2020/06/13

チコちゃんに叱られろ!

 Twitterのタイムラインで話題になっている(っていうか、オダジマが無理やり話題にしているわですが)「男の部屋に上がりこんだ女性の処遇」について、昔原稿を書いたことを思い出したので、アップしておくことにします。
「日経ビジネスオンライン」で連載中の「ア・ピース・オブ警句」のコーナーのために、2010年の7月に書いた原稿です。
 残念なことに、「ア・ピース・オブ警句」では、2015年以前に書いたコラムは、リンク切れになっていて、アクセスできません。
 なので、こうしてブログにでもアップするほかに読者の皆さんに読んでいただく方法がないのですね。悲しいことです。
 なお、掲載時には「千原J」「K兄」と表記していた個人名を、「千原ジュニア」「キム兄こと木村祐一」と、モロな形に書き改めました。
  タイトルは、さっき思いついたものに付け替えました。腐れヤンキー芸人の皆さんには、「もう少しボーっと生きてみろよ」と言うメッセージをお伝えしたいと思っています。
 それでは、ごらんください。

 

 サッカー日本代表は、決勝トーナメントに駒を進めた。
 よく頑張ったと思う。
 対パラグアイ戦は、延長を闘ってスコアレスドロー。PK戦で敗退した。
 残念な結果だ。
 退屈なゲームだったという声もある。今大会最大の凡戦であると。
 たしかに、傍観者には退屈な試合であったことだろう。少なくとも、スペクタクルな展開ではなかった。
 でも、私は、退屈しなかった。
 当事者だからだ。
 私の内部にはずっと見守ってきた4年間の蓄積がある。退屈している余裕なんかない。ボールがペナルティーエリアに近づくだけで心は千々に乱れた。あたりまえじゃないか。
「おい」
 私はほとんど叫んでいた。
「リスクをおそれるなあ」
 と。
 それゆえ、試合が終わってみると、体中が硬直していた。
 翌日は、節々が痛んだ。
 でも、選手を責める気持ちにはなれない。甘いという人もあるだろうが、ファンはコーチではない。教師でも軍曹でもない。われわれは選手の祖母だ。心配して、応援して、勝てば有頂天になる。もちろん、負けるとがっかりする。でも、選手を責めたりはしない。万が一非行化したのだとしても、それは悪い友達のせいだと考える。
 3連敗の予想を掲げたことについて、あらためて陳謝したい。
 原稿を書く人間も、いくぶんかはリスクを負わないといけない。
 選手や監督にリスクを冒すことを求めておいて、自分がノーリスクでものを書いていてはいけない。
 無論、サムライでないわれわれは、腹を切ることはできない。
 でも、せめて農民らしく、土下座をしよう。カム土下座、ライトナウ、オーバーミー。
 

 今回は、リスクについて考えてみたい。
 発言のリスク。ツイッターのリスク。ブログのリスク。
 21世紀は、リスクの世紀だ。ブロードバンド化したリスク。ユビキタスなリスク。双方向なリスク。誰も無事なままではいられない。
 あらゆる情報が磁気記録され、電波発信され、光ケーブルを通じて全世界に頒布されるようになって以来、ちょっとした不規則発言が墓穴を掘る可能性は爆発的に高まった。一家に一台戦車が備えられている世界は、大変に心強い世界でもあるが、同時に非常にリスキーな世界でもある。

 われわれライターも、インターネット以前は、気楽な立場にいた。
 あっちの週刊誌に書いた原稿とこっちの月刊誌に書いた記事の間に矛盾があっても、気がつく読者は少なかった。
 気づいたとしても、その鋭敏な読者は、発言する媒体を持っておらず、それゆえ大事に至ることもなかった。
「オダジマは先月号とまったく逆のことを書いてるぞ」
 と、編集部にハガキを送ってくる読者もいなかったわけではないが、そういうハガキが誌面で紹介されることはまず無かった。よほど編集部に嫌われていない限りは。
「こんなハガキが来てましたよ」
 と、あえて知らせてくれる親切(なのか?)な編集者もいたが、多くの場合、賢明な読者の声は静かに黙殺された。
 平和な時代だった。

 ところが、インターネットが粘着質の一般人に発言の場を提供するようになると、ライターの偽予言や批評家の変節は、見逃されにくくなった。
「あいつも終わりだな」
「うん。完全に賞味期限が切れてる」
「むしろ冷蔵庫のニオイがする」
 と、匿名巨大掲示板には今日も無慈悲なコメントが並んでいる。これはもうどうしようもない。

 テレビも無事では済まない。
 なにしろYouTubeがある。ニコニコ動画もある。
 と、生放送中のちょっとした問題発言は、昔みたいに、忘れてもらいにくくなる。
 何度もリピートされ、リツイートされ、再アップされ、炎上し、火は時に番組を焼き尽くす。

 つい先日も、思わぬものを見た。とあるテレビ番組内で、某タレントが述べていた奇態な発言だ。

 といっても、私は、その番組をナマで視聴していたわけではない。あるブログで触れられているのを見て、気になってYouTubeで内容を確認したカタチだ。最近は、こういう経緯でテレビを見ることが多い。見たと言えるのかどうか。

 昔なら、知らないままで過ぎ去っていたはずだ。
 視聴習慣の外にある番組だからだ。
 でなくても、ただでさえW杯のせいで目玉が疲れている今日この頃だ。サッカー以外の番組のために眼球を酷使したくない。

 発言の内容は、ざっとこんな感じ。ディテールが気になる人は、YouTubeを当たってみてほしい。消されていなければまだ残っているはず。炎上して燃え尽きていなければ。

・番組はフジテレビ系列で6月26日に放送された「人志松本のすべらない話」。そこで紹介されたエピソードのひとつ。
・話し手は千原ジュニアという吉本興行所属の芸人(以下単に「J」と表記)。
・話題は先輩芸人であるキム兄こと木村祐一(以下、単に「K」と表記)の行状。
・Jは「もう十数年前の話」「時効みたいなこと」と、事前に「時効」である旨を強調。
・ある夜、KとJは女性を含めて食事をしていた。
・一行は、「ええ感じになって」Kが当時一人暮らしをしていたマンションに行くことになった。
・「お互い大人ですから」「深夜の一時二時に部屋にあがるワケですから」と、JおよびKはそう判断していた。
・ところが、いざとなると女性は「そんなつもりで来たんじゃない」と言い出す。
・「それ以外何があるんですか?」と、Jはスタジオの人々に向けて訴える。笑いが起こる。
・「これは、K兄切れるでぇ」と思って見ていると、果たしてKは「鬼の形相を通り越して素の顔になって」冷凍庫から何かを取り出している。
・取り出したのは「カッチカチに凍った鶏肉のカタマリ」。
・Kは「これはいらんトリニクやから捨てるだけやで」と言いながら、玄関でハイヒールを履こうとしている女の子の足元に向かって冷凍肉を投げつける。
・肉は、玄関で「コココココーン」と跳ね返る。女の子は焦ってなかなかハイヒールを履けない。ここで、スタジオは爆笑。芸人仲間も、ゲストの女優さんたちも。
・やっとのことでハイヒールを履いた女。エレベーターホールでエレベーターを待つ。Kは追いかけてさらに鶏肉を投げる。カンカンカーンと、エレベーターホールを肉が走る。スタジオ爆笑。
・エレベーターを諦めた女はおびえきって階段を降りる。が、そこにも鶏肉が投じられる。コココーン。コーンコーン。鶏肉がハイヒールを追いかける。スタジオはさらに大爆笑。芸人仲間は両手を大きく叩きながら大笑い。女優さんはハンカチで涙を拭きつつ笑う。

 ……いったいこの話のどこが面白くて彼らはあんなに笑っていたのだろうか。
 それがわからない。

1. 「そんなつもりで来たのではない」という女性に非があるのだとすれば、あまりにも無警戒だったところだろう。軽率だったかもしれないし、世間知らずでもあった。若い女性が、深夜に男が一人住まいをしている家に上がり込むということには、たしかにそれなりの意味がある。慎重に考えなければならない。
2. とはいえ、上がりこんだ判断が軽率であったにしても、意に染まぬ行為を拒否する権利は当然、女性の側には残されている。どんな場合であれ。夫婦の間であってさえ。
3. 第一、男二人に女一人という状況で、どういう行為が想定できたというのだ?
4. 百歩譲って、男が感情を害した点は理解してさしあげるとして、だ。
5. でも、だからって、女性はコールドターキーをスローイングされるにふさわしい暴挙を働いたというのか?

 私は道徳の話をしているのではない。
 そもそも芸人がテレビで話している話だ。
 誇張があるのかもしれないし、まったくのつくり話であった可能性だってある。
 もっともつくり話なのだとしたらだとしたらそれはそれで別の問題が持ち上がるわけだが。
 ともかく、私がここで言いたいのは、「K兄」の行動の是非についてではない。
 ぜひ問いただしたいのは、この話がゴールデンでイケると考えた判断の根拠だ。
 これが「笑える」と考えたセンスも、大いに疑問だ。
 だって、普通の視聴者が普通に聞いて、単に不快なだけのエピソードだからだ。

 おそらく、笑いのポイントは、件の女性が「あわてふためいて、うまくハイヒールがはけなくなっている様子」の描写と、乾いた床を滑る硬い冷凍肉の擬音なのであろう。

 でも笑えないな。
 毛ほども。
 つまり、この話で笑っていたゲストの女優さんたちの感覚もやはりどうかしていたということだ。
 彼女たちは、笑わざるを得なかったのだろうか。
 それほど、スタジオの空気には強圧的な何かがあったということなのか?
 あるいは、女優さんの笑いは、ほかの場所での笑いを編集で挿入した形の映像だったのだろうか。
 だとしたら、それもまた別の意味で問題ではある。真相はわからないが。

 一番不思議なのは、この話を「オンエア可能」とした放送局の人間の判断だ。
 こんなものがOKだと、本当にテレビの中の人はそう考えたのだろうか?
 だって、時効ではあっても、レイプまがいの、傷害未遂ですぜ。それを武勇伝みたいに話して、おまけにそのムゴい話で笑いを取ろうとしている。こんなものをゴールデンで流して無事で済むと、彼らは本当にそう思っていたのだろうか。

 関西の芸人集団の中には、お笑いが色物興行であった時代から脈々と受け継がれてきた粗野なマッチョイズムがある。語り口には露悪が含まれてもいる。それゆえ、その彼らの武勇伝を額面通りに受け止めるのは賢明な態度ではない。
 やんちゃ、ハチャメチャ、奇行、泥酔、暴力……芸人の世界には、そうした典型的な逸脱を、「男の甲斐性」「芸の肥やし」として美化する風土がある。しかも、彼らの中では、「女をモノとして扱う」ことが「男らしさ」のひとつの証明になっていたりする。ミソジニー。女性嫌悪。あるいは単なるセックス自慢だろうか。ま、幼稚なヤンキー趣味ですよ。どっちみち。

