写のCMが流れていること自体、CM制作現場が、女性団体の抗議を内在化して韜晦している姿であるかもしれないわけで、こんなふうに思われているのは、戦略として成功だとは思えませんよ、ということです。
 では本文です。手元の資料では、2003年の6月に書いたことになっています。
 どうぞ。



「女性差別広告」への抗議騒動史
 
 オイルショックをご存知だろうか。
 若い人たちは知らないはずだ。
「いや、知っている」
 と言う君は間違っている。
 というよりも、君の知識のモトになっている「スーパーのトイレットペーパー売り場に客が殺到するVTR」は、ありゃウソです。
 そう、この二十年の間に、のべ何百回か再生されたに違いない、あの「主婦殺到映像」は、ヤラセとまでは言わないが、「演出上の意図に沿って極端端な場面を切り取って見せた、世相の一断面」に過ぎない。
 ちなみに、私は当時高校生だったが、あのニュース映像に出てくるような場面に出くわしたことは一度も無い。
 にもかかわらず、メディアの中では、「昭和49年=オイルショック=トイレットペーパー消滅」というひとかたまりの図式が歴史的事実として認定されている。たぶん、この先、この漫画じみた連想作用は「米騒動→一揆打ちこわし→ええじゃないか」あたりの大河ドラマ記憶とごっちゃになって、新たな歴史教科書問題を形成していくのだと思う。
 かくして、歴史は歪曲され、私や同年の友人たちが個々人の頭の中に蓄えている記憶は、公式の文書や局内ビデオライブラリーの映像に圧迫されながら、徐々に無視黙殺看過放置されて、50年もするうちには、完全に消滅するに違いない……のである。たぶん。
※《女性史という妄想》←コミダシ
 女性史でも事情は同じだ。
 いや、女性がらみの文脈において、歴史は歪曲どころか、捏造される。というのも、女性史は、女性の歴史であるよりは、「女性」という概念をめぐる表現ないしは相克の歴史であり、ということはつまり、現実の出来事であるよりも、脳内の想像力に負うところの大きい、言ってみれば「妄想」だからだ。
 ん? 女性史は妄想だ、と?
 いや、いきなりこういう不穏当な結論から出発するのはよろしくない。
 言い直そう。
 女性史をめぐる論考には、多かれ少なかれ、妄想的なバイアスがかかっている……と言ってみても、同じだろうか? むしろ表現が婉曲になった分、内容が陰険さを増してしまっている? っていうか、婉曲の「婉」の字と、妄想の「妄」の字に、いずれも女偏がついているのは、これは単なる偶然だろうか? 何かの陰謀じゃないのか? でなければ差別ではないのでしょうか? ……って、くだらん思いつきを誇示するのはよそう。誤解を招くだけだ。撤回。
 重要なのは、自動車の歴史が交通事故の歴史とイコールでないのと同じように、女性の歴史もまた、女性運動の歴史と等価ではないということだ。女性運動が女性の歴史を作ったわけではない。女性の歴史のうちの一部分に女性運動の歴史が含まれていると、それだけの話だ。当然だが。
 この原稿の中で、私は、私自身の記憶に沿って、女性運動と抗議の歴史を検証してみようと考えている。
 女性史という、社会的な広がりを持つグローバルな問題に向けて、私個人の、個人的かつ瑣末な(そして、おそらくは、曖昧で偏見に満ちた)記憶をぶつけることは、普通に考えれば、無意味なことだ。
 が、女性史のような一見社会的に見えるタームにこそ、個々人のパーソナルな視点と一個人の固有な記憶の裏づけが要求されるべきなのだ。なんとなれば、「公的な」「資料付きの」「定説化された」情報には、多くの場合、党派的なバイアス(「フェミ側の」あるいは「マッチョ寄りの」でなければ、プロ市民臭かったり、偽善っぽかったり、利口ぶっていたりするような様々な偏向した圧力)がかかっているものだからだ。逆に言えば、党派的な思惑や商売上の利害関係の持ち主でもなければ、誰もこんな厄介な問題(女性史のことだが)には、手を出さないはずなのであって、とすれば、誰かが女性問題について発言しているということは、すなわちその発言が偏向していることを意味している。……って、厄介だなあ。
 ともあれ、女性史が厄介な話題であり、党派的なヒステリーの温床であるという、このうんざりするような状況に水をかけるためにも、一個人のナマの記憶は第一次資料として、ぜひ、珍重されるべきではあるのだ。
※《初回クレーム大ヒットの記憶》
 CM表現に対する女性の立場からの抗議行動は、1975年、ハウス食品提供のテレビCMに対して「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」がクレームをつけた事件をもって嚆矢とする。
 具体的な抗議内容は、「ハウスシャンメン」というインスタントラーメンのCM内で使われていた「ワタシ作るヒト、ボク食べるヒト」というキャッチコピー(および、女性が調理役、男性が賞味役となっている映像)が、「男女の役割を限定、固定化するものだ」というものだった。
 当時、この問題提起は、一大論争を巻き起こした。私も記憶している。新聞、雑誌で特集が組まれたのはもちろん、抗議の舞台となったテレビの中でも、このCMの是非にはじまって、「男女役割論争」、さらには、流行歌の歌詞の中の「おんな」表現やら男女アナウンサーのホスト/アシスタント関係などなどについて、おおいに議論がかわされたものだった。
 ということはつまり、抗議は大成功だったのである。
 クレームの主旨が全面的に正しかったという意味ではない。この抗議をきっかけとして、「女性問題」というそれまで、一般の日本人がまっとうな関心を抱いていなかった話題が、一転、大衆的な議論の対象となったことが戦略として、的を射ていたということだ。
 「国際夫人年」のPRとしても、この抗議行動は完璧なクリティカルヒットだった。もし、このクレームと、クレームをめぐる大報道がなかったら、多くの一般市民は、国際婦人年というものの存在自体を知らぬままに過ごしていただろう。
 私自身も、この騒動以前には、女性問題についてまったく考えてみた経験すら持っていなかった。それが、この「ボク食べるヒト」というキャッチコピーをめぐる世間の論争を見聞しているうちに、いつしかジェンダー(もちろん、当時はそんな言葉は知らなかったが)や性差についてひと通りの関心を抱くようになっていた。なるほど。市川房江さんは、まんまと成功したのだ。少なくとも一高校生であった私を啓蒙し、女性問題に目を開かせたわけだ。あっぱれ。
