2021/11/13

ジョークの暴力性について

 ツイッターのタイムラインで冗談の話題が出ていたので、久しぶりにブログを更新してみる。

 ご紹介するのは、2015年の1月に「日経ビジネスオンライン」(←当時)の連載コラムのために書いたテキストだ。
 さきほど検索してみたところ、あらまあびっくり、消えている。
 どうやら、あの媒体は、古い記事を削除する方針を貫いている。悲しい。
 あんまり悲しいので、ブロクにテキストをアップすることにした。
 細かい部分は、掲載当時の記述と食い違っているかもしれない。でもまあ、私が編集部に送った原稿はこのバージョンだった。

 どういうタイトルがついていたのか、記憶が曖昧なのだが、以下、仮のタイトルを付してご紹介する。乞ご笑覧。

 オダジマは、6年半も前から「笑い」を過剰に高く評価する風潮に敵意を抱いていたののだね。それも、真顔で。
 というわけで、いつも真顔でいることの大切さをニコリともせずに真顔で訴えたマジメな原稿です。

 

 ユーモアは暴力である

 あけましておめでとうございます。
 新年第一回目の更新分は、インフルエンザのためお休みしました。
 無理のきかない年齢になってまいりました。いろいろなことがあります。
 待ち焦がれた読者を想定して休載を詫びてみせるのも、かえって傲慢な感じがいたしますので、なんとなくぬるーっとはじめることにしましょう。

 フランスでこの7日と9日に連続して起きたテロ事件は、17人の死者を出す惨事になった。
 一週間を経てあらためて振り返ってみると、この事件が、これまでにない多様な問題を投げかける出来事だったことがわかる。
 表現の自由と宗教の尊厳の問題、宗教への冒涜とヘイトスピーチの関係、テロ警備と市民生活、多文化主義と移民の問題など、数え上げれば切りがない。
 どれもこれも簡単に結論の出せる問題ではない。
 それ以前に、半端な知識や安易な観察で踏み込んで良い話題ではないのだろう。
 なので、事件の核心部分については意気地無く黙ることにする。
 
 ここでは、「ユーモア」の話をする。
 あえてユーモアを主題に持ってきたのは、14日の朝日新聞に載った
《「犯人はユーモア失っていた」 仏紙風刺漫画家が会見》
http://digital.asahi.com/articles/ASH1G01DPH1FUHBI03J.html?iref=com_rnavi_srank 

 という記事に、考えさせられたからだ。
 会見の中で、風刺漫画家のラウド・ルジエさん(43)は、ユーモアについて以下のように語っている。
《最後に、報道陣から「この絵を描いたことで心配はないか」と質問が出ると、「ユーモアの知性を信じている。犯人はユーモアを失っていただけだ」と言い切った。》

 正直な話をすると、私は、ルジエ氏が何を言いたいのか、何を言っているのか、まったく了解することができないでいる。
 犯人がシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった点については、ルジエ氏が指摘している通りなのだと思う。
 でも、だとしても、ユーモアについての理解の有無とテロリズムは別の次元の話だ。
 新聞の出版にたずさっている人間であれば、どうしてこの程度のことがわからないのだろうか。

 私自身の話をすれば、検索してたどりついたシャルリ・エブドの風刺マンガからは、ほとんどまったくユーモアのエッセンスを感じ取ることができなかった。
 フランス語が読めるわけではないので、文字に関しては英訳してあるサイトのものを捜したり、ウェブ上の辞書の世話になったりした。
 で、かなりの数のネタをサルベージした次第なのだが、どれもこれも、ひとつとして笑えない。いや、大げさに言っているのではない。「charlie hebdo」で画像検索をしてみれば、一目瞭然だ。これで笑う日本人が果たして何人いるのだろうか。
 私は、単に不快だった。
 つまり、ユーモアの理解度からすれば、私は、テロの犯人とそんなに違わなかったわけだ。

 とはいえ、もちろん、ポンチ絵を見てムカついたからといって、私は編集部にカチコミをかけたりしない。
 世界中のほとんどすべての新聞読者と同じく、笑えないネタに対しては黙殺を決め込む。それだけの話だ。
 
 ユーモアは、伝わりにくいものだ。
 仮に出来の良いユーモアってなものがあったのだとして、笑ってくれるのは読者のうちの2割に過ぎない。半数の人間は無反応だろうし、残りの3割は気分を害している。笑いというのはおおよそそうしたものだ。とすれば、ユーモアを発信している側の人間が、受け手の無理解を責める態度は、傲慢以外のナニモノでもない。
 客が笑わないのは客の側の責任ではない。笑わせることができなかった制作側の人間(芸人ないしは文筆家)の責任だ。

 犯人は、なるほどシャルリ・エブドのユーモアを理解しなかった。
 だが、問題はそこではない。
 唯一の問題は、犯人が暴力に訴えたことだ。
 マシンガンを乱射して、編集部の人間を殺害し、警察官を殺害したことだ。
 どんな理由があろうとも、殺人は、100パーセント、いかなる方向からも擁護できない。
 彼らが敬虔なムスリムで、シャルリ・エブドの涜神的なポンチ絵に怒りを感じていたのだとしても、そんなことは犯行を免罪する理由にはならない。

 とはいえ、犯罪とは別に、犯人がユーモアを解さなかった(「ユーモアを失っていた」と、ルジエ氏は言ったが)ことそのものは、特段に責められるべきことがらではない。
 彼らがユーモアを解さなかったことと、テロにうったえたことはまったく別の問題だ。
 ユーモアのわかる人間ならテロリストにならないわけではないし、犯人がユーモアを理解していれば、テロに訴えなかったはずだみたいな甘ったるいお話でもない。

 ルジエ氏の言い方だと、犯人は、ユーモアの知性を理解しない人間であるがゆえに、犯行に及んだように聞こえてしまう。
 そうでなくても、彼のものの言い方は、ユーモアを解さない人間をテロリストと同じ集合に分類してしまっている。

 とすると、私も犯人と同じ側の人間だってなことになってしまう。
 違うぞ。
 私は、シャルリ風の高飛車なユーモアを解さないという意味では、犯人と同じだ。しかしながら、私は非暴力を貫いている点で、自らの主義主張を暴力という手段で実現しようとした犯人とは正反対の人間だ。
 一緒にされては困る。
 ユーモアみたいな粗雑なもので私を分類しないでほしい。

 ルジエ氏の立場に立って考えてみれば、彼のあの日の会見での発言は、普段の彼の言葉とは違う、感情的な反応だったのだろう。
 当日、彼は、自分の同僚を何人も殺された直後の状態で会見に臨んでいた。
 感情的にならない方がむしろ不自然だったと言っても良い。
 ルジエ氏は、自分自身もまかり間違えば殺されたかもしれない立場だった。
 そう思えば、犯人を貶めたかった気持ちは十分に理解できる。

 興味深いのは、ルジエ氏が犯人を「ユーモアを失っていた」という言い方で非難しようとしたことだ。
 非難の言葉にはその人間の信念が露呈する。
 ルジエ氏は、おそらくユーモアを持たない人間を、人として低級な人間であると考えている。
 だからこそ、テロリストに対してその言葉をぶつけた。
 ということは、彼自身は、ユーモアを使いこなし、ユーモアを理解し、ユーモアを通じて他人と交流できるつもりでいる。
 それで、漫画家という職業を選んだのろう。
 悲しいのは、そこまでユーモアに高い価値を置いているルジエ氏のユーモアが、私にほとんど伝わってこないことだ。
 ユーモアは、むずかしいものだ。
 住んでいる国や使っている言葉が違えば、それだけで、ユーモアのかなりの部分は無効化してしまう。あるタイプのネタは、聴いている音楽が違うだけでまったく理解されなくなる。
 
「犯人はユーモアを失っていた」と言った時、ルジエ氏は、暴力とユーモアを正反対の概念だと思ってそう言ったのだろう。
 しかし、私は、「暴力」と「ユーモア」は、正反対どころか、兄弟に近いものだと思っている。
 暴力とユーモアは、コインの裏表みたいに、お互いを補完しあっている。同じ現象の別の側面と言っても良い。
 実際、ユーモアの名において発動されているいじめは山ほど存在しているし、セクハラやパワハラも、多くの場合、ユーモアの仮面をかぶっている。
 ユーモアは、いやがらせにも、あてこすりにも、皮肉にも、揶揄にも使われる。
 どれもこれも言葉を介した暴力の一変形であり、もっと悪い場合、集団から個人に向けたリンチに適用される。

 ルジエ氏が犯人たちを「ユーモアを失った人間」と定義したのは、世界を「ユーモアを解する高級な人間」と「ユーモアを解さない低級な人間」に分けて考えたかったからなのだろう。
 しかしながら、世界はそういうふうにはできていない。
 われわれは、自分と異質な人間を見ると、その人間をユーモアを解さない人間であるというふうに決めつけたくなる。
 たしかに、異質な人間同士の間では、ユーモアは通い合わない。
 だが、たとえば、異教徒と接すると時には能面みたいに無表情で対峙するカルト教団の信者だって、同じ教団の信徒同士で会話を交わす時には、ずっと柔らかい表情を浮かべている。時には冗談だって言う。
 はっきりしているのはユーモアを解さない人間とユーモアを解する人間がいるのではなくて、ユーモアが通い合わない関係と、ユーモアを理解し合える人間関係があるということだ。要するに、ユーモアの有効さは、能力やセンスよりも、単にそれを発する人間と受け止める人間の間にある関係性に依存しているのだ。

 もちろんテロリストもジョークを言う。人殺しだって笑うし、半グレのチンピラ連中はほとんど一日中笑っている。
 結局のところ、われわれがいけ好かない人間たちを「ジョークを解さない」人々として分類したがっているだけで、実際には、誰であれ、気の合う者同士の間では、ユーモアを交わし合っているのである。
 もちろん、他人に伝わらないユーモアもある。
 卑劣なユーモアもあるし、唾棄すべきユーモアだって珍しくない。
 たとえば、酒鬼薔薇聖斗のあれだって、当人としてはユーモアのつもりだったのかもしれない。
 してみると、ユーモアだから高級だとか、ユーモアだから知的だと考えるのは早計である以上に愚かな態度であると申し上げなければならない。
 多くのユーモアは低級だし、多数派の間でやりとりされているユーモアは、常に短絡的で暴力的でなおかつ動物敵なものなのだ。
 つまり、ユーモアの大半はクズだということだ。
 だからこそ、せめて、数をこなさないといけない。
 おたがいにがんばろうではありませんか。

 

 以上です。おそまつさまでした。またいずれおお会いしましょう。

 

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2020/09/17

「娘呼び」の呪いについて

2010年の1月に「日経ビジネスオンライン」上での連載、「ア・ピース・オブ警句」のために書いた文章を再掲します。
残念なことに、古いテキストはリンク切れになっていますもので。
バンクーバー五輪について書いた文章で、全体として、ダラダラと雑感を書き並べているわりと焦点の定まらない原稿なのですが、後半部にある女性アスリートを「娘呼び」にする習慣についての考察には、見るべきものがあると思っています。

よろしくお願いします。

 

 バンクーバー五輪は2月の12日に開幕するのだそうだ。
 なんと、開幕まで二週間を切っている。
 全然知らなかった。なんとなくオリンピックがあるらしいぞという感じは抱いていたのだが、まさかこんなに間近に来ていたとは。
 この盛り上がりの無さは、いったいどうしたことなのであろうか。
 あるいは醒めているのは私の周辺だけで、世間は五輪景気に沸いていたりするのだろうか。
 バンクーバー特需、と?
 どうもそういう感じはしない。土日の午前中は相変わらず駅伝だらけだし。液晶テレビが飛ぶように売れているという話も聞かない。むしろ、エコポイントの効果切れで、市場には禁断症状が出ている。売り場はエコエコポイントを待っている。わかっていたことだが。
 とにかく、今回のオリンピックに関しては、日本中がなんとなく乗り切れずにいる。隣町の運動会。他人事。そんな感じだ。
 なにしろ、恒例のメダル数え上げ報道が無い。
 これまでのオリンピックでは、誰が何色のメダルで、どの競技でどんなメダルがいくつ期待できるのかといったような先走ったカウントアップ報道が、それこそ開幕一月前から繰り返されていたものなのだが、今回はそれが聞こえてこない。
 なぜだろう。
 メダルが期待できないからだろうか。
 それとも、過去の経験から、メダル獲得を煽るテの報道が、選手団に無用のプレッシャーをかけるということが学習されて、それで、今回は、メディアもメダルの数をあらかじめ数えるみたいな伝え方を自粛している、と、そういうことなのであろうか。