 芸人同士が仲間内の楽屋話として笑い合っている限りにおいて、それがどんなに鬼畜なエピソードであっても、私はあえて問題視しようとは思わない。
 芸人でなくても男同士の内輪話には、粗暴さを強調する傾向が抜きがたく存在している。
 そこいらへんのスナックで語られている「面白い話」には、猥談要素が少なからぬ度合いで含まれているものだし、「高校の時に隣のクラスにいたあきれた乱暴者の話」や、「ラグビー部の連中が合宿所の周辺で酔った挙句にやらかした愚行の数々」みたいな挿話に至っては、ほとんど犯罪自慢でさえある。誇張があるにしても。

 だから問題は、鶏肉が滑った話の真偽や内容ではない。
 この話をゴールデンのテレビで流したことの影響だ。 

 こういう話をすると、
「いい人ぶっている」
「いよっ! 聖人君子」
「笑いのわからないやつ」
 みたいな反応をする人々が必ず出てくる。
 あるいは
「お前は、人のことを言えるのか? これまで生きてきた中で、法律に違反したことが一度もないのか?」 
 といった言い方で、問い詰めてくる向きもあるはずだ。

 一応、マジレスをしておく。
 私は聖人君子ではない。
 常に間違いなく制限速度以内で国道を走っているかどうかについて、私は明言しない。
 メディアを通して発言する立場の人間にとって大切なのは、何をしたかではない。何を言ったかだ。
「関越で180キロ出したぞ」
 と、ブログに書くのは、愚かであるのみならず、反社会的な行為になる。
 テレビでそれを言うに至っては、言語道断。蛮行と申し上げて良い。

 この番組が醸していた違和感のポイントは、視聴者の側から見て、「部屋にあげた女は、好きなようにして良いんだぜ」という話者の立場を、スタジオの全員が是認しているように見えたところにある。
 致命的な空気だと思う。
「女の子が男の部屋に上がるってことは、私を自由にしてくださいちゅうことやで」
 という、このどうにもヤンキーな判断は、あるいは、彼ら関西の芸人の世界では常識であるのかもしれない。
 しかしながら、平日のゴールデンタイムの全国ネットにおいては、その限りではない。
 
 その意味で、当日、スタジオに集まっていた芸人は、皆、異常だったと申し上げねばならない。
 ああいうもので笑えてしまうほどに彼らは狂っていた。。
 結局、お笑いブームが行き着いた到達点のひとつが、この日のこの武勇伝だったということだ。
 誰かを「笑いもの」にすることで生じる笑い。生身の人間があわてていたり、おびえていたり、悲鳴をあげている様子を観察して、それを笑いに転化する手続きを「芸」と呼ぶことでまわっている異様な世界。
 不愉快な話だ。
 誰かをひどい目に遭わせること。おびえさせること。あわてさせ、悲鳴をあげさせ、挙動不審に陥らせること——こういう状況を招来する力を、彼らは「笑いの能力」であるというふうに認定している。
 つまり、暴力の周辺に生じる奇妙な人間の姿を彼らは笑っているわけだ。

 笑いは、権力に対抗する有力な手段だと、大学の教室ではいまだにそういうお話がまかり通っているのだろうか。
 もちろん、そういう場合もあるだろう。
 巨大な権力に圧倒されていた古い時代の民衆は、表立った抵抗を断念する代わりに、笑いで抗議の意を昇華していたのかもしれない。

 でも、笑いが権力に対抗できるのは、それ自体が権力だからだ。
 というよりも、笑いは、多くの場合、権力を媒介している。そういうものなのだ。
 われわれが笑う時、その笑顔は力を持っている者に向けられている。営業部長が何かを言うと営業部の全員が笑う。得意先の重役が軽口を叩くと、テーブルのこっち側にいるわが社のすべての人間が大きな声をあげて笑う。そういふうに、笑いは、強い者から弱い者に向けて強要され、目下の者から目上の者に向けて奏上されている。
 だから、そういう権力の通り道で誰かが本当のジョークを言うと、全員の顔がこわばる。
 本当に面白い話を聞いた時、権力的な場所にいる人間の表情はむしろ固まる。なぜなら、そこで笑うと、反抗の意図が明らかになってしまうからだ。

 お笑いブームが行き着いた到達点も結局は権力の誇示だった。
 コネクションと強要と上下関係と立場。それらを円滑化するためのベトベトした潤滑油みたいな不潔な笑い。
 芸による笑いは、生産性が低い。だから、現場では忌避される。手間がかかる割に、成果があがりにくいから。
 かくして笑いの現場は、笑い者生産事業にシフトして行く。笑い者にされる笑われ者の悲喜劇。笑わせる人間よりも笑われる人間を重用するスタジオの生産管理思想。いや、これは笑い事ではない。
 大物芸人の名前が冠としてタイトルに付加されている番組では、特にその傾向が強い。
 誰もが紳助の顔色をうかがっている。
 出演者の全員が、松本に向けてしゃべっている。
 そして、ボスが何かを言うと、全員が笑う。まるでワンマン企業の哀れな下っ端社員みたいに。たいして面白くもないのに。シンバルを叩く猿のおもちゃみたいに誰もが同じリズムで両手を叩きながら笑うのだ。
 だから私は、この手の番組を見ない。
 出演者が視聴者の方を向いていないからだ。
 誰かが誰かにおべっかを使う姿を見て時間をつぶさなければならないほど、オレが寂しい暮らしをしていると思うのか?
 冗談じゃない。
 お追従笑いがいやで会社をやめたのに、どうしてテレビでそれを見なければならんのだ?
 
 テレビの中の人たちが、笑う時に一斉に両手で手拍子を打つようになったのは、21世紀にはいってからのことだ。
 私は、このことについて、2003年の6月に「読売weekly」という雑誌の中で以下のような話を書いている。
1. その昔、笑う時に大げさに両手を叩く仕草は、高田文夫師匠の専売特許だった。なればこそ、その独特な笑い方には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村邦洋のモノマネのネタになっていた。
2. 「バウバウ」の本来の意味は、「タケちゃん、それ最高。もう絶対に笑えるよ」という、放送作家らしいヨイショにあった。現場の盛り上げ役。一人大観衆パフォーマンス。
3. ところが「バウバウ」は、さんまをはじめとするお笑い界のオピニオンリーダーが追随するにおよんで、ある時期から「ここが笑いどころだよ」というディレクティングを含むようになる。
4. さらに、21世紀に入ると、「バウバウ」に対して「バウバウ」を返すという、コール&レスポンスの関係が取り結ばれる。意味は、「な、面白いだろ? この話→」「←はい、もう最高ッス」という一種の強要関係。ヤバイぞ。

 で、この記事を書いてから3年後、2006年の4月に、続報を書いている。事態がより悪化していたからだ。

5. 「バウバウ」は、もはやNHKをはじめとするあらゆるスタジオを席巻している。
6. 意味は、強要を超えて「同調圧力」に昇格している。「はい、私乗り遅れてませんから」という意味を込めて、人々は必死でバウリングを励行している。
7. ついでに申し上げるなら「バウバウ」は、空気に乗れていない人間をあぶり出す「踏み絵」の役割りを担うようにさえなっているかに見える。
8. ここにおいて、笑いは解放の契機であることをやめて、明らかな強制となってわれわれの上にのしかかってきている。なんという窮屈さ。
9. しかも「バウバウ」は、スタジオから飛び出して、オレら一般人の仕草の中にも蔓延しはじめている。午後のファミレスを覗いてみろよ。バウバウやってる主婦だらけだぞ。

 芸人は原点に帰るべき時期にきている。
 北野たけし登場以前の、色物として蔑まれ、半端者として疎んじられ、賤業として爪弾きにされていた時代の、芸能人から能を除けた存在としての芸人の原点に立ち返れば、彼らの勘違いも多少は改まるはずだ。
 そのためには、まず、客が上に立たないと行けない。
 良い芸には、ご褒美を投げる。
 たとえばチキン・ナゲットとかを。
 滑った芸には?
 凍った鶏肉(コールド・ターキー)がふさわしいと思う。
 

以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。
ではまたいつか。

 

 

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バウの起源

さきほど公開した「バウバウの蔓延について」という2006年執筆/公開のテキストの中で「昔書いた原稿」として言及していたテキストが発掘されたので、ついでのことに公開しておきます。タイムスタンプは2003年6月3日なのですが、どの媒体に書いた原稿であったのかは、定かではありません。

 

 バラエティー番組の出演者たちが、笑う時に、目の前で「バンバン」と、両手を合わせる仕草をするようになったのは、いつの頃からだろう。しかも、全員打ち揃って、誰もが同じリズムで。
 いや、この仕草が昔からあったことは知っている。たけしと一緒にテレビに出る時の高田文男がこの笑い方をすることを、松村邦洋がネタ(「バウバウ」と呼んでいた)にしていたことも承知している。しかし、ということはつまりこの高田文男師匠の「バウバウ笑い」は、少なくとも五年前には、松村がネタにしたぐらいに独特な所作だったということだ。
 それが、いつしかお笑いの人々の間に伝播し、そうこうするうちに、日々、普及、拡大、蔓延、変質して現在に至っているわけだ。ふむ。
 とはいえ、当初、本番中にバウバウ笑いを実演する人間は限られていた。というのも、テレビの画面の中で発動されるバウバウは、一種「仕切り」を含む動作であって、その意味で、高田文男なり、さんまなりといった、自他共に認める「笑いのオピニオンリーダー」だけに許された特権だったからだ。
 発生当時のバウバウには、「ほら、ここ、笑うところだぞ」と、スタジオ内の人間に笑いのツボをディレクティングする意味が含まれていた。フロアディレクターが手に持った台本を回す仕草にも共通したコンダクターの意図のようなものが、だ。
 ところが、しばらくすると、バウバウの受け手が、バウバウを返すようになる。具体的に言うと、司会者の「バウバウ」(→な、面白いだろ? この話)を受けた出演者たちが、「バウバウ」(→はははは、もう最高っ!)と言った感じで大げさに笑うようになったわけだ。
 なるほど、バウバウは業界をひとまわりするうちに、発明者の高田文男が使っていた幇間芸として意味(「たけちゃん、最高。それメッチャ笑えるよ」)を取り戻したわけだ。が、それはそれで良い。問題は、テレビ画面上で展開される同時多発バウバウの絵ヅラが、どうにも脅迫的だというその一点にある。
 歌番組でも、トーク番組でも、スタジオの中で3人ぐらいが同時にバウバウを始めたが最後、その場の空気はバウバウに席巻される。非お笑い系の出演者も、アガっていて雰囲気に溶け込めないタレントさんも、とにかく周囲に合わせてバウバウをやるようになる……と、ここにおいてバウバウは、さらに新しい、そして最終的な、しかもどうにも島国的な意味——「私、乗り遅れてませんから、はい」という、追随、服従、横並び、後追い、右へ倣え、長い物には巻かれろ、の意味——を獲得するに至る。
 もちろん、屈従のバウバウは、別の角度から見れば、権力側から発せられた「村八分がイヤなら笑えよ」という、脅迫的バウリングの結果でもある。
 ともあれ、バウバウが始まった瞬間に、無批判なお追従笑いと付和雷同の空気の中で、トークは死ぬ。
 たとえばの話、久本雅美みたいなダミ声の折伏パーソナリティーに、真横でバウバウを決められたら、普通の日本人は、追随せざるを得ない。それほどに、この国の人民は気が弱い。たぶん、じきに
「きっかけはーぁああ、タンッタンッ、フジテレビぃー」
 に合わせて踊る人々が主流を占めるようになる。事実、昼過ぎのファミレスに入ると、ほら、近所の主婦が雁首をそろえてバウバウをやっている。
 いやだなあ。