 さてしかし、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(←このネーミングも卓抜だった。ために、後の市民運動の中に無数のエピゴーネンを生むことになる)の行動は、最初のバカ当たり以後は、徐々に後退することになる。
 まあ、主要な論点が、この時点で出尽くしてしまっていたわけだから、以後、運動に新鮮味がなくなるのは、当然といえば当然の展開ではある。
 ともあれ、「性差」「男女役割論」「家庭における家事分担」といった、女性問題における最重要かつ本質的な論点が典型的な形で提示されていたからこそ、この抗議行動は大成功をおさめたわけで、それはそれでめでたいことだった。が、逆に冒頭でスマッシュヒットを決めてしまったがゆえに、なんだか一発屋の演歌歌手みたいな調子で、以後の営業が徐々にドサ回りじみてきてしまったわけですね。
 次の抗議は? と、世間は待ち構えた。もちろん、ちょっと意地の悪い視線で、だ。
 一方、運動の当事者である女性の間では、ハウス事件での成功の記憶は、ひとつのオブセッション(強迫観念)として、後の行動パターンを規定していった。
 で、「次の抗議」は、より瑣末でよりチンケな話になった。
 列挙してみよう。
・1984年:講談社「モーニング」誌中吊りポスター(乳首を箸でつまんでいるイラスト)に「行動する女たちの会」が抗議。次号の「おしり」の広告(女性の身体の一部分を強調した広告表現)を廃棄させる。
・1988年:営団地下鉄の英文ポスター(女性の足をモチーフにした地下鉄利用推進PR広告)が、女性団体の抗議で撤去される。
 といった調子だ。
 どうだろう? ハウスの抗議と比べて、いかにも「重箱の隅」という感じがしないだろうか? 
 たしかに、右記一連の抗議行動は「性の商品化」という新コンセプトを打ち出してはいる。
 が、いかんせんこれは論点としてモノが小さい。というよりも、「家事分担論」や「男女の社会的役割差別論」が、広範な層の男女の問題意識に訴えたのに比べれば、「性の商品化論」は、所詮マニアックな議論に過ぎなかった。
「これは、性の商品化です」
 と、女性団体が居丈高に指摘しても、
「ご指摘の通りですがそれが何か?」
 という反応が返ってきたりさえした(つまり、指摘された側が、どこを反省して良いのやらわからないでいるわけです。面白いことに)わけで、要するに、あんまり一般向けの説得力がないのだ。
 抗議の声をあげている人々の間でも、「性の商品化」そのものが悪であるのか、「性の商品化の方向性」が問題をはらんでいるのか、あるいは「女性の性がもっぱら性的な側面でしか商品化されない傾向」が嘆かわしいということなのか、といったあたりのあれこれについて、はっきりと整理がついていなかったのだと思う。
 だって、微妙な問題ですから。
 私見を述べるなら、私自身は、性の商品化なんてことをいまさら指摘してみても、何がどうなるものでもないと思っている。われわれは、資本主義経済社会で暮らしている限り、男であれ女であれ、性的な側面を含めて、人格のあらゆる部分を商品化される宿命のうちにある。それだけの話だ。仮に、女性が性的な意味での商品価値でしか評価されないような職場があるのだとしたら、それはそれで問題だが、といって、その問題は、性の商品化の問題ではない。職場の勤務評価の偏りの問題であるに過ぎない。
 '90年代にはいると、抗議行動は、さらに些末かつヒステリックな色彩を帯びてくる。 
・1991年:エイズ予防財団のポスター(一枚は、パスポートで顔を隠した男性の絵柄、キャッチコピーは「いってらっしゃい気をつけて」。もう一枚は、コンドームの中に裸の女性が入っている図柄に「薄くてもエイズにとってはじゅうぶんに厚い」)に抗議の声が上がり、掲示を見合わせる自治体が続出。
・1992年:オンワード樫山「五大陸」の広告ポスター(モデルの浅野温子が、後ろ手に縛られてうつ伏せで横たわっている絵柄)に対して、朝日新聞の当初欄に「レイプを連想させる」という抗議が掲載され、反響を呼ぶ。その結果、一ヵ月後の同欄に、オンワード樫山の謝罪文を掲載される。
 ごらんの通り、「あなたは気付いていないかもしれませんが、これは差別ですよ」という啓蒙の感じが、ますます居丈高な調子を帯びてきている一方で、抗議内容そのものの説得力は、年を追って減衰している。
 よって、抗議を受けた側の人々も、それを真剣に受け止めない。
「なるほどそういう見方もあるんですね。勉強になりました」
 と、素直に耳を傾けてくれたりなんかは、絶対にしない。
「はいはいわかりました(笑)」
 という感じで対応する。当然。っていうか、不幸な関係だよな。
 もちろん、百歩譲った地点に立って申し上げるなら「いってらっしゃい、エイズに気をつけて」というキャッチコピーから「買春旅行の容認」を読み取ることはさして困難ではないし、あらゆるグラビア上の女性はレイプ可能な体位で構えてもいる。いずれもご指摘の通りだ。
 が、イマジネーションの問題は、どこまで行ってもイマジネーションの問題であるに過ぎない。
「ある表現が連想させる何かが、不適切な内容を含んでいる」という非難のあり方は、表現という行為そのものを否定し去るものだ。性的な事柄に対する言及をセクハラと断定し、セクシーな表現を差別であるとするなら、じゃあ、生殖器は差別器官であり性行為は、差別固定行動なのか?
 いや、より単純に、「セクシーは差別だ」は「表現は差別だ」「芸術は差別だ」と事実上、同義語だ、と言い換えよう。いや、実際差別なのかもしれないが。万事是差別。
 ともあれ、かくして、抗議はシステム化する。つまり、抗議それ自体を自己目的化するプロ抗議集団と、抗議を折り込み済みの天災として受忍するプロの腰抜け自主規制表現者が並立する不幸な体制が完成するということだ。、
 そんな中で、女性団体のクレームは、結果として、エセ同和による職業的恫喝や、総会屋の出勤風景に似て来ざるを得ない。不幸なことだ。
 だから、抗議を受ける側の広告業界だって、当然、スレてくる。
「これ、クレームきたら面倒ッスよ」
「だな。撮り直しヤだし」
「いっそ、常盤タカコにこの男ビンタさせとくのはどうでしょう」
「ははは、そりゃいいや。男性団体ってのは無いわけだし」
 ……というわけで、抗議に対する過剰反応として、あるいは無言の抗議ないしは表現側の自己韜晦として、松島奈々子による、滑り台上での中学生蹴飛ばしCMをはじめとする「男性差別広告」(このほかにも、男が殴られたり、投げられたり、バカにされるCMは枚挙にいとまがない)蔓延している次第だ。
 気をつけろ。男社会は、どうやら殴られ利権に気付きつつある。
 行け。抗議だ。