 いずれも考えられる。
 確かに、今回は、鉄板の金メダル候補(←という言い方もなんだか安っぽくて変だが)が居ない。
 議論のハードルを「メダル圏内」と、比較的低いところに設定してもなお、見たところ、確実な選手は見あたらない。
 とすれば、開幕前からメダルを話題にするのは、かえってあとあとの興ざめの素になる。ここは一番、黙っておくに限る。その方が無難だ。
 見ない夢は醒めない。
 受けない学校は落ちない。
 さよう。打たないシュートは外れず、振らないバットは空振りをしない。不滅の安全策。区役所の相談窓口担当者みたいなリスク回避哲学。リーマンショックによるギョーカイ人のサラリーマン化。かくして、鉄火場であったはずのテレビ現場さえもが萎縮している。淋しい展開だ。

 競技団体(あるいはJOC)がメディアに報道の自粛を示唆した可能性もある。
 事実、オリンピックではないが、昨年の8月に行われた世界陸上では、陸連が放送を担当するTBSに対して「キャッチフレーズの自粛」を強く迫ったことがあった。
 無理もない話だ。
「モザンビークの筋肉聖母」「追い込み白虎隊」「侍ハードラー」「エチオピアのゴッド姉ちゃん」「ツンドラのビッグママ」
 こうしてあらためて並べてみると、彼らが案出したキャッチフレーズは、どれもこれも恥ずかしい。
 一視聴者に過ぎない私が、思い出しただけでこんなにも恥ずかしいのだから、当事者であった選手は、どれほど屈辱を感じたことだろう。想像するにあまりある。
 いや、キャッチフレーズの出来不出来について、センスが良いだとか悪いだとか、優れているとか劣っているとか、そういうことを言うつもりはない。
 でも、さるマラソンの女子選手に対して「走るねずみ女」という言葉を使ったのは、いくらなんでもあんまりだったと思う。
 ヘタでも面白くなくてもダサくても、アスリートに対する敬意が感じられるのなら、別にかまわないのだ。多少ハズれていても。でも、「走るねずみ女」は、生身の女性に対して使って良い言葉ではない。私は彼女の親戚でも何でもないが、これを聞いた時には血の気が引いたよ。

 で、とにかく、去年の中継は、たしかに控えめだった。オダさんも静かだったし、TBSのお家芸だった選手紹介キャッチも発動されなかった。おかげで、ここ数回の放送に比べて、電波の質は非常に上品なものになった。
 が、一方で、盛り上がりに欠けていたのも事実だった。
 淡々とした中継で深夜の陸上競技を見てみると、これがどうにも寒々しかったりする。
 単純に言って、淋しいのだね。孤独感。
 これは、わたくしども視聴者の側にも責任があるのだと思う。
 つまり、われわれは、スポーツ中継がバラエティー化する以前のごく当たり前な視聴態度を、どうやら失ってしまったのだ。奇妙な方向であれ、下品なカタチであれ、一度アオり系の放送に慣れてしまうと、そこから脱却するのは、われわれ受け手の側にとっても容易なことではなかったということですね。
 結局、やかましくて大仰で演出過剰な、縁日の口上みたいな放送は、いつしかわれわれの感覚をも鈍磨させていたわけだ。快楽中枢における限界効用逓減の法則。だから、TBSのうるさい実況を嫌っていた私のような視聴者でさえ、前回の中継には、物足りなさを感じずにはおれなかった。
「あれ? オダさん、もしかして情熱無くしてる?」
 と、私は、挙動不審でないオダユージを見て、ハシゴを外された気分を味わった。
 ニッポンの陸上界全体が突然にトシをとったみたいな感じ。
「そうだよな。いつまでもガキみたいにはしゃいでられないし」
 と、一度そう思ってしまうと、真夜中に競技を見るためのテンションを維持するのは、困難な仕事になる。
「寝よ」
 そうだよな。どうせ海の向こうでやってる他人の駆けっこなんだし。
 かくして、放送現場におけるグレシャムの法則(←「悪貨は良貨を駆逐する」)は、いつしか良心的なスタッフを業界から閉め出してしまった。具体的に申し上げるなら、声のデカい芸人がゴールデンタイムを占拠し、声優あがりのナレーターがベテランのアナウンサーから職場を奪う事態が続くうちに、スタジオはいつしか、昼下がりの魚河岸みたいな荒んだ場所に変貌していたわけだ。売れ残りの魚を商う業者と、安物を買いに来る志の低い商売人。捨て値モノを扱うセリ市では、最も強力なダミ声を放つ買い手が価格をコントロールする。うむ。ありそうな話だ。

 オリンピックが、愛国イベントになったのは、おそらくここ数回のことだ。
 長野オリンピックあたりからだろうか? あるいはもっと以前のロス五輪ぐらいに遡って考えるべきなのかもしれないが。

 とにかく、私が若者だった頃、オリンピックは、「ニッポン応援イベント」ではなかった。むしろ「世界のスポーツの祭典」という位置づけで、それゆえ中継の華は、あくまでも、「その時点での世界最高のアスリート」だった。「ニッポンのメダル」は、注目要素ではあったものの、話題の中心ではなかった。僥倖。もしくは、一種の天佑。それぐらいの扱いだった。
 冬季オリンピックの場合は、日本人選手の競技レベルが低かったせいもあって、特に外国人の一流選手に注目が集まる傾向が顕著だった。
 トニー・ザイラー、ジャン・クロード・キリー、インゲマル・ステンマルク、アルベルト・トンバ……と、古手のスキーファンは、これぐらいの名前はソラで暗記している。そうだよ。外国人の名前をたくさん知っていることが自慢だった時代があったのだよ。
 さすがにトニー・ザイラーの現役時代は覚えていないが、名前だけは知っていた。それこそ、中学生の頃から。
 ザイラー氏は、「白い恋人たち」という映画に主演していた。私は、その映画のサウンドトラックのシングル盤のレコードを持っていた。45回転のドーナツ盤。フランシス・レイ。ああ、どうして私は毎度毎度思い出話ばかりを語っているのだろう。ここは特別養護老人ホームの昼食テーブルなのか?
 とにかく、当時、アルペン競技のトップ選手は、そのまま世界のスターだった、と、そのことを私は言おうとしている。そう思って聞いてほしい。
 グルノーブル大会のスターだったジャン・クロード・キリーの名前もよく覚えている。
 競技の映像をナマで見たわけではないと思う。でも、’70年代を通じて広告や映画やニュース映像の中で、「キング・キリー」の名前は常に鳴り響いていた。
 キリーのような存在は、現在では、誰に相当するのだろうか。
 クリスティアーノ・ロナウド?
 ちょっと違う。もう少しコマーシャル寄りだ。一時期のデビッド・ベッカム、あるいはF1ドライバーの立ち位置に近いかもしれない。キリーは、そういうファッショナブルでおしゃれで輝かしい存在だった。

 私が最も熱心にスキーを見ていた時代の最大のスター選手は、インゲマル・ステンマルクだった。
 この人の滑りは、いまでも覚えている。とにかく速かった。そして奇跡みたいになめらかで優雅だった。
 滑っているだけでBGMが流れてきそうな、そんな感じだ。
 だから、ステンマルクの時代、冬季オリンピックの中継スタッフは、ステンマルクの姿を追うことを、第一優先として、放送番組を制作していた。
 視聴者も同様。
 日本人選手の活躍もアタマの片隅で期待していないわけではなかったが、画面で見たいのは、なによりステンマルクだった。まあ、ミーハーだったと言ってしまえばそれまでだが。
 であるから、その当時、日本人選手の試合結果は、ダイジェスト版のニュースに委ねられていた。
「なお、○○競技に出場した○○選手は○位と健闘しました」
 ぐらいなアナウンスとともに競技映像が5秒ほど。
「おお、やるじゃん」
 それで終わり。それで十分だった。ことほどさように、日本人選手の動向は、注目を引かなかったのだ。

 それが、ある時期を境に、「ガンバレニッポン」というキャンペーンが打たれるようになり、オリンピック中継の基調低音は、愛国応援モード一色の暑苦しい方向の何かにシフトしていた。
 それゆえ、たとえば前回のトリノ・オリンピックでは、男子滑降競技の決勝の中継が途中で中断された。
 今井メロ選手が出場しているスノーボードハーフパイプの生中継とカブったからだ。
 男子滑降決勝の中継を見ていた私は、驚愕したものだった。
「えっ? ダウンヒルを途中で切るのか? もしかして、NHKは、冬季五輪の華の、そのクライマックスの男子滑降決勝の映像を中断するのか? マジで?」
 落胆と虚脱、そして怒りと悲しみ。
 そうか、ダウンヒルの決勝より、スノボの予選なのか、と、そう思うと、もはやテレビを見続けるのが苦痛になった。いったい何のための受信料なのだ、とまでは思わなかったですがね。

 20世紀までは、冬季オリンピック中継のクライマックスは、誰が何と言おうとアルペン競技の決勝だった。日本人選手が出場していようがいまいが、だ。
 それが、放送されない。
 で、代わりに、スノボの予選中継が届いてきている。なんということだろう。今井メロ選手が、ジャンプの着地に失敗して、そのまま斜面をズルズルと滑落して行く様子が、ナマでたっぷり30秒上映されている。私はおぼえている。アナウンサーは「ああ」と言ったきり中継を投げ出し、解説者は、鼻息をひとつ吐いた後、言葉を発しなくなった。で、深夜のテレビ画面には無音の滑落映像が延々と流れていた。
「放送事故か?」 
 まあ、事故と言えば事故だ。はっきりしていたのは、NHKが、アルペン競技の決勝よりも、日本人選手の出場するスノーボードの予選を中継することを選んだということで、その結果があの映像だった。

 文句をつけてばかりで、なんだか自分ながらイヤになるのだが、この際だから胸のうちにあるつかえを一通りはき出しておく。

 私は、フィギュアスケートの浅田真央選手を応援している。
 がんばってほしいと思っている。
 が、そう考えている一方で、彼女に対して、「真央」ないしは「真央ちゃん」と、名前呼びで語りかけるカタチの放送に、いまだに慣れることができないでいる。
 あれはアスリートに対する態度ではないと思う。
 安藤美姫選手は「美姫」と表記される。あるいは「ミキティ」と呼ばれる。
 この呼び方も私は好きになれない。
 安藤選手と、普通にそう呼んでほしい。

 スポーツメディアの中では、いつの頃からなのか、女子選手に対して、名字を省略することをもって「美人選手認定」とするみたいな、異様な風潮が定着している。
 名前で呼ばれる選手は、それだけ国民に愛されていて、親しまれていて、娘のように扱われている、と、そういうことになるようなのだ。
 で、私は、このマナーどうしても好きになれない。どうしてスポーツをパパ目線で見なけりゃならんのだ? ばかばかしい。

 女子選手が名前で呼ばれるようになった最初のきっかけは、現在は参議院議員になっている橋本聖子さんのケースだったと思う。

 彼女の場合、「聖子」というその名前がそもそもキャッチーだった。
 というのも、橋本聖子選手の現役時代は、松田聖子が国民的なアイドルであった時代とほぼぴったりとシンクロしているからだ。だから、「聖子」という名前は、それだけでちょっと特別な響きを帯びていたのだ。ひばり、小百合、百恵、聖子。テレビ視聴者の耳はこういう名前に弱い。国民的。記号的。あるいはお題目みたいなものなのかもしれない。