以上です。おそまつさまでございました。

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バウバウの蔓延について

 ツイッターで、「両手を叩く笑い方について昔、コラムを書いたことがある」というお話をしたので、クラウド上の旧原稿埋葬フォルダをサルベージしてみたところ、「読売ウィークリー」のために書いた原稿(タイムスタンプは2006年4月になっています)が出てきました。
 ご参考までにブログに採録することにしました。閲覧者の皆様のアイダーコロナライフの充実に寄与できれば、野良コラムニストとして、これ以上の幸せはございません。

 

 改変期特番の肥大化傾向は、時間枠、改変期間の延長にとどまらず、どうやら、出演者の人数を野放図に増加させる傾向で進行しつつある。
 これは、局が、番組制作よりも、その宣伝により大きな力を傾注してきていることの結果だろうか。それとも、単にプロダクションと制作部の持たれ合いから派生したノーギャラ出演者の増加ということに過ぎないのだろうか。
 いずれにしても、出演者たちは、はじめから最後まで両手を叩いて笑ってばかりいるわけで、その、数十人が一斉に歯をむき出している絵は、音声をミュートした状態でテレビを見ている私の目には、ほとんどホラーにしか見えない。
 ん? なんで音を消してテレビを見るのかって? うん。ヘンだよな。
 でも、わかってくれ。これは、テレビ批評(←という病気)をかかえている原稿書きの「症状」なのだ。
 コラムニストたるオダジマは、テレビを視聴せざるを得ない。その一方で、私はテレビに耐えられなくなってきている。で、そのダブルバインドの妥協点が、「音の無いテレビ」というわけだ。
 でも、無音のテレビを一日眺めていると、色々なことがわかる。たとえば、テレビの正体が「作り笑い」であることだとかが。というのも、音の無い笑顔は、ウソをつくことができないからだ。
 ……うん。この話も以前書いた。
1.ここ数年の間に、バラエティー番組の出演者のほぼ全員が、笑う時に両手を叩く仕草をするようになった
2.その昔、この笑い方をしたのは高田文夫師匠ただ一人で、なればこそこの仕草には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村のネタになっていた。
3.「バウ笑い」の蔓延は、結果として、全出演者への笑いの強要を促している。
 といったあたりが、その原稿の主旨だった。で、いつの間にか、笑いの提供者とその受け手が打ち揃って「バウバウ」を決めることがスタジオの作法として定立され、結果、笑いは「自由」から「強制」へと、180度ポジションを変えたわけだ。さよう。21世紀の笑いは、解放の契機ではない。むしろ、笑わない人間(すなわち、場の空気に同調しない人間)を排除するための「踏み絵」として、均質的な人間が集うあらゆる場所で「執行」されている。
 単にテレビの中の人々がオーバーアクションになっているということなら、それはそれでかまわない。どうせ彼らは、そういう種類の人間だから。
 でも、テレビ出演者の大げさな身振りが、日本人のスタンダードになっているのだとしたら、これは非常に悲しいことだと言わねばならない。
 かつて谷崎潤一郎は、「陰翳礼賛」の中で、アメリカ人が珍重するきれいで真っ白な粒の揃った歯を「便所のタイル」になぞらえている。その心は、彼の国の人々のあくまでも明朗で大仰な笑い方と、日本人の地味で湿った感触のそれとを比較して、後者により高い文化的価値を見出すところにあった。
 すなわち、谷崎は、敗戦国として自信を喪失しつつあった日本人が、自分たちの欠点と考えていたシャイネス(内気さ、陰翳)を、文字通り「礼賛」してみせたのである。
 素晴らしい。
 その、シャイネスが、テレビによって滅ぼされようとしている——というのはいかにも大げさかもしれない。でも、さんまだとか、マチャミだとか、ロンブーの敦みたいな、あらかじめ歯をむき出した構えで笑いを強要している人々が跋扈している液晶画面を見ていると、私はミュートボタンに指を置かずにはおれないのだよ。この国に残されたなけなしの陰影を防衛するために。

 

 以上です。おそまつさまでした。コラム内で言及している「テレビの本質が作り笑いである」旨のコラムは発見できませんでした。残念。

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2020/03/11

番記者よ奮起せよ。

Yahooニュースに掲載された拙稿(月刊誌「GQ」3月号のために書いた記事)が、オリジナルの原稿と違った形(同じ記述を2回繰り返して途中で切れています)の記事になっていました。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00010000-gqjapan-bus_all

いずれ訂正したバージョンを掲載してくれるとは思うのですが、心配なので、私が書いた元々の原稿をそのままアップしておくことにします。

 

『番記者よ奮起せよ』

 麻生財務大臣兼副総理の会見でのマナーが炎上を招いたのは、すでに昨年の話題だ。なるほど、政府が重要な政治日程を年明けに設定しがちなのは、野党やメディアとの間で日々勃発する軋轢や摩擦を「去年の話題」として自動処理するための悪知恵なのであろう。実際、私が当稿の中で、いまさら麻生氏の会見マナーをつつき回したところで、
「このライターさんは、去年の問題をいつまで蒸し返し続けるつもりなのだろう」
 という印象を与えるだけなのかもしれない。
 そんなわけで、例の桜を見る会の問題も、
「去年の花見の話をまだ引っ張るのか?」
 てなことになりつつある。事実、花見関連の闇を追求するあれこれは、新年の話題としては、もはや古くさい。テレビのような旬にこだわるメディアは、敬遠するはずだ。
 例の東北での大震災をくぐり抜けてからこっち、政治向きの話題のニュースバリューは、目に見えてその劣化速度を増している。
 森友&加計の問題も、謎の解明が進んでいないどころか、むしろ問題発覚当時に比べて疑惑が深まっているにもかかわらず、メディアが扱うニュースとしてのバリュー(価値)は、「古い」「飽きた」「またその話ですか?」と、まるでトウの立ったアイドルの離婚スキャンダルみたいに鮮度を喪失している。
 本来、ニュースの価値は、必ずしも新鮮さや面白さにあるわけではない。価値は、事件そのものの影響力の大きさに求められるはずのものだ。ところが、震災でダメージを受けたわれらメディア享受者たちの好奇心は、絵ヅラとしてセンセーショナルな外形を整えた話題にしか反応しなくなっている。
 さてしかし、冒頭で触れた麻生副総理の会見マナー(←番記者を「返事はどうした?」と言い方で恫喝した件)の話題は、年をまたいで、政権の中枢に波及している。というよりも、麻生さんの横柄さや失礼さは、麻生太郎氏個人の資質であるよりも、より深く、政権の体質に根ざした、第二次安倍政権の対人感覚の発露であったということだ。
 菅官房長官は、年明けの最初の仕事として、1月6日放送の「プライムニュース」(BSフジ系)という番組に出演した。長官は、番組の中で、緊張が高まっている中東地域への自衛隊派遣について問われると「(心配は)していない」と、あっさりと言ってのけている。
 心配していない? マジか?
 いや、マジなのだ。自衛隊は予定通り派遣する。この人は本当に心配していないのだ。
 トランプ大統領によるスレイマニ司令官暗殺をどう評価するのかという質問に対しての回答は、さらにものすごい。菅官房長官は、
「詳細について存じ上げていない」
 と言っている。すごい。あまりにもすごい。
 要するにこの人は、昨年の年末に、例の花見の会前夜の夕食会について「承知していない」という事実上の回答拒否を5回(数えようによっては8回)連発して、それがまんまとまかり通ったことに味をしめたのだな。
 さて、以上の状況から判明しているのは、麻生さんの横柄さが、実は菅さんの傲慢さと通底する政権の体質そのものであったということなのだが、それ以上に、われわれが直視せねばならないのは、政権中枢の人間たちによるナメた答弁を、えへらえへらと許容してしまっている番記者の弱腰こそが、現今の状況を招いているという事実なのである。
 安倍総理は1月6日の年頭所感会見の中で、
「(憲法改正は)必ず私の手で成し遂げる」
 と、断言している。憲法遵守義務を帯びた国家公務員である内閣総理大臣が、その肩書を背負った会見で、憲法改正の決意を語るのは、端的に憲法違反であり、たとえて言うなら、野球選手が試合中にルールブックの書き換えをしたに等しい暴挙だ。
 しかも、私たちの記者諸君は、この発言を許してしまっている。だとすれば、まず、最初に手をつけるべきなのは、腰抜けの番記者たちの粛清なのであろうな、と、私は半ば本気でそう考えている。

 

 以上です。お目汚しでした。

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2020/01/04

働き方改革のブルース

新年最初の更新なので、ちょっと趣向を変えて、歌詞をご紹介することにします。ずっと昔(たぶん1984年頃。ということは35年前になりますね)に書いた歌詞に手を加えたものです。
より詳しくご説明いたしますと、「1番 2番 サビ 3番」だけのシンプルな構成だった1984年バージョン(当時は「おじさん」というこれまたシンプルなタイトルをつけていました)に、4番5番の歌詞と より不吉なセカンドのサビを付け加えた形です。

古い形のままの方が良かった気もするのですが、いじくりまわしてみたくなってしまったものはしかたがありません。
ということで、ご笑覧ください。

働き方改革のブルース

1 気持ちはわかるぜ うんざりなんだろ
  四十の坂を登り詰め 五十の坂を転げ落ち
  恋も夢も髪の毛も はるか彼方に 消え果てた

2 手を振ってるのは あんたのかみさん
  毎朝毎朝二十年 毎晩毎晩二十年
  アバタもエクボの時代は とおの昔に 過ぎ去った

※  こみあげる(怒りを)
   こみあげる(涙を)
   こみ上げる(ゲロを
   ネクタイでせき止めて

3  バカな課長や うるせえ部長に
   新入社員の若造や 生意気盛りの小娘に
   朝な夕なにコケにされ でも月曜日は やってくる

※ 繰り返し

4  通勤ラッシュの 満員電車と
   残業帰りの 最終列車に
   折られ畳まれ詰め込まれ オレのソウルは瀕死だぜ

5  寝覚めのビールと 寝しなのバーボン 
   気付け代わりの焼酎と 食後にあおる冷や酒で
   折れた心を支えつつ オレのソウルは天国さ 

※※   迫りくる(リストラ)
    のしかかる(ストレス)
    鳴り響く(ブルース)
    ネクタイにぶらさがれ!