以上です。
 自分でも、出来の良い原稿だとは思っていません。
 ただ、ツイッターに引用されている部分だけを読んだ場合よりは、ずいぶんマシなテキストではあるはずだと思っています。
 以後、この問題については、議論しません。
 さようなら。

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2014/05/07

従軍慰安魚とか

ツイッター上でオダジマが「従軍いやん婦」と言ったとか言わなかったとか(←言ったわけですが)いう話が物議をかもしている折も折ですので、ハードディスクの底から古い原稿を召喚してくることにしました。

1997年の5月に『噂の真相』誌のために書いたコラムです。

当時話題になっていた「新しい歴史教科書を作る会」の活動に触発されて書いたテキストであるというふうに記憶しております。




従軍慰安魚  時価

「歴史教育を見直すのじゃの会」は、盛況だった。宴席には、鯛の活き造りが出た。

「鯛も災難だぜ」

「宴会の慰安のためにこんな姿にされて」

「日本人ってのも案外残酷だよな」

 などと話しているところにやってきたのは、フジオカだとかいう大学教授だ。

「自虐史観だね」

は?」

「日本軍はタイには侵攻してないよ」

……は?」

「それにだね。軍や政府が強制的に鯛を連行した事実を示す公文書の類はひとつも発見されていないんだよ」

……それがどうかしたんですか」

「だから強制じゃなかったのだよ」

……でも、鯛にしてみれば、意に反して皿の上にいるわけですよね」

「いいかね。釣り餌に食いついたのは、あくまでも鯛自身の意思だよ。それに意に反する境遇のすべてが強制だというのなら日本のサラリーマンだってほとんどが強制労働ってことになるじゃないか」

……何を言いたいんですか?」

「ついでに言えば生け簀の中でエサを与えられている鯛だってたくさんいるんだよ。それも高級エビをふんだんにだ。野生の鯛には考えられないぜいたくじゃないか」

……でも、食われるわけでしょ、結局」

「そりゃ、商売だからギブアンドテイクだよ。自ら望んで生け簀に来たんだから」

「自ら望んで、ですか?」

「決まってるだろ。鯛にだってヒレもアタマもあるんだから。ヤツらは補償欲しさに強制連行を言い立ててるだけだよ。ん? じゃあ、キミは何か? 軍や国が強制連行したという証拠もなしに、国益に反する歴史教育を推進しようというのか」

……国益? 何ですかそりゃ?」

「子供たちが自分の国を愛せるように教育するのが国益にかなったことじゃないか」

「事実を曲げてもですか?」

「お前たちこそ日本軍が組織的に鯛狩りをしていたとか、政府が鯛確保のために公務員を置いていたとか、ありもしないことを並べ立てて歴史をゆがめている反日プロパガンダに乗せられたスターリン主義者の東京裁判の占領政策の土下座外交の……

「そうじゃ、ワシもそう思うぞ」

「誰ですか? あんたは」

「きさま、ワシの顔も知らんのか? ははーんなるほど、さてはワシの単行本が売れてるからひがんでおるな」

「ひがむって、何をですか?」

「強姦マワしてよかですか?」

……良くないと思いますけど」

「よしよしよしりん、やりたまえコバヤシ君。植民地時代は強姦マワすのが常識だったんだ。なんで日本だけが責められにゃならんのだ」

「そうじゃ、ワシはワシのやりたいようにやるぞ。放題一直線じゃあ」

……しかし、強姦されたりマワされたりする側の立場だってあるでしょうが」

「あっ、お前、価値相対主義者じゃな。それでワシを絶対視できないんじゃな」

……ボクはただ被害者の気持ちを……

「被害者のキムチ? 貴様××人か?」

「そういえばやけに挑戦的じゃな、このワシに対して」

「まいったな、こりゃあ」

「コリアンと言ったぞ、こいつは」

……日本人ですってば、ふつうの」

「つまり衆愚だね」

「何ですかあんたは、横からいきなり」

「違う。左からいきなり右のニシベだよ」

 ……ううう、と、悪夢から覚めた時、オレは日本人としての誇りを失っていた。




ついでに、2001年に掲載した「新しい歴史教科書を作る会」関連のコラムを採録しておきます。
よろしくよろしく。



 歴史教科書:無料配布

 「新しい歴史教科書を作る会」の教科書が波紋を呼んでいる。

 ふん。狙い通り、だ。学校現場で採用されようがされまいが、波紋を呼べばそれでオッケー、でもって国家だの愛国心だのについて議論が巻き起これば大成功……と、まあ、もともとがそんな調子のアジテーションなわけだから、煽りに乗って議論の輪に加わるのはテキの思う壺というのか、飛んで火に入る火中の栗獲り素浪人……って何言ってんだオレは。

 ともかく来年には日韓共催でサッカーのW杯が開催される。ってことは、なんとしてもあと一年間は韓国と仲良くやっていかねばならないわけで、私としても愛するサッカーの栄光のために、作る会の諸君と闘わざるを得ないのだね。面倒だけど。

 諸君の「愛国心」は国益を損ねている。「誇り」もそうだ。諸君が「誇り」を言い立てる分だけ確実にお国は屈辱的な状況に追い込まれている。だから歴史を云々する前に、まず歴史から学ぶことだ。かつてこの国を勝てない戦争に走らせ、撤退の機会を見誤らせ、壊滅的な敗北に導いたのは何だ? 愛国心じゃなかったのか? 