 橋本聖子選手の名前には、有名な謂われがあって、そのエピソードが広く知られていたことも、彼女が名前で呼ばれる理由のひとつになっていた。
 その話とは、以下のようなものだ。
「橋本聖子は、東京オリンピックの直前に生まれ、《聖火》にちなんで、名付けられた。父親は、自分の娘をオリンピック選手に育てるべく、3歳の時からスケートをはじめさせ、以来スパルタ式の……」
 どこまでが真実で、どこからが脚色なのか、ほんとうのところはわからない。が、とにかく、この良くできたエピソードはメディアによって全国に広められ、そんなこんなで、「五輪の申し子」と呼ばれた橋本聖子は、冬季、夏季合わせて7回のオリンピックに出場するという前人未踏の快挙を成し遂げたのである。

 以来、「聖子」という見出しが人目を引く(あるいは部数に直結する)ことを学習したからなのか、スポーツマスコミの内部では、注目度の高い女子選手に対して、名前のみの表記を採用する習慣が定着していったのである。

 名前呼びのすべてが不自然だというわけではない。
 たとえば、卓球の福原愛選手などは、小学校に上がる以前からメディアに登場していたキャラクターで、その意味で、どこからどう見ても「愛ちゃん」だった。
 全国大会に登場した段階でも、まだ小学生だった。だから、彼女が「愛ちゃん」と呼ばれることは、別段不自然ではなかった。むしろ、小学生を「福原選手」と呼ぶことの方が、かえって白々しかったかもしれない。とにかく、以来、彼女は、「愛ちゃん」のままだ。成人式を過ぎても。
 浅田真央選手が名前で呼ばれていることも、デビューが、中学生だったことを考えれば、それはそれで納得が行く話であるのかもしれない。私がなじめないでいるというだけで。

 男子選手でも、年齢が非常に若い場合は、名前で呼ばれるケースが無いわけではない。ゴルフの石川遼選手は「遼君」と呼ばれるのが普通だし、西武ライオンズのルーキー菊池雄星選手は、登録名からして「雄星」を名乗っている。つまり、アレだ。期待されている役割が「息子」のそれなのだね。全国民の息子。若いというのはそういうことだ。
 でなくても、スター選手に理想の父親像を重ねる時代は、とっくの昔に終わっている。
 さよう。たとえば、王長島の時代のスター選手は、少年誌の表紙に子供と一緒に写ることが多かった。なんといっても彼らは、子供たちの憧れの対象だったからだ。
 が、石川遼君をはじめとする現代のアスリートは、むしろ大人の玩具になっている。だから遼君と一緒に写真におさまる面々は、財界人や政治家や有名司会者だったりする。彼のオーラは、おそらく、そういう人々にとって利用価値のあるものに見えるのだね。


 とにかく、平成ニッポンのメディアとアスリートの間には、相手を子供扱いにすることを、すなわちサービスであると受け止めるみたいな気持ちの悪いなれ合いが介在している。それが私には気持ちが悪いのである。
 オレらは、そんなに大人になりたくないのだろうか?
 トシを取るということは、それほどまでに醜いことなのか?

 ゴルフの世界では、横峰さくら、上田桃子、宮里藍といったあたり面々が、それぞれ「さくら」「桃子」「藍」と、名前で呼ばれる常連になっている。
 対照例をいくつか見比べるに、「若さ」と「美貌」と「実力」と「知名度」のすべてを兼ね備えていることが名前呼びにされる条件になっているみたいで、だから逆に名前で呼びかけることは、ある意味「一流認定」として機能しているみたいな、奇妙ななりゆきになっている。
 たとえば、実力があって美貌でも、藍ちゃんや桃子ちゃんと比べてちょっとトシの行っている古閑美保選手は、本人のキャラクターが姉御肌であるせいもあってか、「美保」とは呼ばれない。「美保ちゃん」とも。「古閑選手」あるいは単に「コガミホ」と言われる。ひとかたまりの四文字名称として。
 不動裕理選手の場合はさらにはっきりしている。メディアの人間は、ほとんど誰も「裕理ちゃん」とは呼びかけない。新聞も「不動」と書く。名前は書かない。むごいと思う。あんなに可憐なのに。

 結論を述べる。
 要は安易な後追いがいけないのだ。
 橋本聖子選手を最初に「聖子」と表記したどこかの記者は立派だった。良いところに目をつけたと思う。五輪における象徴的な選手に対していきなり名前で呼びかけるマナーは、唐突ではあったが、新鮮だったし、効果的だった。だからこそ、人目を引いたし、記事の印象度もアップしたのである。
 福原愛選手を「愛ちゃん」と呼んだリポーターも、決して間違ってはいなかった。だって、6歳の愛ちゃんはどこをどう突っついても「愛ちゃん」としか呼びかけようのない存在だったから。
 問題は、一種の禁じ手ないしは裏技であった名前呼びを、野放図に応用した後の世の追随者の安易な姿勢のうちにある。彼らは、滅多矢鱈と選手を名前で呼びはじめた。おかげで、メディアとアスリートの距離がデタラメになってしまった。さらに、視聴者とアスリートの距離感さえもがぐちゃぐちゃになった。で、一度崩壊した距離感は二度と元には戻らない。別れた夫婦は友だちには戻れない。友だちのふりをすることで一定の利得を得ることができる関係の人々は、そういう顔をしているが、無論のこと演技に過ぎない。

 スポーツメディアにおける名前呼びの蔓延は、芸能界の中に名字抜きで活動するタレントが増えたこととおそらく深いところで通底するものを持っている。「優香」「梨花」「小雪」「hitomi」「スザンヌ」。彼女たちは、画面に現れるなり、闇雲にこっちの娘(あるいは彼女?)であるかのようにふるまっている。
 これらの芸能人について、私は、やはり名前で呼びかけるべきなのだろうか。
 むずかしい。っていうか、無理だ。
「小雪が出てるCMでさ」
 と、私は、自分の日常会話の中で、こういうしゃべり方をすることはできない。あまりにも気持ちが悪すぎて。
 だから、まわりくどいようでも、私は
「ほら、《小雪》とか名乗ってる女優さんがいるだろ? その《コユキ》っていうタレントが出てるパナソニックのテレビのCM見てて思ったんだけどさ」
 と、いちいち注釈をつけて語る。だって、面識もなければ肉体関係もない赤の他人に対して、やっぱりいきなりの名前呼びはできないからだ。私は、彼女の名前が出る度に《「こゆき」と名乗ってるあの般若みたいな笑い方のタレント》と、何度でもそういうふうに言い直す。私の側の責任ではない。自業自得だ。

 おそらく、名前呼びは、人と人との間にある緊張感をなし崩しにして行こうとする勢力と無縁でない。きっと、人間関係をだらしなくすることで利益を得る一派の人々がいて、彼らは、初対面の人間同士が無原則にタメ口をきくみたいな関係に商機を見出しているのだと思う。
 でなくても、われわれは、全国民をあげて、子供であろうとしている。お互いを子供扱いにすることで、何かから逃れようとしている。そんな気がする。

 だから、いくつになっても自分たちを「女の子」と呼ぶ女性たちは、頑強に存在し続ける。
「あたしたち30代の女の子って」
 というウソみたいな自称が特にとがめ立てされることもなく通用しているオフィスでわれわれは仕事をしている。
 われわれはどうすれば良いのだ?
 要するに、女性を大人として扱うことは失礼だ、と、そういうことなのか?
 かといって、子供扱いも失礼。それはわかっている。
 ということはつまり、オレらおっさんは、彼女たちが子供でいたい時と大人として遇されたい場合を犬みたいな嗅覚で嗅ぎ分けて、いちいち適切な対処をしないといけないわけなのか?
 冗談ではない。
 私はごめんだ。
 こっちの立場を言っておく。オレは年老いた17歳だ。相手が誰であれそういうふうにふるまう。よろしくたのむ。

 昨年来流行している、「女子」「男子」という言い方にも、おそらく、こうしたピーターパンな気分があずかっている。
 われわれは、永遠のクラスルームの中で生きている。あるいは、いつまでたっても放課後の気分から離れたくないのだ。

 それでもたとえば、「弁当男子」というネーミングは、それはそれでアリだ。よくできていると思う。
 なにより、「弁当を持ってオフィスに来てしまう」という行動形態が、「男性」というより「男子」のそれを連想させるからだ。学生時代をそのまんまひきずっている生き方が、「男子」という言葉を呼び寄せた感じがして、その意味で、不自然に聞こえない。
 つまり、「既存」の「カタにハマ」った、「マッチョ」で、「体育会乗り」の、「組織オリエンテッド」で、「ネクタイストラップト」な男性社員とは一線を画する、「自分標準」の、「個人主義的」で「合理的」で、「エコ」で、「ヘルシー志向」な、若い独身社員は、やはり、「男性」というよりは「男子」と呼ぶにふさわしいのである。良い意味でも悪い意味でも。

 その点、電通が最近言い出した「パパ男子」は、完全にスベっている。
 http://www.dentsu.co.jp/news/release/2009/pdf/2009093-1222.pdf

 電通ともあろうものが、他人の作った流行に乗っかって、しかも見事に踏み外している。恥ずかしいことこの上ない。
 「パパ男子」が、育児に積極的な父親を称揚せんと意図した言葉なのだとしたら、明らかに失敗している。
 だって、揶揄している感じが漂っているから。
「男のくせに赤ん坊の相手なんかして」
「大の男がオムツ替えかよ(笑)」
 という、どうにも前近代なオヤジの笑い声が鳴り響いてくる。
 子育てに積極的な男性に対して、本当に賞賛する気持ちがあるのなら、もっと別の名前になったはずだ。
「パパ男子」という名称からは、商売に利用せんとする下心がうかがえるのみ。
 ひどいセンスだ。

 テレビ局がセンスのないキャッチフレーズを付けるのは、これはある程度仕方のないことだ。彼らはテレビ視聴者と同じ目線で番組を作っている人々なわけで、してみると、あんまりハイセンスであってもかえって困ったことになるのだろうから。
 でも、電通が野暮であってはいけない。
 だって、電通は日本の頭脳が集まる会社なのだと、私などは、ある時期まで本気でそう考えていたのだから。
 誤解だったのかもしれない。
 でも、だとしても、私の知っている電通は「パパ男子」などというダサいキャッチフレーズを考えて、それをまた得意げにふりまわすテの会社ではなかった。
 仮に何らかの流行を仕掛けるとか、トレンドを創造するとか、そういうことをたくらんだ場合でも、電通の皆さんは、自分が表に出てタクトを振り回す人々ではなかったはずだ。
 裏方に徹して、もっとエレガントに、それでいて効果的なカタチで世論をリードしていたはずだ。
 もしかして、電通をはじめとする、メディア企業は、ずいぶん前から、ダメな人たちの巣窟になっていて、オリンピックの中継がおかしくなってきているのは、そのせいなのかもしれない。

 バンクーバーでは、メダルの数より、大人らしい放送に期待したいですね。ぜひ。

 

おそまつでした。ではでは。

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2020/07/13

「いじめ自慢」という病理

 ツイッターで小学生の集団の粗暴さに言及したところ、早速
「幼少期に壮絶ないじめ体験でもあるのかw」
「小田嶋はいじめられっこだったのだなw」
 という主旨の嘲笑のリプがやってきた。

 なるほど。
 この国のネット社会の基調低音は永遠に変わらない。
 日本のホモソーシャルでは、他人のいじめ被害体験を「恥辱」「黒歴史」として揶揄嘲笑のネタにする一方で、いじめ加害体験については「武勇伝」(←スクールカースト上位者であったことの証明としてやんわりと自慢する文脈で語られるということ)として開陳されることになっている。

 実にうんざりさせられる展開だ。

 この件(いじめ被害が「恥」であり、いじめ加害が「勲章」である日本のクソガキ社会の永続性)については、以前「日経ビジネスオンライン」の連載(ア・ピース・オブ警句)の中でわりと詳しい原稿を書いた。
 で、自分の中では、一応の結論を提示したつもりでいる。
 ところが、残念なことに、当該の文章はすでにリンク切れになっている。
 とても残念だ。ちなみに、執筆日時は、タイムスタンプによれば、2015年の8月6日ということになっている。たぶん、その翌日ぐらいに掲載されたものと思われる。

 ともあれ、dropbox内の旧原稿フォルダに残っていたをそのまま掲載する。
 細かい表記など、連載コラムコーナーに掲載した分とは多少違っているかもしない。
 どうか、細かい点は気にせずに、うんざりしながら読んでいただきたい。