※※ 繰り返し

お粗末さまでした。今年もよろしく。

 

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2019/11/16

思いやり予算二題

 いまごろになって、なぜか「思いやり予算」の話題が蒸し返されているので、2000年2月に今は亡き「噂の真相」誌のために書いた原稿と、2009年11月に社民党の機関紙に寄稿したコラムをハードディスクから召喚することにします。

 

 思いやり予算:2757億円(九九年度)

 在日米軍駐留経費負担(いわゆる「思いやり予算」)の見直しをめぐって、日米間で意見が対立しているようだ。
 念のために「思いやり」の由来について「知恵蔵」の解説を引いておく。
<日米安保条約に基づいて、在日米軍の施設や地位などを決めた「地位協定」二四条は、日本が施設・区域を無料で提供するほかは、「すべての経費は……日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される」と定めている。だが米国の財政困難とドルの価値の低下で在日米軍は、米軍人より高給の日本人基地従業員の給与の支払いに悩んだ。このため、日本政府は一九七八年に労務費の一部六二億円を負担したのを皮切りに、在日米軍に一種の補助金を出している。この支出には法的根拠がなかったため、当時の金丸信防衛庁長官が「思いやりが根拠」といったのがこの名の起源とされる。>
 なるほど。が、考えてみるとヘンだぞ。
1.そもそも思いやりというのは、強者が弱者に対して示す態度だ。とすると、アメリカ軍のカサの中にいる日本が、保護者である米軍に対して思いやりを示すというのは、スジが違うんじゃないのか?
2.第一、思いやりってのは、それを施される側が要求するものなのか?
 いや、揚げ足を取ろうというのではない。
 確かに、八七年当時、アメリカの財政は逼迫していたし、他方、バブルに沸く日本は黒字減らしに苦慮していた。その意味では、当時は「思いやり」という言い方にまるで根拠がなかったわけでもない。
 また、深読みすれば、この「思いやり」という言葉には、かつて進駐軍に対して「ギブ・ミー・チョコレート」を叫んだ世代の米軍に対するアンビバレントな感情がこめられているのかもしれない。とすれば、バブルで旦那気取りになった日本人の増長慢をくすぐって、見事に国民をあやしてみせたカネマルの政治センスは、やはり非凡だったと言わねばならない。
 ってことでカネマルは許す。
 むしろ問題は、政治屋の駄法螺を無批判に援用して「思いやり予算」だなんていう雑駁な用語を憲法違反の国家支出に対する通称にしてしまったメディアの側にある。
 連中はバカなのか? それとも政府と結託してるってことなのか? いや、むしろ結託している相手はアメリカなのか?
 実際、この言葉はアメリカではどう訳されているんだろう。ちゃんと「charity」(施し)とか「bait」(餌)といった正しい訳語が当てられているのだろうか。
「『思いつき予算』とか言うんならまだ許せるんだけどな。しょせんカネマルのその場しのぎだったわけだし」
「むしろ『思いやられ予算』じゃないのか? 先が思いやられるわけだしさ」「『重い槍予算』なんてのはどうだ。なんか、無駄な防衛負担って感じがして、しみじみと味わい深くないか?」
「いや、実態に即して言うなら『みかじめ料』だろ。実際、ヤー公が用心棒代を理由にそこいらへんのスナックからショバ代をせしめるてるのまるで同じなんだから」
「っていうかさ、ほかならぬ国土の防衛を他人に肩代わりさせてるわけだから、『お前やれ予算』とかにしたらどうだ?」
「いいや。断然、在日米軍を基地ぐるみで丸ごと買い取るべきだな」
 おお、そりゃナイスだ。米軍の軍人さんとしても野球の助っ人外人みたいな立場じゃ命がけで働けないだろうし、いっそ彼らには帰化して日本人になってもらおう。
 しかし、とすると予算の出所は?
 ……「基地買い予算」

(以上「噂の真相」2000年11月号掲載)

 

 重い槍予算異聞

「おもいやりよさん」
とタイプインしてワープロの変換キーを何回か叩くと、
「重い槍予算」
 という神の啓示じみた味わいぶかい変換結果が返ってくる。なるほど。こいつにはいつもびっくりさせられる。
 ついこの間もこんなことがあった。東京オリンピックの
「経済波及効果」
 について原稿を書こうとしたら、わがワープロは
「経済は急降下」
 といきなり結論を提示してきたのである。驚くべき見識。私が付け加えるべき言葉はひとつもない。
 さて、「思いやり予算」だが、これは誤変換以前に誤用だと思う。
 というのも、そもそも「思いやり」は、「上位者が下位者に対して示す心情的配慮」であって、日米の立場にはそぐわないからだ。
 軍事的属国の立場にある国が、宗主国に向けて、なにがしかの金品を提供する場合、その行為は「上納」ないしは「朝貢」と呼ばれるべきで、どう見たって、「思いやり」みたいな、上から目線の言葉にはならないはずだ。
 が、昭和の日本人は、自分たちの現実を直視することを好まなかった。
 あたかも、米軍を日本の「番犬」であると見なすみたいな、そういう設定で予算を支出をする道を選んだ。つまり、現実には宗主国のごきげんを取り結ぶために金品を上納しているにもかかわらず、自らを納得させる脳内ストーリーの上では、食い詰めた用心棒に小遣いを与えるみたいな、そういう慰撫的な用語を採用したわけなのである。まあ、この言葉を発明した金丸さんというヒトは、ある意味で天才だったのだろうね。
 もしあれが「みかじめ予算」「上納予算」「パシリ予算」「ご奉仕金」ぐらいな名目だったら、さすがに国会を通らなかったはずだ。愛国設定で世間を渡っている議員さんが賛成しにくかっただろうからして。
 その「思いやり予算」の実態が「重い槍」すなわち「過剰な軍事負担」であることを、もしかしたら金丸さんは知っていたのかもしれない。なにしろ、食えないオヤジだったから。
 中学校の時の社会の教科書にあった挿絵を思い出す。二人の男が、背中いっぱいに鉄砲や大砲をかついで、喘いでいるポンチ絵だ。出典は当時の新聞。第一次大戦後、欧州諸国が軍拡競争に陥り、その過剰な軍事負担のために疲弊していたことを描いたものだという。
 まさに重い槍。分不相応にデカ過ぎるハサミを身につけたシオマネキみたいな調子で、軍事国家は次第に身動きがとれなくなる。
 ……と、シオマネキは「死を招き」だとさ。
 うむ。オレのワープロは天才だな(笑)。

(社会民主党の機関紙2009年11月に寄稿)

以上です。おそまつさまでした。

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2019/07/29

松本人志二題

松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。

いずれも、コアマガジン社が刊行しております「実話BUNKAタブー」という月刊誌に、オダジマが連載している「電波品評会」という1ページコラムのコーナーに掲載したテキストです。

1本目の、「たけしvs松本」が2017年10月号、2本目の「松本vs太田」が2019年7月号の掲載だったはずです。

 

【北野武 vs 松本人志】

 

北野武 vs 松本人志
  北野武 松本人志
言語能力 ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
批評性 ☆☆☆☆ ☆☆
教養 ☆☆☆☆ ☆☆
ヤンキー度 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 

 上原多香子問題へのフジテレビからの圧力を示唆したツイートや、日野皓正の体罰へのコメントなど、ここしばらく、松本人志の発言が炎上するケースが目立っている。原因は、ひとことで言えば、本人がご意見番のつもりで述べたコメントや、批評的だと思って発信しているツイートが、いちいち凡庸だからだ。
 本稿では、どうしてこんなことになってしまったのかを検証するべく、比較対象として、ご本人のロールモデルと思われる北野武を配した上で考えてみる。
 まず「言語能力」は、両人とも非常に優秀だ。ただ、たけしの言葉が散文的であるのに対して、松本の繰り出す言葉はあくまでも口語的だ。にもかかわらず、「空気読む」「上から目線」「ドヤ顔」といった、現代社会への根源的な批評を含んだ新語は、むしろ松本の口から出てきている。まあ、天才なのだろう。
 とはいえ「批評性」は、たけしの圧勝だ。時事、社会、政治、文化、芸術、歴史など、あらゆる分野に関して、独自の視点を持っているたけしと比べると、反射神経だけでものを言っている松本の言葉はひたすらに浅薄だ。この批評という作業への自覚の欠如が、映画監督としての作品の優劣として如実に露呈している。ステージという一回性の魔法の中で揮発的な言葉のやりとりを繰り返すお笑いの世界では、本人の存在感が批評性を放射する奇跡も起こり得るわけだが、ひとつひとつのカットを意識的に積み上げることでしか創作の質を確保できない映画の世界では、粘り強い思考力と一貫した批評的知性を持たない人間は何も残すことができない。
 三番目の「教養」もたけしと松本では比較にすらならない。口では無頼なことを言いながらも、いたましいまでの勉強家であるたけしとは対照的に、松本は、文字通りの天才として、かれこれ30年以上、自分の才能の上にあぐらをかき続けている。それを可能ならしめた才能の巨大さは、たしかに稀有なものだが、結果としてもたらされている人間としての内容の希薄さは、もはや相方ですらカバーできない。
その点、一定の基礎学力を備えているたけしは、自分に何が欠けているのかを自覚している点で、教養人の条件を満たしている。ほとんど何も知らないがために無駄な全能感を抱くに至っている松本の惨状に、たけしのような人間は簡単には転落しないだろう。
 最後の「ヤンキー度」だが、これは二人とも満点だ。
 多少現れ方は違っているが、二人がヤンキー美学を信奉する人間であり、彼らの持ち前の笑いのセンスが、ホモソーシャルの内部で痙攣的に繰り返される暴力衝動に根ざしたものである点は、みごとなばかりに共通している。腕と度胸と現場感覚を信頼していること、仲間内の信義を最上位に置いていること、肉体性を持たない言葉を信用しないこと、権力勾配のある場所でしか笑いを生み出せないことなどなど、彼らの世界観ならびに人間観は、どれもこれも任侠の世界の男たちの地口軽口から一歩も外に出ていない。
 もっとも、たけしも松本も、お笑いの世界にいたことでヤンキー化したわけではない。むしろヤンキーだったからこそ笑いの世界でチャンピオンになれたのであって、つまりこれは、元来、お笑いはヤンキーのものだったというお話に過ぎない。マッチョでない笑いは二丁目でしか受けない。私は善し悪しを言っているのではない。これは仕方のないことだ。
 近年、深夜帯のテレビで、オネエの皆さんやゲイ的な笑いが存在感を増しているのは、東西のお笑いのキングが、いずれもあまりにもマッチョであることへの反動なのだね。きっと。
(2017年9月9日執筆)