 「新しい歴史教科書」という言い方も気に食わない。「新しい」って、歴史を改訂する気か? いいか? 歴史はそもそも過去の事実である以上改訂不能なものだ。仮に歴史を更新しようとする者があるのだとすれば、それは事実を歪曲ないしは捏造しようとする勢力にほかならない。違うか?

「いや、歴史が改訂不能だというのはいくらなんでも硬直的だと思いますよ」

 そうか?

「歴史というのは過去の事実である以上に、その過去の事実に対する解釈なわけです」

 うん、そうかもしれない。

「とすれば、解釈である限りにおいて、それは百人百様で、結論は出ないわけです」

 結論が出ないんじゃ教科書は書けないぞ。

「ですからなるべく断定的な言い方は避けて、両論併記を旨とし、事実についても〔あったらしい〕というふうに含みを持たせた表現を心がけてですね……」

 ……って、おまえ……もしかして

「そうです。『あったらしい歴史教科書を作る会』の者です」

 だからさ。この期に及んでそういうふうに話を紛糾させるような会を……

「史観無くして歴史無し。肝心要の歴史観が揺らいでいるようでは歴史的事実を云々する資格もないと言えましょう」

 おお、明快なご意見。

「人類の歴史は階級闘争の歴史であったと、ここのところをまずはっきりさせ……」

 い、いきなり中学生の教科書には……

「歴史に子供用も大人用もありません。学問はすべからくプロレタリア独裁の……」

 ……も、もしかしてあなたは

「そうです。『アカらしい歴史教科書を作る会』の者ですが何か?」

「っていうかさ、歴史をどう考えるかも含めて個人の自由なわけでしょ? 憲法が保障している思想信条の自由ってのはそういうことじゃないですか。だとしたら、教科書があること自体ヘンなワケですよ」

 ……かもしれないな。

「だからね、歴史の教科書は白紙でオッケー。一人一人の生徒が一から作ることから本当の自分らしさが……」

 ……もしかして、キミは『あなたらしい歴史教科書を作る会』とか?

「ははは、実は全部ひっくるめて『アホらしい歴史教科書を作る会』だよ」

 なるほど。「作る会」乱立による国定教科書の相対化。良いかもしれない。韓国のみなさん。大丈夫。ワシらはアホです。 


「すべからく」の用法が間違っていますが、歴史を直視する意味で直さないことにしました。 本当はめんどうくさかっただけですがてへぺろ。

ではごきげんよう。

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2014/04/30

脆弱性

 IEの脆弱性がまたぞろ話題になっているようなので、古い原稿を再アップしておきます。

 今は亡き『Asahiパソコン』誌に連載していました《隘亭長屋》という落語仕立てのIT用語解説コラム(←無茶な企画でした)のために書いた記事です。掲載はたぶん2003年の10月頃だと思われます。



「お頼み申します。普請奉行様のお役所はこちらでございましょうか。当方は、隘亭長屋の大家、長次郎と申す町人です。この度は、長屋のとっつきにございます橋の件でお願いにあがりました次第で……」
「橋? 橋が落ちたと申すか?」
「いえ、あの、まだ落ちたわけではございませんのですが、老朽化がひどくて……」
「ええい黙れじじい。橋の老朽化を監査評定するは普請奉行の専権事項である。資格も見識も持たぬ一介の町人風情が、要らぬ差し出口を垂らしおると身のためにならぬぞ」
「……しかしながら、現に橋はグラグラなわけでして、もし万が一、落ちたらと思うと……」
「落ちる? その方、今落ちると申したか? して、そちは、誰の許可を得て、橋から落ちようと画策しておるのじゃ?」
「滅相もございません。誰が好んで橋から飛び降りたりなどするものですか。私が申し上げているのは、橋が落ちたら、当然橋の上を歩いている人間も一緒に川に落ちるはずだ、という論理の必然でありまして……」
「何? 論理とな? 必然とな? 汝、武家に向かって理を説くつもりか? 奉行をつかまえて論理学の初歩を教えて聞かせる所存か? 一体どこまで思い上がれば、分際を超えてかくのごとき増長慢の町人が、橋の爆破を……」
「ば、爆破なんて、とんでもございません」
「しかし、橋もろとも川に落ちると言い放っておったのはほかならぬその方じゃぞ」
「いえ、私が申しましたのは、あくまでも仮定の話でございまして、もし、万が一、橋が落ちたら、というその一点が心配で……」
「ほほう。というと、そちは、仮定の話で奉行を誹謗中傷しようと、そういうわけだな? もし万が一太陽が二つに割れて、隕石が石油タンクに落ちたら普請奉行の責任である、と、そのように申して拙者の失脚を……」
「どうしてそう極端な話を……つまり、平たく言えば、橋が弱っているからなんとかしてくれ、と、そう陳情に上がってるわけですアタシは」
「ふむ。橋が弱っている……というと、つまり、アレだな? 脆弱性じゃな」
「は?」
「脆弱性じゃよ。知らんのか?」
「脆弱性と申しますと、もしかして、ブラウザのセキュリティーホールがナニで、ウィルスに対する脆弱性がアレだから、パッチプログラムをダウンロードして対策を……という例の、高飛車な欠陥修正命令のことですか?」
「なんだ、わかっておるのじゃないか。さよう。製品になんらかの不具合いがある場合、メーカー側に責任を取る意思がある時には、「欠陥」「バグ」「故障」という言葉が使われる。でも、ユーザー側に責任をおっかぶせる場合は、脆弱性という言葉を使うわけだ。ははは」
「……つまり、橋は自分で直せ、と?」
「うむ。奉行所のホームページから補修手順の書類をダウンロードしてもよいぞ」
「費用は?」
「……パッチプログラムは無料配布じゃ。アップデートのページから随時ダウンロード……」
「いえ、肝心の補修費用の方です」
「ブツ……当奉行所はただいま、アクセス過多により……サーバーの脆弱性が……」
「……切れた。よーし、こうなったら、橋から落ちて損害賠償請求を……」
「ダメですご隠居。橋の手前に使用許諾のダイヤログがあって、いかなる損害云々の質問にイエスをクリックしないと渡れません」
「うーむ。なんと頑強な脆弱性……」