 

いじめ自慢

 いじめの話題は扱いにくい。このことは、原稿を書いて読み返す度に、いつも思い知らされる。
 理由は「いじめ」という単語にやっかいな多義性が宿っているからだと思う。
 いじめは、辞書的な意味では、「自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること」(大辞林)ぐらいになる。
 私たちが「いじめ」という言葉に抱くイメージは、もう少し複雑だ。
 というよりも、いじめ被害者(またはその経験者)と、いじめ加害者(および傍観者)では、同じ言葉を通して思い浮かべる景色がかなり違っている。だから、この言葉を痛みを伴った感情とともに思い浮かべる人々と、そうでない人々の間では、話が噛み合わない。

 実例を見てみよう。
 紹介するのは、自民党選出の参議委員議員中川雅治氏の公式ホームページに掲載されていた文章だ。
 「掲載されていた」と、過去形を使ったのは、当該のホームページが既に消滅しているからだ。
 ホームページの中の「教育鼎談」と題されたコンテンツがネット上で話題になって、批判が集中した結果、議員はホームページを削除した。そういう経緯だ。
 以下に引用するのは、私が個人的に自分のEvernoteにクリップした(←「これは消すだろうな」と思ったので保存しておきました)部分からコピペしたものだ。
 全文を読みたい人は、「中川雅治 教育鼎談 魚拓」ぐらいのキーワードで検索をかけると、ウェブ上のキャッシュ保存サービスのURLにたどり着くかもしれない。もごもご。

 「教育鼎談」は、当該ホームページの管理者である中川雅治参議院議員(東京都選挙区選出)と、義家弘介衆議院議員(神奈川16区選出)ならびに橋本聖子参議院議員(比例区選出)の3人が、「いじめ問題」を中心に、それぞれその思うところを語ったコーナーだ。
 ちなみに義家弘介氏は、第一次安倍内閣で教育再生会議委員をつとめたほか、第二次安倍内閣では文部科学省政務次官を歴任し、いじめや非行問題に取り組む政治家として名高い。橋本聖子も文教科学委員会に所属し、財団法人日本スケート連盟会長および財団法人日本自転車競技連盟会長を兼任している。いずれも教育には一家言を持っていると見なされている政治家である。

 まず、中川議員が
《■中川  私の中学時代は男子校でしたが、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、ちょっと小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました。脱がされた子は素っ裸で走って服を取りに行くんです。当時、テレビでベンケーシーという外科医のドラマがはやっていました。ベンケーシーごっこと称して、同級生を脱がして、皆でお腹やおちんちんに赤いマジックで落書きしたりしました。やられた方は怒っていましたが、回りはこれをいじめだと思っていませんでしたね。今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。いじめられている方も弱くなっているという側面はありませんか。》
 と、自分の体験談を語り出す。
 一読して、その内容の残酷さに驚愕させられるわけなのだが、ご本人はどうやら、自分の過去の行状を、さして深刻な加害行為であるとは認識しておられない。
「やられた方は怒っていましたが、回りはこれをいじめだとは思っていませんでした」
 という部分も見ても、「いじめ」の自覚の希薄さは明らかなのだが、なにより、国会議員たるものが、選挙区の有権者はもとより日本中の国民が閲覧可能な本人名の公式ホームページの中で堂々といじめ加害体験を開陳していることが、罪の意識の欠如を物語っている。
 しかも、言うに言うに事欠いて
「今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。いじめられている方も弱くなっているという側面はありませんか。」
 である。明らかな暴力行為でありセクシャルハラスメントであり集団暴行であるご自身の行為の責任を、被害者の弱さに帰着させてしまうこの魔法のような論理は、いったい議員の大脳のどの部分から発想されたものなのであろうか。

 さて、この発言を受けた鼎談相手のお二人は、いともあっさりと議員のエピソードをスルーしてしまう。

《■橋本 いや、今のいじめはもっと陰湿だと思いますよ。いくつかの実例を私も知っていますが。

■義家 その通りです。「死ね死ね死ね…」と100回も来たメールを生徒に見せられたことがありますが、背筋が寒くなりました。しかも相手が特定できません。あまりにも陰湿なのです。教育がここまで来ちゃったのか、という感じです。
いじめられた子どもは、良い子ほど親には言えません。心配をかけたくないと最後まで我慢します。》

 無論、死ね死ねメールもまた、残酷ないじめの典型例ではある。
 でも、死ね死ねメールが「陰湿」で、「おちんちんに落書き」が「陰湿でない」ということにはならないと思う。
 いずれがより悪質であるのかを判定するのは簡単なことではないが、とにかく、双方のケースが、ともに極めて凶悪な蛮行であることは誰の目にも明らかだ。

 注目してほしいのは、鼎談の中で繰り返されている「陰湿」というキーワードだ。
 子供の世界で繰り広げられるいじめが話題になる度に、必ずと言って良いほどこの「陰湿」という形容辞が登場する。
 実際、「陰湿」と「いじめ」という二つの言葉は、事実上、ひとつのセットになっている。
 なので、メディアに登場する「陰湿ないじめ」という決まり文句を見続けているうちに、いつしか私は
「もしかして、『陰湿ないじめ』の対偶として『おおらかないじめ』みたいなものが想定されているわけなのか?」
 と思うようになった。
 で、どうやら、それ(←おおらかで明るい健康的ないじめ)は、想定されている。

 「陰湿ないじめ」というひとまとまりの用語は、あるタイプの論者が「体罰」について語る時に使う「行き過ぎた体罰」というのと似ている。
 この鼎談の中にの登場する義家議員は、以前、体罰について、
「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」
 というコメントを漏らしたことがある。この件については、以前当欄でも触れている。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130117/242405/
 義家氏は、大阪の県立高校で起きた顧問教諭による体罰事件について
「体罰ではなく暴力」
 と論評し、さらに
「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」
 と述べている。
 つまり、この人の認識の中では、「適正にコントロールされた体罰は暴力ではなく、懲戒という教育行為」 なのである。

 いじめについても同様で、おそらく、義家議員の判断の中では、「陰湿ないじめ」は、なんとしても阻止しなければならないし、全力をあげて根絶せねばならない。が、「おおらかないじめ」や「邪気のないいじめ」については、子供たちの伸び伸びとした成長を妨げないためにも、寛大な対応が求められる、ぐらいに思っている。たぶん。
 あるタイプのいじめ根絶論者が、「いじめ」という言葉に、必ず「陰湿」という但し書きをつけたがるのは、彼が、いじめそのものを裁いたり排除したり根絶しようとしているのではなくて、「陰湿ないじめ」という、いじめの中の、特別に悪質な一部分を問題視することで、一般のいじめを免罪しようとしているからだ。
 もっといえば、一部の「陰湿ないじめ」根絶論者の脳内には
「おおらかで明るい腕白でやんちゃな成長期の男児の、旺盛な生命力の発露としてのいじめは、一種の成長痛として大目に見るべきで、そういう、あり得べき粗暴さを抑圧するのはむしろ男の子からたくましさを奪うことになるぞ」
 ぐらいなマッチョ思想が息づいている。

 実際、私が、当件について、
《この人たちは、いじめる側の子供たちが、明るく開放的な気持ちでいじめている限りにおいてそれは「陰湿ないじめ」ではない、というふうに考えているようですね。 http://www.nakagawa-masaharu.jp/education/education03.html …》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628765592439296001
《いじめは、いじめる側の人間にとっては、ストレスの発散であり絆の確認であり娯楽だ。さらにはユーモアの表現でもあれば創造性の発露ですらある。決して「陰湿」な行為ではない。動機において陰湿ないじめはむしろ珍しい。そういう意味で「陰湿ないじめはダメ」という言い方は歯止めにならない。》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628768874339524608
《個人に対する集団の優越ないしは少数者に対する多数者の優越を端的に模式化したゲームである「いじめ」が蔓延する学校という空間の中で、常にいじめる側に立つことのできる能力がおそらく政治力と呼ばれているものの正体なわけで、だとすれば、政治家がいじめを自慢するのは当然のなりゆきですね。》
https://twitter.com/tako_ashi/status/628777969268293632

 と、いくつかの感想ツイートを投稿したところ、
「昔はガキ大将がいました」
「最近の子のいじめは……」
 というタイプの反論が早速いくつか寄せられた。

 なんというのか、その種の、「昔の」「男らしい」「無邪気な」「他愛の無い」いじめを擁護しようとする人たちは、
「昔のガキ大将のいじめは、粗暴ではあったけど、限度を知っていたし、なにより悪意がなかった」
「オレらの頃のいじめはもっと良い意味で子供っぽかったよなあ」
「男の子なんだし、そりゃ多少ぶつかることもあるし、勢いあまってタンコブができるぐらいのことは日常茶飯事だけど。昭和の子供はさっぱりしてたからなあ」
 ってな調子のファンタジーをなんとかして防衛したいと願っている。
 というのも、彼らにとっての少年時代は「徒党」や「友情」や「近所の子供との縄張り争い」や、「探検隊」や「ガキ大将」とともにある、半ば伝説化した冒険物語であり、そうした架空のスーパー少年を主人公として思い出される「悪行」や「秘密の誓い」や「共通の思い出としての愚行」には、「いじめ」(もちろん加害だが)のエピソードが不可欠だからだ。

 中山議員のいじめ加害カミングアウト鼎談ページが話題になってすぐ、同じ自民党の熊田裕通議員という衆議院議員(愛知1区選出)が、自身の公式サイトの中で展開しているいじめ告白が炎上した。

 これも既に削除されている。
 なので、私の個人所有のEvernote(秒速保存しました)から引用する。

 いじめ告白が掲載されていたのは、「議員への道」と題されたご自身の経歴紹介ページで、その中の《超元気! 悪ガキ「ガクラン」時代》と小見出しの付けられた高校時代の生活を紹介した部分だ。

《今では想像もつかない(?)と思いますが、中学・高校の時は決していい子じゃない、というかやんちゃな悪ガキでした。母は何度も学校に呼び出され、時には涙を流していました。「お宅はどういう教育をしとるんだ」と、担任に厳しく言われていたそうです。
先生とイタチゴッコをするのが楽しみで、グループでいつもワアワアやってました。そう、こんなことがありました。ある時、産休補助でみえた若い女性教師が生意気だということになって、いつかギャフンと言わせようと仲間とチャンスをうかがっていたんです。
放課後、先生がトイレ掃除の点検にやってきました。好機到来です。中に入ったところで外からドアを押さえて閉じ込めたんです。そして、天窓を開け、用意していた爆竹を次々に投げ込んだんですよ。はじめは「開けなさい」と命令していた先生も、そのうち「開けてください」とお願い調になり、最後は涙声で「開けて〜」と絶叫調に変わってきた。「やった〜」と快感でしたね。》

 まるっきり「武勇伝」の文脈である。
 中山議員の場合と同様、ご本人に罪の意識は無い。
 むしろ、「男の子なら、これぐらい元気があって当然だよね」と、共感を求める気分が横溢している。

 ごらんのとおり、「いじめ」は、加害者にとっては「武勇伝」であり「良き思い出」なのであって、多少は反省しているにしても「やんちゃなオレ少年の腕白脱線エピソード(テヘペロ)」ぐらいの路線から外に出ることは無い。のみならず、行間には、
「ねえねえ反省してるオレをほめて」
「正直に告白してるオレの無邪気さってどう?」
 みたいな、どうにも甘ったれた幼児退行が漏れ出してしまっている。

 当然のことながら、いじめ告白を開陳している彼らは、「いじめた子供」である自分たちの方が「いじめられていた子供」である無名の脇役(誰だっけ? ぐらいにしか思っていない)より、はるかに優秀で、友だちが多くて、強くて、要領が良くて、魅力的であることを疑っていない。
 だから、いじめられたことは「恥」でも、いじめたことは「恥」だとは思っていない。むしろ、「勲章」ぐらいに思っている。だって、いじめる側に回っているってことは、スクールカースト上位者だったということの証明であって、すなわちそれは、社会的強者ってことだろ?……と、そういう意識の人たちが、教育行政にたずさわり、いじめ対策を考え、教育現場に口出しをしているわけだ。

 参考までに、2008年に書いた「やんちゃ」ということについての原稿をブログに転載したのでリンクを張っておく。
http://takoashi.air-nifty.com/diary/2015/08/post-4124.html
 「やんちゃ」という言葉と「ドS」という言葉がテレビで使われはじめた頃の原稿で、私は、もう7年も前になるその当時、テレビの中で展開されているいじめが、画面の外に流出することに対して、イヤな予感のようなものを感じている。

 結局、あの時のいやな予感は的中していたようで、2015年の日本の少なくとも永田町界隈は「いじめ告白」が「勝利宣言」として流通するデスロードじみた場所に変貌してしまっている。
 現在の永田町の姿は、かなり高い確率で、10年後の子供たちの教室の姿にコピペされることになる。
 おそらく、この先、事実上の「いじめ対策」は、「自分の子供がいじめられないためのライフハック」みたいなせちがらい地点に落着していくことになる。
 私も、そろそろ、その種の原稿の書き方について勉強をはじめるべきなのかもしれない。

 

 以上です。おそまつさまでした。

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2020/06/13

チコちゃんに叱られろ!