 

【松本人志 vs 太田光】

 

松本人志 vs 太田光
  松本人志 太田光
教養 ☆☆ ☆☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆ ☆☆☆
共感能力 ☆☆ ☆☆☆☆☆
人脈形成力 ☆☆☆☆ ☆☆

 

 川崎での無差別殺人事件に際しての、ダウンタウン松本人志のコメントと、爆笑問題太田光のコメントが対照的だったことが話題になっている。松本が「凶悪犯は不良品」という端的な犯人罵倒のコメントを発したのに対して、大田は「そういう思いにかられることは誰しもあって、自分がそういう状態から立ち直ったのは、ピカソの絵に感動したからだった」という自らの体験談を披露している。
 それぞれの言葉への賛否は措いて、この二人が対照的な立ち位置の芸人であることは万人の認めるところだろう。
 まず「教養」だが、これは文句なしに太田の勝ちだ。松本には日本のマトモな大人としての基礎教養が欠けている。一方、太田は勉強家で、日々様々な分野の情報収集を怠っていない。結果として、20代の頃まではたいして目につかなかった両者の教養の差は、50代を迎えて、取り返しのつかない格差となって表面化している。
 次の「独創性」は、松本に軍配があがる。この男の場合、なまじの教養が身についていないことが、かえって余人の追随を許さない独自の発想を生む土壌になっている。一方、太田のネタは、見事ではあっても先人の業績を踏まえたアイディアで、その点で独創性には乏しい。
 三番目の「共感能力」は、他人の気持ちを汲み取ることができるかということなのだが、この点において太田の能力は突出して高い。彼は、金持ちや貧乏人というありがちな設定だけでなく、いじめられっ子や自殺志願者、ブスといった虐げられた人々や、美人、権力者、スターなどなど、あらゆるタイプの人間の内面をかなり正確に自分の中に取り込む能力を備えていて、そのことが彼の不思議な芸域の広さを支えている。一方、松本は他人の気持ちがわからない。わかろうともしていない。もっとも、その松本の一種狷介不屈な決めつけの独特さが、彼の生み出すシュールな芸に生きていることは認めなければならない。練り上げたコントや漫才のアドリブの中で松本が繰り出すどうにも素っ頓狂なキャラクターの面白さは、「決して他人を理解しない」その絶対的に孤立した人間の魂から生まれた鬼っ子のようなものだ。おそらく太田には、これほどまでに規格外れのお笑いキャラを創造することはできない。
 最後の「人脈形成力」は、芸人にとって両刃の剣となる資質だ。自分の周りに支持者や応援団を集めておかないと、演芸の世界で継続的な影響力を維持することは不可能だし、かといって、他人と安易に同調していたら肝心の芸の切っ先が鈍ってしまう。
 両者を比べてみると、50歳を過ぎていまだにオタク気分の抜けない太田は、たいした人脈を築くことはできない。若い連中の面倒を見る度量はないし、誰かの子分になる柔軟さはさらに持っていない。松本は、他人にアタマを下げることのできない男だが、自分より下の立場の芸人のためにひと肌脱ぐことは厭わない。それ以上に、彼の芸風は、仲間とツルむというヤンキーの所作の中からしか導き出されないコール&レスポンスそのもので、その意味で、人脈(あるいは「子分」)こそが、彼の生命線でもある。
 さて、普通に考えて、蓄積や教養を持たない松本の未来は暗いはずなのだが、現状を見るに案外そんなこともない。
 というのも、お笑いファンのコア層が、松本とともに順次老いて行く令和の時代のお笑いコンテンツは、老いたるヤンキーの繰り言あたりに落ち着くはずで、とすれば、松本はやはりメインストリームであり続けるだろうからだ。
 太田は老いない。
 早めに引退すると思う。
(2019年6月6日執筆)

 

以上です。おそまつさまでした。
なにぶん、dropboxからサルベージしたテキストなので、誤字・脱字などはご容赦ください。

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2019/07/19

投票日当日に新聞各紙に掲載されるかもしれない巨大な書籍広告について

 今は亡き「新潮45」2017年12月号に寄稿した拙文を再録します。

 と申しますのも、この度の参院選で、自民党が、例によって、書籍広告(電車の中吊り広告や新聞への出稿)の形で、大々的に広告を打っているという情報を得たからです。

 「新潮45」に掲載した原稿では、2017年10月中に「新潟日本」に載った広告をすべてチェックした上で、各党の戦略を見比べています。

 この時も、やはり自民党の突出は際立っていました。

 なお、以下に採録するテキストは、私の個人所有のハードディスク(←dropboxですが)に残っていた最終稿がネタ元とするコピペなので、校閲を通っていません。
 なので、いくつか間違いがあるかもしれません。その点については、よろしく、ご了承お願いいたします。

 

『越後のDNA』(仮題)