以上です。無茶な記事ですが、もちろん冗談ですので、抗議を寄せてきたりしないでください。 J-CASTも本気にしたふりをして記事化しないように。

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2014/03/08

浦和

浦和サポの愚行が話題になっているので、2013年の9月に「サッカー批評」のために書いた原稿をアップしておきます。

 浦和サポの愚行について

 8月24日の午後、清水エスパルスと浦和レッズのゲームが行われたエコパスタジアムの駐車場で、浦和レッズのサポーター4名が警備員に暴行をはたらいた容疑で逮捕された。
 報道によれば、容疑者4名は、直接の容疑(警備員の胸ぐらをつかんだり、体を押したりしたとされている)を否認しているのだそうだが、犯行に先立って、逮捕された4名を含む浦和サポの一部が、清水エスパルスの選手を乗せたバスに爆竹や発煙筒を投げたことは、既に事実として認定されている。
 つくづく、バカな事件だ。
 個人的には、スタジアムに暴力を持ち込むファンは、電車の中で痴漢行為をはたらく人間と同等だと思っている。
 そういう連中には、できれば、二度とサッカーにかかわってほしくない。
 もっとも、
「ほんの小競り合いじゃないか」
 と、軽く見る向きもあるはずだ。
 実際、評論家の中にも
「日本の観客はおとなしすぎる」
 みたいなことを言う人は存在する。
「ヨーロッパの観客からしたらこんなのは挨拶代わりじだよ(笑)」
 といった調子だ。
 でもって、そういう論客は、
「暴力に傾斜しかねないほどの熱気をはらんだ観客の応援圧力が真のサッカー文化をはぐくんでいるのだ」
 ぐらいな説教をカマして、わが国の品行方正なサッカーファンを叱りつけていたりするわけだ。
 私はそうは思わない。
 サポーターが荒くれるぐらいのことで、日本のサッカーのレベルが向上するなんてことはあり得ない。サッカーはそんなに単純なスポーツではない。また、どこの国のリーグであれ、サポーターの暴徒化がチームを強化する筋合いもない。あたりまえの話だ。
 それでも、発煙筒が飛び交うイタリアあたりの観客席の風景を「カッコいい」と思っているサポーターは、たぶん、そんなに少なくない。
 だからこそ私は、今回のようなサポによる暴力事件を、軽視すべきではないと考えている次第だ。
 8月27日のスポニチによれば、
《Jリーグの大東和美チェアマンは26日、浦和からの事実関係の報告を待って、裁定委員会で処分を検討する考えを示した。》
 のだそうで、展開次第では、制裁金や勝ち点の剥奪も考えられるということになっている。
 個人的には、思い切った処分を期待している。というのも、この数年、スタジアムに足を運ぶ度に、サポ席周辺のトゲトゲしさがエスカレートしている感じを抱いているからだ。そろそろ、リーグとして、サポーターのマナーに対して、明確なメッセージを伝えるべき時期に来ていると思う。 
 というわけで、今回は、ヨーロッパ風のやさぐれた観戦マナーに憧れる一部のサポーターがもたらすかもしれない害悪について書くことにする。
 ドーハの悲劇から日韓ワールドカップ開催に至る数年の間、インターネット上のサッカーコンテンツは、掲示板を中心にまわっていた。
 おぼえている人もいるはずだ。
 西暦2000年をはさんだその当時は、まだミクシィもツイッターもフェイスブックも生まれていなかった。それゆえ、インターネット世界の潮流は、個人ベースのホームページと、管理人が手動でページを更新するタイプの掲示板に多くの部分を負っていた。
 私も、1997年から2002年頃までは、日々の習慣として、いくつかのサッカー掲示板を巡回し、その時々のネット世論の動向を眺め、時には自分で思うところを書き込んでは、同じ場所に集うサッカーファンとの間で意見を交換したりしていた。
 私の記憶では、2004年ぐらいまでは、多少の紛糾はあったものの、掲示板は順調に機能していた。つまり、参加者がそれなりのマナーを守って、短い言葉をやりとりしつつ、交流を楽しみ、インターネットサッカー文化の隆盛を信じていたのである。
 ところが、それらの大小さまざまのサポ掲示板は、ある時期を境に、バタバタと閉鎖する流れになった。
 閉鎖の直接の原因は、掲示板を主宰する管理人が、「荒らし」と呼ばれる素行のよろしくない客の所業に耐えられなくなったからだ。
 荒らしの中には、同じ文言を大量に書き込む自動スクリプト(コンピュータのプログラム)で掲示板を機能不全に追い込む知能犯もいた。と、そうしたウィルスまがいのロボットに対処するスキルを持たない管理人は、掲示板をもちこたえることができなくなる。
 でなくても、常連筆者の怒りや管理人の周章を面白がる悪意ある扇動者は、何度追い出しても、次から次へと新しい認証ハンドルを手に入れて、何度でも罵詈雑言を浴びせてくる。