 Twitterのタイムラインで話題になっている(っていうか、オダジマが無理やり話題にしているわけですが)「男の部屋に上がりこんだ女性の処遇」について、昔原稿を書いたことを思い出したので、アップしておくことにします。
「日経ビジネスオンライン」で連載中の「ア・ピース・オブ警句」のコーナーのために、2010年の7月に書いた原稿です。
 残念なことに、「ア・ピース・オブ警句」では、2015年以前に書いたコラムは、リンク切れになっていて、アクセスできません。
 なので、こうしてブログにでもアップするほかに読者の皆さんに読んでいただく方法がないのですね。悲しいことです。
 なお、掲載時には「千原J」「K兄」と表記していた個人名を、「千原ジュニア」「キム兄こと木村祐一」と、モロな形に書き改めました。
  タイトルは、さっき思いついたものに付け替えました。腐れヤンキー芸人の皆さんには、「もう少しボーっと生きてみろよ」と言うメッセージをお伝えしたいと思っています。
 それでは、ごらんください。

 

 サッカー日本代表は、決勝トーナメントに駒を進めた。
 よく頑張ったと思う。
 対パラグアイ戦は、延長を闘ってスコアレスドロー。PK戦で敗退した。
 残念な結果だ。
 退屈なゲームだったという声もある。今大会最大の凡戦であると。
 たしかに、傍観者には退屈な試合であったことだろう。少なくとも、スペクタクルな展開ではなかった。
 でも、私は、退屈しなかった。
 当事者だからだ。
 私の内部にはずっと見守ってきた4年間の蓄積がある。退屈している余裕なんかない。ボールがペナルティーエリアに近づくだけで心は千々に乱れた。あたりまえじゃないか。
「おい」
 私はほとんど叫んでいた。
「リスクをおそれるなあ」
 と。
 それゆえ、試合が終わってみると、体中が硬直していた。
 翌日は、節々が痛んだ。
 でも、選手を責める気持ちにはなれない。甘いという人もあるだろうが、ファンはコーチではない。教師でも軍曹でもない。われわれは選手の祖母だ。心配して、応援して、勝てば有頂天になる。もちろん、負けるとがっかりする。でも、選手を責めたりはしない。万が一非行化したのだとしても、それは悪い友達のせいだと考える。
 3連敗の予想を掲げたことについて、あらためて陳謝したい。
 原稿を書く人間も、いくぶんかはリスクを負わないといけない。
 選手や監督にリスクを冒すことを求めておいて、自分がノーリスクでものを書いていてはいけない。
 無論、サムライでないわれわれは、腹を切ることはできない。
 でも、せめて農民らしく、土下座をしよう。カム土下座、ライトナウ、オーバーミー。
 

 今回は、リスクについて考えてみたい。
 発言のリスク。ツイッターのリスク。ブログのリスク。
 21世紀は、リスクの世紀だ。ブロードバンド化したリスク。ユビキタスなリスク。双方向なリスク。誰も無事なままではいられない。
 あらゆる情報が磁気記録され、電波発信され、光ケーブルを通じて全世界に頒布されるようになって以来、ちょっとした不規則発言が墓穴を掘る可能性は爆発的に高まった。一家に一台戦車が備えられている世界は、大変に心強い世界でもあるが、同時に非常にリスキーな世界でもある。

 われわれライターも、インターネット以前は、気楽な立場にいた。
 あっちの週刊誌に書いた原稿とこっちの月刊誌に書いた記事の間に矛盾があっても、気がつく読者は少なかった。
 気づいたとしても、その鋭敏な読者は、発言する媒体を持っておらず、それゆえ大事に至ることもなかった。
「オダジマは先月号とまったく逆のことを書いてるぞ」
 と、編集部にハガキを送ってくる読者もいなかったわけではないが、そういうハガキが誌面で紹介されることはまず無かった。よほど編集部に嫌われていない限りは。
「こんなハガキが来てましたよ」
 と、あえて知らせてくれる親切(なのか?)な編集者もいたが、多くの場合、賢明な読者の声は静かに黙殺された。
 平和な時代だった。

 ところが、インターネットが粘着質の一般人に発言の場を提供するようになると、ライターの偽予言や批評家の変節は、見逃されにくくなった。
「あいつも終わりだな」
「うん。完全に賞味期限が切れてる」
「むしろ冷蔵庫のニオイがする」
 と、匿名巨大掲示板には今日も無慈悲なコメントが並んでいる。これはもうどうしようもない。

 テレビも無事では済まない。
 なにしろYouTubeがある。ニコニコ動画もある。
 と、生放送中のちょっとした問題発言は、昔みたいに、忘れてもらいにくくなる。
 何度もリピートされ、リツイートされ、再アップされ、炎上し、火は時に番組を焼き尽くす。

 つい先日も、思わぬものを見た。とあるテレビ番組内で、某タレントが述べていた奇態な発言だ。

 といっても、私は、その番組をナマで視聴していたわけではない。あるブログで触れられているのを見て、気になってYouTubeで内容を確認したカタチだ。最近は、こういう経緯でテレビを見ることが多い。見たと言えるのかどうか。

 昔なら、知らないままで過ぎ去っていたはずだ。
 視聴習慣の外にある番組だからだ。
 でなくても、ただでさえW杯のせいで目玉が疲れている今日この頃だ。サッカー以外の番組のために眼球を酷使したくない。

 発言の内容は、ざっとこんな感じ。ディテールが気になる人は、YouTubeを当たってみてほしい。消されていなければまだ残っているはず。炎上して燃え尽きていなければ。

・番組はフジテレビ系列で6月26日に放送された「人志松本のすべらない話」。そこで紹介されたエピソードのひとつ。
・話し手は千原ジュニアという吉本興行所属の芸人(以下単に「J」と表記)。
・話題は先輩芸人であるキム兄こと木村祐一(以下、単に「K」と表記)の行状。
・Jは「もう十数年前の話」「時効みたいなこと」と、事前に「時効」である旨を強調。
・ある夜、KとJは女性を含めて食事をしていた。
・一行は、「ええ感じになって」Kが当時一人暮らしをしていたマンションに行くことになった。
・「お互い大人ですから」「深夜の一時二時に部屋にあがるワケですから」と、JおよびKはそう判断していた。
・ところが、いざとなると女性は「そんなつもりで来たんじゃない」と言い出す。
・「それ以外何があるんですか?」と、Jはスタジオの人々に向けて訴える。笑いが起こる。
・「これは、K兄切れるでぇ」と思って見ていると、果たしてKは「鬼の形相を通り越して素の顔になって」冷凍庫から何かを取り出している。
・取り出したのは「カッチカチに凍った鶏肉のカタマリ」。
・Kは「これはいらんトリニクやから捨てるだけやで」と言いながら、玄関でハイヒールを履こうとしている女の子の足元に向かって冷凍肉を投げつける。
・肉は、玄関で「コココココーン」と跳ね返る。女の子は焦ってなかなかハイヒールを履けない。ここで、スタジオは爆笑。芸人仲間も、ゲストの女優さんたちも。
・やっとのことでハイヒールを履いた女。エレベーターホールでエレベーターを待つ。Kは追いかけてさらに鶏肉を投げる。カンカンカーンと、エレベーターホールを肉が走る。スタジオ爆笑。
・エレベーターを諦めた女はおびえきって階段を降りる。が、そこにも鶏肉が投じられる。コココーン。コーンコーン。鶏肉がハイヒールを追いかける。スタジオはさらに大爆笑。芸人仲間は両手を大きく叩きながら大笑い。女優さんはハンカチで涙を拭きつつ笑う。

 ……いったいこの話のどこが面白くて彼らはあんなに笑っていたのだろうか。
 それがわからない。

1. 「そんなつもりで来たのではない」という女性に非があるのだとすれば、あまりにも無警戒だったところだろう。軽率だったかもしれないし、世間知らずでもあった。若い女性が、深夜に男が一人住まいをしている家に上がり込むということには、たしかにそれなりの意味がある。慎重に考えなければならない。
2. とはいえ、上がりこんだ判断が軽率であったにしても、意に染まぬ行為を拒否する権利は当然、女性の側には残されている。どんな場合であれ。夫婦の間であってさえ。
3. 第一、男二人に女一人という状況で、どういう行為が想定できたというのだ?
4. 百歩譲って、男が感情を害した点は理解してさしあげるとして、だ。
5. でも、だからって、女性はコールドターキーをスローイングされるにふさわしい暴挙を働いたというのか?

 私は道徳の話をしているのではない。
 そもそも芸人がテレビで話している話だ。
 誇張があるのかもしれないし、まったくのつくり話であった可能性だってある。
 もっともつくり話なのだとしたらだとしたらそれはそれで別の問題が持ち上がるわけだが。
 ともかく、私がここで言いたいのは、「K兄」の行動の是非についてではない。
 ぜひ問いただしたいのは、この話がゴールデンでイケると考えた判断の根拠だ。
 これが「笑える」と考えたセンスも、大いに疑問だ。
 だって、普通の視聴者が普通に聞いて、単に不快なだけのエピソードだからだ。

 おそらく、笑いのポイントは、件の女性が「あわてふためいて、うまくハイヒールがはけなくなっている様子」の描写と、乾いた床を滑る硬い冷凍肉の擬音なのであろう。

 でも笑えないな。
 毛ほども。
 つまり、この話で笑っていたゲストの女優さんたちの感覚もやはりどうかしていたということだ。
 彼女たちは、笑わざるを得なかったのだろうか。
 それほど、スタジオの空気には強圧的な何かがあったということなのか?
 あるいは、女優さんの笑いは、ほかの場所での笑いを編集で挿入した形の映像だったのだろうか。
 だとしたら、それもまた別の意味で問題ではある。真相はわからないが。

 一番不思議なのは、この話を「オンエア可能」とした放送局の人間の判断だ。
 こんなものがOKだと、本当にテレビの中の人はそう考えたのだろうか?
 だって、時効ではあっても、レイプまがいの、傷害未遂ですぜ。それを武勇伝みたいに話して、おまけにそのムゴい話で笑いを取ろうとしている。こんなものをゴールデンで流して無事で済むと、彼らは本当にそう思っていたのだろうか。

 関西の芸人集団の中には、お笑いが色物興行であった時代から脈々と受け継がれてきた粗野なマッチョイズムがある。語り口には露悪が含まれてもいる。それゆえ、その彼らの武勇伝を額面通りに受け止めるのは賢明な態度ではない。
 やんちゃ、ハチャメチャ、奇行、泥酔、暴力……芸人の世界には、そうした典型的な逸脱を、「男の甲斐性」「芸の肥やし」として美化する風土がある。しかも、彼らの中では、「女をモノとして扱う」ことが「男らしさ」のひとつの証明になっていたりする。ミソジニー。女性嫌悪。あるいは単なるセックス自慢だろうか。ま、幼稚なヤンキー趣味ですよ。どっちみち。