 今回は新潟日報を掘り下げてみることにした。
 理由は二つある。ひとつは、先の総選挙で、長らく保守王国と言われていたこの地域で、自民党候補が続々と落選したからだ。どうしてこんなことが起こったのか、地方紙の紙面を通して解明できる部分があるのなら、私はそれを知りたいと思っている。それが第一の理由だ。
 第二の理由は、新潟が原発の再稼働をめぐって揺れている場所だからだ。
 これまでにも、東北、九州、四国の各地方の地方紙を見てきた実感から、私は、原発に関しては、賛否はともかく、それぞれの県の地方紙のほうが、全国紙に比べて、より切実な情報を伝えている印象を抱いている。
 どういうことなのかというと、原発が立地している地域には、原発による電気に依存している地域とは別の声があるということだ。というよりも、より端的な言い方をするなら、原発の周辺には、その電気で暮らしている東京の人間があえて耳を塞ごうとしている声が渦巻いているのであって、われわれは、その声に耳を傾けなければならないはずなのだ。
 新潟は、福井県や福島県とともに、原発の存在感がことのほか大きい地域だ。とすれば、再稼働の是非についても、全国紙が拾いきれていない地元の声を、より多く伝えているはずだと考えた。
 もっとも、この二つの理由は、最終的に、ひとつにつながって行くものでもある。というのも、原発再稼働への賛否と自民党への支持/不支持は、この地方の産業経済のみならず、人情風俗政治にも大きな影響を与えてきた、いわば歴史に属する話題だからだ。
 10月の衆議院議員選挙では、全国的に自民党の優勢が伝えられる中、新潟県内は、6選挙区のうち、自民党の2勝、野党側の4勝という結果に終わった。
 23日の「新潟日報」は、23面の社会面に、『本県自民逆風強く』という見出しを掲げて、かつて保守王国と呼ばれた新潟県の各小選挙区で、自民党候補が苦戦を強いられた背景を伝えている。
 振り分けられた議席数だけを見れば、たしかに、自民党の惨敗に見える。
 とはいえ、各選挙区の得票数を仔細に見比べてみると、いずれも接戦だったことがわかる。
 たとえば、4区の金子恵美議員の場合は、公用車で保育園に送迎していた件を報道され、さらに夫である宮崎謙介議員(辞職済み)の「ゲス不倫」問題でも騒がれていただけに、敗因はもっぱら個人的な問題に帰せられる。
 新潟日報は、『野党共闘の効果証明』と題された県内の小選挙区の結果を総括する記事で、
《野党が健闘した背景には、分裂した民進党から出る予定だった候補全員が「希望の党」からの出馬を選択せず、共闘が実現したことが大きな原因だ。希望から出れば、対立候補を立てるとした共産党は新潟2区を覗いて擁立を見送り、2区でも前回候補を立てた社民党が擁立せず、民進系と連携し、各句で自民党に対抗した。−−略−−》
 という分析をしている。
 同じ日の『県内有識者に聞く』とする見出しの記事では、新潟県立大学の田口一博准教授の寄稿を仰いで、
《−−略−− 野党側が4議席を獲得したのは政党や政策への支持というよりは、候補者本人を支持しての得票のように思う。当選回数の少ない自民党議員は「自民党」としての票は集められるかもしれないが、候補者個人としての支持は得られていないといえるだろう。−−略−−》
 という見方を紹介している。
 話を整理すると、新潟での自民党の敗北は、安倍政権に対する不信というよりは、この地域独自の事情を反映した結果だと見た方が良さそうだということだ。
 県内の投票率は、山形県に次いで全国2位の62.56%を記録している。前回の52.71%を9.58ポイント上回っていることからもうかがえる通り、有権者の関心は高かったといえる。
 投票率の高さの理由として第一に考えられるのは、当然、原発の再稼働問題への関心だと思うのだが、新潟日報は『原発政策 ぼやける争点』という18日の記事の中で、必ずしも原発問題が争点になっていないという見方を示唆している。
 この記事は、小見出しで
『自民候補「脱原発」、野党候補「原発ゼロ」 似通う主張 論戦は低調』
 と、多くの議員が、演説の中で原発問題への明確な言及を避けている現状を紹介し、記事本文では
《−−略−− 新潟日報社が、各候補に柏崎刈羽原発の再稼働問題や、原発の将来的な位置付けについて聞くと、与野党の主張の違いが見えにくい実情が浮かび上がった。 −−略−−》
 として、選挙戦の実情を以下のように伝えている。
《−−略−− 野党候補は、東電福島第一原発事故や避難計画などに対して県が進めている検証作業を尊重する考えを示している。そのうえで、再稼働を「容認できない」「阻止する」とし、再稼働路線を進める自民との違いを強調している。しかし自民候補の多くも県の検証を尊重する立場だ。党公約には「原子力規制委員会の基準に適合すると認められた場合、再稼働を進める」とあるが、規制委の事実上合格が出た現時点でも「再稼働に反対」と話す議員がいる。 −−略−−》
 思い出すのは、はるか30数年前、新潟出身の友人が、
「うちのあたりじゃ自民党と社会党の選挙演説はまったく同じだよ」
 と言い切っていたことだ。
 与党であれ野党であれ、東京にある党本部がどんな方針を打ち出していたところで、いざ選挙になれば田舎の候補は、田舎の選挙民の気に入ることしか言わない、と、彼が力説していたのは、そういう主旨の話だったわけなのだが、状況は、どうやら現在でも変わっていない。
 たしかに、有権者の関心は高い。
 でも、争点はぼやけている。
 そして、候補者は有権者の聞きたいことを言う。
 それだけの話なのだ。
 原発問題への関心が高いことは、新潟日報の紙面を見れば即座にわかる。
 ただ、その「関心」の中身は、私のような県外の部外者が抱く予断とはかなりかけ離れている。
 たとえば、新潟5区で自民党から立候補した泉田裕彦候補は、つい1年ほど前まで、新潟県知事だった人物だ。
 その泉田氏が、県知事時代、柏崎刈羽原発の再稼働を進めようとする中央政府ならびに東京電力に対して、ことあるごとに反発していたことは新潟県民であれば誰もが知っているところだ。が、その泉田氏は、今回の選挙で、なぜか原発再稼働を目指す自民党から立候補して、しかも当選している。
 23日の新潟日報は、
《知事時代は東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に慎重と見られており、再稼働を目指す自民党からの出馬を疑問視する有権者も多かった。支援者らに「原子力政策の)欠陥を与党の中から直すという約束を果たす」と声を張り上げた。》
 と、若干の皮肉をこめた書き方で、泉田氏の言い分を紹介している。
 まあ、こういう書き方をするほかにしかたがなかったのであろう。
 というのも、もともと、泉田氏と新潟日報社の間には、遺恨めいたいきさつがあるからだ。
 両者の行き違いは、2016年の新潟県知事選で、出馬の意思を表明していた現職の泉田氏が、選挙を一ヶ月後に控えた8月末に、突如、日本海横断航路のフェリー購入問題をめぐる新潟日報の批判的な報道を理由に立候補の撤回を言い出した時点にさかのぼることができる。
 この出馬撤回について、新潟日報のウェブ版、「新潟日報モア」は、「選挙態勢整わず 本紙に責任転嫁」という見出しで記事を書いている。
 で、この記事に対して、当然、泉田氏は、あるメディアのインタビューで正面からの反論を試みている。
 県知事選の不出馬に関して、どちらの言い分がより真相に近いのか、いまとなってはよくわからない。が、ともあれ、県民から見て、泉田氏の原発への態度がわかりくいことはたしかだろう。
 一方、その2016年の県知事選に急遽立候補・当選して、現在、新潟県知事の職にある米山隆一氏は、もともと、2012年の衆院選、2013年の参院選に、いずれも日本維新の会から立候補して落選している人物だ。
 彼は、国政選挙の選挙戦では、いずれも原発の再稼働を訴えていた。ところが、県知事選の選挙では、「東京電力福島第一原発事故の検証なしに、柏崎刈羽原子力発電所の再稼働の議論はできない」と主張し、「泉田路線」の継承を掲げて当選を果たしている。
 現在、米山知事は、安倍政権のさまざまな施策に批判的なツイートを連発する、反政権側勢力の有力な論客として、一定の地位を築いていたりもする。
 自分の置かれている立場次第で、主張の内容を変えるものの言い方を「ポジショントーク」と呼ぶ。私の目には、泉田、米山両氏の現在の主張は、いずれもポジショントークの典型に見える。
 泉田氏と米山氏は、ともに、非常な能弁家だ。知事時代の泉田氏が、東電の詭弁を丁寧に論破していく手腕には、毎度感心させられたものだし、知事就任以来の米山氏が、安倍政権の国会運営をたしなめるカタチで連発しているツイートの論旨の鮮やかさにも毎度唸らされている。
 その意味では、私は、この二人の政治家の力量を高く評価している。
 が、その、二人の、いずれ劣らぬディベート上手な政治家が、ともにポジショントークの達人であることを、われわれはどう受けとめるべきなのだろうか。
 もしかすると、新潟というのは、演説の達人を育む土地柄で、だからこそ、彼の地の政治風土は、常に論争的たらざるを得ないということなのだろうか。
 はるか昭和の時代を振り返ると、新潟には、田中角栄という不世出の弁舌家がいた。この人の演説は、内容の面白さもさることながら、語り口の自在さ、声のトーンの渋さ、抑揚と遅速が醸すリズム感の魅力など、どこをどう切り取っても常に第一級の話芸だった。
 新潟の雪を、東京の電気を生む資源だとする(←雪解け水が水力発言の動力源になるから)角栄氏独自の理屈は、よくよく考えてみれば詭弁以外のナニモノでもないのだが、その発想の大胆さと不思議なユーモアで、多くの人を魅了し、最終的には納得させたものだった。また、彼は、地方の政治家が地元に利益誘導をすることを、「列島改造」というスケールのデカい風呂敷を広げてみせることで、正当化してしまう手品を発明した人物でもあった。
 おそらく、こんなことのできる政治家は二度と現れないだろう。
 かつて、新潟が保守王国と呼ばれていた時代に、新潟の政治風土が保守的であったのだとすると、現在の、全国でも最も与党側の敗北が目立つ新潟の現状は、リベラル的なのだ、と、理屈の上では、そういうことになる。
 が、私は、その種の分析を信じない。
 田中角栄が健在だった時代、新潟の人々は、保守だとか革新だとか、あるいは進歩的だとか反動的だとかいうこととは関係なく、単純に、田中角栄のビジョンに乗っかったのだと思う。
 その田中角栄の掲げたビジョンとは、都市からの利益誘導であり、新幹線の延伸であり高速道路の建設であり、原子力発電所の誘致と、それらのもたらす巨大な経済効果による地域経済の活性化という物語だった。
 で、それらは、ほんの20年ほど前までは、うまく回転しているように見えた。
 ところが、その物語のエンジンであるはずの原発には、震災以来大きな疑問符がつくことになった。
 となると、保守だとかリベラルだとかといった理念上理屈とは別に、原発それ自体が、ダイレクトな争点になる。
 原発をかかえた土地の政治は、だから、政党の理屈とは無縁な、オールオアナッシングの選択で動くことになる。
 ところが、例によって、政治家はポジショントークしかしない。
 しかも、弁の立つ政治家ほど、その場に合わせた「うまいこと」しか言わない。
 新潟の人々は「うまいこと」を言う政治家が好きなのだというと、バカにした言い方に聞こえるかもしれないが、私は、耳の肥えた有権者である新潟県民は、政治家の演説の内容を信じていないからこそ、その弁舌のテクニックに拘泥する、と、半分ぐらいはそう考えている。
 いずれにせよ、新潟の政治家は雄弁だ。
 10月18日の朝刊で、新潟日報は、柏崎刈羽原発についての世論調査の結果を掲載している。
 それによると、再稼働について、「反対」「どちらかといえば反対」という否定的な回答の割合は、58.6%で、「賛成」「どちらかといえば賛成」の計22.3%の約2.6倍にのぼっている。
 面白いのは、原発が立地する柏崎市を中心としたエリアで、再稼働に否定的な回答が52.6%と比較的低く、むしろ肯定的な回答の割合が29.2%と、県内全体よりも7ポイントも高かったことだ。
 さらに記事は、
《対照的に、原発から半径30キロ圏の周辺地域では、原発に否定的な回答の割合が高く、立地地域との温度差が際立った。30キロ圏の見附市を含むエリアで66.1%、妻べしを含むエリアで66.8%、十日町市を含むエリアで59.3%が再稼働に否定的だった。−−略−−》
 と、細かい数字を紹介している。
 思うに、原発については、立地地域の地域の住民と電力の供給を受けている都会の人間が、ともにある意味ポジショントークを繰り返しているだけでなく、立地地域の住民の内部にも、原発の従業員や関連産業に従事する当事者と、そうでない人々の間に、立場の違いがある。早い話、被害想定地域にも距離や条件によるグラデーションがあって、それに応じた賛否があるということなのだと思う。
 そんなわけで投票日前日の10月21日の新潟日報の紙面には、
『どうする? 再稼働』
 という巨大な活字を掲げた、「さようなら原発1000万人アクションin新潟」「新潟県原爆被害者の会」「緑の森を育てる女性の会」「なくそう原発・新潟女性の会」の連名による全面広告(朝刊14面)が、大々的に掲載されている。
 これは、直接には選挙のための広告ではないが、広告を出稿した側の人々は、十分に選挙を意識している。
 地方紙の広告欄には、そういう狙いの明らかな、あるいは、ターゲットを絞ったものが載ることがある。
 新潟の場合、拉致被害者の話と原発の話が異彩を放つ。
 拉致の問題は、日本海側の新聞を見るといまだに風化していないことがわかる。
 というよりも、東京のメディアが風化させている問題を当地の新聞は粘り強く訴えていると言った方が適切なのかもしれない。
 今回は、主に選挙期間中の新聞をあたっただけなのだが、その間にも、「拉致 40年目の真実」という一面の半分以上を使った連載記事が一週間以上にわたって
掲載されていたし、11月18日に開催される「忘れるな拉致県民集会」という新潟日報社、新潟県、新潟市の共同主催によるイベントの広告も出稿されている。
 当然、政党の広告も出ている。
 投票日前日の10月21日には、自民(36面)、共産(35)、幸福(11)、立憲民主(39)、社民(29)の各党が、それぞれ広告を掲載している。
 投票日当日の22日には、自民党の広告だけが出稿されている。
 ま、資金力の差ということなのだろう。
 印象深かったのは、投票日当日の22日に、2つの大きな書籍広告が掲載されていたことだ。
 ひとつは、飛鳥新社から発売された『「森本・加計」徹底検証』という書籍(小川榮太郎著)の4段抜きの広告で、広告スペースの中には、
「スクープはこうして捏造された」
「本当は何が問題だったのか?−−−−明かされる真相」
「朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」
「安倍総理は「白さも白し富士の白雪だ!!」前愛媛県知事 加戸守行」
「発売たちまち大増刷!!」
「別々の問題をまったく同じ手法で事件化する「虚報の連鎖」」
 という活字が踊っている。
 もうひとつは、『ついにあなたの賃金上昇が始まる!』(高橋洋一著・悟空出版の広告だ。この広告には、
「アベノミクス継続で日本経済は必ず大復活する」
 という惹句とともに、
「フェイク報道にだまされるな!」
 として、
? 安倍首相の疑惑隠し解散
◎ 北朝鮮本格的危機到来で解散は今しかなかった
? 企業が儲けても国民は苦しい
◎ 来年から本格的な賃金上昇局面になる
?「森友・加計」は安倍のおごり
◎森友は財務省のチョンボ、加計は三流官庁文科省の完敗
 といった「?」=「フェイク報道」と「◎」=「?橋教授の検」証結果」の対照項目が、7つ列挙されている。
 いくらなんでも露骨な選挙運動に見えなくもないのだが、おそらく法律的には、広告の枠内の話で、掲載が投票日当日であっても大丈夫だという判断なのだろう。
 まあ、大丈夫ではあるのだろうが、これはみっともないと思う。
 われわれは、うまいことを言ってくれる政治家を待望している。
 ポジショントークであっても、だ。
 