 結果、荒らし耐性を備えた「2ちゃんねる」の内部に、自主運営の掲示板が残ったほかは、わが国のサッカー掲示板文化は、たった2年ほどの間に、ほぼ死滅するに至ったのである。
 それも、突然現れた、数にすればタカの知れた、跳ね上がりのバカたちの悪意のために、だ。
 この時に味わった喪失感を、私はいまでも時々思い出す。
 何年もの間毎日通っていたなじみの掲示板が、ある日突然閉鎖した時の寂しさは、ある意味、行きつけの蕎麦屋が閉店した時よりもキツい。
 蕎麦ならほかの蕎麦屋に行く手もあるが、掲示板を失った常連は、ほかに集まるべき場所を容易に見つけられないからだ。
 いまでも、たとえば、2ちゃんねるのサッカー掲示板を覗くことはあるのだが、あれは、往年のまったりとした掲示板とはまるで違う。
 日韓W杯前後の掲示板は、たとえて言うなら、行きつけのスナックのような場所だった。
 常連客の顔(といってもハンドルネームだけだが)は、互いに見知っていた。私のような、滅多に書き込みをしない客も、一日に一度はのれんをくぐって、店の様子を覗いていたわけで、ということはつまり、あの場所は、とにかく仲間が集まる根城だったわけで、「なあなあ」でだらしない部分はあったものの、常連にとっては居心地の良い空間だったのである。
 その、おそらく数百人から数千人の常連客をかかえた(書き込まずに読んでいただけの人間を勘定に入れれば、利用者の数は数万人に達していたかもしれない)掲示板を荒らしていたのは、せいぜいが数十人の不心得者だった。
 というよりも、最も致命的な被害をもたらしていた最強力な荒らしは、数人に過ぎなかったかもしれない。
 ところが、その、数人から数十人のちっぽけな連中の悪意は、数千人が集うサッカー愛の共同体を瓦解させることができたのである。
 それほどに、悪は強い。
 たった一匹のハエがとまっただけで、ケーキ一つがまるごと台無しになるみたいなもので、数万人の善男善女がサッカーを楽しんでいるスタジアムであっても、数十人のならず者が人種差別発言を叫ぶだけで、ゲームが没収されるケースは考えられる。
 かほどに、クズの影響力は大きい。だから、クズの動向に、われわれは、常に注意を払っていなければならない。
 現在、ツイッターでも似たようなことが起こりはじめている。
 ツイッターでの発言がきっかけでブログが炎上して、最終的に自殺してしまった県議会議員がいたが、こうした事例は、世界中で繰り返されている。
 ほんの一握りの人間の悪意が、数千人の娯楽を台無しにする仕様は、インターネットというシステムががかかえている病理のようなものなのかもしれない。
「悪貨は良貨を駆逐する」
 と言ったのは、経済学者だったが、多数の人間がひとつの場所に集合すると、どこであれ、ほぼ同じことが起こる。すなわち、最も暴力的な人間が最も大きな権力を手に入れ、最も品の無い振る舞いが、最も巨大な影響力を発揮することになるのである。
 浦和レッズのサポーターが暴力事件を起こしたのと同じ頃、島根県のある図書館に収蔵してある「はだしのゲン」という漫画作品が「閉架処置」(誰もが見られる形で展示されないようになる、ということ)にされたというニュースが流れてきた。
 閉架処置そのものの是非は、当稿の主題とは無関係なので、ここでは問わない。大切なのは、ひとつの作品の公開法をめぐる決定が、事実上、たった一人の人間の苦情(閉架処置は特定の人物の執拗な抗議と働きかけにによって決定されたことが取材によって明らかになっている)によって、変更されてしまったという事実だ。
 われわれは、少数者の悪意が多数者を翻弄する世界の中で暮らしている。
 広告業界で働く知人によれば、評判の良かったCMが、たった一本の苦情電話で放送中止になった例が、彼自身がかかわった例だけでも、この5年ほどの間に3例ほどあるのだという。
「苦情を想定して、アイディア段階でツブされる例だったら、それこそ何百件もあるぞ」
 かように、われわれの社会は、苦情や荒らしや暴力に対して、以前にもまして脆弱になっている。
 サッカー界も同様だ。
 ごく少数の愚かなサポーターが引き起こす不祥事の責任を適切に処理できる人間は、実は、どこにもいない、チームも、協会も、メディアも、コトが起こったら後ろも見ずに逃げるはずだ。
 であるからして、スタジアムで見かけたバカや、観客席で暴力を振り回して粋がっているバカは、なんとしても芽のうちに摘み取らねばならない。
 2002年頃、日韓共催の絡みで掲示板にレイシストがまぎれこんで来たのをはじめて見かけた時、私は、
「こいつらは、特定の民族をケナしたいだけで、サッカーとは無縁な連中だからほうっておけば良い」
 と考えていた。
 が、気がついた時には、彼らの攻撃にさらされて、掲示板は、続々と潰れていた。
 同じことを繰り返してはならない。
 なので、リーグおよび協会には、ぜひ毅然とした対応を期待したい。