 芸人同士が仲間内の楽屋話として笑い合っている限りにおいて、それがどんなに鬼畜なエピソードであっても、私はあえて問題視しようとは思わない。
 芸人でなくても男同士の内輪話には、粗暴さを強調する傾向が抜きがたく存在している。
 そこいらへんのスナックで語られている「面白い話」には、猥談要素が少なからぬ度合いで含まれているものだし、「高校の時に隣のクラスにいたあきれた乱暴者の話」や、「ラグビー部の連中が合宿所の周辺で酔った挙句にやらかした愚行の数々」みたいな挿話に至っては、ほとんど犯罪自慢でさえある。誇張があるにしても。

 だから問題は、鶏肉が滑った話の真偽や内容ではない。
 この話をゴールデンのテレビで流したことの影響だ。 

 こういう話をすると、
「いい人ぶっている」
「いよっ! 聖人君子」
「笑いのわからないやつ」
 みたいな反応をする人々が必ず出てくる。
 あるいは
「お前は、人のことを言えるのか? これまで生きてきた中で、法律に違反したことが一度もないのか?」 
 といった言い方で、問い詰めてくる向きもあるはずだ。

 一応、マジレスをしておく。
 私は聖人君子ではない。
 常に間違いなく制限速度以内で国道を走っているかどうかについて、私は明言しない。
 メディアを通して発言する立場の人間にとって大切なのは、何をしたかではない。何を言ったかだ。
「関越で180キロ出したぞ」
 と、ブログに書くのは、愚かであるのみならず、反社会的な行為になる。
 テレビでそれを言うに至っては、言語道断。蛮行と申し上げて良い。

 この番組が醸していた違和感のポイントは、視聴者の側から見て、「部屋にあげた女は、好きなようにして良いんだぜ」という話者の立場を、スタジオの全員が是認しているように見えたところにある。
 致命的な空気だと思う。
「女の子が男の部屋に上がるってことは、私を自由にしてくださいちゅうことやで」
 という、このどうにもヤンキーな判断は、あるいは、彼ら関西の芸人の世界では常識であるのかもしれない。
 しかしながら、平日のゴールデンタイムの全国ネットにおいては、その限りではない。
 
 その意味で、当日、スタジオに集まっていた芸人は、皆、異常だったと申し上げねばならない。
 ああいうもので笑えてしまうほどに彼らは狂っていた。。
 結局、お笑いブームが行き着いた到達点のひとつが、この日のこの武勇伝だったということだ。
 誰かを「笑いもの」にすることで生じる笑い。生身の人間があわてていたり、おびえていたり、悲鳴をあげている様子を観察して、それを笑いに転化する手続きを「芸」と呼ぶことでまわっている異様な世界。
 不愉快な話だ。
 誰かをひどい目に遭わせること。おびえさせること。あわてさせ、悲鳴をあげさせ、挙動不審に陥らせること——こういう状況を招来する力を、彼らは「笑いの能力」であるというふうに認定している。
 つまり、暴力の周辺に生じる奇妙な人間の姿を彼らは笑っているわけだ。

 笑いは、権力に対抗する有力な手段だと、大学の教室ではいまだにそういうお話がまかり通っているのだろうか。
 もちろん、そういう場合もあるだろう。
 巨大な権力に圧倒されていた古い時代の民衆は、表立った抵抗を断念する代わりに、笑いで抗議の意を昇華していたのかもしれない。

 でも、笑いが権力に対抗できるのは、それ自体が権力だからだ。
 というよりも、笑いは、多くの場合、権力を媒介している。そういうものなのだ。
 われわれが笑う時、その笑顔は力を持っている者に向けられている。営業部長が何かを言うと営業部の全員が笑う。得意先の重役が軽口を叩くと、テーブルのこっち側にいるわが社のすべての人間が大きな声をあげて笑う。そういふうに、笑いは、強い者から弱い者に向けて強要され、目下の者から目上の者に向けて奏上されている。
 だから、そういう権力の通り道で誰かが本当のジョークを言うと、全員の顔がこわばる。
 本当に面白い話を聞いた時、権力的な場所にいる人間の表情はむしろ固まる。なぜなら、そこで笑うと、反抗の意図が明らかになってしまうからだ。

 お笑いブームが行き着いた到達点も結局は権力の誇示だった。
 コネクションと強要と上下関係と立場。それらを円滑化するためのベトベトした潤滑油みたいな不潔な笑い。
 芸による笑いは、生産性が低い。だから、現場では忌避される。手間がかかる割に、成果があがりにくいから。
 かくして笑いの現場は、笑い者生産事業にシフトして行く。笑い者にされる笑われ者の悲喜劇。笑わせる人間よりも笑われる人間を重用するスタジオの生産管理思想。いや、これは笑い事ではない。
 大物芸人の名前が冠としてタイトルに付加されている番組では、特にその傾向が強い。
 誰もが紳助の顔色をうかがっている。
 出演者の全員が、松本に向けてしゃべっている。
 そして、ボスが何かを言うと、全員が笑う。まるでワンマン企業の哀れな下っ端社員みたいに。たいして面白くもないのに。シンバルを叩く猿のおもちゃみたいに誰もが同じリズムで両手を叩きながら笑うのだ。
 だから私は、この手の番組を見ない。
 出演者が視聴者の方を向いていないからだ。
 誰かが誰かにおべっかを使う姿を見て時間をつぶさなければならないほど、オレが寂しい暮らしをしていると思うのか?
 冗談じゃない。
 お追従笑いがいやで会社をやめたのに、どうしてテレビでそれを見なければならんのだ?
 
 テレビの中の人たちが、笑う時に一斉に両手で手拍子を打つようになったのは、21世紀にはいってからのことだ。
 私は、このことについて、2003年の6月に「読売weekly」という雑誌の中で以下のような話を書いている。
1. その昔、笑う時に大げさに両手を叩く仕草は、高田文夫師匠の専売特許だった。なればこそ、その独特な笑い方には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村邦洋のモノマネのネタになっていた。
2. 「バウバウ」の本来の意味は、「タケちゃん、それ最高。もう絶対に笑えるよ」という、放送作家らしいヨイショにあった。現場の盛り上げ役。一人大観衆パフォーマンス。
3. ところが「バウバウ」は、さんまをはじめとするお笑い界のオピニオンリーダーが追随するにおよんで、ある時期から「ここが笑いどころだよ」というディレクティングを含むようになる。
4. さらに、21世紀に入ると、「バウバウ」に対して「バウバウ」を返すという、コール&レスポンスの関係が取り結ばれる。意味は、「な、面白いだろ? この話→」「←はい、もう最高ッス」という一種の強要関係。ヤバイぞ。

 で、この記事を書いてから3年後、2006年の4月に、続報を書いている。事態がより悪化していたからだ。

5. 「バウバウ」は、もはやNHKをはじめとするあらゆるスタジオを席巻している。
6. 意味は、強要を超えて「同調圧力」に昇格している。「はい、私乗り遅れてませんから」という意味を込めて、人々は必死でバウリングを励行している。
7. ついでに申し上げるなら「バウバウ」は、空気に乗れていない人間をあぶり出す「踏み絵」の役割りを担うようにさえなっているかに見える。
8. ここにおいて、笑いは解放の契機であることをやめて、明らかな強制となってわれわれの上にのしかかってきている。なんという窮屈さ。
9. しかも「バウバウ」は、スタジオから飛び出して、オレら一般人の仕草の中にも蔓延しはじめている。午後のファミレスを覗いてみろよ。バウバウやってる主婦だらけだぞ。

 芸人は原点に帰るべき時期にきている。
 北野たけし登場以前の、色物として蔑まれ、半端者として疎んじられ、賤業として爪弾きにされていた時代の、芸能人から能を除けた存在としての芸人の原点に立ち返れば、彼らの勘違いも多少は改まるはずだ。
 そのためには、まず、客が上に立たないと行けない。
 良い芸には、ご褒美を投げる。
 たとえばチキン・ナゲットとかを。
 滑った芸には?
 凍った鶏肉(コールド・ターキー)がふさわしいと思う。
 

以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。
ではまたいつか。

 

 

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バウの起源

さきほど公開した「バウバウの蔓延について」という2006年執筆/公開のテキストの中で「昔書いた原稿」として言及していたテキストが発掘されたので、ついでのことに公開しておきます。タイムスタンプは2003年6月3日なのですが、どの媒体に書いた原稿であったのかは、定かではありません。

 

 バラエティー番組の出演者たちが、笑う時に、目の前で「バンバン」と、両手を合わせる仕草をするようになったのは、いつの頃からだろう。しかも、全員打ち揃って、誰もが同じリズムで。
 いや、この仕草が昔からあったことは知っている。たけしと一緒にテレビに出る時の高田文男がこの笑い方をすることを、松村邦洋がネタ(「バウバウ」と呼んでいた)にしていたことも承知している。しかし、ということはつまりこの高田文男師匠の「バウバウ笑い」は、少なくとも五年前には、松村がネタにしたぐらいに独特な所作だったということだ。
 それが、いつしかお笑いの人々の間に伝播し、そうこうするうちに、日々、普及、拡大、蔓延、変質して現在に至っているわけだ。ふむ。
 とはいえ、当初、本番中にバウバウ笑いを実演する人間は限られていた。というのも、テレビの画面の中で発動されるバウバウは、一種「仕切り」を含む動作であって、その意味で、高田文男なり、さんまなりといった、自他共に認める「笑いのオピニオンリーダー」だけに許された特権だったからだ。
 発生当時のバウバウには、「ほら、ここ、笑うところだぞ」と、スタジオ内の人間に笑いのツボをディレクティングする意味が含まれていた。フロアディレクターが手に持った台本を回す仕草にも共通したコンダクターの意図のようなものが、だ。
 ところが、しばらくすると、バウバウの受け手が、バウバウを返すようになる。具体的に言うと、司会者の「バウバウ」(→な、面白いだろ? この話)を受けた出演者たちが、「バウバウ」(→はははは、もう最高っ!)と言った感じで大げさに笑うようになったわけだ。
 なるほど、バウバウは業界をひとまわりするうちに、発明者の高田文男が使っていた幇間芸として意味(「たけちゃん、最高。それメッチャ笑えるよ」)を取り戻したわけだ。が、それはそれで良い。問題は、テレビ画面上で展開される同時多発バウバウの絵ヅラが、どうにも脅迫的だというその一点にある。
 歌番組でも、トーク番組でも、スタジオの中で3人ぐらいが同時にバウバウを始めたが最後、その場の空気はバウバウに席巻される。非お笑い系の出演者も、アガっていて雰囲気に溶け込めないタレントさんも、とにかく周囲に合わせてバウバウをやるようになる……と、ここにおいてバウバウは、さらに新しい、そして最終的な、しかもどうにも島国的な意味——「私、乗り遅れてませんから、はい」という、追随、服従、横並び、後追い、右へ倣え、長い物には巻かれろ、の意味——を獲得するに至る。
 もちろん、屈従のバウバウは、別の角度から見れば、権力側から発せられた「村八分がイヤなら笑えよ」という、脅迫的バウリングの結果でもある。
 ともあれ、バウバウが始まった瞬間に、無批判なお追従笑いと付和雷同の空気の中で、トークは死ぬ。
 たとえばの話、久本雅美みたいなダミ声の折伏パーソナリティーに、真横でバウバウを決められたら、普通の日本人は、追随せざるを得ない。それほどに、この国の人民は気が弱い。たぶん、じきに
「きっかけはーぁああ、タンッタンッ、フジテレビぃー」
 に合わせて踊る人々が主流を占めるようになる。事実、昼過ぎのファミレスに入ると、ほら、近所の主婦が雁首をそろえてバウバウをやっている。
 いやだなあ。

以上です。おそまつさまでございました。

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バウバウの蔓延について

 ツイッターで、「両手を叩く笑い方について昔、コラムを書いたことがある」というお話をしたので、クラウド上の旧原稿埋葬フォルダをサルベージしてみたところ、「読売ウィークリー」のために書いた原稿(タイムスタンプは2006年4月になっています)が出てきました。
 ご参考までにブログに採録することにしました。閲覧者の皆様のアイダーコロナライフの充実に寄与できれば、野良コラムニストとして、これ以上の幸せはございません。