 以上です。おそまつさまでした。

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2019/01/29

革命的半ズボン主義の栄光とその東アジア的停滞について

ついでなので、橋本治さん関連のテキストを採録しておくことにします。

テキストファイルに付記されている記録によれば、当稿は、2011年の6月のはじめに、日経ビジネスオンラインの連載のために書かれた文章です。
内容は、橋本治氏の 「革命的半ズボン主義宣言」を下敷きに、当時話題になっていた「スーパークールビズ」と呼ばれるオフィスでの軽装を推奨する運動について論評したものです。
なんだかとっちらかった文章で、大威張りで再掲載するようなものではないとも思ったのですが、今年の1月から、「日経ビジネスオンライン」のサイトがリニューアルされて、「日経ビジネス電子版」に看板を掛けかえたことにともなって、2015年以前の連載記事には(あくまでも「いまのところ」ということですが)リンクが張られていない状態になっています。なので、読者は、古いエントリーを読むことができません。
個人的には、このこと(旧「日経ビジネスオンライン」の2015年以前の記事や文章や資料がアクセス不能になっていること)を残念に思っています。
なので、若干の抗議の意味もこめて、以下、古い原稿をアップしておきます。



『スーパークールビズと革命的半ズボン主義の間』
 

「スーパークールビズ」について、私の周辺にいる同世代の男たちは、異口同音に反対の意を表明している。
「くだらねえ」
「ポロシャツとか、何の罰ゲームだよ」
 意外だ。
 就業経験の乏しい私には、どうしてポロシャツが罰ゲームなのか、そこのところの機微がよくわからない。
「どうしてダメなんだ?」
 彼らは説明する。
「あり得ないんだよ。単純な話」
「ポロシャツで会社行くくらいなら、いっそフーテンの寅で行く方がまだマシだってことだよ」
「でも、お前だって普段着からネクタイってわけじゃないだろ?」
「だからさ。たとえば、お前がどこかの編集者と打ち合わせをするとして、パジャマで出てこいって言われたら、その通りにするか? しないだろ?」
「……話が違わないか?」
「いや、違わない。オフィスでポロシャツを着るってことは、自由業者の生活経験に換算すれば、パジャマでスターバックスに行くぐらいに、赤面なミッションだと、そういうことだよ」
 私はまだ納得がいかない。
「そうかなあ。アロハにサンダルで出社したい社員だっていると思うぞ」
「お前は何もわかってないんだよ。プー生活が長かったから」
「アロハだのサンダルだので出社したいと思ってるのは、出社拒否症予備軍の能無しだよ」
「でなきゃ、じきにやめるつもりでいる半端者。窓際のトッド・ラングレン」
「釣りバカ日誌の浜ちゃんとかはどうだ?」
「お前な。ありゃファンタジーだぞ。不思議の国のアリスと同じジャンルのパラレルワールドのお伽話。それぐらいわかれよ」
「ハマサキはともかく、社長があんなヤツと仲良しだったりする会社は2年で倒産するな」
 なるほど。了解した。
 スーパークールビズは定着しないだろう。若手社員の中には歓迎する組の人間もいるのだろうが、オヤジ連中は黙殺する。とすれば、このプランはおシャカだ。というのも、ビジネスはオヤジのフィールドだからだ。オヤジに嫌われた商品が成功することはそんなに珍しくない。が、オヤジの歓心を買わないビジネスマナーが標準化することはどうあってもあり得ない。
 クールビズ問題は、ファッションの問題ではない。体感温度の問題でもない。エアコン設定温度の高低でもなければ、省エネルギーの是非でもない。オフィスにおけるあらまほしき服装をめぐる問題は、職場のヘゲモニーの物語であり、地位とディグニティーと男のプライドを賭けたパワーゲームであり、結局のところオヤジがオヤジであるためのマインドセッティングの問題だ。
 ということであれば、ファッション業界の人間に意見を求めたところで、何の役にも立たない。諮問委員に学者を招いても無駄だ。ましてや、官僚なんかに、意味のある仕事ができるはずもない。
 肝要なのは、自分たちが背広を着ている理由について、そもそもの源流にさかのぼって、根本から問い直すことだ。そうしないと、正しい答えにたどりつくことはできない。
 わたくしども日本のビジネスマンは、なにゆえに背広を羽織り、革靴を履き、なぜ、ネクタイを締め、テカテカの顔のアブラを150円のハンカチで拭っているのか。そしてまた、どうしてオレらは、その顔のアブラを右手経由でマウスの表面に塗りたくりながらでないと、執務を続行することができないのか。そういったあたりの諸々について、よろしく考えを深めなければならない。
 答えは、「革命的半ズボン主義宣言」という本の中に書いてある。私はこの本を、20代の頃に読んだ。著者は橋本治。初刷の発行は、1984年。1991年には河出書房新社から文庫版が出ているが、いずれも既に絶版になっている。Amazonを当たってみると、版元にも在庫がない。名著なのに。
 というわけで、手元に実物が無いので、詳細ははっきりしないのだが、私の記憶しているところでは、本書は、「日本の男はどうして背広を着るのか」ということについて、まるまる一冊かけて考察した、とてつもない書物だった。以下、要約する。
1. 日本のオフィスでは、「我慢をしている男が偉い」ということになっている。
2. 熱帯モンスーン気候の蒸し暑い夏を持つこの国の男たちが、職場の平服として、北海道より緯度の高い国の正装である西洋式の背広を選択したのは、「我慢」が社会参加への唯一の道筋である旨を確信しているからだ。
3. 我慢をするのが大人、半ズボンで涼しそうにしているヤツは子供、と、うちの国の社会はそういう基準で動いている。
4. だから、日本の大人の男たちは、無駄な我慢をする。しかもその無駄な我慢を崇高な達成だと思っている。暑苦しいだけなのに。
5. 実はこの「やせ我慢」の文化は、はるか昔の武家の時代から連綿と続いている社会的な伝統であり、民族的なオブセッションでもある。城勤めのサムライは、何の役にも立たない、重くて邪魔なだけの日本刀という形骸化した武器様の工芸品を、大小二本、腰に差してして出仕することを「武士のたしなみ」としていた。なんという事大主義。なんというやせ我慢。
6. 以上の状況から、半ズボンで楽をしている大人は公式のビジネス社会に参加できない。竹光(竹製の偽刀)帯刀の武士が城内で蔑みの視線を浴びるみたいに。なんとなれば、わが国において「有能さ」とは、「衆に抜きん出ること」ではなくて、むしろ逆の、「周囲に同調する能力=突出しない能力」を意味しているからだ。
 以上は、記憶から再構成したダイジェストなので、細かい点で多少異動があるかもしれない。話の順序もこの通りではなかった可能性がある。でもまあ、大筋、こんな内容だった。
 橋本氏の見解に、反発を抱く人もいることだろう。極論だ、とか。自虐史観だとか。しょせんは局外者の偏見じゃないかとかなんとか。
 でも、私は鵜呑みにしたのだな。なんと素晴らしい着眼であろうか、と、敬服脱帽いたしましたよ。ええ。
 だから、一読以来、私の考えは、こと背広については、橋本仮説から容易に離れることができない。
 そういう目で見てみると、スーパークールビズは、興味深い試みだ。
 もしかすると、これは日本のビジネスの世界を根底から変えるかもしれない。
 「革命的半ズボン主義宣言」の最終的な結論は、タイトルが暗示している通り、「半ズボン姿で世間に対峙できる人間だけが本物の人間」である旨を宣言するところにある。
 ということはつまり、スーパークールビズが額面通りにオフィスを席巻して、日本中の男たちがカジュアルウェアで働くことになるのだとしたら、わが国のビジネスシーンは、それこそ「革命的」な次元で変貌するはずなのだ。
 さてしかし、平成の背広は、「やせ我慢」の象徴であるのとは別の意味を獲得しつつある。
 というのも、少なくとも21世紀にはいってからこっち、オフィスのエアコンディショナーは、明治大正昭和のそれよりはずっと涼しい、オヤジオリエンテッドな温度に設定されているからだ。
 実際、ネクタイ慣れしたオヤジにとって、オフィスはそんなに暑苦しくい場所ではない。逆に、半袖ブラウスにスカート姿のOLさんたちが寒い思いをしている。で、寒がりの女性たちはロッカーにサマーセーターやカーディガンを常備していたりする。
 両者の間には隠れた暗闘が絶えない。
「暑い暑い」
 と、これ見よがし(←オヤジの真意は「オレらが暑い外回りをして稼いでいるおかげで、君たち内勤の人間はエアコンの効いた室内で養われているのだぞ」といったあたりの事情を強調するところにある)に汗を拭きながら、部屋にはいるなり事務所のエアコンの設定温度を一気に5度も下げるトップセールスの横暴について、冷え性のOLさんたちは、呪いに似た感情を抱いている。
「うわっ、汗ダルマが帰ってきた」
「ってか、汗臭観音じゃね?」
「浅草なら、仁王でしょ」
「ははは。ちからもないのに におうぞう」
「あーあ、エアコンの前にニオウダチだよ」
 と、彼女たちがどんなに陰口を叩いたところで、温度設定権は、職場権力のしからしむるところに帰することになっている。暑がりのデブのオヤジの信じられない漏エネセッティングに、だ。
 背広は権力だ。
 同時にそれは、権威の表象でもある。
 だから、オヤジはそれを簡単に脱ぐわけにはいかない。
 脱いだらさいご、魔法がとけてしまうからだ。王子様がヒキガエルに戻るみたいに。
 職場の服装は、地位を象徴している。逆に言えば、地位を表現しない服装は、働く者の身構えとして不適格だということになる。
 料理人が帽子の高さで序列を表現し、相撲取りの世界が番付に応じた細かい服装規定を引き継いでいるのは、気まぐれや偶然の結果ではない。彼らの世界は、そういうふうにして成員の力関係を確認していないと正しく機能しない。そういうふうにできているのだ。板場の見習いがシェフに向かってタメ口をきくようなレストランは信用できない。そういう調理場で作られるメニューは料理に不可欠な精妙な統一を実現することができない。地位はそのまま指揮系統であらねばならず、指揮系統は完璧なレシピを実現するためのシステムとして、常に正確に機能しなければならない。
 料理人や相撲取りの世界に限らず、どこであれ、階級社会は、一目見て誰にでも分かる地位標識を必要としている。軍服は紀章の星の数で端的に階級の上下を内外に宣告している。ヤクザもまた、独自のルールでチンピラと大物の装束を厳しく峻別している。
 ずっと以前、飯干晃一(だったと思う)が書いていたことだが、戦後、東映のヤクザ映画がロードショーされるようになって以来、ヤクザの服装から地域差が消滅したのだという。理由は、日本中のヤクザが映画の中のヤクザの服装を模倣するようになったからだ。
 「この人はヤクザだぞ」ということが、万人(やくざ仲間にもカタギの衆にも)に対して明らかでないと、彼らの稼業(威圧)は、成立しない。その意味で、映画の普及は、地域によってまちまちだったヤクザの記号(雪駄、ダボシャツ、白スーツ。黒スーツ。先のとんがったコンビの靴。襟のデカいシャツなどなど)を、標準化する効果を持っていたのである。
 オフィスのスーツも、軍服ほど露骨ではないものの、階級に沿って標準化されている。ビジネスの世界に生きる人間は、スーツを見ただけで、それを着ている人間の地位と、趣味性と、人格のありようを瞬時に看取できなければなければならない。それがビジネスのセンスというものだ。
 地位は視覚化される。
 新入社員は、独身の若者らしい寝ぐせを帯びて出社し、課長は課長にふさわしいネクタイを選ぶ。もちろん執行役員は一目でそれとわかる仕立てのスーツで朝礼に現れる。そういう部分で行き違いがあったのでは職場の秩序は維持できない。
 かくして、血肉化されたサル山構造は、美意識に昇華する。
 とあるメガバンクの支店に勤務する入社3年目の行員・山田某25歳は、自分が選ぶべき背広の材質と値段と色について、もはや迷わない。それは、あまりにも一目瞭然だからだ。支店長に連れられて行くキャバクラでおしぼりを受け取る順番を間違えないようになり、ボックス席に座る席順を自然に選べるようになった頃から、彼は、ビジネスの勘所を理解するようになったのだ。スーツの選び方は、そうしたあまたあるビジネスマナーのうちのひとつに過ぎない。
 ところが、クールビズには、スタンダードがない。無論、美意識も備えていない。
 と、山田は何を着ていいのかわからない。課長がポロシャツだとして、オレがポロシャツでかまわないのか、そこのところの判断がつかない。とても困る。
 