以上です。
心あるサッカーファンの皆さん。うちのチームのバカなサポがご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。

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2013/09/15

朝モヤッ!

みのもんた司会者の去就が話題になっている折も折ですので、2007年の8月に「Yomiuriウィークリー誌」のために書いたコラムを再録します。

 テレビの中の人々にとって、夏休みはひとつの危機だ。裏方にとっては貴重な休息でも、看板を張っているキャスターやタレントにしてみれば、たった一週間でも画面から消えることは、巨大な忘却リスクを伴う空白だからだ。
 「あの人は今……」的な企画に登場するかつての有名人が、必ずやしなびて見えるのは、単なる老化による作用ではない。むしろ、わたくしども視聴者の側がそのタレントに対して抱いていた幻想が消滅したことによる影響の方が大きい。
 出ずっぱりでテレビに出演しているタレントは、実物以上の存在感を獲得する。視聴者の側から言うと、毎日見ている顔には、依存性が生じる。「オーラ」というのはそういうことだ。逆に、ほんの二年でも画面から消えたタレントは、オーラを喪失する。と、実際には二年分しかトシをとっていないのに、印象としては五年分ぐらい老け込んだことになってしまう。おそろしことだ。
 で、たとえば、みのが夏休みをとっていた間の「朝ズバッ!」は、まったくもってズバズバしていなかった。
 朝っぱらからどうにも微温的だった。
 仕方がないよね。だって代役として画面のはじっこに立っているのが、誠実一本槍の、芸もケレンもなんにもありゃしない、好人物を絵に描いたような柴田秀一アナだったんだから。そう、みのが彼を代役に選んだ(のだと思うよ)のは、柴田アナが、休んでいる間に職場を奪いそうにない、最も安全なアナウンサーに見えたからなのだと思う。
 でも、みのよ。キミは勘違いをしているぞ。確かに、私とて、最初は、「柴ズバッ!」のヌルさに唖然とした。おい、この地方局な雰囲気はなんだ? と。
 しかし、二日目、三日目と目が慣れるにつれて、私はみののいない朝ズバッが、なんとも気持ちの良い番組であることに気づかされていったのだよ。そう。番組は、ビールのCMとは違う。印象が鮮烈ならそれで良いというものでもないのだ。
 ズバズバ斬り込んだり、ゴリゴリ押しまくったり、バシバシ決めつけたりするような、そういうった濁点だらけの手法が目を引くのは確かだが、毎日見ている視聴者にとってはキツい。田原総一朗が政治家を叱りつけてるみたいなタイプの番組も、だ。やかましいし、うさんくさいし、なにより品がないから。
 とすれば、もやもや考えこんだり、もたもた逡巡したり、もごもご口ごもったりするタイプの、スローライフな情報番組があっても良いわけで、特に起き抜けから出勤前の時間帯に流しておく背景画像として、より微温的な番組にチャンネルを合わせる視聴者だって、決して少数ではないはずなのだ。
 というわけで、「柴田秀一の朝モヤッ!」はどうだろう? キャスターが局アナなら予算もかからないし、最初の一ヶ月を乗り切れば、きっとイケるぞ。
 実際、みのが居ない間の一週間、「朝ズバッ!」は、大健闘だった。Qシートは万事遺漏なく進行していたし、なにより、出演者スタッフ一同がリラックスして、スタジオの空気が和んでいた。柴田アナの人徳、あるいは、みのの逆人徳がもたらした好循環だと思う。少なくとも私は朝っぱらからピリピリした人たちの顔なんか見たくない。
 でも、実現不可能なんだよな。どうせ。だって、このテの帯番組というのは、業界にとっての公共事業みたいなもので、各方面に予算をバラまくことが最も大切な機能だったりするから。そう。田舎の空港と駅を結ぶ高速道路とおんなじ。よって「朝ズバッ!」は、今後も、廃止リスクのデカさで持ちこたえる……って、社保庁かよ。
 
ちなみに、告白しておきますと、柴田秀一アナは個人的な知り合いでして、なんというのか、はるか二十数年前、同じバンドで楽器をいじっていた古い仲間です。
とはいえ、こういうテキストを公開することで「朝モヤッ!」のコメンテーターにおさまろうとしているわけではありません。
っていうか、まっぴらごめんです。
 

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2013/04/04

鼻歌

ツイッターで話題が出たのでAsahiパソコン2007年(たぶん)エイプリルフール号のための嘘ニュース原稿をアップします。以前、一度アップしていますが、不完全なカタチだったので。

 JARASC、鼻歌に課金へ

 JARASC(遮断法人日本音楽著作犬協会)は、このほど管理部総会を開き、平成20年度をめどに鼻歌への全面課金を実施する決議を採択した。これにともなって、同協会では、具体的な課金方法、金額、徴収方法等について研究をすすめるべく、鼻歌対策作業部会を設置するとともに、より幅広い訴訟作戦の検討にはいった。
 JARASC広報部によると、鼻歌は一般に広く脳内再生されており、時には、不特定多数の聴衆に聴かせるメロディーとして演奏されている伝統的な歌唱形態だが、問題は、それが、長期間にわたって無料で再生、演奏、想起されてきた経緯であり、その利用形態の「気楽さ」にあるという。
 もっとも、鼻歌が、独立した作品として再生、利用されることは稀で、もっぱら、「楽しげな雰囲気」や「気楽なムード」を演出するためのツールとして利用される場合が多い。
 現在、論議を呼んでいるのは、「鼻歌まじりにおいでませ」をキャッチフレーズに、全国展開している「お気楽寿司」(本社京都市)の例だ。
 JARASC広報によれば、お気楽寿司では、鼻歌が「無断かつ大々的に」利用されており、しかも、板前たちによる鼻歌まじりの包丁さばきが、ひとつの営業の目玉になっている。
 そこで、JARASCでは、先月、同寿司チェーンに対して、管理著作物を繰り返し無断利用した件などで、鼻歌利用の差し止めと総額62万円余の損害賠償支払いを請求する訴訟を起こしている。
 
 なお、JARASCによれば、私的な鼻歌については「当該の著作権物が営利的に利用されていない限りにおいて」(同法務部)、これまで通り、無償で提供されるという。また、鼻歌の歌詞に関しては、発語が不明瞭である場合が多いため、当面、課金を見送る方針だという。
※鼻歌を守る市民の会代表六本木ひろし氏の話:「鼻歌は極めて個人的な歌だが、歌である以上『他人に聴かせないために』歌うものではない。JARASCはメロディーに名前が書いてあるというつもりなのだろうか」


楽しい雑誌だったんだけどなあ(遠い目)
 

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インパク始末

 「クールジャパン推進会議」の動きがなんとも気持ち悪いので、古い原稿をハードディスクの古層から召喚してくることにしました。2000年3月に今は亡き「噂の真相」誌のために書いた原稿(連載コーナー名は「無資本主義商品論」でした)です。
 「クールジャパン」をめぐる人脈と利権の不明朗さは、このコラムの中で取り上げた「インパク」の周辺にうごめいていた様々な利権のありようと、なんだかとてもよく似ている気がします。