 

 改変期特番の肥大化傾向は、時間枠、改変期間の延長にとどまらず、どうやら、出演者の人数を野放図に増加させる傾向で進行しつつある。
 これは、局が、番組制作よりも、その宣伝により大きな力を傾注してきていることの結果だろうか。それとも、単にプロダクションと制作部の持たれ合いから派生したノーギャラ出演者の増加ということに過ぎないのだろうか。
 いずれにしても、出演者たちは、はじめから最後まで両手を叩いて笑ってばかりいるわけで、その、数十人が一斉に歯をむき出している絵は、音声をミュートした状態でテレビを見ている私の目には、ほとんどホラーにしか見えない。
 ん? なんで音を消してテレビを見るのかって? うん。ヘンだよな。
 でも、わかってくれ。これは、テレビ批評(←という病気)をかかえている原稿書きの「症状」なのだ。
 コラムニストたるオダジマは、テレビを視聴せざるを得ない。その一方で、私はテレビに耐えられなくなってきている。で、そのダブルバインドの妥協点が、「音の無いテレビ」というわけだ。
 でも、無音のテレビを一日眺めていると、色々なことがわかる。たとえば、テレビの正体が「作り笑い」であることだとかが。というのも、音の無い笑顔は、ウソをつくことができないからだ。
 ……うん。この話も以前書いた。
1.ここ数年の間に、バラエティー番組の出演者のほぼ全員が、笑う時に両手を叩く仕草をするようになった
2.その昔、この笑い方をしたのは高田文夫師匠ただ一人で、なればこそこの仕草には「バウバウ」という固有名詞がつけられ、松村のネタになっていた。
3.「バウ笑い」の蔓延は、結果として、全出演者への笑いの強要を促している。
 といったあたりが、その原稿の主旨だった。で、いつの間にか、笑いの提供者とその受け手が打ち揃って「バウバウ」を決めることがスタジオの作法として定立され、結果、笑いは「自由」から「強制」へと、180度ポジションを変えたわけだ。さよう。21世紀の笑いは、解放の契機ではない。むしろ、笑わない人間(すなわち、場の空気に同調しない人間)を排除するための「踏み絵」として、均質的な人間が集うあらゆる場所で「執行」されている。
 単にテレビの中の人々がオーバーアクションになっているということなら、それはそれでかまわない。どうせ彼らは、そういう種類の人間だから。
 でも、テレビ出演者の大げさな身振りが、日本人のスタンダードになっているのだとしたら、これは非常に悲しいことだと言わねばならない。
 かつて谷崎潤一郎は、「陰翳礼賛」の中で、アメリカ人が珍重するきれいで真っ白な粒の揃った歯を「便所のタイル」になぞらえている。その心は、彼の国の人々のあくまでも明朗で大仰な笑い方と、日本人の地味で湿った感触のそれとを比較して、後者により高い文化的価値を見出すところにあった。
 すなわち、谷崎は、敗戦国として自信を喪失しつつあった日本人が、自分たちの欠点と考えていたシャイネス(内気さ、陰翳)を、文字通り「礼賛」してみせたのである。
 素晴らしい。
 その、シャイネスが、テレビによって滅ぼされようとしている——というのはいかにも大げさかもしれない。でも、さんまだとか、マチャミだとか、ロンブーの敦みたいな、あらかじめ歯をむき出した構えで笑いを強要している人々が跋扈している液晶画面を見ていると、私はミュートボタンに指を置かずにはおれないのだよ。この国に残されたなけなしの陰影を防衛するために。

 

 以上です。おそまつさまでした。コラム内で言及している「テレビの本質が作り笑いである」旨のコラムは発見できませんでした。残念。

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2020/03/11

番記者よ奮起せよ。

Yahooニュースに掲載された拙稿(月刊誌「GQ」3月号のために書いた記事)が、オリジナルの原稿と違った形(同じ記述を2回繰り返して途中で切れています)の記事になっていました。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00010000-gqjapan-bus_all

いずれ訂正したバージョンを掲載してくれるとは思うのですが、心配なので、私が書いた元々の原稿をそのままアップしておくことにします。

 

『番記者よ奮起せよ』

 麻生財務大臣兼副総理の会見でのマナーが炎上を招いたのは、すでに昨年の話題だ。なるほど、政府が重要な政治日程を年明けに設定しがちなのは、野党やメディアとの間で日々勃発する軋轢や摩擦を「去年の話題」として自動処理するための悪知恵なのであろう。実際、私が当稿の中で、いまさら麻生氏の会見マナーをつつき回したところで、
「このライターさんは、去年の問題をいつまで蒸し返し続けるつもりなのだろう」
 という印象を与えるだけなのかもしれない。
 そんなわけで、例の桜を見る会の問題も、
「去年の花見の話をまだ引っ張るのか?」
 てなことになりつつある。事実、花見関連の闇を追求するあれこれは、新年の話題としては、もはや古くさい。テレビのような旬にこだわるメディアは、敬遠するはずだ。
 例の東北での大震災をくぐり抜けてからこっち、政治向きの話題のニュースバリューは、目に見えてその劣化速度を増している。
 森友&加計の問題も、謎の解明が進んでいないどころか、むしろ問題発覚当時に比べて疑惑が深まっているにもかかわらず、メディアが扱うニュースとしてのバリュー(価値)は、「古い」「飽きた」「またその話ですか?」と、まるでトウの立ったアイドルの離婚スキャンダルみたいに鮮度を喪失している。
 本来、ニュースの価値は、必ずしも新鮮さや面白さにあるわけではない。価値は、事件そのものの影響力の大きさに求められるはずのものだ。ところが、震災でダメージを受けたわれらメディア享受者たちの好奇心は、絵ヅラとしてセンセーショナルな外形を整えた話題にしか反応しなくなっている。
 さてしかし、冒頭で触れた麻生副総理の会見マナー(←番記者を「返事はどうした?」と言い方で恫喝した件)の話題は、年をまたいで、政権の中枢に波及している。というよりも、麻生さんの横柄さや失礼さは、麻生太郎氏個人の資質であるよりも、より深く、政権の体質に根ざした、第二次安倍政権の対人感覚の発露であったということだ。
 菅官房長官は、年明けの最初の仕事として、1月6日放送の「プライムニュース」(BSフジ系)という番組に出演した。長官は、番組の中で、緊張が高まっている中東地域への自衛隊派遣について問われると「(心配は)していない」と、あっさりと言ってのけている。
 心配していない? マジか?
 いや、マジなのだ。自衛隊は予定通り派遣する。この人は本当に心配していないのだ。
 トランプ大統領によるスレイマニ司令官暗殺をどう評価するのかという質問に対しての回答は、さらにものすごい。菅官房長官は、
「詳細について存じ上げていない」
 と言っている。すごい。あまりにもすごい。
 要するにこの人は、昨年の年末に、例の花見の会前夜の夕食会について「承知していない」という事実上の回答拒否を5回(数えようによっては8回)連発して、それがまんまとまかり通ったことに味をしめたのだな。
 さて、以上の状況から判明しているのは、麻生さんの横柄さが、実は菅さんの傲慢さと通底する政権の体質そのものであったということなのだが、それ以上に、われわれが直視せねばならないのは、政権中枢の人間たちによるナメた答弁を、えへらえへらと許容してしまっている番記者の弱腰こそが、現今の状況を招いているという事実なのである。
 安倍総理は1月6日の年頭所感会見の中で、
「(憲法改正は)必ず私の手で成し遂げる」
 と、断言している。憲法遵守義務を帯びた国家公務員である内閣総理大臣が、その肩書を背負った会見で、憲法改正の決意を語るのは、端的に憲法違反であり、たとえて言うなら、野球選手が試合中にルールブックの書き換えをしたに等しい暴挙だ。
 しかも、私たちの記者諸君は、この発言を許してしまっている。だとすれば、まず、最初に手をつけるべきなのは、腰抜けの番記者たちの粛清なのであろうな、と、私は半ば本気でそう考えている。

 

 以上です。お目汚しでした。

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2020/01/04

働き方改革のブルース

新年最初の更新なので、ちょっと趣向を変えて、歌詞をご紹介することにします。ずっと昔(たぶん1984年頃。ということは35年前になりますね)に書いた歌詞に手を加えたものです。
より詳しくご説明いたしますと、「1番 2番 サビ 3番」だけのシンプルな構成だった1984年バージョン(当時は「おじさん」というこれまたシンプルなタイトルをつけていました)に、4番5番の歌詞と より不吉なセカンドのサビを付け加えた形です。

古い形のままの方が良かった気もするのですが、いじくりまわしてみたくなってしまったものはしかたがありません。
ということで、ご笑覧ください。

働き方改革のブルース

1 気持ちはわかるぜ うんざりなんだろ
  四十の坂を登り詰め 五十の坂を転げ落ち
  恋も夢も髪の毛も はるか彼方に 消え果てた

2 手を振ってるのは あんたのかみさん
  毎朝毎朝二十年 毎晩毎晩二十年
  アバタもエクボの時代は とおの昔に 過ぎ去った

※  こみあげる(怒りを)
   こみあげる(涙を)
   こみ上げる(ゲロを
   ネクタイでせき止めて

3  バカな課長や うるせえ部長に
   新入社員の若造や 生意気盛りの小娘に
   朝な夕なにコケにされ でも月曜日は やってくる

※ 繰り返し

4  通勤ラッシュの 満員電車と
   残業帰りの 最終列車に
   折られ畳まれ詰め込まれ オレのソウルは瀕死だぜ

5  寝覚めのビールと 寝しなのバーボン 
   気付け代わりの焼酎と 食後にあおる冷や酒で
   折れた心を支えつつ オレのソウルは天国さ 

※※   迫りくる(リストラ)
    のしかかる(ストレス)
    鳴り響く(ブルース)
    ネクタイにぶらさがれ!

※※ 繰り返し

お粗末さまでした。今年もよろしく。

 

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2019/11/16

思いやり予算二題

 いまごろになって、なぜか「思いやり予算」の話題が蒸し返されているので、2000年2月に今は亡き「噂の真相」誌のために書いた原稿と、2009年11月に社民党の機関紙に寄稿したコラムをハードディスクから召喚することにします。

 

 思いやり予算:2757億円(九九年度)

 在日米軍駐留経費負担(いわゆる「思いやり予算」)の見直しをめぐって、日米間で意見が対立しているようだ。
 念のために「思いやり」の由来について「知恵蔵」の解説を引いておく。
<日米安保条約に基づいて、在日米軍の施設や地位などを決めた「地位協定」二四条は、日本が施設・区域を無料で提供するほかは、「すべての経費は……日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される」と定めている。だが米国の財政困難とドルの価値の低下で在日米軍は、米軍人より高給の日本人基地従業員の給与の支払いに悩んだ。このため、日本政府は一九七八年に労務費の一部六二億円を負担したのを皮切りに、在日米軍に一種の補助金を出している。この支出には法的根拠がなかったため、当時の金丸信防衛庁長官が「思いやりが根拠」といったのがこの名の起源とされる。>
 なるほど。が、考えてみるとヘンだぞ。
1.そもそも思いやりというのは、強者が弱者に対して示す態度だ。とすると、アメリカ軍のカサの中にいる日本が、保護者である米軍に対して思いやりを示すというのは、スジが違うんじゃないのか?
2.第一、思いやりってのは、それを施される側が要求するものなのか?
 いや、揚げ足を取ろうというのではない。
 確かに、八七年当時、アメリカの財政は逼迫していたし、他方、バブルに沸く日本は黒字減らしに苦慮していた。その意味では、当時は「思いやり」という言い方にまるで根拠がなかったわけでもない。
 また、深読みすれば、この「思いやり」という言葉には、かつて進駐軍に対して「ギブ・ミー・チョコレート」を叫んだ世代の米軍に対するアンビバレントな感情がこめられているのかもしれない。とすれば、バブルで旦那気取りになった日本人の増長慢をくすぐって、見事に国民をあやしてみせたカネマルの政治センスは、やはり非凡だったと言わねばならない。
 ってことでカネマルは許す。
 むしろ問題は、政治屋の駄法螺を無批判に援用して「思いやり予算」だなんていう雑駁な用語を憲法違反の国家支出に対する通称にしてしまったメディアの側にある。
 連中はバカなのか? それとも政府と結託してるってことなのか? いや、むしろ結託している相手はアメリカなのか?
 実際、この言葉はアメリカではどう訳されているんだろう。ちゃんと「charity」(施し)とか「bait」(餌)といった正しい訳語が当てられているのだろうか。
「『思いつき予算』とか言うんならまだ許せるんだけどな。しょせんカネマルのその場しのぎだったわけだし」
「むしろ『思いやられ予算』じゃないのか? 先が思いやられるわけだしさ」「『重い槍予算』なんてのはどうだ。なんか、無駄な防衛負担って感じがして、しみじみと味わい深くないか?」
「いや、実態に即して言うなら『みかじめ料』だろ。実際、ヤー公が用心棒代を理由にそこいらへんのスナックからショバ代をせしめるてるのまるで同じなんだから」
「っていうかさ、ほかならぬ国土の防衛を他人に肩代わりさせてるわけだから、『お前やれ予算』とかにしたらどうだ?」
「いいや。断然、在日米軍を基地ぐるみで丸ごと買い取るべきだな」
 おお、そりゃナイスだ。米軍の軍人さんとしても野球の助っ人外人みたいな立場じゃ命がけで働けないだろうし、いっそ彼らには帰化して日本人になってもらおう。
 しかし、とすると予算の出所は?
 ……「基地買い予算」