 課長も苦慮している。選ぶも選ばないも。オッサンに似合うカジュアルなんてものは、そもそも原理的にあり得ないからだ。なんとなれば、オッサンは、それ自体として公的な存在で、地位であり役職であり、それ以上でも以下でもない職場の果実だからだ。
 オヤジには私生活がない。だからカジュアルファッションも存在しない。極めてロジカルなりゆきだ。
 もちろん、日曜日がある以上、課長にだって休日の服装はある。でも、日曜日の課長は課長ではない。少なくとも人前に出して良い姿の人間ではない。
 でなくても、40過ぎの腹の出たオッサンであるオレが、ポロシャツなんか着たらどういうことになる? オレだって自分が見えてないわけじゃない。最悪な結果になる。そんなことは、はじめからわかっている。ポロシャツにチノパンみたいなだらしない格好をして見栄えがするのは、若いヤツらだけだ。どうせ、山田あたりは5割増しぐらいに輝いて見えるんだろうし、それに比べたらオレなんか話にも何にもなりゃしない。一緒に並んだら映画俳優と付き人みたいな絵柄になる。冗談じゃない。
 オフィスにおいて、職責にかかわるすべての要素は、地位に沿ってソーティングされることになっている。逆に言えば、地位と矛盾する要素は、オフィスから排除される。
 たとえば、職場のスポーツとしてゴルフが好適なのは、ゴルフの力量が、おおむねキャリアと資金力と道具の善し悪しに比例するからで、ということはつまり、若いヤツらより部課長の方がスコアが良いからだ。
 その点、野球はダメだ。野球部のエースだった副部長の速球を、二年目のバカが右中間に弾き返したりする事故を、野球の神は防ぐことができない。そんな競技を総務部が主催することはできない。
 サッカーは論外。昨日まで学生だった新入社員がエースストライカーになって、10年目より上の会社を支えている一番重要な社員たちが補欠になってしまう。そんな暴挙が許されて良いはずがないではないか。
 ここまで話をすればおわかりだろう。クールビズがダメなのは、地位を表現していないからだ。
 表現しないどころか、無神経なカジュアルは地位を逆転させる。
 Tシャツやアロハみたいなシンプルな衣服は、素材感や高級感よりも、より率直に、着ている人間の体型をありのままに描写する。と、若い社員ほど魅力的に映る結果になる。こんなものを会社が公認するわけにはいかない。スラっとしていて無駄な肉がついてなくて、機敏でセクシーでしなやかな部下に対して、だぶだぶのぶよぶよでよたよたした鈍物のオレが何を命令できるというのだ? できっこないじゃないか。
 
 結論を述べる。
 スーパークールビズを成功させるためには、なんとかして序列を持ちこまなければならない。
 たとえば、ダンヒルのアロハだとかバーバリーの短パンだとかを大々的に流通させる。カジュアルのブランド化。文春の広告特集とかがやっているアレだ。ヴィトンのスニーカー6万5000円だとか。悪い冗談みたいに見えるが、あれはあれで案外現実的なのかもしれない。
 役員クラスには、上下で40万円ぐらいする超高級リゾートウェアを着てもらう。
 ここにおいて、ようやくエレガンスが発生する。男のエレガンスは、シェイプやカラーには宿らない。あくまでも値段と肩書き。そこにしかエレガンスの拠り所はない。
 と、40代の課長で、5万円のアロハに3万5000円の革サンダルぐらいな見当になる。ボタンは白蝶貝に金の縁取り。そういうところに抜け目なくカネをかけて、しかるべきディグニティーを憑依させる。
 三年目の山田はユニクロ。ポロシャツの左胸にはケチャップの食べこぼしをあしらい、単パンは、あえてサイズ違いの一品を選ぶ。それぐらいのことはしないと上司のご機嫌を取り結ぶことはできない。
 とはいえ、道のりは遠い。
 「このアロハから見て、この人は課長クラスだな」という審美眼ないしは鑑識眼が、内外に共有されるようになるまでには、どう短く見積もっても五年やそこらはかかる。
 短パンみたいなブツを通して取締役の威厳を感じ取るに至る社畜な感受性が、若い世代のビジネスパースンの裡に果たして本当に育つのかどうか、先行きははなはだ心もとない。心配だ。
 
 スーパークールビズのニュースを伝えるキャスターが、どこの局のどのニュースを見ても、やっぱりネクタイをしている一点を見ても、この運動が、お役所のイクスキューズ(彼らはいつもあらかじめの弁解を用意している)に過ぎないことは明らかだ。
 これではダメだ。
 本当なら、ニュースキャスターみたいな人たちが率先して、短パンでニュースを伝えないといけない。
 そして、半ズボン経由のニュースを、われら視聴者は、嘲笑せずに受け止めなければならない。私たちにそれができるだろうか。
 
 というよりも、真に重要なのは、仮にスーパークールビズが成功したとして、そのコロニアルな見かけの職場が、きちんとしたクオリティーを保てるのかどうかだ。
 山下清ライクな立ち姿で働きながら、それでもなお世界に冠たるホスピタリティを達成できたのだとすれば、その時にこそ、日本のQCは世界を席巻することになるだろう。頑張れニッポン。

 「日経ビジネスオンライン」の古い原稿については、このほかの記事についても、読者のみなさんが読めるカタチでどこかにアップしておく方法があれば良いのだがと思っています。
「そんなことをしたら書籍版を買う読者がいなくなるじゃないか?」
 と?
 それはまあそうなんですが、要は、ネット上にアップされているテキストが活字版の購入を促す出来栄えであれば良いわけですよね?
 実際にどう転ぶのかはわかりませんが、ともあれ、色々と検討してみるつもりです。
 
 
 

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橋本治さんの訃報に寄せて

橋本治さんが亡くなりました。

https://this.kiji.is/462906163407635553

悲しい知らせです。

橋本治さんは、ごく若かった時期から、ずっと変わらずに敬愛してきた文筆家でした。

追悼と感謝の意味をこめて、2015年の10月に書いた原稿をハードディスクから召喚してみなさんのお目にかけることにします。

 内容は、橋本治さんが書き下ろした新作義太夫(「源氏物語 玉鬘」旅路の段より長谷寺の段)をご紹介するための文章で、2015年10月11日「花やぐらの会」《鶴沢寛也(女流義太夫三味線)さん主催の女流義太夫のイベント(@紀尾井小ホール)》のパンフレットに掲載されたものです。


 芝居を観るのはうじうじした人間で、自分は、竹を割ったような性格なのだから、そういうものとは無縁なのだと、ごく若い頃から、ずっと、そう思っていた。

 本当は違う。私は、雨が降ると、いつまでも窓の外を眺めている。そういう男だ。人一倍湿っぽいものに惹かれる。だからこそ、自分を湿らせるものを避けているのだと思う。

 当然、義太夫とも無縁だった。心中の筋立てや、愁嘆場や、激情的な人物造形などなど、受け入れがたい要素ばかりが目についたからだ。まるで自分の苦手なものを捏ねて固めたみたいな演芸ではないか。

 何年か前、はじめて女流義太夫の観客席に座ったのは、鶴澤寛也さんにご招待をいただいたからだ。義太夫節を聴きたかったのではない。三味線を聴きたかったのでもない。声をかけもらった嬉しさに舞い上がって、お断りする選択肢が頭に浮かばなかったのだ。

 それが、語りが始まり、三味線が鳴り出すと、いつしか、私は夢中になっていた。畳み掛ける台詞回しの心地よさと、言葉の隙間を縫うようにうごめき、ときに、糸の破裂音で物語の展開に句読点を穿つ三味線の色気に、時の流れを忘れていた。

 思えば、私を魅了するものは、いつも、私が嫌っているもののすぐ隣にあった。大仰でこれ見よがしな三島由紀夫の作風と、取ってつけたような日本趣味に抵抗をおぼえつつ、その一方で、彼の絢爛綺羅な言語魔術にはやはり脱帽せざるを得なかった。太宰治についても同様だ。あのわざとらしさ。度し難い自己憐憫。女々しさ。上目遣い。どれもこれも好きになれなかった。が、作品の素晴らしさには抵抗できない。大好きだ。

 そして、その彼らが紡ぐ言葉の奥には義太夫がある。というよりも、生きた韻律を奏でる日本語は、その背景に、必ずや語りの伝統を踏まえているものなのだ。

 聞けば、今回の義太夫は「新作」で、橋本治の手になる作品だという。なんという天の配剤だろうか。橋本治は、現存する日本人の中で、私が誰よりも深くその文体に敬意を抱いている文筆家であり、ほんのちょっとした短文の中にでも、常に「語り」のリズムを感じさせる当代随一の書き手だ。この人を措いて、義太夫の「新作」は、不可能だろう。

 いまからうきうきしてくる。

 ん? 義太夫なんかを聴くのは、うじうじした人間じゃないのかって?  何を言うんだ。うじうじする時間があるからこそ、うきうきできるんじゃないか。

 それに、ついでに言えばだけど、うじうじしない人間は、人間じゃないぞ。

 公演当日、舞台がはねた後、憧れの橋本治さんと歓談する時間を持てたことは、私の一生の財産になりました。

 心からご冥福をお祈りいたします。    

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«泣く子も黙る「地頭」の真実