 インパク:価格不明

 最初にクイズをひとつ。
 「インパク」とは何でしょう?
①一九七二年公開の東宝映画「淫乱パクパク芸者」の通称
②医療関係者の間で使われている符牒で、徹夜勤務を意味する「院内宿泊」の略
③淫行条例違反でパクられること
④二〇〇一年に政府が開催する「インターネット博覧会:楽網楽座」の略称
⑤経済用語。インフレーション下における消費者の舶来品崇拝傾向
⑥インターフェロンがらみの先物取引詐欺
⑦テレビ業界用語で仲間内でのネタパクリ。
 正解は4。いや、確かに正解としてはあまりにダサ過ぎるけど、事実は事実だから。
「政府がインターネット博覧会っていうのをやるらしいですよ」
 と、3月の半ばに業界の知り合いからこの話を聞かされた時、私は冗談だと思った。
「いや、それが冗談でもないんで、告知のためのページもできてるんですよ」
 というそのホームページを見てみても、まだ信じられなかった。
 だってあんまりひどいデキだったからね。
①ホームページのトップは、一画面まるまる堺屋太一とオブチさんの写真だけ
②堺屋大臣は「インパク」という四文字がデカデカと表示されたノートパソコンを持ってニコニコ顔で立っている
③隣のオブチさんは、そのノートパソコンの文字を指差してニコニコ(←「平成です」の自己パロディーだろうか?)
④で、この国辱的トップページの下には、アイディア募集の告知とアイディア例(←あんまりショボくて写す気にもなれない)が列挙してあってそれでおしまい。質のショボさもさることながら、量的にも文字数にして原稿用紙三枚程度に過ぎない。
 って、おい、こんなものを本気にできるか? 仮にも政府の名において発表され、国民の血税を使って作られたページ(それもインターネットのアイディアを募集するページだよ)がこんな程度のものだなんてことを鵜呑みにすることができますか?
 でも、本気だったのである。
 数日後にそのホームページ(http://www.inpaku.go.jp)を覗いてみると、おっと内容が増えて(といっても、文字数にして原稿用紙十枚程度)いるではないか。
 そう、彼らは、本気なのだ。今後、この腐ったホームページをずるずるとふくらませて、そういうことで博覧会をひとつデッチ上げるつもりでいるのだ。
 推進するのは総理府の内閣総理大臣官房および新千年紀記念行事担当大臣堺屋太一。なるほど、ついにイベント屋の本性を出してきたわけだ。で、「新千年紀記念行事推進懇話会」のメンバーを見ると、案の定過ぎて笑えてくるのだが、電通、NTT、日テレ、京セラ、ソフトバンクといった情報関連産業の社長さんたちに、文化人(浅利慶太、俵万智、三枝成彰)の先生方だ。
 まあ、名古屋万博(これも堺屋太一がらみ)と違って、土建屋が関係してないことだけが救いといえば救いということになるのだろうが、考えてみれば、土建屋が儲からないのだとすると、このテのイベントがもたらす百害に対する一利である経済波及効果すら期待できないわけだ。
 だって、どうせ政府のサーバに屁みたいなホームページを作って、それを「パビリオン」とか呼ぶだけの話なんだし。
 それとも、こんなセコいイベントから何か利権が発生する余地があるんだろうか?
 イノセさん、取材してみませんか?
 というわけで、冒頭のクイズの正解は
⑧インパクトを欠いたアイディア
 に訂正ね。
以上です。ではまた。

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2013/02/16

夫婦同麺

2009年の10月に「社会新報」という新聞のために書いたコラムです。

夫婦別姓の話が話題になっているようなので、転載することにしました。
夫婦同麺
 先日、あるところで、夫婦別姓について意見を求められた。で、ちょっと考えて
「どっちでも良いと思います」
 と答えたのだが、相手は、
「本当はどっちがお好みなんですか?」
 と食い下がってくる。ふむ。で、しばらく考えて……以下のように答えた。
「心底、どっちでも良いと思います」
 先方は憮然としている。旗幟鮮明な答えがほしかったようだ。でも、しかたがないよ。どっちでも良いんだから。心の底から。
 思うに、この議論で問題になっているのは、「自分の考え」ではない。こう言うとややこしく聞こえるかもしれないが。夫婦別姓について語る人たちが問題にしたがっているのは、自分たち夫婦がどういう原則で暮らして行くのかということではなくて、「他人の夫婦がどうするのか」だったりする。実に奇妙な態度だと思う。放っておいてくれよ。オレはどっちでも良いんだから。
 もうすこし整理した言い方をしよう。
 争点は、「夫婦同姓」vs「夫婦別姓」というところにはない。全然違う。強いて言うなら論点は「同姓義務」VS「自由選択」だ。
 なのに、メディアは「同姓か別姓か」という二者択一の設問を掲げる。なぜかそういうことになっている。ここに混乱の端緒がある。問題点と設問がズレているわけだから、議論は空回りするにきまっている。だろ?
 現行の法律では、「夫婦は同姓が義務」だ。
 一方、新しい法案は「夫婦は別姓が義務」と言っているのではない。否。「別姓でも同姓でもどっちでも好きな方を選べる」というのが、新法案の主旨だ。ということはつまり、新法案に反対している人たちが問題にしているのは「別姓」ではない。彼らが反対している対象は「自由」だ。彼らは、「自分以外の夫婦が姓について選択権を持つこと」に反対しているのである。
 夫婦同姓を尊ぶ気持ちはわかる。そう思う人は仲良く同姓の生涯をまっとうすればよろしい。が、どうして彼らは他人の姓に口を出したがるのであろうか。
 実際、自分が何を食べるのかはともかく、他人がそばを食おうがうどんを食おうがそんなことは他人様の自由ではないか。
 たとえばの話、日本の麺をそばかうどんに統一せんとする圧力団体(全国饂飩イケ麺同盟VS全日本蕎麦用人連合会とか)があったとして、その彼らが、手始めに夫婦同麺を義務化する法案を……って、悪夢だぞ。
 以上です。ではまた。

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2013/01/01

あけましておめでとうございます。

みなさま。あけましておめでとうございます。

投函しない年賀状ができたのでアップしておきます。
今年も年賀状を書くことができません。
お返事もお送りできないと思います。
申し訳ありません。
なんというのか、主義みたいななものなので。
ええ、窮屈な生き方をしています。
脱皮したいですね。今年こそは。

Snake2013

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