(以上「噂の真相」2000年11月号掲載)

 

 重い槍予算異聞

「おもいやりよさん」
とタイプインしてワープロの変換キーを何回か叩くと、
「重い槍予算」
 という神の啓示じみた味わいぶかい変換結果が返ってくる。なるほど。こいつにはいつもびっくりさせられる。
 ついこの間もこんなことがあった。東京オリンピックの
「経済波及効果」
 について原稿を書こうとしたら、わがワープロは
「経済は急降下」
 といきなり結論を提示してきたのである。驚くべき見識。私が付け加えるべき言葉はひとつもない。
 さて、「思いやり予算」だが、これは誤変換以前に誤用だと思う。
 というのも、そもそも「思いやり」は、「上位者が下位者に対して示す心情的配慮」であって、日米の立場にはそぐわないからだ。
 軍事的属国の立場にある国が、宗主国に向けて、なにがしかの金品を提供する場合、その行為は「上納」ないしは「朝貢」と呼ばれるべきで、どう見たって、「思いやり」みたいな、上から目線の言葉にはならないはずだ。
 が、昭和の日本人は、自分たちの現実を直視することを好まなかった。
 あたかも、米軍を日本の「番犬」であると見なすみたいな、そういう設定で予算を支出をする道を選んだ。つまり、現実には宗主国のごきげんを取り結ぶために金品を上納しているにもかかわらず、自らを納得させる脳内ストーリーの上では、食い詰めた用心棒に小遣いを与えるみたいな、そういう慰撫的な用語を採用したわけなのである。まあ、この言葉を発明した金丸さんというヒトは、ある意味で天才だったのだろうね。
 もしあれが「みかじめ予算」「上納予算」「パシリ予算」「ご奉仕金」ぐらいな名目だったら、さすがに国会を通らなかったはずだ。愛国設定で世間を渡っている議員さんが賛成しにくかっただろうからして。
 その「思いやり予算」の実態が「重い槍」すなわち「過剰な軍事負担」であることを、もしかしたら金丸さんは知っていたのかもしれない。なにしろ、食えないオヤジだったから。
 中学校の時の社会の教科書にあった挿絵を思い出す。二人の男が、背中いっぱいに鉄砲や大砲をかついで、喘いでいるポンチ絵だ。出典は当時の新聞。第一次大戦後、欧州諸国が軍拡競争に陥り、その過剰な軍事負担のために疲弊していたことを描いたものだという。
 まさに重い槍。分不相応にデカ過ぎるハサミを身につけたシオマネキみたいな調子で、軍事国家は次第に身動きがとれなくなる。
 ……と、シオマネキは「死を招き」だとさ。
 うむ。オレのワープロは天才だな(笑)。

(社会民主党の機関紙2009年11月に寄稿)

以上です。おそまつさまでした。

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2019/07/29

松本人志二題

松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。

いずれも、コアマガジン社が刊行しております「実話BUNKAタブー」という月刊誌に、オダジマが連載している「電波品評会」という1ページコラムのコーナーに掲載したテキストです。

1本目の、「たけしvs松本」が2017年10月号、2本目の「松本vs太田」が2019年7月号の掲載だったはずです。

 

【北野武 vs 松本人志】

 

北野武 vs 松本人志
  北野武 松本人志
言語能力 ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
批評性 ☆☆☆☆ ☆☆
教養 ☆☆☆☆ ☆☆
ヤンキー度 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 

 上原多香子問題へのフジテレビからの圧力を示唆したツイートや、日野皓正の体罰へのコメントなど、ここしばらく、松本人志の発言が炎上するケースが目立っている。原因は、ひとことで言えば、本人がご意見番のつもりで述べたコメントや、批評的だと思って発信しているツイートが、いちいち凡庸だからだ。
 本稿では、どうしてこんなことになってしまったのかを検証するべく、比較対象として、ご本人のロールモデルと思われる北野武を配した上で考えてみる。
 まず「言語能力」は、両人とも非常に優秀だ。ただ、たけしの言葉が散文的であるのに対して、松本の繰り出す言葉はあくまでも口語的だ。にもかかわらず、「空気読む」「上から目線」「ドヤ顔」といった、現代社会への根源的な批評を含んだ新語は、むしろ松本の口から出てきている。まあ、天才なのだろう。
 とはいえ「批評性」は、たけしの圧勝だ。時事、社会、政治、文化、芸術、歴史など、あらゆる分野に関して、独自の視点を持っているたけしと比べると、反射神経だけでものを言っている松本の言葉はひたすらに浅薄だ。この批評という作業への自覚の欠如が、映画監督としての作品の優劣として如実に露呈している。ステージという一回性の魔法の中で揮発的な言葉のやりとりを繰り返すお笑いの世界では、本人の存在感が批評性を放射する奇跡も起こり得るわけだが、ひとつひとつのカットを意識的に積み上げることでしか創作の質を確保できない映画の世界では、粘り強い思考力と一貫した批評的知性を持たない人間は何も残すことができない。
 三番目の「教養」もたけしと松本では比較にすらならない。口では無頼なことを言いながらも、いたましいまでの勉強家であるたけしとは対照的に、松本は、文字通りの天才として、かれこれ30年以上、自分の才能の上にあぐらをかき続けている。それを可能ならしめた才能の巨大さは、たしかに稀有なものだが、結果としてもたらされている人間としての内容の希薄さは、もはや相方ですらカバーできない。
その点、一定の基礎学力を備えているたけしは、自分に何が欠けているのかを自覚している点で、教養人の条件を満たしている。ほとんど何も知らないがために無駄な全能感を抱くに至っている松本の惨状に、たけしのような人間は簡単には転落しないだろう。
 最後の「ヤンキー度」だが、これは二人とも満点だ。
 多少現れ方は違っているが、二人がヤンキー美学を信奉する人間であり、彼らの持ち前の笑いのセンスが、ホモソーシャルの内部で痙攣的に繰り返される暴力衝動に根ざしたものである点は、みごとなばかりに共通している。腕と度胸と現場感覚を信頼していること、仲間内の信義を最上位に置いていること、肉体性を持たない言葉を信用しないこと、権力勾配のある場所でしか笑いを生み出せないことなどなど、彼らの世界観ならびに人間観は、どれもこれも任侠の世界の男たちの地口軽口から一歩も外に出ていない。
 もっとも、たけしも松本も、お笑いの世界にいたことでヤンキー化したわけではない。むしろヤンキーだったからこそ笑いの世界でチャンピオンになれたのであって、つまりこれは、元来、お笑いはヤンキーのものだったというお話に過ぎない。マッチョでない笑いは二丁目でしか受けない。私は善し悪しを言っているのではない。これは仕方のないことだ。
 近年、深夜帯のテレビで、オネエの皆さんやゲイ的な笑いが存在感を増しているのは、東西のお笑いのキングが、いずれもあまりにもマッチョであることへの反動なのだね。きっと。
(2017年9月9日執筆)

 

【松本人志 vs 太田光】

 

松本人志 vs 太田光
  松本人志 太田光
教養 ☆☆ ☆☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆ ☆☆☆
共感能力 ☆☆ ☆☆☆☆☆
人脈形成力 ☆☆☆☆ ☆☆

 

 川崎での無差別殺人事件に際しての、ダウンタウン松本人志のコメントと、爆笑問題太田光のコメントが対照的だったことが話題になっている。松本が「凶悪犯は不良品」という端的な犯人罵倒のコメントを発したのに対して、大田は「そういう思いにかられることは誰しもあって、自分がそういう状態から立ち直ったのは、ピカソの絵に感動したからだった」という自らの体験談を披露している。
 それぞれの言葉への賛否は措いて、この二人が対照的な立ち位置の芸人であることは万人の認めるところだろう。
 まず「教養」だが、これは文句なしに太田の勝ちだ。松本には日本のマトモな大人としての基礎教養が欠けている。一方、太田は勉強家で、日々様々な分野の情報収集を怠っていない。結果として、20代の頃まではたいして目につかなかった両者の教養の差は、50代を迎えて、取り返しのつかない格差となって表面化している。
 次の「独創性」は、松本に軍配があがる。この男の場合、なまじの教養が身についていないことが、かえって余人の追随を許さない独自の発想を生む土壌になっている。一方、太田のネタは、見事ではあっても先人の業績を踏まえたアイディアで、その点で独創性には乏しい。
 三番目の「共感能力」は、他人の気持ちを汲み取ることができるかということなのだが、この点において太田の能力は突出して高い。彼は、金持ちや貧乏人というありがちな設定だけでなく、いじめられっ子や自殺志願者、ブスといった虐げられた人々や、美人、権力者、スターなどなど、あらゆるタイプの人間の内面をかなり正確に自分の中に取り込む能力を備えていて、そのことが彼の不思議な芸域の広さを支えている。一方、松本は他人の気持ちがわからない。わかろうともしていない。もっとも、その松本の一種狷介不屈な決めつけの独特さが、彼の生み出すシュールな芸に生きていることは認めなければならない。練り上げたコントや漫才のアドリブの中で松本が繰り出すどうにも素っ頓狂なキャラクターの面白さは、「決して他人を理解しない」その絶対的に孤立した人間の魂から生まれた鬼っ子のようなものだ。おそらく太田には、これほどまでに規格外れのお笑いキャラを創造することはできない。
 最後の「人脈形成力」は、芸人にとって両刃の剣となる資質だ。自分の周りに支持者や応援団を集めておかないと、演芸の世界で継続的な影響力を維持することは不可能だし、かといって、他人と安易に同調していたら肝心の芸の切っ先が鈍ってしまう。
 両者を比べてみると、50歳を過ぎていまだにオタク気分の抜けない太田は、たいした人脈を築くことはできない。若い連中の面倒を見る度量はないし、誰かの子分になる柔軟さはさらに持っていない。松本は、他人にアタマを下げることのできない男だが、自分より下の立場の芸人のためにひと肌脱ぐことは厭わない。それ以上に、彼の芸風は、仲間とツルむというヤンキーの所作の中からしか導き出されないコール&レスポンスそのもので、その意味で、人脈(あるいは「子分」)こそが、彼の生命線でもある。
 さて、普通に考えて、蓄積や教養を持たない松本の未来は暗いはずなのだが、現状を見るに案外そんなこともない。
 というのも、お笑いファンのコア層が、松本とともに順次老いて行く令和の時代のお笑いコンテンツは、老いたるヤンキーの繰り言あたりに落ち着くはずで、とすれば、松本はやはりメインストリームであり続けるだろうからだ。
 太田は老いない。
 早めに引退すると思う。
(2019年6月6日執筆)

 

以上です。おそまつさまでした。
なにぶん、dropboxからサルベージしたテキストなので、誤字・脱字などはご容赦ください。

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